第53話 希望
「イルゼ!」
レシェンドに肩を借りて、こちらへと向かってくるセレファンス。
イルゼは感情と力の放出による反動で、気の抜けた表情を向ける。
「セレ」
「大丈夫かっ? 怪我とか、してないか!?」
目の前まで辿り着いた金髪の少年は、イルゼの両肩を引っ掴むと、詰め寄るようにして問い質す。
「え? あ、うん、大丈夫……」
その勢いにイルゼは少したじろぎながらも頷いた。するとセレファンスは「はあっ」と大きく息をつく。
「そっか、それなら良かった――また、無茶をするんじゃないかって気が気じゃなかったんだ。お前を中心にして光の柱が現れてからは、お前達の様子が全く窺えなかったし。それで〈闇からの支配者〉はどうなったんだ?」
「……うん、消えたよ。完全に消失した」
「じゃあ、倒したのか? 終わったのか?」
倒した、というセレファンスの言葉に違和感を持ちながらも、イルゼは再度、頷いた。
「こっちはね。でも――まだた」
「え?」
「〈闇からの支配者〉の力から解放された人達は?」
セレファンスの問い返しには答えず、イルゼは問う。
「あ、ああ。お前が横腹の傷で気を失っている間に、一人二人と起き出して……残った奴らも叩き起こしたら、悲鳴を上げて逃げてったさ。今は全員、外に避難してると思う」
イルゼが確認を取るようにしてカルカースを見ると、彼も頷いた。
「何かあれば下男頭にアドヴァールへ戻るように伝えてある。一両日中には皇城の者達にも異常が伝わるだろう」
それを聞いて、イルゼは短く安堵の息をついた。
「じゃあカルカースさん達も、この離宮から一刻も早く離れてください」
イルゼの言葉にセレファンスは大きく目を見開く。
「お前は?」
「僕は、まだやらなきゃいけないことがある。さっき、まだだって言っただろう?」
「やらなきゃいけないことって……何があるんだ? だって〈闇からの支配者〉は倒したんだろう?」
「セレ、下を見て」
イルゼは冷静な声で促す。セレファンスは不機嫌そうに眉をしかめながらも従った。
「分かるだろう? あれが、だんだんと差し迫ってきているのが」
そこは重傷を負ったイルゼが〈闇からの支配者〉によって放り落とされた広間中央の深い窪み。硝子張りの床で造られた透明の床下には、黒い泥濘が渦巻いている。
「本来、人間を含めた生命の生み出す負念は、世界の浄化能力や〈神の使い〉によって昇華されるのが理だった。だけど〈神の使い〉は去り、その後も人間達が放出する負念はあまりにも膨大であり、結局、世界の浄化能力を超える量になってしまった。そうして昇華できなかった分の負念は、闇の中に蓄積され続けたんだ。そして、これがその結果だ」
イルゼは黒い泥濘を見やった。
「セレ、世界というものは、神の独善的な嗜好によって何度も破壊されては創造されてきたって話、覚えてる? 僕達の世界フォントゥネルも、その一つでしかないってこと」
「まあ……ちょっと、信じがたい話だったけど事実なんだろう?」
セレファンスの答えにイルゼは頷く。
「この渦巻く黒い海には、そうやって破壊されてきた世界で昇華できなかった人間達の負念も含まれている。世界というものが神に創られるようになってから現在に至るまでに蓄積され続けてきた負念――それが、どれだけ凄まじい量なのか想像できるだろう?」
「でも〈闇からの支配者〉はいなくなったのに……」
「〈闇からの支配者〉は、この混濁の中から偶然にも生まれた、新たな思念が形になったものだった。闇の中に投げ捨てられては増え続け、神にさえも忌み嫌われた感情達の代弁者だった。世界において最も必要のないものと烙印を押され、ずっと哀れで孤独なものとして存在し続けていた……『彼』は寂しかったんだよ。ただ一刻も早く還りたかったんだ。全てに隔てなく、何事も共にあった原初へ」
イルゼの言葉にセレファンスは複雑な表情を見せる。
「つまり〈闇からの支配者〉とは、ここに広がる闇の海の一部に過ぎなかったってことか」
それにイルゼは頷く。
「〈神の使い〉がフィルファラード大陸を護り続けていた理由は、この大陸に――ここインザラーガ山の地下に、闇と共に大量の負念が封じられていたがためだったんだ。だけど〈闇からの支配者〉の思惑よって〈神の使い〉は世界から排除されてしまい、彼らの力で抑え込まれていた負念はシエルセイドの妄執をも孕んで、ここまでに膨らんでしまった。もうこれ以上、負念の昇華を先送りにすることはできない。だから僕は、これからこれを昇華するよ」
「昇華……できるのか?」
セレファンスの窺うような問いかけに、イルゼは正直に答える。
「……分からない。でも、もう一度だけ〈ディア・ルーン〉の力を借りてみる。神が人間に容赦を与えるつもりならば、きっと力を貸してくれる」
ここでイルゼの脳裏に〈闇からの支配者〉の言葉が蘇る。
『この世界は、すでに神々の関心から外れて見捨てられています』
(……それでも僕は望むから。かけがえのない君達が生きてく世界を)
目の前で心配そうな表情を浮かべる金色の髪の少年をイルゼは眩しそうに見て微笑む。
「……なあ、イルゼ。このままじゃ、駄目なのか? お前が無理に危険を犯さなくてもいいじゃないか。だって、お前と同じ力を持っていた〈神の使い〉は、この負念をずっと封印し続けていたんだろう?」
イルゼは、それは不可能だという意味合いでかぶりを振る。
「僕の力は〈神の使い〉が持っていた力のように真正なものじゃない。あくまで人間として持ち得る範囲の力だ。それにたった一人で、ここまで活性化した負念を封印し直すのには無理がある」
「……じゃあ、俺もここに残る」
セレファンスは声を絞り出すようにして言った。
「お前のことだ、俺が見てなきゃあ、無理をするに決まってるからな」
イルゼはセレファンスを見た。彼はイルゼと視線を合わそうとはせず、不機嫌そうな表情をしていた。
イルゼは一つ溜め息をつくと、言葉を選ぶようにして言った。
「セレ、僕は今、僕がやるべきことだけで一杯一杯なんだ。そして君は今、レシェンドさんの手を借りなければまともに立ってもいられないほどに衰弱している。そんな君が傍にいたら、僕は正直、心配で気が気じゃなくなる。だから……」
「つまり、俺は足手まといだって言いたいんだな」
「セレファンス様」
さすがのレシェンドも、セレファンスの頑なな態度を諌めるような声を出した。この場合、イルゼとセレファンス、どちらが正論なのか議論の余地もない。
「分かってるさ、自分で我が侭なことを言ってるのってくらい。でも、俺は――」
「ならば私がイルゼと共に残ろう」
突然、横から挟められた提案に、イルゼとセレファンスは、その声の主であるカルカースを見た。
「セレファンス皇子は、これからイルゼが立ち向かわなければならない戦いに加勢しようと思っているわけではあるまい。そんなことは無意味だし、それこそ足手まといにしかならない。ただ、イルゼが無事に帰ってくるという保証が欲しい――違うか?」
「……だからなんだっていうんだ。あんたが保証でもしてくれるっていうのか?」
「私はイルゼの勝利を信じている。また、そうでなければ人間に未来はない。ならばイルゼが自分の役目を全うした時、必ず私は君の元にイルゼを連れて帰ると約束しよう。それに君にはイルゼの傍にいることよりも、やるべきことがある」
「やるべきこと?」
セレファンスは眉を顰める。
「この離宮の地下は、目の前にあるものと同じ黒い泥濘で満たされている。それが全てイルゼの力で昇華された時、地下には大きな空洞が生じるだろう。それが昇華の反動に耐え切れるとは思えない。この離宮は、その時をもって崩壊する。またインザラーガ山にも、どのような影響が出るのか分からない。恐らく普段の道程を使っての退避は間に合わないだろう」
「なっ……」
セレファンスは驚愕に顔を満たしたが、すぐに冷静な色を取り戻す。
「つまり俺がやるべきことってのは、崩壊する離宮からイルゼを脱出させるための方法を確保しとけってことか」
「ああ、その通り。さすがに察しがいい」
カルカースは満足そうに頷くと続けた。
「ここから右側の入り口を真っ直ぐに行った突き当たりは、空を望める吹き抜けの場所がある。そこには古代皇国フェインサリルの跡地から発掘された遺物が一つ置いてある。それは飛空機と呼ばれる空飛ぶ乗り物だ」
「飛空機……!」
イルゼは思わず呟く。それは以前、アドニスの皇城で読んだフェインサリルの歴史書にも記されていたものだ。
やっぱり本当に存在していたんだ――と、イルゼは状況を忘れて胸を高鳴らせる。が、セレファンスのほうは頬を引きつらせた。
「……それって七百年も昔のものだろう? 動くのか?」
「さて、どうだろうな。私には動かせなかったが」
「おいっ……それじゃあ意味がないだろうが!」
「まあ、聞け。その乗り物には、フェインサリル皇族の紋章が入っていた。そして操縦席には、そこに似つかわしくない青い大きな宝玉が填め込まれていた。その宝玉に私が触れると、うっすらとだが確かに輝くのだ。だが例しに触れさせてみた何人かの下男では反応がなかった。私はエスティア王族の流れを汲む一端の出身だ。一滴ほどならば聖皇の血を引いていてもおかしくはない。その血が、その宝玉に反応したというのならば――」
「……つまり皇族ならば動かせるかも知れないってことか」
「その通りだ。特に君は〈マナ〉を持つほどに色濃い血統が現れているリゼット皇族の直系だからな」
セレファンスはカルカースの提案を吟味するように口を閉ざしたが、それも一瞬のことだった。すぐに「分かった」と頷く。
「俺一人で逃げ出すのならお断りだが、そういうことなら」
そんなセレファンスの言葉にレシェンドは複雑そうだった。やはり危険なことに変わりはないからだろう。だが何も言わないところをみると、腹を括ったようだった。
「そういうことだからイルゼ、俺は先に行ってる。お前がくるまで必ず待ってるから、全てを終わらせて早くこいよな」
「うん、もちろん。それとさ、セレ」
イルゼは少し照れ臭いと思いながらも思い切って言う。
「僕さ、全てが終わったら君の故郷のリゼットを見てみたい。あとテオフィルにも一度、帰らなきゃ。それからメリルの約束も果たさないとね。それに――飛空機には絶対に乗ってみたいっ!」
イルゼの熱意がこもった視線と言葉に、セレファンスは呆気として目を瞬く。そして途端、大きく笑い出した。
「はははっ……! お前って、この土壇場で大した度胸だな。分かった、飛空機は必ず動かしてやる。リゼットにだって連れてってやるよ。考えたら、それが当初の約束だったからな」
セレファンスは吹っ切れたような笑みを閃かせ、次にはカルカースへと視線を転じる。
「カルカース。俺はあんたに謝罪や償いなんて一切いらないって言った。だけど気が変わった。あんたにやってもらうことは、こんなことだけじゃ足りない。だからあんたは、俺達と一緒に、この離宮から生きて出るべきだ」
カルカースは金髪の少年を微かに見張る。そしてセレファンスの言葉を反芻するような間を持ってから「承知した」と短く答えた。
セレファンスは最後にイルゼの手を強く握る。
「全てはお前の思う通りに。それが正しかろうがなんだろうが、俺はそれでいい」
そう言い残し、セレファンスはレシェンドと共に通路の奥へと姿を消した。
「……ありがとう、セレ」
イルゼはセレファンスの想いと無念が痛いほどに理解できた。本当ならば、この場にとどまりたかったはずだ。これから始まる闇との対峙は、セレファンスが長年、旅をし続けてきた終着点だったからだ。だがセレファンスは、この場から立ち去る決意をした。イルゼの望み通りに。
(僕は必ず、君と一緒に帰る。そしてそのあと、いっぱい君に話すよ。僕が見てきて聞いてきたことを全部、これから起こる出来事を。だからどうか、許して欲しい)
「イルゼ、これを」
カルカースがイルゼの背に声をかけてくる。イルゼは自分と共に残った青年を振り返った。
「……これは?」
目の前に差し出された長剣を見て、イルゼは怪訝そうに眉を顰めた。
「これはエスティア王家に代々伝わる剣だ。エスティア初代国王がリースシェランから賜った品とも言われている。私はエスティア陥落時、この剣を今際の際にあられた陛下から――アラリエル様の御父君であるエスティア国王から託された」
「…………」
イルゼは静かに剣を見つめた。それはつまり、自分の祖父に当たる人が遺したものということだ。
「私が〈闇からの支配者〉に精神を捕らわれなかった理由は、この剣の力によるところも大きいのだろう。恐らく悪しき力を退ける能力を有しているのだと思う」
そう言ってカルカースは、改めて剣をイルゼの前に差し出す。
「イルゼ、受け取れ。この剣は必ずお前の身を守ってくれることだろう」
「でも……そんな大切なもの」
イルゼは受け取りかねてまごつく。
「これは元々、エスティア王族の直系が継承する剣だ。ならば、その直系であるお前が持つに相応しい」
イルゼは驚いてカルカースを見た。
カルカースは今まで真実の言葉として、イルゼがアラリエルの子供と認める発言をしたことはなかった。イルゼはディオニセスとアラリエルの子供――それはカルカースにとって憎悪すべき事実そのものだったからだ。
だが今、間接的とはいえ、カルカースはイルゼをアラリエルの血を引く子供だと認めた。それはイルゼにとって驚き以外の何ものでもなかった。
「さあ、受け取れ」
再度、カルカースが促す。
イルゼは恐る恐る、剣に手を伸ばし、それを手に取った。
適度な重さのある一振り――。イルゼは、そっと剣を鞘から抜いてみる。重厚な輝きを放つ刀身、吸いつくようにしっくりとくる柄、精緻な意匠の美しい逸品だ。
そして何よりも目を惹くのは、刀身と柄の間に飾られた青みを帯びた銀色の宝玉。月明かりに映える湖面のように美しい色合いだった。
「綺麗な石ですね」
イルゼは思わず呟いた。その透き通った煌きは、母アラリエルの双眸を思わせた。
「ありがとうございます、カルカースさん」
イルゼは礼を言った。と、その直後。
ドヴォォォォンッ
心臓が震えるほどの地鳴り。続いて、何かが甲高く割れる破壊音が鼓膜をつんざく。
イルゼとカルカースは顔を見合わせ、すぐさま穴の淵に駆け寄る。そして暗黒の海が広がる下方を覗き込み、目を疑った。
「あれは……!」
広がる泥濘の中央に、硝子張りの床を突き破って盛り上がった大きな瘤。半溶解した蛆虫のような物体が、吸い寄せられるようにして集約した塊は、不気味な蠢動を見せている。
目にしているだけで身体が粟立ってくるような光景。耳に届くのは、それが蠢くたびに発せられる粘着質な音と、その内側からくぐもって聞こえてくる喘ぎのような悲鳴のような、下劣な笑声のような、不快感極まりない嬌声。
イルゼは怯んだ。それは永い時を経て蓄積された濃厚な汚穢だった。少しでも触れたのならば、一瞬にして自身が汚されてしまいそうな――
……本当に自分は、こんなものを昇華できるのだろうか――?
ほんの少しの弱さにつけいるように、イルゼの中で沸き上がった疑問。同時に恐怖が怒濤の如く襲いかかってきた。身体が硬直する、心が締め上げられたかのように悲鳴を上げる。
(怖い!)
『逃げてしまおうか、このまま逃げてしまえ!』
『どうせ、こんなものに自分が勝てるわけがない!』
『だったら、怖い思いをして立ち向かうだけ無駄だ!』
まるで自分の考えではないような心の悲鳴が、次々にイルゼの脳裏を駆け巡った。
と、そんな時だった。手の中の剣がビィンと力強く顫動した。まるで弱さに揺れるイルゼを叱咤するように。
はっとイルゼは我に返り、手のうちにあった剣を見張った。そこには目の前の闇に汚されることなどないような、澄み切った青銀の美しい宝石が輝いている。
(……そうだ。僕にはカルカースさんから託された剣がある。これには世界を救えると信じてきたエスティアの人達の希望が込められている。何より僕には、僕の帰りを信じて待っててくれている人達がいる!)
彼らの想いを裏切ることなど、決してできはしない。それがイルゼの導き出した真実だ。
『来よ、来よ――我が願いを叶える〈鍵〉よ……』
怨念に近い要求が地の底からイルゼへと向けられる。
それは〈破壊の王〉から〈鍵〉であるイルゼへの呼びかけ。気を抜くと服従してしまいそうな命令。
隣のカルカースが額に汗を浮かべて顔をしかめた。
「なんだ、この気持ちの悪い波動は……」
どうやら青年は何かを感じ取れてはいるが〈破壊の王〉の我欲なる言葉までは聞き取れていないようだった。
「カルカースさん、下がっていてください。〈破壊の王〉が望んでいるのは僕です。あとは僕にしかできないことです」
「……ああ、分かっている」
カルカースは静かに頷くとイルゼの傍を離れた。
カルカースが遠くまで退いたのを確認してから、イルゼは〈破壊の王〉である黒の泥濘と向き合う。
(見えているか〈破壊の王〉。お前の求める〈鍵〉はここにいる。僕が欲しいのであれば、その姿を見せてみろ!)
一瞬、訪れた静寂。驚愕のような、歓喜のような感情で生じる空白。そして次には、その反動のような衝迫。
グォォァアアアアアッッッ――!!
凄まじい轟音が鳴り響き、イルゼの正面に黒い水柱が立ち上がる。
『見つけた、見つけた、見つけた!』『血が見たい、血が! もっと寄こせ! お前の血を!』『お前など殺してやる! お前が幸せになることなど許さない!!』『お前は私のものだ! 誰にも渡すものか!』『死ね! 死ね! 死ね! 死んでしまえ!!』『苦しい、辛い、痛いよ! 誰か、誰か助けて――!!』
それは様々な人間が様々な対象に向けたであろう欲望、悪意、悲嘆、その全てが今、一気にイルゼへと集中していた。
なんて、凄まじい――圧倒的な感情の激流にイルゼは居竦まった。続いて黒い水柱から、しなる鞭のような触手が伸び、そんなイルゼを捕らえようとする。
「くっ……!」
イルゼは間一髪、空中を飛び上がって難を逃れた。
真上から見下ろした〈破壊の王〉という物体。水柱の頂上が、内側から何かを生み出すかのように胎動し始めた。そして、そこに盛り上がったのは、無表情な人間の大きな顔面。その顔面が無機質な低い声音でイルゼに命じた。
『〈鍵〉よ――汝の身を我にささげよ。我は、お前達の祖シエルセイド。汝は我が血筋から生まれし者。我から生まれた者は、我に帰するが定め。それこそが何ものにも勝るお前に与えられた真理』
『それ』が名乗った名、シエルセイドという存在――四大皇族の始祖の一人であり、今も大陸人の敬愛を集める英雄。それが今、その他大勢の人間達と同様に己の我欲に負け、世界の終わりを意味する〈界の秩序の崩壊〉を起こそうと企んでいる。聖皇と謳われた人物でさえも、侵蝕してしまえる憎悪や欲望といった負の強さ。
「でも僕は、貴方の言いなりにはならない。貴方の言い分に、僕は存在しない。貴方は苦しみから目を背けて、闇の中で自分の世界に閉じこもり、都合のいい正論を作り上げているだけだ。僕は、貴方のようにはならない――僕は、罪と苦しみを受け入れながら、大切な人達と共に、光のある世界で生きることを選ぶ!」
(剣よ――どうか、僕に力を!)
不思議な存在感を放つ剣に向かって、イルゼは強く願った。
「イルゼ……頑張れ。そんな自分に負けたような奴なんかに、負けるな」
「セレファンス様?」
主である少年を支えて歩いていたレシェンドが、不思議そうに彼を見た。
「……イルゼの抱く恐怖が伝わってくるんだ。俺も、あんなにどす黒くて色濃い存在に……今まで触れたことがない。実際、目の前にいるわけじゃないのに、こんなにも心が怯える。そんな相手にあいつは一人で立ち向かってるんだ。こんなに自分を不甲斐なく思ったことはない」
そう言ってセレファンスは強く唇を噛む。
「セレファンス様……」
レシェンドは、そんな悲痛さに表情を曇らせた。
セレファンスは常人では見えない存在を見て、時には会話さえも成立させる非常に高い感応力を持つ。
恐らくセレファンスは今、イルゼの精神と同調しているのだろう。通常ならば考えられない事態だったが、瀕死のイルゼを治癒した強力な〈マナ〉の顕現にしても、彼らの間には第三者には計り知れない繋がりが生じているのかも知れない。
セレファンスの焦燥とした様子を見かねて、レシェンドは諭すように言った。
「それでもセレファンス様には、それを耐えてでもやるべきことがあります。言っていたではありませんか、カルカースが。セレファンス様にはセレファンス様の、イルゼにはイルゼのやるべきことがあると」
「……そうだな」
セレファンスは微かに微笑む。その弱々しい笑みにレシェンドは心を痛めた。
「あれがカルカースの言っていたものか?」
セレファンスが行く先に見て取った奇妙な物体を見て、誰ともなしに問うた。
「そのようですね」
レシェンドは頷き、その物体へと慎重に近づく。
セレファンスらが辿りついた場所は、カルカースの言っていた通り、天空の望める吹き抜けた空間だった。その物体は、上空から降り注ぐ日差しの中にあり、陰影を含んだ奇妙な外形は異彩を放っていた。
「これが――飛空機?」
セレファンスは少し意外そうに、だが興味深そうに、その機体に触れた。
あえて例えるのならば、羽を折りたたんだ鳥。大きさは馬の胴体ほど。ちょうど乗り馬に装着する鞍のような部分があり、そこに跨って乗る仕組みらしかった。その手前には、一際目立つ大きな青い宝玉が備えつけられている。
「……確かにカルカースの言っていた飛空機に間違いはなさそうですが――思ったよりも小さいものなのですね。これで四人も乗せて飛ぶことなど可能なのでしょうか」
「うーん……」
レシェンドの不安にセレファンスは首を傾げる。
「どうみても四人乗りではないな。せいぜい二人か。ただカルカースは承知の上で俺達をここに向かわせたはずだし、脱出手段はこれしかないということだろう。だったらどうやってでも俺達を乗せて飛んでもらわないと」
セレファンスは祈りを込めるようにして、まるで飛び立つことを待ち望んでいるかのようなそれを見つめた。
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