第54話 全ての結末
(これは――……!?)
イルゼは剣に生じた異変に戸惑った。
彼が強く扶助を願った途端、剣は淡い光を放ち出し、それは瞬く間に力強い閃光となった。周囲の黒い石壁は真っ白になり、その眩さに思わずイルゼは双眸を閉じる。
そして光源である剣から響く二つの声。
『いつまでも闇に身を隠し、己の愚かな罪に気づけなかった者達よ』
『光を抱ける存在でありながら、それを忘れた哀しき亡者達よ』
一つは冷厳かつ清澄な女の声。もう一つは深みの帯びた穏やかな男の声。
その声に反応したかのように〈破壊の王〉である黒い泥濘が大きく揺らめいた。そこに浮かび上がる黒い顔面が、不気味にくぐもった声で咆哮する。
『オオ、オオオォォ……! 我が永遠なる伴侶リースシェラン! そんなところにいたか――!!』
間髪を入れずに迫ってくる〈破壊の王〉。黒い顔面を先端として、まるで大蛇の如く、イルゼを飲み込もうと口を広げてくる。
「くっ……!」
イルゼは空中で身体をのけぞらせ、その攻撃を辛うじて避けた。そして瞬時に、長く伸ばした〈破壊の王〉の身体に狙いを定めると、
「たああああっ!」
イルゼは負けじと咆哮して、鋭い一閃を振り落とした。
『ギャアアアアアッッ!』
次の瞬間、凄まじい悲鳴が上がる。剣が〈破壊の王〉に触れた途端、爆発するような衝撃を起こしたのだ。
(凄い……! なんて威力なんだ)
イルゼは驚いてカルカースから託された剣を見つめた。正直、カルカースが使用していた時は、取り立てて特別な力を有しているようには思えなかった。だが今の一撃は、明らかに剣としての能力を超えていた。
先程の不思議な声といい、ここにきてこの剣に込められていた本来の力が解放されたのだ。
『ウ、アアアアッ……ナゼだ……ナゼなのダァァァ……! ナゼ、逃げる! ナゼ、私を受け入れないノダ、リースシェラン!!』
イルゼの与えた衝撃に喘ぎながら、凄まじい憎悪を撒き散らして〈破壊の王〉は身を捩った。
『私は決してあなたとは相容れない。あなたを受け入れることはない。私があなたに与えられるのは、慈悲による昇華のみ――』
憐憫の含んだ女性の声音が、イルゼの横で鳴り響く。
イルゼは驚いて背後を振り返った。そこには真白に光り輝く二つの人影があった。
「あなた、達は……?」
イルゼの茫然とした問いかけに、女性的な人影のほうが答える。
『私の名はリースシェラン。あなたは私達の意志を受け継ぐ最後の子供。私達が待ち望んだ者であり、全てを終わらせることのできる者』
『過去よりあなたへと託された役目を全うしなさい。あなたの育んだ心と願いを込めて。母から受け継いだ祈りによって』
男性的な人影が剣を握るイルゼの両手に手を添える。すると剣に飾られた青銀色の宝石から淡い光のヴェールが現れ、イルゼを柔らかく包み込んだ。
『今こそ私達がフォントゥネルのために残した最後の力をあなたに託しましょう』
二つの声が同時に宣言する。
(うわっ……!)
イルゼは全身から浸透する温かな感覚に驚愕した。
身体中に満ち溢れる気力、それに伴う恍惚――それらが脳内を駆け巡り、イルゼの意識を翻弄した。それでもなんとかイルゼは感情の制御をこなしてみせる。
『ナゼダ……ナゼ、オマエはワタシを認めないノダ? コンナにもオマエを求め、愛し続けたノニ……!』
絶望に満ちた悲痛な声。愛する者に抱く利己的な疑問。
イルゼは、そんな〈破壊の王〉――いや、シエルセイドに憐情を抱いた。同時に自分がいかに尊いものを手にしているのかを知る。
「……貴方はとても可哀想な人だ。自分しか見ることのできなかった哀れな人だ。僕は、貴方の数奇な運命に同情する。だけど罪のない人々を巻き添えにしようとした貴方は、決して許されるべき存在じゃない」
(でも僕だってきっと、セレと出会っていなかったら、様々な人達との出会いがなかったのならば――貴方と同じだったに違いない。だから)
イルゼはシエルセイドと言う青年の成れの果てを見下ろした。
(祈りに込めるのは自分に光を与えてくれた人達への想いと感謝、そしてこれからの未来に、貴方のような救われない存在が生み出されないようにとの願い――)
イルゼは両手に持った剣を高々と掲げる。そして、ゆっくりと最後の祈りを口ずさみ始めた。
叡智を支配す総ての主よ 我は其の僕なり 其は我が力なり
現象への慈悲を願い 蔓延る咎を煉獄へと誘え
免償を抱いた魂は還り 破壊は再生を願う礎となる
我は其の僕なり 其は我が力なり
現象の祈りを聞き届け 赦されえぬ哀れな者を昇華せよ
『ヒィッ……ヤ、ヤメロォ……イヤダ、イヤだ、イヤダァァアあ……!』
ギィャアアアアアと〈破壊の王〉が甲高い悲鳴を上げ、黒い飛沫を辺りに振り散らせる。
祈りの声と共にイルゼから溢れ出た光は、白く輝く流砂となって〈破壊の王〉の黒い身体を取り巻いた。
『ああアア、ああアああァッ……! このまま、コノママ諦められるモノカッ! ワタシは長い間、ズット待ち望んでイタのダ! オマエさえ〈鍵〉であるオマエさえ手に入レバ、リースシェランはワタシとトモにイテクレルと! 混沌コソガ、我ラが願いをスベテ叶えてクレルノダ!!』
空気を震わす怒号を上げて〈破壊の王〉がイルゼへと突進してくる。
イルゼは勢い良く迫りくる『それ』を冷徹に見据えた。
「……貴方は――いや、貴方達は『変えられるもの』と『変えられないもの』があることに気づくべきだった。『変えられないもの』を受け入れる勇気を持ち『変えられるもの』があることを知るべきだった……!」
イルゼは剣を持ち直し、向かってくる〈破壊の王〉に切っ先を向ける。剣が一層の光を放ち出した。
「消えろ〈破壊の王〉という名の救われない亡者達! 僕は、お前達の望む混沌など受け入れない!!」
イルゼは大きく声を上げ〈破壊の王〉の顔面に向かって剣を思い切り突き出した。
ズブズブと深く刺さり込んでいくそれに〈破壊の王〉は酷く苦艱に顔を歪め、断末魔のかすれた悲鳴を上げる。だが、それでも一瞬、最期の力を振り絞ってイルゼを大きく飲み込もうとした。
が、そんな抵抗も束の間だった。〈破壊の王〉は、それという存在を形作っていた力を失ったかのように、ゆっくりと形状を失っていく。
剣の力とイルゼの発した光の流砂に巻かれ、焼かれるようにして蒸発をしながらボタボタと落下していく黒い泥濘の欠片達。その一つ一つは良く良く耳を済ませると、何事かの言葉を発していた。どれもこれも微かな声量であり、はっきりと聴き取れるまでには至らなかったが、それは小さな悲鳴であったり、恨み言のようであったり、消滅することへの安堵や感謝でもあるようだった。
と、手の内にあった剣が〈破壊の王〉であった者達と同じように形を失い始める。
「え、あっ……!」
イルゼは小さく声を上げた。
ブワッと軽い圧力を感じた途端、まるで綿毛のような物質がイルゼの頬を掠めて周囲に散っていった。そして気がついた時には手の内にあったはずの剣は失われ、イルゼの中にあった気力も嘘のように消え去っていた。
「っ……!」
ガクンと傾く自分の身体。黒い泥濘の破片達と共に、イルゼも地上へと落ちてゆく。
イルゼは落下を止めようとしたが、全てが終わって一気にふぬけた自分の中の力は、主である彼の意思を一切受けつけなかった。
(ああ……もう駄目だ――もう、身体に少しの気力も残ってないや……)
情けないとイルゼは苦笑した。だが、それだけ自分は頑張れたのだと誇らしくもあった。
と、そんな自負と満足感に浸っていた時だ。
「最後の最後で気を抜くな! この馬鹿野郎!!」
突然、容赦なく自分を罵倒する声。
「え――なっ、馬鹿っ? って、セレ!?」
そこにあるはずのない声だとイルゼが気がついた刹那、周囲の風が強く巻いた。下から押し上げられる感覚、直後、落下の終わりを告げる衝撃。
「――くうっ……」
それは辛そうな呻き。イルゼが双眸を開くと、すぐ近くにカルカースのしかめられた顔があった。
「カルカースさん!?」
「イ、ルゼ……無事か……っ?」
痛みに耐えているようなカルカースの声。イルゼの落ちた先は硬い地面ではなく、彼の力強い腕の中だった。その腕からイルゼは慌てて下りる。
その素早い動きを見た青年は「どうやら大丈夫そうだな」と苦痛に顔を歪めながらも笑う。
「僕はなんともありません! それよりもカルカースさんのほうが……っ」
「いや、私も大丈夫だ。少し腕は痺れているが――どうやら思わぬ補助も入ったようだしな」
「補助? あっ……そうだ、セレはっ? ここに戻ってきているんでしょう?」
先程の声を思い出して、イルゼは金髪の友人の姿を捜す。
「いや、セレファンス皇子は戻ってきていない。恐らく君の危機を察知して、離れたところから〈マナ〉を顕現させたのだろう……凄まじい執念だな。そうでなければ、さすがに私の腕もただじゃ済まなかったはずだ」
そう言ってカルカースは自身の両腕を確かめるようにしてさすった。
「とにかくイルゼ。早くセレファンス皇子のもとへ向かうぞ。今頃、彼はやきもきしていることだろう。それに――もたもたしている余裕もない」
「え?」
そこでイルゼは気がついた。地面が細かく震えていることに。
「インザラーガ山の地下は〈破壊の王〉という泥濘に満たされていた。それが今、君の力によって消滅し、その上に造られていた離宮はすでに陥没し始めている。一刻も早く脱出しなければ、我々も離宮と共に奈落の底だ」
カルカースの言葉を裏づけるかのように、ゴゴゴゴゴッ、という激しい地鳴りがイルゼ達を襲った。
「急ごう。どうやら本当に時間がないようだ」
「はい」
イルゼは頷くと、疲れた身体に鞭打って立ち上がった。
それと同時刻。インザラーガ山の麓に位置するアドニスの皇城は、激しい地震に見舞われて大騒ぎになっていた。
そんな皇城の廊下を第五皇女ラートリーの専属侍女ロジーは慌しく歩いている。
皇城に務める侍女には常に整った身なりと優雅で美しい所作が求められるが、今の彼女はお世辞にも褒められるような様相ではなかった。汗の滲んだ額には髪の毛が張りつき、歩調も優雅さとは程遠い、走っていないだけましといったところだ。
「姫様、お言いつけの通りに馬車を用意させましたので、すぐにでもそちらへご車乗ください」
ロジーは部屋の扉を開けたと同時に、形ばかりの会釈と共に、窓辺に立っていた黒髪の美しい少女――ラートリーへと向かって言った。
「あら、ロジー、あなたの行動はいつも迅速ね」
感心したような評価を口にして、ラートリーは振り向く。
「それじゃあ、そのまま街の中央広場まで付き合ってちょうだい」
「……え? 広場ですか? アドヴァールから脱出するのではなく?」
「はあ? 何を言っているのよ、あなたは」
ラートリーは、目を丸くしたロジーに呆れたような視線を向ける。
「で、ですが、他の皇子皇女殿下は一刻も早く東皇都から離れようと準備をなさっておいでですが……」
「はあ、全く……こういう時の行動だけは早いんだから。そんなの許されるわけがないでしょう? 半日前にはお父様が倒れられ、今は危篤の状態で、無理に動かそうものなら命の保障はないとまで言われているのよ? お兄様達は、それを尻目に逃げようとしていらっしゃるのかしら? しかも国民をないがしろにして、真っ先に逃げだそうとするだなんて皇族としてあるまじき行為だわ。それに――」
「それに? 何かご心配なことでも?」
「んー……心配っていうか、まあ、虫の知らせってヤツかしらね。このままヘタに焦らず動かず、アドヴァールにいたほうがいい――どうしてだか、そんな気がするのよ」
「まあ、それは重大なことですわ」
ロジーは目を瞬いて真摯に頷く。
「何せラートリー様の予言は、ご幼少の頃から外れたことがありませんもの」
「予言っていうか、勘よ、勘。まあ、そういうことだから広場に行って皆の気を落ち着かせてこようと思ってね。きっと今頃、皇城からの指示を待っているに違いないわ。あまり不安が高まると、アドヴァールを脱出しようとする人達で混乱に陥ってしまうかも知れない。だったら私が出向いて、その場で落ち着くように呼びかけ続ければ、みんな東皇都は安全なんだって安心してくれると思うの。母様は今、お父様につきっきりで動けないのだから、それくらいの役目は私が務めなくちゃ」
「ラートリー様……」
ロジーは主である少女の考えに胸を打たれたとばかりに瞳を潤ませた。
「そんなお考えを察することもできず、私は他の殿下達よりも先に姫様を安全な場所へとお連れしなければとばかり考えて……恥ずかしいことですわ」
「そんな大げさに考えなくてもいいでしょう? ロジーが私のためを想って行動してくれているのは十分に分かっているわ」
ラートリーは苦笑して忠義な侍女を慰める。
「姫様、ありがとうございます。では早速、広場までお供いたします。……あ、でも」
ロジーが何かに気がついたかのようにして顔を曇らせる。
「他の皇子皇女殿下の馬車が、アドヴァールから出て行かれるのを人々が見てしまったら、不審に思うのでは?」
「あら、その点については全く心配なしよ」
ラートリーは悪戯っぽい笑みを浮かべる。
「母様にお願いして、城門の馬車通行を禁じてもらったから」
「えっ? ですが、それでは私達も皇城の外へと出られないのでは?」
「こ、れ」
ラートリーは見せびらかすようにして、一枚の羊皮紙をロジーの前に閃かせる。
「あら、それは――拝命証ですか?」
「そ。私は母様に城下街の混乱を防ぐ大役を命じられたの。今、母様はお父様の代わりにアドニスの全権を任されていらっしゃるんだもの、すぐに書類を作ってくださったわ。これさえあれば、特別に城門を抜けられるわよ」
「まあ……さすがラートリー様は、抜け目がありませんわね」
呆れたような、感心したような声でロジーが言う。
「もう、ロジーったら、せめて『しっかりしてる』って言ってよ。とにかく私は私のできることをしなくちゃ。今頃、イル兄様達は、もっと大変なことを成そうとされていらっしゃるんだから」
そう言ってラートリーは自分の異母兄であるイルゼを想う。ラートリーにとれば数多くいる異母兄弟の中で唯一、血の繋がりに温かみを感じられる兄だった。
(イル兄様、どうかご無事で)
ラートリーは知らず知らず、祈るように手を組んだ。それを見たロジーは「イルファード殿下なら、きっと大丈夫です」と力強く言う。
「何よりイルファード様は不思議な御力をお持ちですし、それにきっとセレファンス様も助けてくださいますわ」
「……セレファンス様って、あいつ、一応はリゼットの皇子よ? いわばアドニスとは相容れない仲っていうか――それなのにあなた、随分とあいつに親切ね? まさか、あいつのこと」
ラートリーが勘ぐるような視線をロジーに向ける。
「何をおっしゃいますか、違います! そういうのではなくて、ただ単に色々とお世話をしているうちに、なんと言いますか――その、他国の皇子殿下を相手に失礼かとは存じますが、格好も格好でしたし、あまり身分に捉われない御方のようでしたし、なんだか手間のかかる弟の面倒を見ているような気がしてきまして……」
「弟!」
ラートリーは、あははっと弾けるように笑った。
「妹の間違いじゃなくて?」
ラートリーは素性隠しのために女装をしていたセレファンスを揶揄して言った。
「確かに、初めラートリー様に男の方だと紹介された時は絶句しましたけど、素顔はとても凛々しい御方でしたよ」
「へえ、私、あいつの女装姿しか見てないからねえ。それにしても、ほんと、このところは有り得ないことばかりだったわ」
ラートリーはどこか懐かしむかのように目を細める。
「イルファード様がいらしてから、ラートリー様はとても楽しそうでいらっしゃいましたものね。でも大丈夫です。殿下はすぐに帰っていらっしゃいますわ」
「……そう、ね」
ラートリーは言葉を濁しながらも微笑んだ。だが彼女の中には辛い予感がある。
恐らくイルゼは、この皇城を自分の帰る場所だとは考えていないだろう。アドニスにいる限り、彼は皇族として扱われることになる。それはあの素朴で静かな生活を好む兄が望むことではないようにラートリーには思えた。そしてそれをイルゼ自身が十分に理解しているのだ。
(でも、その他にも……なんなのかしら、この息苦しい心地は? 何か、とても悲しいことが起こりそうな予感がする――)
そこまで考えて、ラートリーは思いきりかぶりを振った。
「ラートリー様?」
「ううん、なんでもないのよ」
ラートリーは誤魔化すようにして笑った。
「それよりも、早く街の広場へ行かなくちゃね」
するとロジーも「ああ、そうでした」と気を取り直したようにして頷いた。
(そうよ、大丈夫……でも、そう思うたびに不安が募るわ。だから今は私のできることを精一杯にやるのよ。イル兄様だって、きっと精一杯に頑張っていらっしゃるはずなのだから……!)
「さ、行くわよ、ロジー!」
ラートリーは気合いを入れ直すと、ロジーを伴って部屋を出た。
「わっ……!」
イルゼは天井から降ってきた、頭部大の瓦礫を咄嗟に避けた。
「イルゼ!?」
先を走っていたカルカースが振り返る。
「いえ、なんでもないです!」
すぐにイルゼは平静さを取り戻すと、カルカースの横に並んで走り始める。
すでに離宮は本格的な崩壊の一途を見せており、このまま一気に崩れ去ってもおかしくはない状況だった。壁には幾筋もの亀裂が入り、天井からは細かな塵が降り注ぐ。周囲からは不気味な地鳴りが止むことなく伝わってきて、時には先程のような瓦礫が頭に向かって落ちてきた。
「しかし、まさか最短の通路が陥没しているとは……」
カルカースが顔をしかめる。
「でも、回り道をすればセレがいるところまでは行けるんでしょう?」
「ああ。だが、かなりの遠回りになる。果たして間に合うか――」
「絶対に間に合わせます! そうじゃなきゃ困ります!」
イルゼの確固たる答えにカルカースは苦笑した。
「そうだな。君が戻らなければ、きっとセレファンス皇子は意地でも脱出などしないだろうからな」
そう言うカルカースの表情を見て、イルゼは何故か面映くなった。
ここにきて、この青年が自分へと向ける表情が穏やかなものになったと感じているのだ。まるで、彼の中にあったイルゼへの負念が〈破壊の王〉らと共に昇華されてしまったかのように。
(……このまま、全てが上手くいけばいいのに)
「酷いな、ここも崩れている」
カルカースが呟く。見るとイルゼ達が進もうとしていた通路の先が土砂で埋まっていた。
「仕方がない。一度、先程の分かれ道まで戻ろう」
カルカースは素早く踵を返して、冷静に次の行動へと移る。
それを見てイルゼは感心する。それと同時に、この切羽詰った状況であっても焦りを感じさせないほど、この青年が頼もしく思えた。
「カルカースさん。僕と一緒に残ってくれて、ありがとうございました」
イルゼの感謝にカルカースは怪訝そうな表情を浮かべる。それにイルゼは言った。
「だって、きっと僕一人だけだったら、こんなに冷静な行動はできなかった。きっと気を動転させて、こうも的確な判断はできなかったと思うんです」
「……君は相変わらず、他人を容易に信頼する。私達はまだ、危機の真っ只中にいるのだが」
カルカースの淡々とした指摘に、イルゼは言葉を詰まらせた。
するとカルカースは続ける。
「まあ、だからこそ、私にしろセレファンス皇子にしろ、君のために何かをしてあげたいという気になるのかも知れないがね」
イルゼは驚いてカルカースの顔を見た。双眸は真っ直ぐに前を見つめているが、その口元には微かな笑みが浮かんでいる。それは嘲笑や自嘲を含めない優しさのみの微笑だった。
それを見たイルゼは無性に胸が痛くなる。見てはいけないものを見てしまったかのような、そんな感覚だった。
「……僕はカルカースさんに感謝をしています。〈破壊の王〉に勝てたのだって、カルカースさんが託してくれた剣のおかげで――」
そこまで言ってイルゼは、はたと思い出した。
「そうだ、剣!」
「ああ〈破壊の王〉と共に消え去ってしまったな」
カルカースは平然として頷いた。
「ご……ごめんなさい!」
イルゼは思わず、その場に立ち尽くして叫んだ。
「何を謝る?」
カルカースも足を止めて、イルゼを振り返った。
「だって、あれは大切な剣だったんでしょう? あれはエスティアの王様が遺したものだったのに」
「ああ、確かに大切なものだった。あれはエスティアの王族が、七百年にも渡って受け継いできたものだったからだ。だがそれも最後の継承者に渡り、役目を全うして消えた。それについて君が謝る理由はない。剣は君に応えてくれたはずだ。違うか?」
「……ええ」
確かに剣は応えてくれた。あの中にはリースシェランと彼女の伴侶である青年の想いと、彼らから託された世界を救うための力が込められていた。
「ならばいい。大切なのは、その一点のみだ」
カルカースは言ったが、イルゼは本当にそうだろうかと思った。青年が剣に抱いていた大切な想いは、それだけではなかったのではないか? 恐らくアラリエルとの絆を信じていられるものだったのではないか?
イルゼの母アラリエルとカルカースは相思相愛の仲だった。もしも彼らが結ばれていたのならば、あの剣はアラリエルとカルカースの子供が継承するはずだっただろう。
だが運命は二人を切り裂き、剣はカルカースの想いに応えることはなく、あまつさえ愛する人を奪ったディオニセスの息子に力を与えて消えてしまった。
(でも、だからといって、僕にできることは何もない……)
それが悲しいと感じた。理由は分からなかったが。
「行こう」
カルカースがイルゼを促す。イルゼは頷き、再び彼らは走り出した。暫く進むと、天窓から陽光の差し込む大きな温室に出る。
「うわ……」
イルゼは思わず双眸を伏せた。
今まで陽の光の望めない暗所にいたのだ。久しぶりに浴びた太陽の煌きは刺激の強いものだった。
「さて、ここまでくれば、あと少しだな」
カルカースが溜め息交じりに呟くのを聞いて、イルゼは振り返った。
「じゃあ、あと少しでセレのところに着くんですね」
「ああ」
それを聞いてイルゼは嬉しくなった。
とにかく今は外に出ることだけを考えよう。そうすればイルゼは何ものにも縛られない自由な時間を得ることができる。カルカースも前のようにイルゼを完全に拒絶することはないだろう。ならば今後の長い時間の中で、少しずつでも双方の蟠りを解消していけばいい。
暖かな陽の光、甘い花の香り、全てがイルゼの明るい未来を暗示し、祝福してくれているかのように思えた。
「イルゼ、気を抜くな。この離宮から完全に脱出するまでは」
イルゼの気の緩みに気がついたのか、カルカースは警戒を喚起する。
「でも今は地鳴りも収まっているみたいですし、きっと無事に出られますよ」
しかし、そんなカルカースの忠告も、イルゼの気分に水を差さない。
「あっちに見える通路へ行くんですか?」
イルゼが指さすとカルカースは「そうだ」と頷く。その先は再び薄暗い通路で、ここから進んでしまうのが勿体ないくらいだった。
「綺麗ですね、ここの庭園。この離宮に、こんなところがあるなんて知りませんでした。……お母さんも、花が好きな人だったんですよね?」
イルゼは思い切って聞いてみた。カルカースにアラリエルのことを訊ねたのは、アドニスの皇城以来だった。その時は冷たい視線と言葉でアラリエルの話題を拒絶されたが、今のカルカースは抵抗を感じていないかのように頷いた。
「ああ。だがアラリエル様は、庭園の管理された花より、野に咲く花を好む方だった」
「そう、なんですか……」
(そういえば過去の光景で見たお母さんとカルカースさんは、エスティアの草原で花を摘んでいたっけ。いつもそこで二人の時間を過ごしていたって、お母さんが言ってた……)
あの時の幸せそうな二人を思い出し、イルゼはやるせない気分になる。
「……あの、カルカースさんは、ここから出たあとはどうするんですか?」
薄暗い通路の先へと進もうとする青年に、イルゼは訊ねる。
「何故、そんなことを訊く?」
カルカースが怪訝そうに振り返った。
「いえ、なんとなく……」
イルゼのたじろいだ声音に、カルカースは仕様もないとでも言いたげに、一つ息をつきながらも、
「一度、エスティアに戻ろうとは思っている。エスティアはすでに亡国だが、その地がアラリエル様と私の故郷であることに変わりはないからな」
「あの、だったら」
その言葉を聞き、イルゼは再度、決意を持って申し出た。
「その時は、僕も一緒に」
母の故郷へ連れて行って欲しい――そうイルゼは言うつもりだったが、その願いは最後まで発せられることはなかった。
ドォンッという遠くで鳴り響いた音。続いて空気さえも震わせる激しい地鳴り。
「わっ……!?」
今までの反動のような激震に、イルゼは思わず態勢を崩した。
「イルゼ!!」
そんな少年に向かって、カルカースは叫号する。
「え?」
イルゼはカルカースの只事ならない叫びに思わず顔を上げる。すると一瞬にして迫っていた青年にいきなり抱きかかえられ、そのまま身体を思いっきり放り投げられていた。
「えっ……!」
事態を悟らないままに突然、宙を巡る視界、胸を掬うような浮遊感――そして硬い地面に叩きつけられる激しい衝撃。
「あうっ!」
イルゼは悲鳴を上げ、何度か地を弾んでから、やっと静止する。
(……え、何? 一体、何が――)
「痛っ……う、ううっ……」
身体を動かそうとして、イルゼは烈火の如く走った痛みに呻く。それでも何が起こったのかを知ろうと、喘ぎながらも身体を起こした。
(……え?)
次の瞬間、イルゼは目に映った光景に唖然とする。鮮やかな色彩と陽に輝いていた庭園は、無残な瓦礫の山と化していた。そこは少し前までイルゼが立っていた場所だ。そして今、彼が転がっているのは、陽の当たらない奥まった通路で、いわば天井の崩落から免れた場所だった。
「カルカースさん……?」
イルゼは自分の周囲を見回した。しかし青年の姿はない。
カルカースは崩落に巻き込まれる寸前だったイルゼを、ここまで放り投げたのだ。ならば今、彼がいる場所は――
「カルカースさん!!」
イルゼは慄然と叫び、瓦礫へと走り寄った。
「どこですかっ、カルカースさん! どこっ……!?」
イルゼの脳裏にセオリムの村での光景が浮かび上がる。あの時もイルゼは炎に巻かれる無惨な村の中を恋人である少女を捜して回った。
(あの時と同じ……っ? いや、違う! カルカースさんはきっと……!)
「イルゼ……ここだ」
大きな瓦礫の向こうから、自分を弱々しく呼ぶ声。それをイルゼは聞き逃さなかった。
「カルカースさん!」
イルゼは素早く瓦礫を飛び越え、それを背にして座り込むカルカースを見つける。
「カルカースさんっ……無事ですか!?」
「無事……とは言い難いな。押し潰されなかっただけ、幸か不幸か――」
疲れ切ったような苦笑を青年は浮かべる。
「ごめんなさい! 僕が余計な会話でカルカースさんを引き止めていたから、だからこんなことに……!」
青年に駆け寄り、その場に跪いたイルゼは自身の過失を激しく悔いた。
だが今は悔恨に暮れている場合ではなかった。イルゼ達を囲む瓦礫は微かな揺れを関知して、カタカタと鳴り続けている。この様子だと、いつまた大きな地鳴りが再来するのか分からなかった。天井を振り仰ぐと、まだ完全に崩落していない大きな岩組みがいくつもある。次の地震がくれば、ここは完全に瓦礫で埋まるだろう。
「とにかく、ここは危険ですから向こうの通路まで移動しましょう」
そう言ってイルゼは、カルカースに手を差し伸べた。
「待て」
それを青年が制止する。
「下を見ろ」
「……下?」
イルゼは怪訝に眉根を寄せる。だが、ゆっくりと落とした視線が捕らえたそれに、イルゼは息を飲んだ。
赤黒い水溜り――それがカルカースの座る位置から徐々に広がりつつあったのだ。
「これ……」
「どうやら背中に穴が開いたらしい。尖った岩にでも……刺さったのだろうな」
カルカースはどこか他人事のような口調で、だが明らかに血の気が失せた頬を苦しげに歪ませた。
「今、無理に動くと出血が酷くなるだけだ」
「そんな……じゃあ、どうすれば?」
光明の見出せない事態に突きのめされ、イルゼは茫然と呟く。
「どうもしなくていい……ただ単に、私の罪は許されないものだったということなのだろう」
「なっ……何を言ってるんですかっ? これはカルカースさんが悪いんじゃなくて、僕がグズグズしてたからっ……!」
「違う。私は烏滸がましい望みを――このまま、穏やかな時が得られるのではないかと……淡い期待を抱いた。お前の傍にいることは叶わなくとも、ダグラス殿の代わりに――その未来を見守るくらいは……許されるのではないか、などと……だが、そんなことは望めるはずもなかったな……私がお前の幸せを奪ったのは、事実なのだから」
イルゼは言葉を失う。そうだ、この目の前にいる青年は、イルゼを憎み、イルゼの最も大切な少女を奪った存在だった。なのに何故、こうも自分は抵抗なく彼の傍にいられるのか。
「イルゼ」
カルカースの静かな呼びかけは、少年の意識を引き戻す。
「今は自分が生き延びることだけを考えろ。私の言っていることは……理解ができるな? ここからは、一人で行くんだ。あの通路の向こうで――セレファンス皇子が、君を待っている」
イルゼは茫然としたままにかぶりを振った。
「嫌だ……嫌だ、嫌です! カルカースさんを置いてなんか行けない!!」
イルゼは悲鳴のように叫ぶ。
「聞け、イルゼ。どのみち、私の傷は助かるものではない。私は、自分の状態くらい、自分で理解できる――。死ぬ人間と共に……瓦礫に埋まることと、一人であっても生き残ることと――どちらが正しい選択か、賢い君になら、分かるだろう……? イルゼ、お前は、今までの全てを無駄にするつもりか?」
「でも、僕は……っ」
尽きそうにない反発に、青年は苛立ったように頬を歪めた。そして大きく息をつくと、
「イルゼ……頼むから……これ以上、私に罪を負わせようとするな!!」
「っ……! う、あ……!」
イルゼは青年の怒号に竦みながら、耐え切れない艱苦に悶える。
「それに」
喘ぐような声でカルカースが続ける。
「たとえ、生き延びられたとしても……アラリエル様に似たお前に……憎まれ続けるのは、辛い、ことだ……」
「憎むなんて、そんなこと……!」
ない、という言葉が、どうしてもイルゼには言えなかった。それは彼自身も気づけなかった楔。
そんな少年の様子を見つめながら、カルカースは儚むように微笑んだ。
「例え一時――その事実を忘れられたとしても……私の罪は、私の生き様に深く――刻み込まれている。お前の心にも、決して消えることのない傷を――刻んでいることだろう……。今後、どんなに時間を共有し、お互いの感情を得たとしても――お前は心の奥底で、私への憎悪の種火を持ち続ける――……私がお前に、ディオニセスの影を見るように」
カルカースの言葉にイルゼは愕然とする。
母アラリエルに似た容貌と、父ディオニセスと同じ鳶色の髪。それらの外見は、否が応にでもイルゼの中に流れる血を鮮明とする。
カルカースは憎悪する対象を、常にイルゼの中に見ていたのだ。
「……でも貴方は! あの時、それでも僕を殺さなかったじゃないですかっ! 今だって僕を助けてくれた! だったら僕達は」
「はっ……自惚れる、な……。お前を助けたのは……単なる、気まぐれ、だ……」
カルカースの双眸が徐々に焦点を失っていく。地についたイルゼの膝は、今や青年から流れ出た血で真っ赤に染まっていた。
「……僕は……もう騙されないです。貴方は僕を助けてくれた。貴方は僕を認めてくれたんだ。そうでしょう? カルカースさん」
イルゼは静かに囁くように、カルカースへと問いかける。
その問いに答えはなく、青年はただ小さく笑ったようだった。
そしてそれが、イルゼの見た彼の最後の微笑となったのだった。
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