天正六年(1578)
* * *
尼子再興軍と名乗り旗幟を掲げるからには、それ相応の陣容と編成が求められる。
尼子一門でもひときわ武勇の誉高かれど謀反の罪を着せられ滅ぼされた旧新宮党の末流、京の東福寺にて僧籍にあった一子を還俗させ、「尼子勝久」として主君と仰ぎ。
赫々たる武名を打ち立てた山中家の次男を、尼子氏一門格にして筆頭家老職・亀井氏の遺女と娶せ「亀井幸盛」と名乗らせ家中統制を図ると共に、尼子勢力の健在を訴える。
この主従の二枚看板の元へは、その厚みを頼りに多くの残存尼子勇士が集い、また往く先では大勢の風見鶏がまだ新しき毛利の三矢旗を降ろし、懐かしき尼子の旗を迎え入れた。
押し寄せる毛利勢の前に父を討たれ城を失った多胡信濃守重盛も、そして毛利家の支配の元に封地を追われた湯新十郎も、そこへ流れ着いた寄る辺なき一葉でしかなかった。
重盛の年の離れた姉が湯家へ嫁ぎ産んだ嫡子が湯新十郎である。再興軍へ参加するにも余りに年若く、はじめは槍の新十郎と異名を取る勇士でしかなかったが、やがて幸盛が兄に代わり山中家の家督を継ぐため復姓する運びとなり、その妻の妹にして等しく亀井氏の遺女たる娘を新十郎の妻へ迎えさせ、己に代わって「亀井茲矩」を名乗らせた。
こうして一門格亀井氏の名跡を継ぎ、また幸盛とも義兄弟で結ばれ、新十郎こと茲矩は再興軍内において一定の位置を占めるようにはなったものの。依然として年若い事もあり、また再興軍の中核も主君勝久と勇将幸盛とが変わらず担っていたため、将として名の挙がる機会も、また再興軍の顔として表へ出る機会も稀であった。
そんな中、二枚看板を一度に失えばどうなるか。
天正六年(1578)。恃みとする織田より援軍は出ず、毛利勢の包囲は最早避けられぬ。包囲され主従一統壊滅する前に城を捨てて退け、と下命を伝えに出向いたはずの若武者が。
すでに覚悟を決した主従より抗命拒絶され、さらには死出の供さえ許されず、しかも、おめおめ復命に戻らねばならぬとしたらどうか。
甥はどんな顔で復命しただろう。主も義兄も此処に死すとの事です、とでも報告したか。
どれほどつらかった事だろう。帰り着くなりあんな有様に成り果てるも無理はなかった。
「……何。うぬは今、しばらくの暇乞いを願いたい、湯治に出るゆえ――などと申したか」
京の郊外。田舎屋敷の縁側へ居汚く片膝を立てる羽柴筑前守は、ぴくりと片眉を上げた。
「恐れながら。我が甥――いえ、我が主には、今しばらくの刻が必要かと思われます」
庭草を見つめ重盛は答える。目の前の小男は己が新しい主君の、更にその主筋に当たる。陪臣の身なればと低頭したまま、重盛はあくまでも恭しく現状を述べた。
三度に渡る毛利領への攻勢は悉く失敗し、あげく頼みの綱も尽き果て播磨の一城へ孤立、遂に降伏した主従一統はみな切腹密殺の憂き目に遭い、死出の扈従を許されなかった若い者だけが遺された。若者と言えぬ年の重盛らが生き残らされたは、茲矩を支える為である。
「――ひどいのか」
「は……」
ひどいでは済まぬと重盛は思う。一室へ籠り、窶れ果て、髪も灰へ変じた甥を思い出す。
この男が茲矩を高く買っているのは知っている。扱いにくい八ヶ国太守たる尼子氏一門としてではなく、直臣として使いたいゆえ何かと手元に置いていたのも知っている。しかしそれでも今の物言いは直截で、失礼に過ぎるように思われた。羽柴筑前守らしからぬ。
「筑前守様におかれましては。何卒、今しばらくの御堪忍を賜りたく御願い申し上げます」
より深く頭を下げる。もぐもぐと、何かを咀嚼する音だけが頭の上を通り過ぎてゆく。
重盛が言葉少なに、そして頭を上げぬ理由は、もう筑前守こと秀吉にも伝わっている。
播磨上月城への援軍の派遣を取り止めとしたのは秀吉の主の織田右府である。方面軍を任されただけのこの小男の責ではない。
しかしそれでも主君を腹切らせ勇将を捨て殺しにした責はあまりに重過ぎ、生き残ってしまった者らは、際限なく己が身を焼く怒りを、転じ、燃やし尽くす先を求めていた。
そして。火元はべつに目の前の小男でもいいのだった。相応の理由があって燃やせそうならば何だって良い。すでに狂人の理屈だが、失うものがなくなった落ち武者の自棄など珍しくもない。また、向けられる憎悪にひときわ敏い秀吉がそれに気づかぬ筈もなかった。
「……ときに。新十郎病中とあらば、いつもの磯江老が言付けに来ると思っておったが」
居心地の悪さを感じたか、秀吉は不意に話題を変えてくる。
磯江は重盛よりもさらに年嵩であり、茲矩付きの使番として主に使者をつとめていた。
しかし今は、戒められていたにも関わらず追腹を切ろうとし、生死の淵を彷徨っている。
「――磯江平内は先ごろ手傷を負い、療養中にございます」
なるべく感情を込めぬよう心掛け、重盛は伏せたままの面でそう答えた。半身をもぎ取られたが如く悲しいのは、別に甥に限った話ではなかった。年嵩の磯江は腹を切り損ね、そして若過ぎる牧は悲痛な叫びを上げどこかへ走り去っていった。重盛とて平静では居られなかったが、もう重盛しか使いに立てる人間が居なかった。だから来ただけだった。
「戦場に出ぬのに手傷、か。……固く禁じた筈であったがの」
秀吉の言葉に霜が混ざり、重盛は無言のまま低頭した。少し、やり返した格好である。
「とは言え――まあ、よかろう」
がらりと声色を変え、にこやかに秀吉は両手を打った。咎めるべきところで凄んでみせ、いきなり掌を返すように親切に接するのは、相手の出鼻を挫くこの男のいつもの手だった。
「世は兵乱の巷、とても湯治よ旅よと言える時勢に在らず。加えて、四方の境は悉く兵が機を窺い、いつ攻めてくるかも判らぬ折。守る手は足りず、無論、新十郎にも相応の槍働きを期待したいところではあったが……亀井新十郎茲矩が傷を癒し、ふたたび復仇の志を思い出すまでは、この秀吉。幾らでも待とうではないか」
大仰で過分な言葉を恩着せがましく振舞われ、重盛はやむなく顔を上げる。
「――で。湯治場は決まっておるのかの?」
等しい高さで目を合わせ、にこにこと親切そうに、秀吉はそんな事を訊ねてきた。
「……さほど遠くではございませぬが――応仁島へ」
織田家の支配が及ぶ内で近場の温泉場というと、備前国のこの小島しか知らなかった。
「ふむ。三里先の港より船ですぐだな。それほど近くであるならばおよそ兵難も及ぶまい。
しかし応仁島か。――はて。何ぞ、この辺りの子らが唄うておったげな……」
秀吉は思案するように髭の薄い顎をつまんだが、ふと何かを思いついたように、手元の袋より取り出す団子をひとつ頬張った。
咀嚼の音を聞きながら重盛は、そういえばこの人物は近頃、美食に凝っている、という話を思い出した。それもただの美食ではない。聞けば、幼少時に親類の家まで何里も歩き、着いた先でいつも出される水かけ麦飯がこれまで食べた中で最も美味きものであったとか。爾来、様々な粗食を試している、との噂だった。
途切れ途切れに響く鼻歌の旋律は、市中の子供らから近頃よく耳にする口誦の一節か。
庭草へふたたび目を落としながら、ばかばかしい、と重盛は思う。
八ヶ国もの太守を命ぜられし名族を敵勢の海へむざむざ捨て殺しにした事など、端者の身分より成り上がったこの人物にはどうでも良いのであろう。武者の矜持、貴種の覚悟、いずれも無関心に違いない。肝心なのは目の前の相手が使えるか否か。そして最も肝要なのは、己の上へ立つ者が勝ち続けるか否か。それだけであろう。
そもそも忠義というものを理解しているかすら怪しい。織田家の一方面軍を率いる高位にはあるものの。忠誠なくばとても成し遂げられぬと評された比類なき働きは、恐らくは綿密な計算の結果であり、そして道義を弁えなければとても守らせる事叶わぬと評された軍律は、きっと病的なまでの慎重さと臆病さの結実でしかないのだろう。
この男の本質は獣。賢しいだけの獣。心根の醜悪さはまさに、その顔貌にも似た――
そこまで考えたところで、まるで心底を見透かすかのように、秀吉がにやりと笑った。
「――茲矩へ。渡すがよい」
は、と顔を上げた時にはもう、両の掌の上一杯に、粗末な団子が押し付けられている。
黄色の目立つ粗い団子は、どうやら黍団子のようであった。
「桃太郎と犬が討たれても。鬼退治は続けねばならぬ。いつまでも待っておる――とな」
団子の山の頂に空の布袋を押し付け、立ち上がる猿は笑いながら去っていった。
外の空気へ触れさせるのも、潮風に当たるのも、昔から甥が好んでいた船旅をさせるも、いずれも心の傷を癒すに良いと考えて選んだ旅先ではあったが。
あまりに短い旅はすぐに目的地へ着いてしまい、未だ日は高く、湯に入るという気にもなれず。船から降りた砂浜をただあてもなくふらつく背中を、重盛は追いかけている。
応仁島というのは応仁の御代に風待ちをしたさる貴人が当てた名でしかなく、元々は違う名で呼ばれていたらしい。昔から少ないながら人も住み着いており、鬼島という物騒な名に不相応な平和な営みが古来より続けられている事は、彼方の古い漁村を見るだけでも理解できた。
目指す湯治場は、山へ分け入り島北部を横切った先にある、反対側の浜にあるらしい。甥の背中はふらふらと、ただ浜を辿ってゆく。このまま進んでいってもいずれ目的地へは着くだろうが、幾分遠回りの道にはなる。しかし重盛は甥の望むままにさせようと思った。
まっさらな白い砂浜にひとつきりの足跡を残し、新しい主君は進んでゆく。足元がふらついているのは、何も草履に砂が入るからではない。また旧主待つ包囲下の孤城へ撤退の命を伝えるべく押し通り、その折に負った槍傷が未だ癒えぬからでもない。片足を引きずる背中を目で追いながら、重盛は甥の道行を不憫に思った。
内陸へ視線を転じると、砂浜の途切れるあたりの防風林には大ぶりな椿が混ざっている。それを見て重盛は、夢とは大輪の椿花のごときもの、と考える。
尼子家が八ヶ国もの守護職に任じられたはもはや過去。その領国は今や、毛利と織田が寸土を巡って相争う草刈り場に過ぎなかった。それでも昔日の栄光を諦めきれぬ尼子侍たちは毛利憎しの思いから縁なき織田へ頭を下げ、旗と陣を借りてでも戦い続けたが、どれだけ粘ろうと武運の拙さばかりは覆せず、一城へ包囲孤立の憂き目と相成った。
標椿、というものがある。街道の分岐点へ植えられ、常緑の葉と目立つ紅の花、そして果実のごとく転がる落花をもって目を惹き、旅人へ岐路の存在を明示する椿の大木である。
尼子の執念の散華する場として、命運を共にせねば生きられぬ者らの死に場所として、
夢を諦め若者が別の道を選び生きる為の標椿として、旧主の孤城は椿花のごとく落ちた。
しかし残された者の気持ちはどうなるだろう。若き者へやり直す為の岐路を与えても、有望な残兵を収容すべく筑前守が待っていても、肩を並べ戦った友がことごとく、忠を誓った主と共にむなしく世を去れば、若者とてそう簡単に何もかも忘れやり直すという訳にはゆかぬのだ。御腹を召された勝久公は、果たしてそこまでお考えであったろうか。
忠を誓った主君を失っても、勇を恃んだ将星を失っても、それでも重盛が他の者と比べまだ落ち着いた顔をしていられるのは、何もこれが初めてではないからである。
(そう――見捨てられるのも、慣れている)
孤城を冒し燃える焔。刀槍の煌めきの中へ沈みゆく父と叔父。落城の風景を思い出す。
命は軽く、名は重く。その言葉だけを遺し父が城もろとも燃え尽きてもう十五年になる。
多胡辰敬は名にし負う石見の智将であったが、おのれが口にした金言にこそ縛られた。
雲芸和議に従って援軍を出そうとせぬ尼子家へ忠を貫き、周辺の城主らが次々と毛利へなびき転ぶ中、父は押し寄せる石見侵攻軍へ正面から抗し、そして敗死した。
その死は忠烈を以て語られたが、智将の評は悲劇の忠臣へ塗り替えられる形となった。
名は重しと口にしたゆえ旗幟も変えられず。命は軽しと口にしたゆえ死ぬしかなかった。
その、重き家名を継ぐために。唯一遺された男子である重盛は今なお命を繋いでいる。
刀を捨てず尼子再興軍へと身を投じたのも、父が立派に死んでみせながらその後わずか数年で尼子氏はあえなく滅び、その償いを当の尼子氏へ求めたい気持ちからでもあった。
しかし父の遺名を知る勇士らは、城を枕の討死を以て示された父の忠心を賛美しつつも、
ふとした拍子に、無事生き延びている重盛へ不思議そうな表情を向けてくる。
無意識に向けられるその視線は。どうやら、悲劇として語られるべき父の忠烈物語の、そのうつくしい結びの句として、嫡子重盛の討死をも求めているようであった。
そろそろ腹の切り時か、と重盛は思う。十五年戦い、重ねたのは敗北の記憶のみだった。
いや。名を重んじ、父の遺した言葉へ忠ならんとすれば。腹を切るだけでは駄目である。単身、どこぞの毛利方の城へ赴き、門前で長々と名乗りをあげ口上を述べ、そしてその後、門兵に斬りかかり討ち死にすべきであるのだろう。
ばかばかしい、と重盛は思う。
それは無論、家名を辱めぬための習いなのかもしれぬ。父の忠君物語へ座りのよい結末を加えるための、身を擲った親孝行なのかもしれぬ。
だが、その行いはただの狂人である。むしろ敵手を利用した自害でしかない。切腹と何が違おう。
それに、もしも己が死んだなら。
重盛はひとり砂浜を行く、姉の息子へ目をやった。
父の遺名はきっと、外孫たるこの甥へ乗り移り、更なる犠牲を求めるに違いなかった。
(――新十郎も。ここで死んだが幸せかも知れぬ)
刀へかけた手が震える。まだ幼き頃に尼子氏の滅亡を迎え、故郷を失う屈辱の記憶もさほど持たぬ甥は、ここまで大きな挫折を知らず来てしまった。主君と義兄を一時に失って耐えられるかどうかは判らず、また今一度立ち直れるものかどうかも判らなかった。
それならば、いっそここで死なせてやった方が。
鯉口を切った指を静かに戻し女々しい考えを振り払う。これでは母親の考えと変わらぬ。新十郎も弱冠とは言え、もう一人前の男である。ここで自らの足にて再び立てなければ、もはや斬ろうと斬るまいと変わらぬ。死んでいるのと同じ事であった。
刀より外した指が、腰に携えた袋へ触れる。
そこには託された残酷な伝言があった。
筑前守より賜った大任を果たすのは可能な限り遅らせたくて。重盛は前を行く背中へ、甥の興味を引きそうな事を片端から喋ってゆく。
この島がかつて、鬼島と呼ばれていたこと。
人に悪さをする鬼が潜み、海を渡り悪行を働いていた伝承が残ること。
島の一部には岩肌が露出し草木も生えず獣の骸が転がる、鬼の棲み処に相応しき「地獄」が存在すること。
そこから流れ出る灼熱の湯が川海の水と混ざる入江は、古より湯治場とされてきたこと。
今より浜伝いに回り込む北の岬には、哭き声のごとき音を響かせる風穴と、そして鬼塚と呼ばれる地があること。
沈黙を避けるように喋り続けたつもりの話は、さして長くも続かなかった。
終始無言のまま歩み続けていた甥の背中が、やがて止まる。
見つめる視線の先には、半ば砂に埋もれ、堆く山を成した船の残骸がある。
鬼塚と呼ばれるはずのその地にはただ、南蛮船とも思しき外洋船の成れの果てひとつ、苔にまみれ横たわるのみであった。
鬼とやらの正体がこれか、と重盛は思う。瀬戸内ではあまり見ぬが外海沿いでは珍しくもない。難破船とともに流れ着く異国の漂流者が、言葉も判らず、喰うために海賊働きを始める例など枚挙に暇もなかった。そうして悪鬼のごとく暴れまわる異国人の風貌は、陽に赤く焼けた肌、色の抜けた髪、図抜けた体躯とさながら赤鬼にも似て、それゆえ人に仇なす鬼として討伐されたという古伝は、それこそ国中に港の数ほども転がっていた。
鬼退治。秀吉の口にした、茲矩へ伝えよと命ぜられた言葉が、目の前へ横たわっている。
重盛は膨らむ腰の袋を掌で覆い隠す。
(桃太郎も犬も死にましたが、猿が黍団子をたくさんくれました。鬼退治を続けましょう)
真っ当な神経の持ち主ならば、傷つく若者へ向かってそんな言葉を吐ける筈もなかった。
「――叔父上」
不意に、立ち尽くす背中が声を発した。
「新十郎。いや、殿。……どうかこれより先は、重盛とお呼びになりますよう」
立場を気遣い、近親たる身からの線引きとして口にしたつもりだった。しかし何よりもその言葉に最も傷ついたように、主君の背中は揺らいだ。
「……重盛。筑前守様は、はたして――この己を何と呼んだ?」
言いにくそうに名を呼び振り返る主君の視線は、既に腰の袋を捉えている。
「犬か。――はたまた、雉か」
ずっと触れぬようにしてきた袋の中身など、とうに見抜いている様子であった。
「……雉、と」
観念し、重盛はおとなしく腰の袋を差し出す。
「ほう。なぜ雉か」
犬と猿とは仲が悪うございますゆえ、と考えつつも、臣下は別の言葉を口にする。
「……犬と呼ばれて喜ぶ侍は居りませぬゆえ」
袋を受け取り、主君は中身を改める。唇の端へ笑みがかすめた。
「袋一杯の黍団子か。もう他にくれてやる相手も居らぬのだ。大盤振る舞いも納得だな」
どこか虚ろな笑みを刻み、取り出した団子を一つ齧りかけ、袋へ戻す。背を向ける。
「これだけの恩賜恩賞を先に頂いてしまっては。再び弓を取るもやぶさかではないが……」
墓標の如く屹立する残骸を抜け、海より風が吹く。主君の衣裾をはためかせ通り過ぎる。
「……心へ大穴が空いたがごとく――もはや、力が入らぬ」
岬下の風穴へ飛び込んだ海風は、洞の広さを教えるような、虚ろな音を響かせた。
愁々と哭くがごときその音は、一度も涙を見せぬ甥の心を代弁するかのようであった。
重盛は歩いてきた浜を振り返る。風紋だけが続く砂浜へ、新たな主君がここまで刻んできた足跡は、あまりにも頼りなく、また曲がりくねっていた。
劣勢の戦場でそれでも踏み留まり刃を振るってきたのは、主を思えばこそであった。
力の源を失い、そしてこれからはお前自身が皆の主となれ、などと突然に命ぜられて。皆の為に道標を掲げ、力いっぱい大地へ打ち込める者など、果たしてどれだけいるものか。
大穴の存在を自覚させた風は、ただ痛みだけを遺して、地の底へと吹き過ぎてゆく。
「――」
ふと。遠ざかる不気味な哭声に、場違いな高音が混ざった気がした。
耳を澄ませば、赤子の泣き声の如きものが洞穴奥より反響し、重盛は背筋を寒くする。
(――何だ)
人の気配なき風穴より赤子の声が響く筈もない。入口の闇へ向き直り、刀に手をかける。
泣く捨て子のごときその声は、妙に耳の奥を刺激しながら、少しずつ大きくなってゆく。
洞穴内へ幾度も木霊すその泣き声は人ならぬ怖気を帯び、歴戦の重盛をも一歩退かせた。
やがて反響がやむ。風穴前の砂浜へ、ごく小さな影が走り出る。その牙より漏れた泣き声に、先程の声はすべて、この幼獣の鳴き声でしかなかったのだと知れた。
「……猫、か」
主君の背中が疑問そうに呟く。
なぜこのような処に仔猫が居るのか。風に飛ばされ、大穴へ引っかかりでもしたか。
木霊がなくなり日の下で聞けば明確に猫とわかる、耳に残る鳴き声を盛んに上げながら。仔猫はまるで、何かねだるような、何か不平を言うような、本当は嫌だけど仕方がないから近づいて行ってやる、と言わんばかりの押し付けがましい鳴き声を立てながら、まっすぐ二人の方へと近づいてくる。動きを止めていた主君の背が声を放った。
「何だ――汚れておるのかと思えば。見た事もない、珍しき柄よ」
白き仔猫はまるで竈へでも潜った様に、顔と足先と尻尾だけが黒灰の毛色を有している。
「さて……。この異国の船にかつて乗っておった猫の――末裔でありましょうか」
苔むす外洋船の残骸へ目をやりながら、重盛は答えた。
「――異国。異国より、流れ着きし猫……」
固まっていた主君の後姿が崩れ、突然に砂へ両膝を落とす。
すわ主君に変事かと重盛は駆け寄ろうとしたが、仔猫は特に驚いた様子もなく、当然のような顔で行先を主君の膝へと定め、恨みがましい鳴き声を伸ばしながら近づいてゆく。
そのまま一切の遠慮もなく爪をかけ、主君の膝へとよじ登る。その躊躇のなさに、久方ぶりに耳にする主君の笑い声が響いた。
回り込んだ重盛の視界で。膝から主君を見上げひと鳴きしてみせた仔猫は、まるで今の鳴き声が許可同意を求めるものであったかのように、主君の手に持つ袋へ頭を突っ込んだ。
「!……こ、これ。賜りものぞ」
袋からはみ出た下半身を重盛に引っ張られ、餌に夢中の仔猫は不平の鳴き声を上げる。
「構わぬ」
主君の手が柔らかく仔猫を引き取り、再び膝の上へと下ろす。どうやら袋の中で団子を抱え込む猫は、咀嚼に喉鳴る音を混ぜつつ、一心不乱に恩賜の菓子を喰い漁っている。
「鬼退治へ加わるは――なんと。猫であったか」
大胆極まりない泥棒猫を無為に見過ごしながら、主君は涼やかな笑い声を響かせる。
「――さすがの筑前守様も。この結果までは、予想できまいぞ」
それはそうだろう、と重盛は思う。賜りものの菓子を獣へ喰わすなど、上聞に達すればどのような仕置が待っている事か。恐怖に慣れた重盛にも容易には想像がつかなかった。
「……美味いか」
忙しい咀嚼の合間、袋の内よりにゃあと応えを受け、主君はそうかと満足そうに頷く。
やがて団子を食べ尽くしたらしき猫は、果たしてどんな顔で出てきて如何なる礼を示すかと思いきや、袋からは一向に出て来ず、もぞもぞと動き回っては袋の中で最も落ち着く体勢を追究し、そのままあろう事か寝始めた。どこまで厚かましいのか。
黒灰の尻尾をはみ出させた袋を捧げ持ち、主君は愉快そうに告げる。
「――重盛。せっかくの湯治だが。やめに致すぞ」
そのまま踵を返す主君へ、まさかその猫を連れ帰られるおつもりで、と重盛は狼狽する。
無言で見返す主君の瞳は、扈従を望むなら好きなようにさせてやれ、と告げていた。
そこには供を許されなかった臣の悲しみがあるようで、重盛は口を噤まざるを得ない。
「急ぎ帰り――『主命』を果たすとしよう」
急に精気を取り戻したような顔で、主君は奇妙な事を口にした。
主命とは何の事だろう。重盛には思い当たらぬ。羽柴筑前守か、または織田右府の命か。
そも、主を失い使い物にならなくなった若侍へ命を託した者が居るとも思えなかった。
「それと。……よき場所へ流れ着かせてくれた。重盛。礼を言うぞ」
主君はふたたび奇妙な事を口にした。
笑顔で礼を述べる主君へ、ここへ流れ着いたのは猫であって己はまるで関係ないが、と内心首を傾げるものの。理由はどうあれ、元通りの気力を取り戻せたのならばよし、と、重盛は深く考えずに頭を下げた。
尻尾の出た袋をぶら下げ、主君は早足で砂浜を引き返してゆく。砂を穿つその足跡は、来た時より遥かに深々と刻まれていて、それは吹けば飛ぶ猫の重みなのかも知れなかった。
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