エピローグ

 イルゼは一人、夏陰を求めて翠緑に輝く庭を歩いている。薄らと汗ばんだ額には、まだ湿気の少ない清風が心地良い。


 季節は青葉の頃、所は南皇国テオフィル最北の都市ウラジミール。イルゼの歩く庭は、セレファンスの叔父グリュワード=テイラーが居住する邸宅の敷地内だ。


 と、イルゼは背を預けるのに十分な木を見つけ、そこへと歩み寄っていく。そして、どこか気の抜けた溜め息と共に、その根元へと座り込んだ。


 風と木漏れ日に揺れる緑葉を仰いで、暫しの間、涼やかな葉擦れの音に耳を傾ける。


(……あれから一ヶ月、か)


 イルゼはふっと短い溜め息をついた。


 インザラーガ山における闇との対峙から、すでにそれほどの月日が流れていた。つまるところイルゼ達は無事、崩壊するインザラーガの離宮から脱出を果たしていた。ただし、身を呈してイルゼを守ってくれた、あの青年を除いてではあったが。


 イルゼは湧き上がるやるせない気持ちを振り払うように、手にしていた一通の手紙を開いた。

 それは洗練な文字で数枚に渡ってしたためられた、異母妹ラートリーからの便りだった。


『親愛なるイルファードお兄様。

 こうして筆をとるまでに時を必要としてしまいました。私の中に溢れていた予感が確信に変わるまで、お伝えしたいことが言葉にできなくて戸惑っていたの。ごめんなさい。でも今なら、無事な姿のイル兄様が、この手紙を読んでくださっていることを信じています。


 以前、イル兄様がウラジミールに滞在されていたという話を思い出し、伝手を頼って手紙を届けさせることにしました。なんとなくだけれど、そうすれば兄様のもとに、この手紙が届くと思ったの。私の勘は結構、当たるのよ。今度もきっと、それを証明できると思っているわ。


 それでは早速、兄様も気にかけていらっしゃると思いますので、アドニスの近状をお知らせするわね。


 まずは、お父様のこと。イル兄様がインザラーガの離宮に移られてから間もなくして、お父様は庭園で倒れられてしまったの。一時は危険な状態だったけれど、今は意識を取り戻されて、静かに養生をなさっているわ。でも、後遺症が残ってしまったらしく、終始、ぼんやりと過ごされているらしいの。まるで何も理解ができない幼子にかえってしまわれたようだって侍従達は言っているわ。恐らく今後、皇位を維持することは難しいでしょう。でも母様の話によると、とても穏やかな表情を浮かべるようになられたっておっしゃってた。

 私は、まだお父様に会いに行っていません。でも少し落ちついたら、会いに行ってあげてもいいかなって思っています。


 話は変わりますが数週間前、インザラーガ山において激しい地盤沈下が起こりました。なんとなくイル兄様に関わっている事柄のような気がするのだけれど、ここでにはそれに触れません。いつかは再び兄様にお会いできる日がくるでしょうから、その時には私にも全ての真実を話してくださるわよね? そうでしょう、イル兄様?


 それからイル兄様にお伝えしたい驚くべきお話があるの。私達には、シルヴィオという名前のお兄様がいらっしゃることは聞いていたでしょう? そのお兄様が、次代皇王候補として離宮から帰還なさるんですって。もう私、吃驚したわ。だってそのお兄様って、精神を病まれて療養されているってお話だったんだもの。でもね真実は違ったの。いわゆる暗殺の危機を逃れるためのものだったらしいのよ。それについて母様は、シルヴィオお兄様からご相談を受けておいでだったみたい。それで母様が、離宮への隠遁を助言なさったらしいわ。


 シルヴィオお兄様のお母様はすでに亡くなられているし、後見人は母様が務めることになりそうよ。なんにしろ、これでイヴェリッド達も大人しくなるんじゃないかしら?


 ここでアドニスにおけるイル兄様の取り計らいについてお知らせしておきます。兄様がインザラーガの離宮にいらっしゃったことは周知の事実だったから、城の者は皆、崩壊に巻き込まれたのだろうと考えているみたい。もちろん私は兄様がご無事だと信じているから、なに言ってるのよって感じだけれどね。


 だから、もう兄様は自由の身よ。アドニスのことは心配しないでください。きっと、これからは少しずつ良い方向に変わって行けるはずだもの。


 でもねイル兄様。アドニスには私がいることを忘れないで。どうか、いつでもこの国に帰ってきてください。ここはイル兄様の産まれた故郷なのだから。


 ああ、そうそう、肝心なことを書き忘れていたわ! 兄様が最も一番、心配しているだろうこと。貴方の大切な妹ラートリーは、とても元気です。ロジーも同じく元気よ。もちろん母様もね。


 最後に、カルカースのこと。あれ以来、彼の姿を見た者は誰一人としていません。もしかしたら私は、カルカースにお礼を言う機会を永遠に失ってしまったのかも知れないわね。


 それじゃあ、イル兄様、いつの日か再会できることを楽しみにしています。その日ができるだけ早く訪れることを願っているわ。それまで、どうかお元気で。

 アドニスより愛を込めて。貴方の大切な妹ラートリーより。

 西方の姫君『セレシア』にも宜しく』


 思い出したように付け足された最後の一文に、イルゼは思わず小さく笑う。そして手紙を折り畳むと、天を仰いで大きく息をついた。


(……きっとラートリーは、カルカースさんがもう、この世にはいないことを察しているのだろう)


 イルゼは自分を庇って命を落とした青年を思い、双眸を閉じる。あの青年への想いは、一言では言い表せない複雑なものだった。ただ確かなのは、イルゼは最も大切な者を奪われ、命を狙われながらも、最後まで彼を憎み嫌うことができなかったということだけだ。


「イルゼ!」


 突然、名を呼ばれてイルゼは閉じていた双眸を見開いた。しかし、辺りに人の姿は見あたらない。その代わり、青々とした草地の上に奇妙な陰影が落ちていた。


 イルゼは、おもむろに上空を仰ぐ。


「セレ!」


 宙に向けた視線が捉えたのは、飛空機にまたがり、陽の光を背負ったセレファンスの姿。彼はイルゼの呼びかけに片手を振って応えると、ゆっくりと緑地に飛空機を着地させる。

 飛空機から身軽に降り立ったセレファンスは、


「こんなところにいたのか。部屋にもいないから舘中を探し回ったぞ」


 と言って、木の根元に座るイルゼへと近づいてきた。


「ごめん。少し風に当たりたくてさ。それにしても、もう自由自在って感じだね」


 イルゼはセレファンスが乗ってきた前時代の遺物を見やる。それは、おおよそ七百年前に造られた空を翔る乗り物であり、もしかしたらリースシェランやシエルセイドが使用していたかも知れない貴重な代物だった。そして、イルゼ達をインザラーガの離宮から脱出させた、まさに命の綱だったものだ。


「まあな。ここ一ヶ月は、その仕組みを知るために、みっちりと乗り回していたし」


 セレファンスは、ちょっと得意げな様子を見せながら、


「やっぱりこの飛空機は、座席前に備えつけられた青い宝玉が動力源になっているみたいだ。恐らく皇族の資質に触れることで、浮力を担う〈マナ〉を作り出せる代物なんだろう。宝玉は天然石じゃないみたいだし、まあ、なんにしろ簡単には複製できないものってことか」


 そう言って少し残念そうに肩を竦める。彼は失われた技術を復活できるかも知れないと張り切っていたくらいなので、恐らく様々な可能性を期待していたのだろう。だがイルゼにしたら、それで良いと思う。失われて今があるのだから、それは今の時代に必要がないのだろう。


「それほど貴重な遺物なんだからさ、もっとイルゼも乗ってみろよ。馴れれば風と一体になれる感じがして気持ちいいぞ」


 セレファンスは興奮に輝いた双眸で熱っぽく語る。どうやら飛空機は、すっかり彼のお気に入りとなったようだった。


「いや、僕はいいよ。というか、今の僕にそれを動かすのは無理だと思う。何しろ〈マナ〉が使えなくなっちゃったんだし」

「そんなの大丈夫だって。最初は無理でも、少し練習をすれば、すぐに――」


 と、そこまで言って、セレファンスはイルゼが重大な事柄を口にしたことに気づく。


「ちょっと待て。〈マナ〉が使えない? 使いたくないんじゃなくて?」


 それにイルゼは頷いた。


「本当に使えないんだ。最初は〈マナ〉を行使し過ぎた反動かなと簡単に思ってたけど、どうもそうじゃないみたいだ。上手く言えないんだけれど、自分の中にあった力の根源が、完全に断たれてしまったかのような……」

「じゃあ〈ディア・ルーン〉も?」


 セレファンスの唖然とした問いに、イルゼは再び頷いた。


「たぶん、僕の持つ力の役目が終わったからだと思うんだ。だからきっと、神様が僕の能力を持っていっちゃったのかもね。でも、これで良かったんだよ。あの力は、一人の人間が持つには分不相応のものだ。僕は心の弱い人間だ。あとから後悔すると分かっていても、感情に任せて使ってしまうことがあるかも知れない。それこそセオリムの村の時のようにね」


 イルゼは少しばかり自虐的に、だが自戒を込めるようにして言った。


「でもね〈ディア・ルーン〉の祈り自体は覚えているんだよ。詠唱しても〈マナ〉は顕現しないけどね。前みたいに全てを忘れることはなかった。〈ディア・ルーン〉は、お母さんが僕に遺してくれた唯一の形見だから――それだけは良かった。それで僕は満足なんだ」


 そう言ってイルゼは微笑んでみせる。


「……そっか。まあ、お前にとっては、そのほうがいいのかも知れないな」


 セレファンスは強張っていた頬を緩める。そして「隣、座っていいか?」と聞いてくる。


「うん」


 イルゼが頷くと、セレファンスはイルゼが寄りかかっているのと同じ木に背を預けた。


「ところで手に持ってるそれは、今朝に届けられたラートリーからの手紙だろう? 何か急な知らせでも書いてあったのか?」


 そんな質問に、イルゼは答えかねて軽く首を傾げると、斜め後ろに座ったセレファンスに肩越しで手紙を差し出した。


「いいのか?」

「うん、どうぞ」

「――んじゃ、遠慮なく」


 ガサゴソと手紙を開く音に続いて、暫しの沈黙。そして、不本意そうな「全く」という嘆息に続き、


「西方の姫君『セレシア』にも宜しく、だって? お前の妹は相変わらず嫌味が利いてるな」


 手紙を読み終えたらしいセレファンスは面白くなさそうに呟く。それにイルゼは苦笑した。


「嫌味じゃないよ。それはラートリーにとって親しみを込めた表現だと思うけど」

「そうかねぇ……まあ、いいけどさ。にしても、ラートリーの勘というか予知というか、あれはすごいな。こうして何もかもを悟ったように手紙を出してきたことといい、〈闇からの支配者〉についての夢見といい、あれって絶対〈神問い〉の力だぞ。本人にあまり自覚はなかったみたいだけどな」


 セレファンスの言葉にイルゼは曖昧にして微笑む。

 イルゼはラートリーが〈マナ〉の力を有していることを知っている。それについて以前、打ち明けられていたからだ。しかし、その際に他言しないことを約束させられており、いくらセレファンスに対してであっても、それを破るわけにはいかない。


「親父さん、倒れたんだってな」

「うん……」


 イルゼは頷き、思いみるようにして蒼穹を見上げる。


「セレ、僕はこう思うんだ。お父さんが倒れたのは、僕が〈闇からの支配者〉を昇華したことに関連しているのかも知れないって」


 父ディオニセスは、自分の母親を手にかけた過去を受け入れることができず、そんな心の隙を〈闇からの支配者〉につけ入られた。〈界の秩序の崩壊〉という手段でもって、変えられないものを変えてしまおうと目論むようになった。そして、それこそが年老いた父の全てとなっていたのかも知れない。


 しかし、そんな彼の願望は〈闇からの支配者〉と共にイルゼによって昇華された。その時、父は『全て』を失い、気力も同時に失ってしまったのだろう。


 それはイルゼがどうにかできる問題ではなかったが、それでも自分が父の希望を奪ったのだという少しの後ろめたさは消えない。


 そんな中でただ唯一、イルゼの救いとなったのは、ラートリーからの便りで知らされた、父が見せるようになったという穏やかさだ。


「そっか。親父さん、少しずつでも良くなるといいな」

「うん、ありがとう」


 イルゼは因果関係を超えたセレファンスの気遣いに感謝する。


「それにしても、これからアドニスは変革期に入るってことだけは確かだな。俺もシルヴィオ皇子のことは小耳に挟んだことはある。彼は自分の母親が亡くなってから間もなくして、精神的な異常を理由に離宮へとこもったと聞いていたが、それは口実だったというわけか。彼の母親は北皇国ノアトゥーン皇族出身で、他皇国の影響を嫌った勢力による毒殺だったとも言われている。当時、後ろ盾の全くない彼にとっては、それが最良の判断だったんだろう。ただ、皇王としての器があるかどうかは、まだ分からないな」

「それは――多分、心配ないと思う」


 イルゼがアドニスの皇城で耳にしていたシルヴィオ皇子の人と為りは、聡明で理知的だったと聞いている。ならば、きっとアドニスは良い方向へと変わっていくだろう。


「ま、クロレツィア皇妃が後見を務めるって方向らしいし、少なくともおかしなことにはならないか。今までの功績から見ても、彼女はとても賢明な女性だ。あえて気がかりな点を上げるとすれば、彼女がラートリーの母親だってことくらいかな」

「……また、そういうことを」


 イルゼが溜め息交じりに呟くと、セレファンスは楽しげに笑う。そしてふと、笑い声を消した。


「あのさ、イルゼ」

「うん?」


 イルゼはセレファンスの改まった口調に首を傾げる。


「実はさ、俺もお前に言わなきゃならないことがあるんだ。俺は、お前の親父さんと同じだったのかも知れない――」

「どういうこと?」


 イルゼは木に寄りかかっていた身体を起こし、おもむろにセレファンスを振り返った。


「全部、思い出したんだ。母や姉が殺された時のことを」

「え」


 イルゼは目を見開く。


 セレファンスの母親と四歳年上の実姉は、彼が六歳の時に亡くなっている。アドニスとの講和を目的とした旅路の途中、彼らの乗っていた馬車が多勢の賊に襲われたのだ。その時、母親と姉を含め、その場にいた侍従や騎士の全員が殺されたが、不幸中の幸いと言うべきか、セレファンスはただ唯一の生存者となった。


 しかしセレファンスは何故か、その時の様子を一切、記憶にとどめていなかった。以前、彼は、その原因をこう分析したことがある。幼い頃の自分は、母と姉の凄惨な最期を受け止められる強さと勇気がなかったからだろう――と。そして成長した今も思い出せないでいるのは、自分に進歩がないからだと。


「でも、違った」

「え?」

「違ったんだよ。それらの記憶を失っていた理由が。俺が思い出したくなかった事実は、母や姉の死に様についてじゃない。俺が忘れていたかったのは、その場から背を向けて――母や姉を置いて、たった一人で逃げ出したっていう俺自身の罪悪感だったんだ」


 セレファンスは一瞬、泣き出しそうな表情を閃かせる。そんな彼にイルゼは何も言うことができない。


「あの時の俺は、俺や姉をかばった母を、俺を守ろうと身代わりになった姉を、その場に残して逃げたんだ。そこから生じる負い目こそが、俺の思い出したくない『もの』だった。……これを思い出すまではさ、俺は思ってたよ。母や姉が、どんなに屈辱的な死に方をしても、どんなに消してしまいたい悲惨な事実がそこにあったとしても、それでも今の俺だったら全てを受け止めて二人を誇りに思い続けることができるだろうって。それなのに何故、思い出せないんだって――そう思ってた。それなのに、まさかこんな」


 セレファンスは耐えかねたようにして、膝の上に額を押しつけた。


「イルゼ、俺は馬鹿だ。馬鹿で意気地がなくて無知だった。何が母と姉を誇れるだ、全てを受け止められるだ。自分の情けなさを棚に上げて、命を投げ出してまで俺を守ってくれた母上と姉上に、これ以上、何を望むつもりだったんだろうな。本当に俺は」

「……セレ……」


 イルゼはセレファンスにかけられる言葉を見つけられなかった。だが、ただ確かなのは、十年前のセレファンスは今と違って無力な幼子だったということだ。


 しかし、それでも簡単に「自分は子供だったのだから」と割り切れるものではないだろう。だからこそセレファンスは、闇の中に受け入れがたい『当時の自分の弱さ』を沈めたのだ。その時の記憶を失ってしまうほど、深遠に。


 そんなセレファンスをイルゼは慰められるとは思わなかった。これほどの悲痛に、どんな言葉がかけられるというのか。

 だからイルゼは、セレファンスが落ちつくまで、その傍らで待つことにする。再び木に背を預けると、その幹からセレファンスの深い悲しみが伝わってくるようだった。


「話を聞いてくれて、ありがとうな」


 暫くしてから顔を上げたセレファンスは、感情を落ち着かせるようにして大きく深呼吸をした。


「これが、お前が闇から取り戻してくれた俺の記憶と感情だ。俺は知らず知らずの内に、お前の負担になってたみたいだな。すまなかった」


 その謝罪にイルゼはかぶりを振る。


「セレだけじゃない、僕も同じだ。あの中には、僕自身の闇もあったんだから」


 イルゼはインザラーガで相対した〈闇からの支配者〉を思い出す。それは最後の最後で、イルゼそのものの姿を取り、イルゼが心の奥底で確かに感じていたのだろう感情を露呈した。


 おもむろにセレファンスは、ふうっと重たい溜め息をついた。


「結局〈闇からの支配者〉ってなんだったんだろうな。こうして全てが終ってから振り返ってみると、俺達は世界の存亡なんて大それたものじゃなく、とても身近で個人的なことのために戦っていた気がする」

「うん、僕も同じだよ、セレ。僕は思うんだ。今までの僕は〈闇からの支配者〉という敵なんかじゃなくて、自分の中の弱さを認めるために戦っていたんじゃないかって」


 イルゼは再びセレファンスと向き合う。自分が隠し続けていた『もの』を全て正直に伝えるために。


「フィーナを失ってから僕は、時として全ての現実をメチャクチャにしてしまいたいっていう衝動に駆られることが何度もあったんだ。君から〈ディア・ルーン〉のことを知らされた時には、もしも本当にそんな凄い力が扱えるのなら、この世界を消してしまいたいとさえ思うことがあった。いつだって、ふとフィーナのいない現実に気がつく度に、どうしようもなくやるせなくなって――そんな愚かしい願望を抱かずにはいられなかったんだ。でも今思えば、それこそが僕の中にあった弱さで、僕が打ち勝たなければならない『もの』だった」


 イルゼは自分の心を思いみるようにして天を仰ぐ。


「そんな心に僕が勝てたのはフィーナのおかげだ。フィーナが与えてくれていた温もりが、僕の記憶に残っていたから――それを再び感じたいと願えたから、僕は僕の中の弱さを認めて抵抗できた。そしてセレやラートリー、レシェンドさん、それに――カルカースさんがいてくれたから、僕は再び心に希望を持つことができた。だから僕は、ここにこうしている」


 イルゼはセレファンスを見て微笑んだ。


「僕の中の闇は一生、消えることはない。でも、それでも、それに優る光を心に抱いていけば、僕は生きていくことができる」

「――ああ、そうだな」


 セレファンスは頷く。


「誰だって心に弱さを持つ。それでも、それを見据えて、この世界で克服していくことこそが、神が人間に望んだ真実なのかもな」


 やれやれとばかりに、セレファンスは身体を思いっきり伸ばした。


「まあ、簡単に言えば、取りあえず俺達は、この世界で一生懸命に生きろってことか」

「ははっ……まあ、そういうことだね」


 イルゼは可笑しそうに笑う。今までの道のりを思えば、それはあまりにも単純明快過ぎる答えだったが、何故だかそれが小気味良く思えた。


「ところでセレが僕を捜してたのって、さっきの話をしてくれるため?」

「いや、あれはついでっていうか、いつかは話そうとは思ってたけど……まあ、成り行きだな」


 気恥ずかしそうにセレファンスは苦笑する。


「お前に知らせとこうと思ってさ。今日の夕方には、父上がウラジミールに着くそうだ」

「え? でもセレのお父さんって――」


 ラルフレッド=イドゥ=ヴァルス=リゼット――現リゼットの皇王、その人だ。


「ああ、あの人は自分の立場を考えないで身軽に行動することが多いんだよ。今回も叔父さんの裏伝手を使って隠密に国境越えをしようって魂胆だろ。ばれたらタダじゃ済まないってのにな。全く侍従長の苦労を察するよ」

(それって、セレが言えた義理じゃないと思うけど)


 イルゼはセレファンスの言葉に肩を竦める。何せセレファンスは、彼の専属騎士であるレシェンドに同じ苦労をさせているのだから。


「なあ、イルゼ。俺と一緒にリゼットにくるか?」


 唐突に発せられたセレファンスの誘いに、イルゼは目を丸くした。


「だってお前、リゼットに行ってみたいって言ってたじゃないか」

「え、でも――」

「嫌なのか?」

「嫌とか、そういうんじゃなくて」


 イルゼは慌ててかぶりを振った。


「なんだろう……なんていうか、少し不安っていうのかな。アドニスに行った時みたいに、存在の大きなものに囲われてしまうのが」


 イルゼはセレファンスが気を悪くしないようにと、懸命に理由を説明した。


「リゼットに行きたくないわけじゃないんだよ。いつかは行ってみたいって言ったのは嘘じゃない。ただ、今はまだもう少し、制限のない場所でゆっくりと色々なことを考えたいというか……」

「うんうん、そっかそっか。分かるぞ、その気持ち」

「――は?」


 イルゼは間の抜けた声を出す。


「俺もさ、ちょっとは思ってたんだよな。もう少し自由に見聞を広げたいというか、もっと外の世界で苦労を積んで人間的に成長したいというかさあ」


 そこまで言ってセレファンスは、イルゼを真っ直ぐに見て力説した。


「それに、お前は俺の大切な親友だ。そんなお前をほっぽいて俺一人、リゼットに帰れるわけがないだろう?」


 もっともらしい気遣いだったが、その口調は楽しげで表情はしたり顔だった。こうなるとイルゼを単なる口実に使っているとしか思えない。


「さて、イルゼ? まずはどこに行きたい?」


 そう言ってニッコリと微笑むセレファンスを見て、イルゼは深々と溜め息をついた。どうやっても僕は、レシェンドさんから恨まれる運命なんだろうか――と。




「セレファンス様!!」


 レシェンドの叫声がテイラー邸の庭に響き渡った。


「ありゃ、もう見つかったのか」


 そう言ってセレファンスは、おどけたように肩を竦める。


 見つかったにも関わらず、彼に慌てる様子が窺えないのは、絶対に捕まることはないと分かっているからだ。何せイルゼとセレファンスは、飛空機に乗って宙を浮いているのだから。


「イルゼ! これは一体、どういうことですかっ? 一刻も早く、ここまで降りてきて説明をしなさい!!」


 レシェンドが怒声を上げて、一枚の便箋をイルゼに向かって突き上げる。それはセレファンスが書き残してきた手紙だった。

 その内容をイルゼは知らないが、レシェンドの様子からして恐らくセレファンスに都合が良いように書かれたに違いない。


 そんな内容を信じ込む彼女が凄まじい形相で怒るのを眼下に見おろして、イルゼは戦々恐々と首を竦めつつ、心の中で謝罪を念じるのが精一杯だった。

 すると代わりにセレファンスが楽しげな笑声を交えて答える。


「説明も何も、その手紙に書いてあるだろう? 見聞を広めるためにイルゼにつき合って、ちょっと旅に出かけてくるって」

「そんな内容では説明になっていません!」


 レシェンドが悲鳴のように叫んだ。


「説明とは相手が納得のいくように行うものですよ。私は全く納得などしておりません! ですから何卒、今一度、こちらのほうに降りてきて――」

「これは一体、何事だ?」


 レシェンドの懇願を遮るように、呆れ返った声音を発して近づいてくる者がいる。この舘の主でありセレファンスの叔父グリュワード=テイラーだ。そして、その後ろには彼と良く似た雰囲気を持つ男が一人、悠然と歩いてくる。


「陛下!」


 レシェンドは後ろの男を認めると、その場に慌てて跪き、頭を垂れた。


 そんな彼女に男は近づくと、労いの言葉をかけて平伏を解くように命じる。そして次にイルゼ達の乗った飛空機を見上げた。


「セレファンス、久しぶりだな。元気そうで何よりだ」


 そう言って柔和に微笑む男――セレファンスの父親であるリゼットの皇王ラルフレッドは、元船乗りという異例の経歴を持つだけあって、鍛え上げられた頑健な体躯を持つ壮年だった。

 ラルフレッドの逞しい容姿は、母親似だというセレファンスとはあまり似ていないが、穏やかな茶色の双眸には、息子と同じ無邪気な性質を持ち合わせているように見える。


 セレファンスは、そんな父親に笑顔で応えた。


「父上こそ、ご健勝のようで何よりです。それにしても随分と予定より早いお着きではありませんか?」

「何、少し勘が働いたのでな。途中からは休憩もほどほどに馬を駆ってきた。私の息子は、いつも風のようにどこかへと行ってしまうから、この先回りした勘というものがなかなかに重要だ。案の定、今もどこかへ行こうとしている」


 父親の言葉に息子は苦笑するしかない。


「それにしても素晴らしい技術だ。それが飛空機というものか」

「ええ、そうでしょう? これで大陸中を旅してまわるなんて楽しそうだと思いませんか?」


 セレファンスはここぞとばかりに共感を得ようとする。


「ふむ、そうだな。私も、もう少し若ければ……」

「陛下!」


 嫌な流れを察したのか、レシェンドは遠慮がちにだが、小さく非難めいた声を上げる。


 するとセレファンスのほうはすかさず、


「ということで、父上。もう少しだけ、自由な時間をいただけないでしょうか?」


 ラルフレッドは「ふむ」といった様子で一考を重ねると頷いた。


「まあいい、好きにしなさい。その旅はお前にとって、一生の中でも特別な時間となることだろう。イルゼ、私の息子を、セレファンスを宜しく頼む」


 いきなり名を呼ばれ、ラルフレッドからの依頼に、イルゼは目を瞬きながらも強く頷いた。


「はい、セレは必ず僕が守りますから」


 眩しそうに空を仰ぐラルフレッドと、手を振るグリュワード、そして諦念とした表情を浮かべるレシェンドを眼下に、イルゼ達を乗せた飛空機は空高く上昇していった。




「……なんだよ、さっきのは」


 セレファンスは不満そうに口元を尖らせた。


「お前が俺を守るんじゃなくて、この場合、反対じゃないのか? 何せ俺のほうが二歳も年上なんだし〈マナ〉を使えるし、剣の扱いだって上手いんだからな」

「でもレシェンドさんは、セレよりも僕のほうがずっと剣術の筋がいいって褒めてくれたよ?」

「……レシィのやつ、そんなことを言ったのか」


 セレファンスはムッとしたように呟く。


「でも今は俺のほうが絶対に強いからな」

「はいはい。でもいつかは、僕のほうが強くなるかも知れないよね」

「言ってろ」


 フンとばかりにセレファンスは鼻で笑う。イルゼはつられるようにしてクスクスと笑った。


「さて、どこへ行く?」

「んー……」


 イルゼは小さく首を傾げる。


 行きたいところは色々と思い浮かぶ。だが、今は少しの間、この大陸を自由にさすらってみたい。かつて養父が自分へと言ったように、何ものにも縛られない自由気ままな風のように。


「どこへでも」


 イルゼが答えると、セレファンスは心得たように頷いた。


「んじゃあ、取りあえず南か? あったかい場所がいいだろう?」

「でも、これから夏になるし、暑くなるんじゃない?」

「んじゃあ、北?」

「んー……取りあえず、このまま真っ直ぐ!」


 イルゼは行く先を思い切り指さし、それにセレファンスは「了解」と言って軽やかに笑った。


 爽やかな風が吹く。輝く陽光は暖かい。

 少年達の目の前には、緑と茶の入り交じる広い大地と、透き通った青い空がどこまでも続いている。




悠久のラセン 完

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悠久のラセン ミノル @natoto

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