第52話 悠久のラセン

(……ああ、なんて真っ暗なんだろう――)


 イルゼは一切の光が存在しない真っ暗な空間に、たった一人で立っていた。


 どこまでも、どこまでも続く暗闇――これが『死』というものなのだろうか。だとしたら、なんて寂し過ぎるのか。


 いや、寂しいというよりも怖い。周囲の闇が密やかに自分を狙っているような気がする。異物のように自分一人だけが目立っていて、気を抜いたが最後、瞬く間に絡み取られて飲み込まれてしまいそうだった。

 きっと逃げ場など、どこにもありはしない。この闇に喰われてしまった時、自分という存在は消去され、完全に死ぬのだろう。


「っ……!」


 イルゼは心底、恐ろしくなった。


 闇に喰われるということは一体、どんな感覚なのだろうか? 冷たく塗り潰されるようなもの? 嫌なものに汚されていくようなもの? 最後には自分という存在が握り潰されてしまうもの?


(嫌だ! 怖い……! 怖い、怖いっ!)


 イルゼは恐怖を爆発させた。


(こんな寂しいところで死にたくない! 明るいところに戻りたい!)


 そこまで一気に取り乱して、イルゼはふと冷静になる。


 ……そうだ、自分には強大な力があるではないか。だったら、怖いというものを、全てこの力で吹き飛ばしてしまえば――……?


「駄目! そんなことをしたら全ての世界が壊れてしまうわ。そうしたら〈闇からの支配者〉の思惑通りになってしまう。周りの闇達は、あなたを襲わない。ううん、襲えない。あなたは『彼ら』よりも凌ぐ強い光を抱ける人だから」

「ひ……!」


 突然、闇の中から出現した声にイルゼは小さく悲鳴を上げた。窘めるような言葉を発したその闇は、そっとイルゼを背後から抱き締める。


「やめろっ……放せ! 離れろ!!」


 イルゼは恐怖に震え上がって、死に物狂いで叫んだ。すると、その闇が一瞬、哀しそうな吐息を洩らした。


「お願い、イルゼ、落ち着いて。私が誰だか分からない?」

(――え?)


 そんな言葉にイルゼは我に返る。そして気がついた。その声がイルゼにとって、もっとも愛しいものだと。


「……フィーナ!?」


 イルゼは慌てて振り返る。その呼びかけが合図だったかのように、イルゼの目の前には光の粒が収縮し始めた。そして最後には一人の少女を形作る。


「っ……!」


 イルゼは言葉を失って茫然と少女――フィーナを見た。


「え……本当に、本物のフィーナ?」


 戸惑い気味の問いかけに、少女は静かに頷いた。


「何故、こんなところに君が……?」

「あなたが愛してくれた『フィーナ』にも、闇に属する心があったから」


 揺らぎのない少女の言葉が、更にイルゼを動揺させる。


 そんな少年をフィーナの両腕が優しく捕らえた。するりとうなじに回された細腕が、イルゼを力強く引き寄せる。


「……フィーナ?」


 少女から押しつけられた唇は甘く柔らかかった。その感触にイルゼは陶然としながらも、今までに感じたことのないフィーナの強引さと艶やかさに戸惑った。


「あなたが『私』を認めてくれて嬉しかった」

「え?」

「『私』もフィーナの大切な感情だと言ってくれたでしょう?」

「――あ……」


 イルゼは思い出した。〈闇からの支配者〉が言っていた言葉を。


 あの悪しき者はフィーナの姿を盗り、イルゼを誘惑しようとした。そして〈闇からの支配者〉が現したフィーナの姿は、彼女の闇に潜む本心そのものだと言った。イルゼを独占したいとする少女の自分勝手な情欲そのものだと嘲笑した。それがイルゼには許せなかった。他人にとれば愚かしく利己的な感情だったとしても、それは自分の愛した少女が自分を深く愛してくれた証だったから。


「本当は、このままあなたをここにとどめたい……そして、このままあなたを私だけのものにしてしまいたい――」


 フィーナは悩ましい表情でイルゼを見つめる。だが次には、物悲しげに微笑んでかぶりを振った。


「でも、駄目だわ。『フィーナ』には、もっと強い想いがあるもの。大好きなあなたに、幸せになってもらいたいっていう想いが」


 そう言ってフィーナはイルゼから身を放した。


「あなたが『私』を認めてくれたから『私』は〈闇からの支配者〉の支配に抗うことができる。だから『私』は、あなたの愛してくれた『フィーナ』であることができるの。今だって『フィーナ』の持つ様々な想いを感じることができる――」


 フィーナはイルゼを真っ直ぐに見つめた。


「イルゼ、聞いて? 人間は誰しも闇に属する心を持っているわ。それは決して他人に自信を持って晒せる感情ではない。だからこそ人は、それを隠して生きるの。人生という限られた時間の中で、克服して折り合いをつけながら人は負の感情と共に存在してゆくものなの。でも中には、その感情を完全に闇へと捨て去ってしまう者もいる。認めて克服することを諦めて、共存することさえも否定して、目を背けて忘れ去ってしまおうとする。でも、それは一時的な逃避であり、いつしか無理がくるものなのよ。だって、どんなに卑しくて嫌らしい感情だったとしても、それは紛れもない自分の心から生まれるものなんだもの。無いことになんてできない感情なんだもの。〈闇からの支配者〉とは、そんな歪みから生じた存在なの。救われたいと願う哀れな人間達の感情そのものよ。だからこそ〈闇からの支配者〉は世界に救いを求め、世界と一つになりたいと望むの」


 フィーナはまるで、その心が理解できるとでもいうように、哀しげな笑みを浮かべる。


「お願い、イルゼ。〈闇からの支配者〉に負けてしまわないで。混沌という手段でしか『私達』が救われないと証明しないで。人間達は、きっと克服できる生き物なのだと信じさせて」

「君は……誰?」


 イルゼは思わず呟く。彼女は確かにフィーナだ。自分が愛した心優しい少女だ。だがその中には、自分の知らない存在を感じる――


「私はフィーナよ。そして、汚れなき〈純粋な闇〉でもある――』

「……!」


 イルゼは息を飲んだ。少女の瞳が春の空色から、光を含まない闇に変質するのを見たからだ。


『こうして私があなたの前に顕現できたのは、あなたがフィーナという少女を通して、闇に属する心を受け入れてくれたおかげだ。人間でありながら〈神に属する力〉を身に宿せる者よ。我が想いを聞き届けよ。そして、原生から続く神の傲慢さと、人間の罪深さを知れ』


 その声に満ちるのは圧倒的な尊厳。か弱い少女の姿を取りながら、人智の越えたところで存在するもの。人の概念では推し量れない闇。それに対して生じる畏敬は、神に対するものと同等だ。


〈純粋な闇〉と名乗った存在は、フィーナの姿でイルゼに語り続ける。


『私は、この空間に光と同時にあるようになったもの。神は混沌より光と闇である私を取り上げ、そこから世界を創った。我ら闇と光は、夜と昼の境界線を。続けて生まれた地と水は、生命の苗床を。風は種の広がりを。火は生命の活性化を。そうして創り上げた世界を神は人間に与えた』


〈純粋な闇〉は想いを馳せるように目を細めた。


『創世の頃、闇は光と同等の立場を持つ存在だった。だが、人間という生き物が世界に増え、彼らが癒されない感情を我が内に隠すようになってから、いつしか闇は――私は汚れた存在へと変質してしまった。そんな私を神は切り捨て、人間達の生み出した負念と共に地へと封じるようになった。神は人間という生き物に期待していたのだろう。それを示すように、世界は何度も繰り返された。だが、そんな嘱望は裏切られ続け、闇である私の内には更に人間の負念が積もっていった。そして、とうとう〈闇からの支配者〉などという悪しき存在を生み出す結果となってしまったのだ』


〈純粋な闇〉の苦々しい心情を表すように、フィーナの表情がしかめられる。


『それでも私が〈純粋な闇〉としての力を持ち続けていたのならば〈闇からの支配者〉などに好き勝手な真似はさせなかったであろう。だが〈純粋な闇〉であった私でさえも、知らず知らずのうちに、人間の感情というものに感化されていた。私自身が神を憎む心を生み出す存在に変質していた。光を優遇し、闇である私を捨て去った神に対して、いつの間にか私は憎悪を抱いていたのだ』


〈純粋な闇〉は、自分の感情であっても理解ができないようにかぶりを振った。


『それに私が気がついた時、私には隙ができてしまった。〈純粋な闇〉であり、全ての闇を支配する存在であったはずの私は〈闇からの支配者〉に立場を取って代わられてしまった。〈闇からの支配者〉は我が闇の力を奪い、穢れた闇の更に深淵に私を封じ込めたのだ』


 無念の入り交じった声音で〈純粋な闇〉は続ける。


『〈神に属する力〉を身に宿せる者よ。あなたは神が人間達へ与えた最後の祝福そのもの。同時に、あなたは人間という脆弱な生き物である。そして、克服することを選んだ強かな心を持つ者でもある。そこに希望を見出したからこそ、私も人間に祝福を授けることにした。あなたの全てを受け入れて、あなたを信じ、あなたを心から想う者に扶助を与えよう。それは、あなたの活力を復活させる力となるだろう。それと……私が本来、持ち得ていたはずの力を、できるだけ私の支配下に取り戻せるように努力しよう。それが上手くいけば、一時的にではあろうが〈闇からの支配者〉は悪しき力を失うだろう――』


〈純粋な闇〉である存在は、話の終わりを告げるように双眸を伏せる。次にその瞳が再び見開かれた時には、すでに黒い瞳は空色に戻っていた。


 イルゼは深い嘆息を禁じ得なかった。突然のように現れ、一方的に言葉を押しつけて去っていった〈純粋な闇〉。かくも神という存在は、これほどまでに身勝手なものなのだろうか。


 そんなイルゼの心を見透かしたように、本来のフィーナが苦笑する。


「神々にとって人間とは、感情で見る対象ではないの。私達は彼らの作品でしかない。しかも未だに未完成なモノ。それに〈純粋な闇〉は人間に良い印象を持っていないわ。彼のほうは人間に汚されたも同然だから。それでもあなたの前に現れたのは、あなたが闇を知り、それを容赦して受け止められる人間だから。そこに人間への希望を見出したから」

「フィーナ――」


 イルゼは茫然とかぶりを振る。


「僕はそんなに強い人間じゃない。今だってほら――こんなに震えているんだ。さっきだって恐ろしさから君を怒鳴ってしまった。僕は、いつも逃げ続けてばかりの人間だ。自分の罪からさえも」

「それでも、あなたはここまできたわ。怯えながらも、苦しみながらも、全てを見据えて〈闇からの支配者〉に立ち向かおうと決意した。逃げることは罪ではない。それに向き合えないことこそが哀れな罪となるのだわ」


 フィーナは幼子を諭すように優しく言うと、にっこりと花の蕾が綻ぶように笑った。


「イルゼ、あなたは幸せになれる人よ。それを決して忘れないで」

「フィーナ?」


 イルゼは目を見張る。微笑む少女が陽炎のように揺らめき始め、周囲の闇に溶け込んでゆく。


「さようなら、イルゼ。私の愛しい人。幸せな時間をありがとう」


 イルゼが少女の名を呼ぶ暇もなく。彼女は闇に掻き消える。


 次の瞬間、イルゼは目を見開いた。その見開いた瞳から、大粒の涙が零れ落ちる。頬に伝った冷たい一筋が、少年の心を現実に引き戻した。


(夢?)


 それはまるで白昼夢のような感覚。そこから一気に覚醒したイルゼの意識は、奇妙なほどに鮮明としていた。


(――違う。あれは夢じゃない。フィーナは最後に大切な心を僕に託してくれたんだ)


 イルゼは双眸に映る現実をまじまじと見つめる。高く遠い漆黒の天。それは輝く黒い大理石で作られた空間の天井。そこにイルゼは、瞼の裏に残っている少女の姿を必死に思い描こうとした。そうすることで、消え去ってしまった恋人の姿をなおも現実に引き戻そうとしていた。


 だが、そんな努力は虚しいものでしかないと、すぐにイルゼは気づく。


(フィーナは、最後の最後まで僕を見捨てなかった。だったら僕は、最後の最後まで足掻かなきゃ駄目だ……!)


 イルゼの中に不思議なほどの気概が生まれた。今、自分のすべきことは、失った過去に縋りつくことではない。未来を切り開くために突き進むことだ。


(それにしても何故、こんなに意識がはっきりしているんだろう? それに、痛みも全く感じないなんて――)


 自分は瀕死の重傷を負っているはずだった。何せ〈闇からの支配者〉に剣で脇腹を貫かれ、その上、広間中央の深い窪みに放り投げられたのだから。それなのに、そんな悲愴感を感じられない。それどころか、身体の奥底から力が湧き上がってくる。身も心も活力に満ち足りている。


 怪訝に思いながらイルゼは身体を起こした。そして、腹の辺りにあった重みに気づく。


「え……」


 自分の腹の上で輝く淡い金の髪。そこに埋もれる瞳を閉じた端正な顔。


「セレっ……?」


 イルゼは唖然として呟いた。それはイルゼに突っ伏すようにして倒れ込んでいるセレファンスだった。


「何でっ?」


 イルゼには全く状況が理解できない。


「う……」


 セレファンスが呻き、ふと夏空の双眸が開かれる。

 それを見てイルゼは、彼が死人ではないことを知り、安堵する。


「セレ、君に一体、何が……っ?」

「……良かった――お前の顔色が良くなってるってことは、俺は成功したってことだよな」


 セレファンスはイルゼの腹に頬を乗せたまま、力のない声で笑った。


 イルゼは何が良いものかと思わず怒鳴りたくなった。セレファンスの顔色は作り物のように真っ白で、人の心配をしていられるような様相ではなかったからだ。


 だが、イルゼは、彼への非難を飲み込むことになる。


 かなりの気力を必要としているかのように、セレファンスは緩慢な動きで身体を起こした。その彼が突っ伏していた辺り――イルゼの脇腹辺りを覆う衣服は無惨な切り口で穴が開き、どす黒い夥しい血で湿っていた。


 それを目にしてイルゼはギョッとする。それは致命傷になりえるほどの大量出血。生きている自分が奇跡としか言えない状態。


「……ねえ、なんで僕は無事なの……?」


 もっともな疑問をイルゼが独白すると、


「言っただろう? 俺はお前を犠牲にするつもりはないって」


 セレファンスが微かに微笑む。


「以前〈マナ〉を治癒力に顕現できる者が稀にいるって聞いたことがあったんだ。だったら俺にもできるんじゃないかって――そう思ってさ。いや、というか、必死だった。その知識が俺を突き動かしたのは確かだったけれど……正直、無我夢中で何が何だか――とにかく必死で神様ってヤツに祈った気がする」


 セレファンスは自嘲気味に笑った。


「今まで神なんてのは信頼に値しないって思ってたけど、今回ばかりは、そのご加護ってのに心から感謝したい気分だ。俺の願い通り、お前を死の淵から救ってくれたんだから」


 イルゼは〈純粋な闇〉が言っていた言葉を思い出した。


『あなたの全てを受け入れて、あなたを信じ、あなたを心から想う者に扶助を与えよう。それは、あなたの活力を復活させる力となるだろう――』


「……とはいえ、ちょっと無理がきてるみたいだ」


 セレファンスは溜め息のような苦笑を洩らした。


「これ以上は……お前の力になれそうもない。立つ気力さえ、残ってないみたいだしな――」

「セレ!」


 イルゼは身体を傾かせたセレファンスを慌てて支える。


「イルゼ、悪い――あとは、頼む……。上でカルカースとレシィが〈闇からの支配者〉と戦ってるんだ。お前を復活させるまでの、時間稼ぎになるって……」


 セレファンスの喘ぐような声に、イルゼは上空を振り仰ぐ。視線を向けた階上には、実父ディオニセスの姿をした〈闇からの支配者〉と、彼に対して怒濤の攻撃を繰り出すカルカースとレシェンドの姿があった。


〈闇からの支配者〉は、二人の執拗な包囲から抜け出そうとしている様子だったが、それを彼らの妙技は許さなかった。そんな状態に明らかな苛立ちを見せている〈闇からの支配者〉。だが、奴が闇の力を使おうとする気配はない。いや、恐らく使えないのだ。


(……〈純粋な闇〉が言っていた。できるだけ力を取り戻すように努力をすると。〈闇からの支配者〉が扱う悪しき力は、元々は〈純粋な闇〉が有していた闇の力。〈純粋な闇〉が力を取り返すことに成功したのならば〈闇からの支配者〉の悪しき力は無力化する――)


 だが、それは一時的なものだとも〈純粋な闇〉は言っていた。ならばイルゼに与えられた有利な時間は限られているだろう。


(……大丈夫。負けない、負けたくない。僕には、そうやって助力を与えてくれる存在も、何より自分を信頼してくれる人達がいるんだから)


 イルゼはセレファンスの身体を静かに横たえさせる。


「セレ、心配かけてごめん。それに、ありがとう。もう大丈夫、今度こそ、全てを終わらせるよ。終わらせて、僕は必ず君達と一緒に帰る」


 未来へと続く自分の時間が刻める場所へ。


 イルゼは深く深呼吸をして立ち上がる。


(……今なら、はっきりと感じることができる――自分の中にある一つの扉。それは〈神に属する力〉に繋がっている。その力を僕が望むのならば、その扉は開き、僕は様々な扶助を得られる)


 イルゼは、自分の中で満ちてゆく力の可能性を見定めて心の中で命じた。

 するとイルゼの両足がゆっくりと地を離れる。驚きの表情で自分を見つめるセレファンスが、だんだんと下方に遠のいていく。


 そのままイルゼは一気に飛び上がり、宙を駆けるようにして〈闇からの支配者〉とカルカース達のいる場所へと向かった。


「イルゼ!」


 空中に現れたイルゼを見て、カルカースが驚愕の表情を閃かせる。それにイルゼはニコリと微笑んでみせた。


「あとは僕が『彼』の相手をします。もう僕は大丈夫ですから」


 イルゼの決意が伝わったのか、カルカースとレシェンドは不満を見せずに頷くと、素早く剣の構えを解く。


 イルゼは動けずにいるセレファンスのことを二人に頼み、彼らの背を離れたところまで見送ってから〈闇からの支配者〉の前に降り立つ。

 そんな少年を見て〈闇からの支配者〉は皮肉げな笑みを閃かせる。


「……全くもって想定外であったわ。まさか、この土壇場にきて、闇の老獪が出しゃばってくるとはな。おかげで余は一切、力を使えない状態になってしまったわ。カルカースらの攻撃にさえ翻弄されるようでは、其の方の未熟な力であっても防ぐことは不可能だろうな」


 どこか人ごとのように〈闇からの支配者〉は言う。


「まあ、いい。誤算は生じたが、最終的な目的は達せられた。其の方の流した大量の血液は〈破壊の王〉を目覚めさせるのに十分だった。もとより、この地に封じられていた負念は限界に近づいていたのだから当然だろう。本当ならば盛大な〈界の秩序の崩壊〉を期待していたが、浸食するような緩やかな滅びも悪くはあるまい」


 そこまで言って〈闇からの支配者〉は、興醒めしたような、半分からかうような視線をイルゼに向けた。


「さて、イルファード。其の方には褒美をくれてやらんこともない。其の方は余にことごとく楯突いてくれたが、其の方の存在なくしては、こうも順調な滅びを迎えられなかった。どうせ最後だ、其の方の気が済むまで余を屠るといい。其の方は自分を受け入れなかった実父を憎んでいるのだろう? 其の方の愛しい娘が死に至った原因である『私』を憎悪しているのであろう? 力を失っている今の余ならば、其の方の望みを叶えてやれる。せいぜい其の方の気が済むまで、惨たらしく死んでやろうではないか」


 そう言って〈闇からの支配者〉は、引きつるような笑いを洩らした。


 この時、イルゼは〈闇からの支配者〉に対して初めて怒りや憎しみ以外の感情を抱いていた。今の『彼』に感じられるのは、自身の存在さえも軽く扱える卑屈さ。様々な他人の姿を盗ることで、他人との関わりを求める哀れさ。


 初めて垣間見えた真実に、イルゼは無性な悲しみを覚えた。


「……僕があなたに望むのは、光を伴う進化を」

「何?」


〈闇からの支配者〉は瞬時に眉根を寄せる。そして、その表情に酷い不快さを滲ませた。


「其の方はよほど頭が弱いらしいな。光を伴う進化だと? この期に及んで、まだ分からないのか? 我々は光で進化などできない。いや、する必要などない。人間の本質は闇だ、闇に潜む負なる感情こそが人間の本性だ! それを解放し、極致に集束することで『我々』は完全無二の存在へと至り――全ての頂点に立つ超越なる『モノ』として混沌に君臨できるのだ!! 何故、どうしてそれを理解しようとしないっ!?」

「違う! 人間の本質は闇でも光でもない……! 相反するものを持ち合わせる不安定で不完全な生き物だ! いつでも過ちを犯し、悩み、助けを求めて彷徨い続けてる……! でも、だからこそ、貴方のような存在を見据える勇気が必要なんだ! 自分の過ちや弱さを認めることこそが、人間の持つ真の強さだ! そこから人間は光を抱き、成長しながら生きていくことが望めるのだから――……!!」


 この哀れな存在にどうか救いを。


 イルゼは目に見えない存在に扶助を願うため、上空を振り仰ぐ。


 漆黒の天。そこにイルゼは輝く一人の女性を見出した。


「……お、母さん……!?」


 目を見開いた少年の双眸に、青銀色の髪と瞳をした女性は、クスクスと愛らしい笑いを振りまいた。


(さあ、歌ってみて? 私の愛しい子――私が、私のお腹にいたあなたに教えた古いエスティアの歌を。優しく心を込めて歌えば、それは安らかな祈りとなる。あなたの想いが音色となり、みんなの哀しみを癒すのよ――)


 あるはずのない温もりが、イルゼの身体を包み込む。


「――うん、分かったよ、お母さん」


 イルゼは少女のように美しい母を見て微笑んだ。そして淡く優しい記憶を織り込んで、一つの歌を紡ぎ出す。


「叡智にます生命の母よ、我は其の意なり、其は我が力なり」

「そ、それは……!」


〈闇からの支配者〉が途端、恐怖の色を表情に浮かべる。


 イルゼを軸として光の焔が立ち上がり始める。それは徐々に存在感を増し、一本の太い光柱となって天へと昇る。


「現象の生まれに祝福を与え、我らの原罪を赦したまえ。慈愛の涙は息吹となり、光の園は生命の苗床となる」

「や……やめろ! その力は嫌だ! そんな感情を私に向けるなっ! 私が、私という存在が消え去ってしまうっ!!」


〈闇からの支配者〉が怯え戦き、悲鳴を上げる。


 イルゼから出現した光の柱は〈闇からの支配者〉をも取り囲み、更に輝きを増してゆく。


 イルゼは酷く怯える〈闇からの支配者〉を哀れに思い、思わず手を差し伸べる。


「ひいっ!」


 だが〈闇からの支配者〉は、そんなイルゼから飛びすさった。


「い、嫌だ、嫌だ、嫌だ……! そんなものはいらない! それは『僕』を消滅させるものでしかないっ! もう『僕』は混沌に還りたいんだ!!」 

(な……!?)

「お前だって、本当はずっと『僕』と同じことを強く望んでたくせにっ! なのに、なんで今更になって邪魔をするんだよぉ!!」

(『僕』!?)


 イルゼは再び姿を変えた〈闇からの支配者〉に唖然とした。ここにきて、それが取った姿は、イルゼそのものだったのだ。


「お前だけ、ずるいじゃないか……っ! 『僕』だけを置いてけぼりにして! お前だけ、あったかくてキラキラした綺麗なものを手に入れて! そして、とうとう『僕』を完全に切り離そうっていうのかっ! そうやって救世主の綺麗な自分だけを正当化して満足かっ!」


 幼い子供のように癇癪を起こす『イルゼ』を目にして、イルゼは〈闇からの支配者〉に対する無理解を痛感した。


(僕は今まで、何を真に望んで『彼』を倒そうとしていたんだ?)


〈闇からの支配者〉という存在。それはイルゼの中で大切な人達の絶対的な悪だった。それをイルゼが持つ唯一無二の力で、叩き潰すことが紛れもなく正義だった。


(ああ、そうか、僕は――僕の罪の象徴でもある力を使い、世界の絶対悪に立ち向かうことで、『彼』を消し去ることで、自分の負い目や罪悪感をも消し去ろうとしていたのか?)


 世界を救ったところで、イルゼの犯した事実は消えない。どんなに他から誘導されたことであろうとも、セオリムの村での出来事は、自分の激しい感情によって行われたことなのだ。あの時に持った憎悪と無慈悲さは、確かにイルゼの中から生まれた『もの』だった。


 イルゼは再度、天を仰いで大きく嘆息した。


「違う……僕は『君』を忘れない。『君』は僕の罪だから」


 イルゼは真っ直ぐに、もう一人の自分を見つめる。そして『彼』に歩み寄ると、そっと両腕に抱きしめた。


 温もりのない冷たい身体。醜い利己的な感情を露呈する表情。それは、できることならば直視したくない自分の真実――。それでも『彼』は存在する。


 イルゼの姿をした『彼』は、空虚な笑みを口元に浮かべて、イルゼの双眸を覗き込んだ。


「嘘だ、忘れるよ。楽しくて綺麗なことに埋もれて、キラキラしたものに囲まれて、お前は自分の罪と狂気を忘れるんだ」

「……一時、たとえ忘れていられる時間が得られたとしても。僕は『君』と共に生きていく。それが僕という人間だから」


『それ』を忘れないことが唯一、醜い自分を抑えられる術だから。


(人間の弱さに支配され続けた〈闇からの支配者〉という存在に、真なる闇の安息を――)


 イルゼは心から願い、最後の祈りを口にする。


「我は其の意なり、其は我が力なり。現象の祈りを聞き届け、哀れなる魂を解放せよ――」


〈闇からの支配者〉は口元に薄い笑みを浮かべたまま、諦念とした色の双眸を虚空に彷徨わせる。イルゼの姿をした『彼』は、すでに移ろい、消えかけていた。


「……ねえ、僕は一体、なんのために生まれてきたの? 『僕』は、お前の強く望んだ結果じゃなかったの? それとも、単なる気まぐれな感情だったっていうのか……? 純粋なる闇を汚したのは――私のような存在を生み出したのは、他ならぬ人間だったというのに……。人間こそが、闇を、世界の終末を望む存在へと、変質させた、のに……。最後に、こんなことになるのならば……初め、から――『僕』のような感情を……心に抱かな、け……れ……ば……」


 静かに、音もなく、イルゼの姿をした〈闇からの支配者〉は消え失せた。


「うん……君の言う通りだ。でも、それでも人間は弱いから、何度も何度も自分の心にさえも惑う。一時の愚かな感情で、君のような存在を生み出してしまうんだ。……でも」


 それでも、そんな人間の一人であるイルゼが『彼』を昇華できたのも、また真実なのだから。

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