天正二十年(1592)




* * *




 異国の城塞は内に広大な街を飼っており、天高く聳える威容に引き比べさしたる抵抗もなく陥ちた大正門を抜けると、そこにはまず異国の市が広がっていた。

曲輪と言うにも広すぎる。市場や街並、その先に壁と一体化し両翼を広げる城砦を含め城市とも呼ぶらしいが、目の前の市には名に相応しい賑わいはなかった。

 戸を閉めた大店や無人の屋台の林立する大通りは、守兵の過半が北を指して逃げ落ちた名残か、荒い足跡の上を黄砂が行き交うばかりでひとりの客の姿もない。寂しい市の真ん中を、猫を抱いた主君が歩んでゆく。

 陣羽織の内にくるまれ猫はおとなしくしている様子だったが、傍からは赤子でも抱いているように見えたものか。市が途切れ、家並が続くようになると、一軒の戸口より歩み寄ってきた男がひとり、笑顔で何か言いながら捧げ持つ器を主君へ差し出してきた。

 後方より割って入り、重盛は陶皿の中身を改める。

「これは――蘆粟(ろぞく)の粥のようですな」

 城壁の先へは山々の緑が覗く。山畑で作る蘆粟は、この地の特産なのかも知れなかった。

 つい先刻まで敵対していた異国民からの貢ぎ物を腹に収める気には到底なれなかったが、周囲を見渡すと、旗印こそ他勢のものではあるが味方の兵らがあちこちの軒先で異国人の饗応を受けていた。警戒を解くためか自らも振舞う料理を口にし、伝わらない言語を操りながら、異国人達は笑顔を浮かべ一緒に鍋を囲んでいる。

 改めて守兵の逃げ去った街を見回し、異国の民はたくましい、と重盛は思う。

 この手慣れた様子の辻饗応は、きっと逃げ場のない民の処世術なのであろう。支配者が変わるたび、目敏く変わり身も速やかに、新しい支配者を手厚くもてなし戦禍惨禍が己に及ばぬよう尽力する。これもまた人の営みであり、乱世を生き抜く為の智慧であった。

 寄ってきた男はしきりに主君の陣羽織のふくらみを指さし、陶皿の粥を勧めてくる。

 言葉は相変わらず通じぬものの、相手の意図を理解した主君は苦笑を浮かべた。

 察したか、陣羽織の奥よりぬるりと猫が顔を突き出して、相手の男は目を丸くする。

 そのまま長々と首を伸ばし皿へ顔を突っ込む猫は、丸い実の浮かぶ粥を舐め始めた。

「……またしても。この墨面が、賜ってしまったか」

 主君はわからぬ事を言い苦笑している。蘆粟の粥なぞ貰い受けた事があっただろうか。

「――高黍じゃ」

 薄黄に膨れた丸い実を指さし、主君は別の呼称を口にした。まあ確かにこれも黍か。

「……あれより早、幾年になろうか」

 遠い目になる主君を横に、重盛は猫の首筋のくたびれた毛並みを眺めた。拝領の黍団子を食い散らかした仔猫を拾ってより、実に十四年もの月日が流れていた。山陰からこの異国まで及ぶ転戦を重ねた結果、主君は一万石余を有する因幡の地方領主へと出世し、そしてその主たる羽柴筑前守は今や位人臣を極め、太閤と呼ばれる存在にまで変じていた。

戦場を踏むたびに主君は痩せ、重盛ら古参衆は歴戦の傷に鎧われ、そして死地のことごとくへ侍り寝そべっていた豪胆な猫もさすがに老いた。

 そうして鬼退治は異国にまで及んだ、と重盛は目の前の男の笑顔を見る。鬼には見えぬ。

 主君を失い、鬼退治の続きにしがみついてでも走り続けた結果がこれだった。そもそも何を以て鬼と呼ぶのかさえ曖昧となり果てた。重盛は遥か半島の奥地、御味方の先鋒へと翻っているであろう、三矢旗を想像する。

亀井氏は後軍へ組み込まれたが、先駈勢として先に渡海したのは毛利氏である。主君の仇、倒すべき鬼がそもそも既に味方に回ってしまっている。日の本すべてを掌握する豊臣太閤の軍門には降ったとはいえ、未だ旧尼子領の殆どは毛利家の支配下にあり、今回の出陣に際し催された軍勢も三万を数えると聞く。僅か千名程の亀井勢とは比肩しようもない。

 勝者側へ早くから従っていた先達としての優位性など、百倍以上もの所領の差の前にはもはや皆無に等しい。いつの間にやら勝手に同じ御味方同士と定められて復仇を遂げるもままならず、さらには故地である出雲半国という恩賞の約束さえも無慈悲に反故にされて無縁な因幡へと封じられるのみ、兵力所領の差は言わずもがな、故郷へは三矢旗がなびき毛利の侍が闊歩するままに、乱世が終わると思いきやまさかの国外まで飛び火した戦は、この異国をどれだけ伐り取れるかという野心家どもの競争にまで形を変えつつある。本領安堵、一所懸命といった鎌倉以来の武士の働きとはまるで異なる戦いしか、もうそこには存在しないのだった。

 慣れぬ異国の土を踏み、知らぬ土地を恩賞と目指し、異国人を鬼とみなし槍を振るう。ただ故郷を守りたいだけの過半の武士達には違和感と苦痛しかない侵略戦のはずだった。

 しかし。中でも最も野心を露とし、意欲的なのがこの亀井台州守である、と重盛は思う。

 以前名乗っていた琉球守といい、律令制に存在せぬ架空の官職名は、古法の照らす範囲を超えてなお太閤が版図を広げんとする意思の顕れとも取れた。そして、その官職を太閤の股肱の臣が名乗るは、威光およばぬ遠地へも親政を施す計画の端緒とも見えた。

 粥をあらかた食い尽くし猫が陣羽織の内へ引っ込むのを見、その野心家は笑っている。

 その内に、名乗り通りに遠く台州までも治める大望があるかどうかは窺い知れなかった。

 幼い頃より見知るはずの実の甥が本当に何を考えているのか、すでに重盛には判らなくなっていた。昔はただの考え足らずの腕白童子であったように思う。古来より立場が人を造ると言うが、それが真実であるならば。亀井の旗の下に残りし死に損ないどもを束ねたあの時より、甥は一党を率いる高所からの景色を見続けた結果、変わらず一臣下で在り続けた叔父にはまるで想像の及ばぬ、奇妙な采配を振るうようになったのかも知れなかった。

 いや。時期こそ重なってはいるが、と重盛は主君の陣羽織のふくらみを見つめる。

 理解し難い命を下すようになったのは、頭の中身を想像し得なくなったのは、甥が明確に変わったのは。この猫を拾って以後ではなかっただろうか。

 猫が仲間に加わってのち、この終わらぬ鬼退治は果たして何処まで続くのか。

 主君の目に映るここまでの長い道のりは、鬼退治、と一本筋を通せるものであったのか。

 旗も変わり主命も変わり戦地までもが故国をはずれ、なお楠正成を範と仰げるものか。

 重盛としてはずっと主君の行いに矛盾しか見出せずにいた。が、ここまで判断と選択を過たず、戦場へ生き残り、万石余の大身へ成長を果たしたのはその行いの結果でもあった。

 時代は変わったのかも知れぬ、と重盛は思う。律義一貫、父や己のような古武士の考えで生を貫き名を残す時代はとうに終わってしまっており、鋭い嗅覚で時勢を読み、巧みに濁水を泳ぎ抜ける武士こそが出世し名を上げる時代が到来しているのかも知れなかった。

 しかし。嗅覚に長けた猿の真似をすることで主君がここまで生き延びてきたのであれば。

『七生報国』楠正成が死してなお貫いた忠義について、主君に語る資格はない筈であった。

何より、その忠を貫き戦い続け亡くなった義兄・山中幸盛へ申し訳が立たぬ。

 例のごとく楠公について一席長口舌をぶつ時、いつも主君の瞳には哀切が灯る。それは正成と義兄の生き様とを重ねているからに他ならない。であれば、楠公楠公と平気で口にする主君の内面においてはいかなる理屈によるものか、奇矯な采配にて浮世をまかり通るおのれと、愚直に忠を貫くおのれとが、矛盾せず両立し得ているのかも知れなかった。

(……はたして――そのような忠義があり得るものか)

 頭の固い重盛としては戦慄せざるを得ない。驚異の柔軟性を示す猫は、いつしか主君の肩へ駆け上がり、その両肩を行き来しながら後頭部へ腹をこすりつけている。

 ややもすると。猿と猫とからそれぞれに学び取った先見性、適応力により、主君はここまでずっと命を繋いできたのかも知れなかった。

 それが誠であるならば実にばかばかしい事だ、と重盛は思う。だがそのばかばかしさに命を救われ飯を喰わせて貰っているなら、主の禄を食む重盛に非難する資格などなかった。

 猫に絡みつかれる主君を前に、男は何やら異国語にて世辞を並べているらしい。それは言葉が解らずとも、口元へ浮かぶ追従めいた笑みを見るだけでも理解できた。

 この灰白の猫を背負うとき、主君はもっとも兵らの賞賛の視線を浴びる、と重盛は思う。

それは主君が、忠義も無視し、無法すら通し、しかし無傷で生き延びる際の瑞兆であった。

天下人にまでなり得た羽柴筑前守の忠良なる手足で在り続け、またおのが口においても楠公楠公と忠義を唱えながら、しかし重要な局面にさしかかるといつも、忠誠などはじめから存在しなかったかのように無視して動き、そうしておきながら危地よりけろりと生還してみせるあの主君の離れ業は、果たして何時が初出であっただろうか。重盛は思い出す。

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