天正八年(1580)




* * *




「なんと。――残られると申すのか」

 眼前では、逃げ支度を整えた赤井五郎を含む三名の将が、その返答に目を丸くしている。

 時は天正八年(1580)。尼子再興軍の瓦解より、既に二年もの月日が経過していた。あれから、猫を得るやまるで別人の如く生気をみなぎらせた新しい主君は、まるで旧主の自刃も義兄の斃死も無かったかのように忠勤へ励み、転戦に次ぐ転戦を経て、現在はここ因州の鹿野城を奪い取り、詰める他三名の将と共に濠へ寄せる荒波を睥睨していた。

 そこへ、本軍を率いる羽柴筑前守より指令の文が届いた。即刻城を棄てよとの命である。

あらためて軍議を開く迄もなく、諸将は撤退の準備に取り掛かった。方面軍を束ねる筑前守の判断である。即刻従わねば包囲撃滅されるだけなのは火を見るよりも明らかだった。将の赤井以下、軍勢の過半は荷をまとめ、門前に隊伍を組み総退却の号令を待っていた。

そこへふらと現れ、城は棄てぬ、我が手勢はここへ残る、と告げたのが亀井新十郎である。

さらに言えば、目を丸くしている人間はもう一人居た。重盛である。

「二度は落ち延びられませぬ。――そうお伝え下され」

 平気な顔で遺言を託している己が主君の正気を疑うものの、常と違う色は見出だせない。

 赤井五郎は我に返ると、この年若い僚将の抗命をとがめるような目つきをしてみせた。が、さいわいその口より非難が飛び出す前に、重盛の主君が口にした言葉の意味を反芻してくれたようだった。落城は一度で十分、失態は二度も晒せぬ。それが武士でもある。

「――筑前守様への御伝言、しかと承った。だが……」

 亀井新十郎の説得を諦めた赤井五郎は、その随従の士らへと窺うような視線を向けた。だがお前達下の者はそれで良いのか、とその顔には続きが書いてある。

 重盛は無言で赤井を見返した。丹波の士赤井五郎は、つい二年ほど前に明智日向守率いる丹波侵攻軍を撃退し『丹波の赤鬼』の異名を轟かせた、赤井直正の同族であるらしい。なるほど名前の通り、将から兵まで揃いの赤革鎧に身を包んでもいる。しかし目の前の鎧をよくよく見れば、使われているのは鹿の赤皮であった。

赤鬼の同族を連れ鬼退治でもあるまい。しかも、鹿の皮を被る鬼とは。ほぼ挑発に近い。

鹿野という孤城に甥は、かつて兄と慕った牡鹿の駆け去る背を視たのかも知れなかった。

 見返す重盛の視線には知らず険が籠ったか、赤井がややひるむのが判った。

「承知した。――では、思いのままに成されるがよろしかろう」

 それだけ言い残すと、もっと何か言い募るべきではないかと訝しげな他二将、武田源五郎と福屋彦太夫の視線から逃れるように、赤井五郎は隊列へ向き直り撤退の号令をかけた。

 のうしゅう、こっちじゃ、と己を呼ぶ声に多胡信濃守重盛が振り返れば、担ぐ槍柄の合間より不思議そうな眼差しを向ける兵らの行進の隣、大手門脇にて牧と磯江の二人が手招きをしていた。牧よ。お主の驚きが他へ伝わる程に激しく手を振るな。と思いながら重盛はあえてゆっくり歩み寄った。

「さて濃州。……どう見る?」

 開口一番、磯江平内がそう訊ねてくる。どう見る、とはつい今しがた知らされた主君の決断についてであろう。その口ぶりから、磯江も牧も同様に何も知らされていない事が判った。

「――見るもなにも。某はてっきり、殿を申し出るものとばかり……」

 具足履きに長弓を背負うまま、正直に重盛はそう答えた。既に命が下ったにも関わらず、荷をくくる準備すら始めないというのは、三将の率いる手勢を先発させ、おのれは殿軍を務めようという主君の意気のあらわれだとばかり思っていた。だが違ったらしい。

「なんと。お主にも判らぬか」

 返答に、磯江は最後の頼みの綱すら失ったような顔となった。磯江はずっと、その重責も知らず亀井の名跡を継がされし若い主君を憐れんでいたらしいが、近年ではその行動が理解できぬとよくこぼしていた。それゆえか、ご主君、と距離のあるような呼び方を遣う。

「……なぜ、残ろうというのでしょう?」

 勢い込んで訊ねてくる牧図書助を声が高いと窘めてから、重盛は胸元をくつろげた。

若い牧の目に悲壮感は無い。磯江と軽く視線を交わし、さっき主君が口にした建前などこの若い者にはまるで響かなかったのだな、とその共通認識に苦笑を向け合う。

「それは、まあ――二度は落ち延びられませぬ。先ほど殿はそう申した」

 重盛は慎重に、主君の言葉を繰り返してみせた。それは、お主には伝わらないか、という牧への確認でもあり、また同時に、おのれではとても考えが及びそうにない答えをこの若者へ自得させよう、という姑息な企みでもあった。

 主君が悲壮感に満ち先言を口にしたならばわかる。だが主君の目にも悲壮感はなかった。

 であれば言葉通り、再度の落城を厭い、武名儚きを悲観し城を枕に死す意志はない筈だ。

「――では、我らのみ城へ残るという事になります。しかも、筑前守様の命へ反して」

 当然そうなる。そうなるからこそ、他隊の将より反駁されぬよう過去の落城を持ち出したはずであった。後追いをほのめかせば誰も引き留めぬし、また道を違える将兵らも後になぜ翻意させなかったかと責めを受ける事もなかろう。そもそも抗命の言い分も立つ。

 とは言え、突然の抗命はこれまで一貫して示してきた忠誠に影を落とさざるを得ない。手綱のきかなくなった手駒へは、筑前守より注がれる眼差しも冷たくなるはずであった。

 城を維持する軍勢の過半を円満に追っ払って、果たして主君は何をするつもりなのか。

殿軍働きで散々酷使する事になるだろうと考えていた大弓を外して、重盛はふと考えると、再び弓を背に戻した。

いずれにしても、この小勢では城の防衛すら手に余る。毛利の旗色良しとみるや、近隣の風見鶏どもは下命を待たずに競ってこの城へ取り付き始めるだろう。そうなればどうせ守り切れずに逃げ出す羽目になる。今出て行った軍勢の後を追う形で、結局は殿軍を務めて力戦するのであれば、やはりこの弓は必要になるであろうと思われた。

「――信濃どの。殿にはいかなる腹案がおありなのでしょう?」

 牧の瞳にはすでに抑えきれぬ期待が輝いている。齢二十の弱冠より一軍を率いる将となり、この二年あちらこちらへ馬首を巡らせ生き延びてきた主君は、牧のように齢の近い者からはかなりの尊敬を集めていた。年長の身からすれば危なっかしい指揮ばかり目につきとても落ち着いて見てはいられぬが、若い者からすれば危険を味わいこそすれしっかり生き延びられるという良い主君なのであろう。その尊敬は信仰へ変わりつつある。

 さて。そこへきて、主君が己の手勢のみ、やがて包囲される城へ残ると告げたらどうか。

 いま若い兵らの頭の中に浮かんでいる光景とは、きっと目の覚めるような策をもって、押し寄せる大軍をこの小勢にて散々に蹂躙してみせる主君の姿であるのだろう。

 できるわけがない、と重盛は思う。幾度か死線をくぐり、おのれの腕に多少の自負を持つに至っただろう若者らからしてみれば、急に降りかかったこの無茶振りは主上からの信頼の証として捉えられるのかも知れぬ。期待に応えるべく武者震いもするのかもしれぬ。

 しかし。長く戦場に身を置き過ぎた磯江や重盛ら老兵にとって、主が小勢で孤城に残ろうと言い出すのは、すでにひとつの結末でしかなかった。

「……なに。雲州が播州に、そしていま播州が因州に変わっただけのことよ。のう、濃州」

 死すべき定めは同じこと、死す刻と場所とが変わっただけよと磯江は言う。鎧の内より取り出した古い短冊を改め、新しい短冊と筆とを取り出すその用意の良さは、すぐさま鹿野の淵へ目を眇め新たな辞世の句を考え始める思い切りの良さは、戦に倦み疲れた老兵の横顔よりもむしろ、かつて旧主を追って殉死した心の残骸を見せつける。

 若い牧は年経る磯江の始めた奇行を理解できず、何とも不思議そうな顔で眺めている。

現在率いる手勢はもはや年若い兵ばかりとなり、牧図書助はそのまとめ役として重宝される存在だった。血筋正しく学もあり腕も立てば弁も立ち、こうした出陣の折には本陣直衛を任されつつ、ときに若い兵達の代弁者として帷幕へ加えられる事もあった。

 その牧をもってしても、我ら老残の兵の引きずり続ける気持ちは理解できぬようだった。

 牧とて二年前の悲劇は等しく経験しているはずなのに、もはや気持ちは遠く隔てている。

主君にとって残る旧知はいずれも年上ばかり、年下の牧を傍に置くは主君によい影響を与えるに違いないと考え近侍させたものの、しかし予想に反し牧は主君へ距離を取った。傍に仕えてほどなく、ほぼ年の変わらぬ主君の偉業を全力で尊崇しはじめたのである。

 戦国の闇空へ消えゆく将星は数え切れぬが、主君は今なお輝き続けているというわけだ。

その牧が携えているのは飼葉桶である。なぜ飼葉桶、と一瞬疑問に思うが、すぐにその思惑を理解した。ここ二年の苦闘で散々思い知ったように、大軍相手に小勢で抗おうとするなら動きの早さを生かさねば意味がない。また馬を酷使する事になるだろうと判じ、いち早く乗馬を労りに行こうとしたのだろう。牧らしい賢しい立ち回りではある。

 しかし。小勢で孤城に籠り死を待つのも、山野を機敏に駆け回り敵勢を叩くのも、いずれも先程の主君の顔にはそぐわない気がした。どうも真意は別にあるような気がする。

「――濃州。では、果たしていかなるご存念有りやと思うのだ?」

 疑いが顔に出ていたか、眉を上げる磯江より見咎められる。

「……つい先刻まで、櫓へ供をしていたであろう?」

 その際変わった事は無かったか、と訊ねる磯江の横より、興味津々といった様子の牧が首を伸ばしてくる。これはおそらく今より主君が示して敵を散々に打ち破るであろう策の一端を知りたいのであろうが、しかしその期待には応えられそうにもなかった。何しろ、盆地の中心の丸山へ築かれた鹿野城は、城より兵が出れば丸見えですぐ気づかれてしまう。攻められて逃げ落ちた元の城主である小布施屋形は、囲む山々の稜線上へ残兵を集め、城を遠く見下ろす好所へ陣を築いており、城より撃って出ようものならすぐに気取られる筈だった。この城を根拠とする限り、いかに速く駆けたところで不意討ちは難しい。

 そもそも。主君がこの城へ残ろうと言う、それほどまでに拘る理由は何なのか。重盛はほんの四半刻ほど前、割り当てられた櫓を巡視する主君の背を思い出していた。


 古びた櫓の内を伝う狭い階段を苦労して登るうち、上階より主君の声が聞こえてくる。

『ほう――そうか。そうか。そんなにもここが気に入ったか』

 返答らしき鳴き声を聞きながら最上階まで登り切ると、そこには大机の上へ横たわり長々と伸びをする灰猫の姿があった。初めて訪れた場所でここまで腹を見せるのは珍しい。

『よし、重盛。決めたぞ』

 林立する他の櫓を背負い、笑顔で振り返る主君の宣言に、何をですか、と尋ねる。

『この城――我らが頂戴する』

 とっくに攻め落とした城でいったい何を言っているのか、と重盛は首を傾げた。


(あ……)

 突然に顔色を変え脂汗を流し始めたおのれを見て、磯江は怪訝な表情を浮かべる。

「何じゃ。ご主君の狙いでも判ったか。しかし濃州、何故そんな顔になる?」

 我らとは織田勢や羽柴勢ではなく本当に我らのみの事であったのかとか、猫が気に入ったというそれだけの理由で縁もゆかりもなきこの城を独占する気かとか、その行動指針についてとやかく言う以前に、まず気にすべきはその無茶を実現する為の手立てであった。

 城から出撃すればすぐ察知されるこの状況、僅かな手勢を用い奮戦しようとするならばどうすれば良いか。普通に考えれば籠城が最も効率的であろう。が、仮に籠城したところで増援も出せずただ負けるだけと羽柴筑前守は判じた。それゆえの撤退命令である。となれば、さらに戦力を引き抜かれたこの状況において籠城などまず正解ではあり得ない。

 籠城しないのであれば必定、城より出る事になるだろうが、遠くの山肌へはっきりと見える敵陣からは門を出た兵の向かう先など丸見えであろう。構築中の陣を襲おうにも近づく前にまんまと逃げられ、それどころか留守の隙をついて城へ逆撃さえ喰らいかねない。

 留まるも悪手、出るも悪手。ではどうすれば良いか。

 重盛は血走った目で、今しも城を出て帰還の途へ就かんとする赤井五郎以下の軍勢、その遠い背へ振り向く。

 いきなり塀へ向かって駆け出してきた重盛に、二人は驚愕の叫びをあげ飛びすさった。何だ何だと見守る二人の視線の先、重盛が掴み上げるはかつて城兵が置き捨てた槍である。錆まみれの長槍を拾い上げ、せわしなく握りと振りを確かめ始める重盛は、その様をまるで主君の奇行が伝染ったかのような目で眺めている二人へと怒鳴った。

「おい。二人とも早く得物を拾え。さもなくば、その短冊と飼葉桶とで戦う羽目になるぞ」

 顔中を疑問符で埋め尽くし、二人は身動きを止めている。

 牧は何を言われているのか判らぬという顔である。磯江はもしや乱心かと疑う顔である。

 見つめる二人の後方、遠間へ主君が姿を現した。きわめて機嫌の良さそうなその表情に、重盛は間に合わなかったか、と絶望する。

 主君の瞳が重盛のその手に掴む長槍を認め、一層笑みが深くなる。

 さすがは重盛、主の次の動きを読んでおる、とその顔には書いてある。誤解であった。

「そら、皆何をぐずぐずしておるか。我らも城を出るのだぞ。列に遅れずついて歩け」

 含み笑いの主君より突然の叱咤を飛ばされ、当惑顔で振り向いた付近の兵達が一斉に、お前ついさきほど城に残ると言ったばかりだろうが、という表情を浮かべた。




 取るものも取りあえず赤井五郎率いる退却軍の後をついてゆき、山林へと身を隠した亀井勢は、夜を待って踵を返し山上の小布施屋形の手勢へと襲い掛かった。ろくな武具も揃えられぬままの突撃であったが、予期せぬ夜襲に浮足立った布施勢は散々に打ち破られ、恐らく毛利勢本隊が到着した折に譲るつもりで築いていた広大な陣にまで火をかけられ、山を覆う火はそれから三日も燃え続けた。煤まみれで帰城した重盛らに勝利の手応えは薄かったが、鹿野城はその後も寡兵の亀井勢のみ詰めるまま孤城よく堪え、ついには翌年、羽柴筑前守率いる侵攻軍本隊の来援まで一度の落城もなく持ちこたえた。

 鳥取城落城後の論功行賞にて、亀井茲矩は肩でくつろぐ猫の望み通り、鹿野城を賜った。

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