第三章
第51話 闇の底
「死してもなお、余計な真似をする――あの金髪女めが。あの西の一族は昔から鬱陶しいこと、この上ない」
〈闇からの支配者〉である長衣姿の男は、目深く被った頭巾の下から忌々しげな独白を洩らした。
「イルファードは夢想から目覚め、闇に刃向かうことを選んだか。ならば、その身を手ずから絶望にくべてやるまで。さぞかし見事な紅色の花を咲かせることだろう……そうは思わないか、シエルセイド?」
長衣の男は透き通った硝子張りの床を見下ろしながら、そこに眠る〈破壊の王〉へと語りかける。
「そなたも七百年間、待ち望んでいたことだろう。そなたを捨てて〈叡智界〉へと去った女を、その手に捕らえる甘美なる瞬間を――」
そんな男の言葉に呼応したかのように、床下がゴボリ、と鈍い音を弾いた。
長衣の男が見つめる先には、透明な床を隔てて泥濘の海が広がっていた。それはゆっくりと渦を巻き、ひっきりなしに蠢いている。
その広間は、変わった造形をしていた。冷たく輝く漆黒の大理石が真四角の空間を作り、四方向には扉のない簡素な入り口がある。そして、そこから十数歩ほどの幅を持った通路が壁際を周回しており、その他の場所はまるで巨大な貯水槽の如く大幅に窪んでいた。
その窪んでいる中央に『彼』は立っていた。そうしている長衣の男は、さながら荒れ狂う夜の海にでも直立しているかのようだった。
と、その海が、ヴォウヴォウと、激しい嵐の轟音の如く泣き始める。
「そうか、其の方らも感じているか――急くな喚くな、我が醜く薄汚い同胞どもよ。もうすぐだ……もうすぐで、我らが望みを叶える〈鍵〉が手に入るのだから」
そう言って〈闇からの支配者〉は一人、引きつった笑いを洩らし続ける。
「ここは……!?」
イルゼ達は一瞬、異様な雰囲気に飲み込まれる。
イルゼ、セレファンス、それにレシェンドとカルカース――彼ら四人が辿り着いた先は、漆黒の大理石が艶やかに輝く不可思議な空間だった。
「きたか」
抑揚なく呟き、空間の中央からこちらを見上げる長衣姿の男。
「〈闇からの支配者〉!」
イルゼは男を目にした途端、憤りを含んだ声で叫んだ。
「〈闇からの支配者〉? あれが?」
セレファンスは素早く反応し、男を凝視する。
「うん、そうだ。鏡の中に僕を捕らえたのは『彼』だよ」
イルゼの頷きに、セレファンスは「そうか、奴が、そうなのか――」と強張った声音で呟いた。
〈闇からの支配者〉は金髪の少年にとって母と姉を殺した仇だ。その存在を初めて目にする心情は、饒舌しがたいものだろう。
「そうだ、リゼットの皇子――私が君達の言う〈闇からの支配者〉という存在だ」
その名乗りを合図に『彼』の両足が床から離れた。
決して軽そうには見えない〈闇からの支配者〉の身体が、ゆっくりと高度を上げていく。人間には有り得ない力で、音もなく、無感情に。
イルゼ達を見下ろす位置にまで達すると〈闇からの支配者〉は不遜な態度で彼らを見渡した。
「ようこそ、御一同。闇の意識が渦巻く混沌の地、インザラーガへ」
〈闇からの支配者〉は演技がかった調子で言い、それを目にしたセレファンスは忌々しげに吐き捨てた。
「ふざけた態度だが、確かに奴は人間じゃないな。あんな芸当、人間ならできやしない」
今や〈闇からの支配者〉の言動は尊大なものだった。これまでイルゼに向けられていた丁寧な物腰は、もはや一切、見受けられない。だがイルゼはそれに全く違和感を持たなかった。何故ならば以前の彼にこそ違和感を持ち、それらが偽りだと感じていたからだ。
「イルファードにリゼットの皇子、その付き人の女騎士……そして、カルカースか」
そこまで言って〈闇からの支配者〉の声音が愉快げに弾んだ。
「おや、カルカース、久しぶりじゃないか。てっきりあとは私に任せて、一人静かに終焉を迎えるつもりなのかと思っていたが――さすが私の右腕と呼べる男だ。最後の最後まで、其の方は役に立ってくれる。こうして私の目前まで、イルファードを連れてきてくれたのだからな」
嫌味なほど親しげな声音に、カルカースは一瞬、顔を歪ませた。イルゼはそんな青年を庇うようにして〈闇からの支配者〉の前に一歩、進み出た。
「違う、僕は僕の意思でここにきたんだ。他の誰でもない自分自身の意思で」
「ほう……何をしに?」
「あなたを倒しに。〈闇からの支配者〉に操られる歴史を終わらせるために。そして世界を存続させるために」
「――ふっ……ははははははははっ」
〈闇からの支配者〉は空間を震わせるような哄笑をする。
「過去に捕らわれ、泣くしかできなかった小僧が、随分な大言壮語を抜かすようになったではないか。いいか、自惚れるな。その身に〈神に属する力〉を宿せるとしても、其の方はあまりにも未熟で脆弱過ぎる。そんな小僧一人に何ができるというのだ」
「自惚れじゃない……大言壮語なんかじゃない。僕は一人じゃない。だから僕は、お前の前に立っている!」
「下らないな」
〈闇からの支配者〉は一蹴すると、一気に興醒めしたかのような調子で言った。
「もう少し、まともな気概を見せてくれるものかと期待していたが――まさか其の方は、友情やら信頼やらといった浅く無形なもので私に勝てるとでも思っているのか? だとしたら愚の骨頂だ」
そう言って〈闇からの支配者〉は、イルゼ達から遠ざかった高みへと移動する。
「私に向かって偉そうなことを吼える前に、これらを相手に其の方の実力を示してみるがいい。それが認めるに値するものであれば、直々に私が相手をしてやろうではないか」
〈闇からの支配者〉は口元を嫌らしく歪めると次には一転、演技がかった慇懃さでうそぶいた。
「さてイルファード殿下、貴方が御父君から命ぜられた義務を覚えておりますかな? 貴方様のお役目は、このインザラーガで燈台守をすること。燈台とは〈破壊の王〉。炎となる種火は貴方様。その身を速やかに我らが王にささげ、世界を混沌へと導く灯火となさいませ」
「誰がお前の望み通りになんかっ……」
イルゼは宙に浮かぶ〈闇からの支配者〉を睨みつける。
「イルゼ、周りを見てみろ!」
突然、セレファンスが叫んだ。
「えっ?」
「あいつら……!」
首を巡らせたイルゼは、そこにあった光景に目を見張り、セレファンスは怯んだかのように呻いた。
「集まってきたか、我が意思に帰属する哀れな従僕ども」
〈闇からの支配者〉のみが鷹揚に、大量の出現者を出迎えた。
広間の四方向にある入り口から、異常な雰囲気に巻かれた老若男女が次々となだれ込んできた。皆一様に、視点の定まらない双眸を血走らせ、熱い息を弾ませている。彼らは、あっという間にイルゼ達を取り囲んだ。
「この人達は一体っ?」
イルゼは困惑と動揺を隠せない。
彼らは今にも飛びかかってきそうな気配を放っていたが、身なりは見るからに素朴な一般の人々だった。そばかすの顔の若者、ふくよかな中年女性、イルゼやセレファンスと同年代の少年もいる。
「セレファンス様、まさか、この者達は――」
レシェンドがセレファンスを見た。
「ああ、この離宮で働いていた下仕えの者達だろう。恐らく彼らは『奴』に操られているだけの人質だ。この離宮に多くの人間がいると聞いてから、嫌な予感はしていたけどな」
そう言って顔をしかめたセレファンスに〈闇からの支配者〉は愉快そうに薄く笑った。
「察しの通り、彼らはこの離宮で真面目に働いていただけの人間達。しかし今は、闇の意志に忠実なる傀儡だ。人間の心には必ず闇に帰属する感情が存在する。そこな彼らは、アドニスという大国の最底辺に身を置く貧しき者達。いわば、いいように他から搾取されるだけの、ただただ無為に流れる日々を全うする家畜の如き存在だ。そんな彼らの心底には、己の人生に対する悲嘆や絶望といった常闇が、澱の如く深く降り積もっている。その常闇に私は些細な影響を施した。それによって彼らの感情は今、諦念から憤怒へと変質し、外に向けられている状態だ」
〈闇からの支配者〉は細めた双眸を眼下のイルゼ達へと向ける。
「其の方らは今までも、何度か彼らのような者達と相対してきたはずだ。たとえば人間に蹂躙され続けてきた森の妖精達。己の境遇に不満を抱いていたツワルファの青年達。そして、セオリムの村やリゼットの皇妃と皇女を襲った無頼漢ども――」
その瞬間、イルゼとセレファンスの顔色が変わった。しかし〈闇からの支配者〉は、からかうように次の言葉を続ける。
「そして、アドニスの皇王ディオニセスも」
(え? お父さん?)
イルゼはその言葉に反応したが〈闇からの支配者〉は疑問を問い質す暇を与えてはくれなかった。
「ただし、この者達は彼ら以上に哀れな者達かも知れんな。己の境遇の原因も理解できずに、ただただ愚かに無差別に、怒りを降り散らすことしかできないのだから。その上、ここで我が手先として其の方らに斬り殺されるのならば、彼らは己の命までも簡単に搾取される存在だったということだ」
そこまで言って〈闇からの支配者〉は引きつるような笑いを洩らす。
「なんて卑劣な……!」
レシェンドは憤るように呻いた。すると次の瞬間、
「うわっ!」
セレファンスが驚愕の声を上げる。頭の禿げ上がった初老の男が、彼の金髪に向かって斧を振り落としてきたのだ。
間一髪、それを避けたセレファンスは、すかさず暴徒の集団に向かって男を蹴り飛ばした。男は、多数の周囲を道連れにして床へと倒れ込む。しかし、その痛みなど感じてはいないのか、すぐに男は立ち上がると再びイルゼ達へと向かってきた。
イルゼ達は、自分達に襲いかかる不気味な狂気に戸惑っていた。それを言葉によって鎮めることは叶わず、かといって問答無用に切り捨てることもできない。
「くそっ……!」
イルゼ達は、向かってくる者達を剣の腹で次々と押し退けて、彼らの体勢を崩し続けた。
殆どの者は武器を持たず、素手で掴みかかってくるのみだ。力も弱く、動きもさほど早くはない。だが、何しろ多勢に無勢だ。少しでも気を抜くと、次々に突き出されてくる手が、身体のいたるところを掴み取る。そして、それらに動きを止められようものならば、すかさず斧やら鉈やらを携えた男達が振りかぶってくるのだ。
「わっ……!?」
イルゼは背後から思いっきり引かれる力に悲鳴を上げた。服が、髪が、腕が、一斉に掴みとられていた。イルゼは堪らず体勢を崩す。
(このまま倒れたら……やられる!)
思わずイルゼは双眸を閉じた。
だが次の瞬間、イルゼは自分を下から掬い上げてくれる力強い腕を感じた。驚いて目を開けると、そこにはカルカースの顔があった。
「カルカースさん……っ!」
「早く体勢を立て直せ! 背を合わせて円陣を組んだほうがいい!」
カルカースは鞘に収めた剣で周囲を押し返しながら、前半はイルゼに、後半はセレファンスらに叫ぶ。
その提案を受け入れて、イルゼ達はすぐさま、背中合わせになって円陣を組んだ。
「けど、これじゃあキリがないぞっ……」
さすがのセレファンスも苦慮の感想を零す。相手が〈闇からの支配者〉や化け物であれば、容赦のない行動に出ることも可能だろう。だが、ここにいる人々は〈闇からの支配者〉に操られているだけの一般の人々なのだ。
「さあさ、何をグズグズしている? 其の方らが本気になりさえすれば、そやつら如き、すぐに斬って捨てることなどできよう? それともまさか、このまま袋だたきにされて終わりか? いやはや、なんとも味気のない……ははははっ!」
〈闇からの支配者〉が実に楽しげな笑声をたてた。
だが、このままでは、さほどの時間を必要とせずに〈闇からの支配者〉の言う通りになってしまうだろう。
「仕方がないのか……!」
セレファンスが焦燥に満ちた言葉を洩らす。
「待って、セレ! もしかしたら、どうにかなるかも――いや、してみせる!」
「イルゼっ?」
「だって彼らは、まだ人間の姿をしてるじゃないか。完全な〈闇の従属〉となった者は、ツワルファ族の青年達や守護樹のように醜怪な化け物となってしまうんだろう? 彼らはまだ完全に心を闇に明け渡していない! だったら彼らには、まだ助かる可能性がある!」
「でも、一人や二人ならまだしも、こんな大人数をどうやって……!」
「セレらしくもない」
そう言ってイルゼは少しだけ笑った。
「なんだか、いつもとは逆の立場だ。大丈夫、僕がなんとかしてみせるよ。それは、僕にしかできないことだから」
そんなイルゼの言葉にセレファンスは一瞬、傷ついたような、悲しそうな表情で顔を歪める。
「心配しないで、大丈夫だよ。自信があるんだ。僕は臆病だから、自信のあることしか口にしない」
更にイルゼは言う。するとセレファンスは決心をつけたように頷いた。
「分かった。そこまでお前が言うんなら、ちゃんとした確信があるんだろう。それで? 俺達はどうしたらいい?」
「ありがとう」
イルゼはセレファンスの信頼を嬉しく思いながら要望を伝える。
「――了解。お前の行動が終わるまで、奴らをお前に近づけさせなければいいんだな?」
「うん、頼む」
イルゼは頷く。セレファンスはレシェンドに、イルゼはカルカースに同じ要望を伝える。そして、イルゼを中心に、彼を除いた三人は再び円陣を組み直した。
「何をするつもりだ、イルゼ?」
カルカースの問いかけに、イルゼは微かな笑みで答える。こんな切迫した状態であるにも関わらず、不思議と心は研ぎ澄まされていた。
「僕はもう、後悔したくないんです。だから、できることならなんでもしようって決めたんです」
イルゼは大きく息を吸い込んだ。そして自分の心の帳で見失っていた祈りを口ずさみ始める。
「叡智にます生命の母よ、我は其の意なり、其は我が力なり……」
それは母が自分に遺してくれたもの。その深い愛情に等しいもの。それを信じられるようになった今、やっと闇の底から取り戻した母との絆。
(もう、自分への想いに惑わない。自分からの想いに迷いを持たない。あとは自分の持つ可能性を信じるだけ……!)
イルゼは両腕を天に向かって突き上げ、不思議な韻を持つ祈りを更に続ける。
「現象の生まれに祝福を与え、我らの原罪を赦したまえ。慈愛の涙は息吹となり、光の園は生命の苗床となる」
天に向けられた手の平は、どこかから下された力を確かに受け取る。身体全体に満ちた〈神に属する力〉はイルゼの祈りに反応し、力強い〈マナ〉へと変化していく。
「我は其の意なり、其は我が力なり。現象の祈りを聞き届け、哀れなる魂を解放せよ――!」
最後の祈りを叫んだ瞬間、イルゼは自分を中心にして、世界が輝いたことを感じていた。
光が消え失せ、周囲が圧力のある静寂に支配される。
イルゼは茫然と、自身のもたらした結果を見つめていた。
「これは……」
セレファンスが掠れた声音で無意識のように呟く。
ドサ、ドサササ、という音を立てて次々に人が倒れ込んでいく。そんな中で地に最後まで倒れ込まずに済んだ者は、イルゼとセレファンス、カルカースとレシェンドの四人のみだった。
「ほう、これはこれは」
宙に浮かぶ〈闇からの支配者〉は心底、驚いたような、感心したような声音を洩らした。
おもむろにカルカースが無言で片膝をつき、倒れた一人の首筋に手を当てる。
「……気を失っているだけのようだな」
そんなカルカースの言葉に、イルゼは脱力するかのような安堵感に捕らわれた。もちろん、無責任な楽観と生半可な覚悟で〈ディア・ルーン〉を行使したわけではない。それでも最悪の事態という懸念を完全に捨て去ることはできなかったのだ。
「素晴らしい。とうとう神なる力を己のものとしたのだな」
〈闇からの支配者〉は賞賛の声をイルゼに向ける。そしてゆっくりと、宙に浮いていた身をイルゼ達の前に降ろした。
「これで全ての要素は揃ったということだ。〈鍵〉は成され〈破壊の王〉へと捧げられる。今こそ、我らが渇望する混沌への扉が開かれる――……!」
恍惚とした声音で〈闇からの支配者〉は一人、感奮する。
イルゼは多大な〈マナ〉を放出した反動もあって唖然とし、セレファンスらは眉根をひそめて『彼』を注視する。
「長かった……全てに絶望し、嫌気が差し、ならばいっそのこと全てを、世界を破壊してしまえばいいのだと決意したあの時から――幾年月が流れたであろうか。だがとうとう、やっと余の願いが叶う時がきたのだな。ああ、褒めてつかわそうぞ、イルファード――我が息子よ」
唐突に発せられた思わぬ言葉に、イルゼは呆気とした。訝しく眉根を寄せ、まじまじと〈闇からの支配者〉を睨めつける。息子? 何を言っているのだ、この男は?
だが〈闇からの支配者〉が目深くかぶっていた頭巾をはずした瞬間、イルゼは目を疑った。
「……お、父さん……!?」
頭巾の下から現れた素顔――それは紛れもなく、イルゼの実父であるディオニセスのものだったのだ。
「おい、なんでここに、イルゼの親父さんがっ?」
セレファンスも驚愕を隠さない。
(違う、そんなわけがない!)
イルゼはすぐさま否定する。
「セレ、違うっ! あれは、お父さんなんかじゃない! 『奴』には特定の姿がないんだ。その代わり、様々な人達の姿を盗む……! こいつは以前にフィーナにもなったことがあったんだ。だから今度だって……!」
「『余』は〈闇からの支配者〉。闇に生きる者全てを統べる『モノ』。この苦界で闇を抱えて生きる者達――すなわち全ての人間に繋がりを持つ存在」
イルゼの否定を情け容赦のない声音が遮った。
「『余』は〈闇からの支配者〉でありながら、ディオニセスという男でもある。ディオニセスという男でもあるが、そこらに倒れる哀れな者達でもあり、その他大勢の人間でもあり生物でもある。心に深い闇を持つ者ほど、色濃く〈闇からの支配者〉に帰属する。ディオニセスは、その一人だ。その者の抱える心の闇を〈闇からの支配者〉の容姿と思考に反映させることなど造作もない。今の『余』はディオニセスの内なる心そのもの――本心を具現化したような存在だろう」
そう言って〈闇からの支配者〉はディオニセスの容貌で酷薄に笑んだ。そんな実父の表情をイルゼは今まで見たことがなかった。
この『ディオニセス』は、イルゼの見知っている実父ディオニセスとは全く異なっていた。今もアドニスの皇城にいるであろう実父は、いつも上の空で宙を仰いでいるような、気概のない虚ろな老人だった。だが、この『ディオニセス』は、容姿こそ本物と同じ七十近い老人ではあるが、放つ雰囲気がまるで違った。老年を迎えて身につく老獪さを窺わせ、目に見える覇気ではなく、見えぬところで燻る火種の如く静かな気迫を感じさせた。そこには皇王に相応しい気格さえあった。
だが、どこかで似た雰囲気の実父を見たことがあるような――そう思ってイルゼは気がついた。
(ああ、そうか、分かった――『彼』は、若い頃のお父さんに似ているんだ)
アドニスの皇城には、歴代のアドニス皇族の肖像画を保管する離れがある。イルゼは一度、ラートリーに案内され、そこで若かりし頃のディオニセスが描かれた肖像画を目にしたのだ。その時に見た若い実父は、厳つい体躯と気格の高い容貌、そして力強い威風に満ちた精悍な様子の若者だった。
「以前、其の方に見せたフィーナの姿にしても同じことだ」
イルゼの思考を打ち切るかのように〈闇からの支配者〉は言った。
「其の方の大切な少女は死する寸前、その絶望を闇の前に曝け出した。その絶望は〈闇からの支配者〉である『余』の中に鮮明な負念となって残っている。あれは紛れもなくフィーナの心だった。『余』の中に残された彼女の真なる願いは〈闇からの支配者〉という『悪しき存在』の力を借りてでも、其の方に抱かれたいとする少女の欲望だ」
「何を、言って……」
突然に言われた事柄にイルゼは動揺した。ディオニセスの姿をした〈闇からの支配者〉は、そんな少年をからかうような様子で続けた。
「其の方は、あの時のフィーナに惹かれたであろう? 当然だ、あれはフィーナの闇に属する心から生み出された真の姿なのだから。其の方に抱かれ、一つとなり、死してもなお、其の方の心を束縛したいという、なんとも独り善がりな情欲だった」
「っ……やめろ!!」
イルゼは『ディオニセス』が浮かべる嫌らしい微笑に耐え切れず、怒号した。
「ほう? なんだ、失望したのか? 清らかな恋人であったはずの淫らな本心を知って?」
「違う……っ! お前にフィーナの心を弄ぶ権利などない! その心だって本当に僕を愛してくれたフィーナの大切な感情だ! だけど彼女は自分の心を押し殺してでも、僕のために未来の道を示してくれたんだっ……! そんな彼女を愛おしく思っても、失望なんてするものかっ!」
「はっ、なんとも慈悲深き愛情だ。ならばイルファード――その懐深い愛情を、この父にも示してもらおうか」
突如、周囲に突風が吹き荒れる。
「なっ……!」
「危ない、伏せろ!」
セレファンスが叫んだ。イルゼは何が起こったのかを全く理解していなかったが、咄嗟に従って地に伏せる。次の瞬間、頭上すれすれを何かが駆け抜け、振動の伴う轟音が背後で爆発する。振り返ると、黒石の壁には大きな横一文字が刻まれていた。
しかしゾッとするのも束の間だった。ディオニセスの姿をした〈闇からの支配者〉は、いつの間にか空中に戻った高みから厳酷なる声で命じたのだった。
「さあ、イルファード、その身をこの偉大なる父に捧げよ。そのために其の方は、この世に生まれてきたのだから」
「違うっ! 僕の存在は、決して『お前』なんかに利用されるためじゃない!」
イルゼは目の前の不快な存在を消し去るために、己の中に在る最大の力を形にせんとする。
「叡智を支配する総ての主よ、我は其の僕なり、其は我が力なり。現象の昇華を願い、蔓延る咎を煉獄へと誘え……っ」
「ふっ……手に入れたばかりのつけ焼刃な力だ」
〈闇からの支配者〉は滑るようにして空中を移動し、瞬時にイルゼへと詰め寄る。そして、手にしていた長剣を一気に振り下ろした。
「――っ!」
ガキンという激しい金属音と衝撃に、イルゼは顔をしかめた。
「ほう、良く受けた。少しはできるらしいな。だが、余の息子としては、まだまだだ」
「うるさいっ……息子なんて呼ぶなっ!」
イルゼは苛立たしげに叫ぶ。この男の声音は、完全にイルゼを弄ぶものだ。今の攻撃にしても、本気で打ち込まれたものではない。
「やれやれ――其の方の価値は、全て否定で成り立っているようだな。そうしなければ、自己を確立できないか」
「……何をふざけたことを! お前の存在こそ、否定そのものじゃないか! 僕は僕だ、ここにこうして存在している、たった一人の僕が全ての証だ! 残酷な復讐を望んだ自分も、過去を否定して優しい欺瞞を望んだ自分も、ディオニセスを軽蔑せずにはいられない自分も――全てが僕である証明だ! そんな僕でも、大切に想ってくれる人達がいた! 血の繋がらない僕を育ててくれた父さんも、この世に僕を産み出してくれたアラリエルお母さんも!!」
イルゼの言葉に『ディオニセス』は驚いたようにして双眸を見開く。
「アラリエルが其の方を大切に想っていただと? 其の方はまだ、あの女が受けた屈辱の深さを理解していなかったのか?」
「それはっ……!」
(理解は、してる……! どれだけお母さんが酷くて辛い目にあったのか……っ! それでも、お母さんは僕を愛してくれた! セレのお母さんは、それこそが僕の起こした奇跡だと言ってくれた! でも、でも――っ)
イルゼはカルカースのことを思わずにはいられない。ここでイルゼが思いの丈を叫ぶことは、母を愛していた青年にとって許しがたいことに違いない――と。
「親愛なる風の精霊よ、我が意を知り、我が声を聞け……!」
イルゼの耳に届いた力強く凜とした声。
「汝の力を此の内に授け、我が望みを扶翼せよ!」
高らかに上がるセレファンスの詠唱。イルゼと『ディオニセス』との間に激しい風圧が巻き起こる。
「何っ……!?」
その風に押えつけられるようにして『ディオニセス』の宙に浮かんでいた身体が地に降ろされる。
「こっちのことをすっかりと忘れてたみたいだな。今のであんたの周りに風圧の壁を作らせてもらった。これなら宙を移動することなんて、できやしないだろう? 風の扱いなら俺だって負けないさ」
「小賢しい真似を……!」
不敵に笑うセレファンスを見て『ディオニセス』は忌々しげに顔をしかめた。
「それに彼らのこともな」
セレファンスの声と同時に『ディオニセス』は左右から鋭い挟撃に見舞われる。それはカルカースとレシェンドからの剣撃だった。
「っ――!」
「……くっ!」
しかし無念の声を上げたのは『ディオニセス』ではなかった。絶妙の連携で打ち込まれたはずの二閃は、瞬時に『ディオニセス』が構えた剣と鞘によって、あえなく受け止められたのだ。
「誠に小賢しいこと、この上もない……。永久の時を経てもなお『余』は健在せし存在。貴様ら如きに傷つけられるものではないわ!」
『ディオニセス』は獣のように咆哮すると、カルカースとレシェンドを一気に退けた。
それでも二人は再び『ディオニセス』への攻撃を続ける。それを『ディオニセス』はことごとく防ぎ、しまいには小馬鹿にしたような笑みを浮かべてのたまわった。
「全く、己の実力を理解できないことほど哀れなものはないな。さてさて、そんなことでは、余に掠り傷の一つも与えられないぞ?」
『ディオニセス』の弄するような声音は、彼らの間にある力量の差を物語っていた。
そんな様子をイルゼは信じられない思いで見る。カルカースもレシェンドも剣術に関しては一流の腕を誇っているはずだ。しかし『ディオニセス』は、そんな彼らを二人同時に相手をしながら、まるで子供の稽古にでもつきあっているかのような余裕を見せていた。
『ディオニセス』に遊び心があるうちはいいが、それがなくなった時、二人は容赦なく排除されるだろう。
イルゼは再び『ディオニセス』の関心を自分に取り戻そうと考える。だが横合いからそれを止める者がいた。
「セレ」
二の腕を掴まれたイルゼが振り返ると、そこには彼の青い双眸があった。
「二人が奴を引きつけているうちに〈ディア・ルーン〉の続きを」
セレファンスが有無を言わせない声音で言う。
「俺の〈マナ〉やレシィ達の剣術では、あいつを倒すことなんてできない。そんなことは今更だ。……それでも俺は何があっても、お前の傍を離れない。それが俺にできるたった一つのことだからな」
瞬間、イルゼは自分の浅はかさに気がついた。
今、自分は、なんのためにここにいるのか? それは〈闇からの支配者〉を完全に打ち負かし、自分達の未来を取り戻すためだ。
彼らは何故、敵わないと分かり切っているのに、執拗に〈闇からの支配者〉へと立ち向かっていくのか? それは少しでもイルゼに時間的な猶予を与えようと必死なためではないか。
「……ごめん、セレ。ありがとう」
イルゼは気づかせてくれた友人に感謝する。
(うん、大丈夫――なんだか凄くやる気が出てきた)
イルゼは大きく深呼吸をした。そして、自分の中の様々な感情を研ぎ澄ませていく。
今から行使する強大な力に飲み込まれないように。自分の中にある大切な想いを一つ一つ、確かめるために。自分を苗床にして育まれてきた光を感じるために――
「……叡智を支配する総ての主よ、我は其の僕なり、其は我が力なり。現象への慈悲を願い、蔓延る咎を煉獄へと誘え――……」
イルゼの詠唱が空気を震わす。異変に気づいた『ディオニセス』が、こちらを振り返った。
「免償を抱いた……魂は還り……、破壊は――再生を願う……礎と、なるっ……」
(な、んだっ? 急に、一言一言が重たくなった……っ!)
先程は感じなかった甚だしい重圧にイルゼは喘ぐ。
「馬鹿め」
『ディオニセス』は短く吐き捨てると、自分に向かって攻撃を繰り出し続けていたカルカースとレシェンドを煩わしそうに見た。
「邪魔だ、退け!」
『ディオニセス』の一喝が響いた瞬間、
「――がああああっ!」
「ああああっ!」
カルカースとレシェンドの激しい悲鳴が同時に上がる。
彼らの身体は地面から伸びた黒い一閃によって貫かれ、ゆっくりと地に崩れ落ちた。
「全く、余計な力を使わせる。全てが終わるまで貴様らはそうして寝ているがいい」
「レシィ!」
セレファンスが一瞬、倒れたレシェンドに駆け寄ろうとした。が、自分達に向かって歩んでくる『ディオニセス』を見て、すかさず剣を抜き放つ。
「……これ以上、イルゼには近づけさせない……!」
構えを取る金髪の少年に対して『ディオニセス』は冷ややかな一瞥をくれただけで、すぐにイルゼへと視線を転じた。
「イルファード、これ以上、下らない真似はするな。其の方はすでに〈ディア・ルーン〉によって〈マナ〉を顕現させている。その祈りによって手に入れるは神に属する力。そう何度も行使できるものではない。しかも今、其の方が唱えているのは、最も術者に危険を伴う破壊の祈り。このままでは、其の方の命まで尽きてしまうぞ?」
「っ……」
(確かに……このままじゃ〈マナ〉が暴走してしまうっ……! なんとか安定させないと!)
「意地を張るな、イルファード――我が息子よ。その力で其の方が倒そうとしているのは、この父なのだぞ?」
「違うっ……お前は、お父さんなんかじゃないっ……!」
イルゼは自分の内側で暴乱する力に喘ぎながら反発する。
「いいや、其の方が否定しようとしているのはディオニセスという男だ。其の方の実父である男だ。其の方をもっとも必要としている、この父を否定してどうするのだ?」
「……貴方が求めていたのは、息子である僕じゃないっ……! 今だって世界の滅亡を実現できる僕としてしか、必要としていないくせに……!」
「それは当然のことだろう。そうでなければ其の方に否定された余と、余を否定することで成り立つ其の方は、共にあることができないのだ。〈界の秩序の崩壊〉が成され、全ての世界が一つになった時こそ、相反するもの同士が交じり合うことができる。それこそが唯一、我々が真に理解し合える方法なのだ。人は永遠に分かり合うことのできない愚かな生き物なのだから」
「っ……!」
(……苦しい!)
『ディオニセス』の言葉が目に見えない刃となって心に突き刺さる。その反動で感情が揺れ動き、ますます〈マナ〉が不安定になった。
「今、その〈ディア・ルーン〉を無理に完成させれば、其の方の命は確実に尽きるであろう。万が一、それで『余』と相打ちになったとしても、その後に続く世界に其の方は存在しない。それでも他の人間達は、其の方の犠牲の上に幸福を築くだろう。そうして彼らは其の方のことも、人間の罪も、地の底に封じたように忘れ去る――」
「ふざけるな! そんなことになるかっ!」
そこでセレファンスが我慢の限界を超えたかのように怒鳴った。
「イルゼに何もないような言い方をするな! お前自身が他者を信じられないからと言って、それをイルゼに押しつけるなっ! どんなことがあっても俺はイルゼを見捨てないし、離れない! 絶対にお前を倒せると信じてる!!」
「はっ……人間は己の心から生み出された感情さえも、都合が悪ければ闇に捨てられる生き物だぞ? そんな脆弱な存在が、他人の全てを受け入れて信じられる強さなど持つものか!!」
次の瞬間、セレファンスの身体を一筋の黒い影が勢い良く貫く。
「セレ!!」
悲鳴を上げるイルゼの前で、セレファンスは声を上げることも叶わずに地へとくずおれる。
「口先だけならば、なんとでも言える。人間が賢明な生き物であったのならば、もっと強い意思の持つ者達であったのならば『余』のような存在が生み出されることはなかった……! セレファンス皇子には其の方を信じる資格などない。彼にもまた闇へと捨て去ったままの感情があるのだからな。そしてイルファード、其の方もまたしかり」
『ディオニセス』の姿を形取った〈闇からの支配者〉に視線を向けられ、イルゼは居竦まる。
「思い出せ、イルファード――其の方に見せた真実を。察するがいい、母アラリエルの受けた想像の絶する屈辱と苦痛を。其の方の養父ダグラスでさえも、其の方の存在を否定したではないか。それなのに何故、其の方は、そうも意固地に己の存在を認めようとする?」
「僕はっ……!」
イルゼは反論しようとして言葉を詰まらせた。
自分を肯定しようとする言葉が出てこない。あんなに優しい時間をアラリエルと共有できたとしても、彼女が自分を認めてくれたとしても、やはり自分という存在は紛れもなく母の受けた屈辱の上に成り立っているのだから。そして今もなお、その母を愛している青年へと苦痛を与え続けているのだから。
「それともまだ真実は足りないか? 其の方の母アラリエルは、最期まで決して救われることのない女だった。あの女は余との時間を虚ろに過ごし、その他の時間を絶望で過ごし続けた。アラリエルは心だけに限れば、純真無垢な娘であり続けたのかも知れない。どんなに絶望に叩きのめされようとも、罪の意識に苛まれようとも、愛した者への感情を闇に捨て去る真似はしなかったからだ。絶望よりも忘却を恐れていた。何しろあの女は、余に抱かれた後は必ず、赦しを請うようにしてカルカースの名を口にし、すすり泣いていたのだからな」
「……――!!」
愕然とするイルゼの前で『ディオニセス』は引きつるように笑った。アラリエルの直向きな純真さを嘲弄するように。
その瞬間、イルゼの中で一気に激情が突き上がる。それに伴い駆け巡る様々な記憶。
〈闇からの支配者〉によって見せられた辛いばかりの真実、セレファンスの母に導かれて出会ったアラリエル、そして過去の自分と繋がった奇跡、自分を息子と認めてくれた母の笑顔――全てが閃光のように閃いて脳内で真っ白に弾けた。
完全に正常な思考は停止し、イルゼの行動は全くの感情に突き動かされる。
もういい、もう、お前なんか、消えてなくなってしまうがいい――!!
イルゼは声なく叫声し、己の中の不安定だった〈マナ〉を無我の極致で集束させる。そして自分でも驚くほどに苦労なく力を掴み取ると、一切の躊躇いなく、一気に、忌々しい『奴』へと強大な力を放った!
いや、まさに放とうとした直前だった。
その時、イルゼの双眸が捉えたのは『ディオニセス』の背に向かって猛進してくるカルカースの姿。その両手には長剣が握られており、その刀身が真っ直ぐに煌いている。
止める間もなく迫りくる尖端、それに全く気づいていない『ディオニセス』。
そして何よりも、少年に強烈な衝迫をもたらしたのは青年の放つ鮮烈な憎悪だった。
(……どうしてだろう……なんで――)
この時ほどイルゼは、自分の馬鹿さ加減に呆れたことはない。
イルゼは何故か、カルカースと『ディオニセス』の間に割って入っていた。
脇腹に感じる鈍重な痛み、唖然と自分を見つめるカルカースの顔。
気がついた時には、そんな状態になっていた。
(なんでだろう……『奴』は、本物のお父さんじゃないのに――)
それでも身体が動いてしまった。カルカースの憎悪を目の当たりにした瞬間、どうしてか――
なんにしろ、寸前まで自分が倒そうとしていた相手を庇ってしまうなんて、滑稽で馬鹿げた行為の何物でもない――イルゼは可笑しくなって小さく笑った。
と、胸に急激な圧迫を感じてイルゼは軽く咳き込んだ。すると堰を切ったかのように、喉の奥から熱いものが迫り上がってくる。
イルゼは慌てて口元を手で押さえた。次の瞬間、口内は熱い液体で一杯になり、瞬く間に容量の限界を超えて口から吹き出した。口元を押えていた手の隙間から、赤黒い液体が大量に流れ出る。
「イルゼ!」
カルカースの悲痛な呼びかけが耳に入った。だが、それはとても遠くに聞こえているようだった。
(……あれ?)
イルゼは首を傾げた。いつの間にか見ている景色の様子が違うと感じたのだ。
暫く経ってから、自分は地面に倒れてしまったのだと気づく。
おもむろに視界を移動させると、冷ややかに自分を見下ろす『ディオニセス』が目に入った。
イルゼは不思議と凪いだ心地で『彼』を見つめた。今となっては『彼』に対して憤りを感じていなかった。恐ろしさも感じなかった。
実父の姿をした『彼』は、そんな自分を目にしながらも何も言わなかったが、その冷たい視線から察するに、馬鹿な奴とでも思っているのだろう。
「イルゼ! 何故、こんなっ……!」
カルカースがイルゼを覗き込み、咽ぶようにして言った。
こんなに取り乱すカルカースを初めて見たな、とイルゼは漫然に思いながら、自分の馬鹿げた行動の理由を口にする。
「分からない……けど、カルカースさんが、お父さんをすごく恨んでいるのが分かって……どうしてか、嫌だと思った……」
カルカースがディオニセスを恨むのは当然だ。彼によって最愛の者を奪われたのだから。同じ境遇に立ったイルゼといえば、自分の持つ最大の力を使って、残酷な仇討ちを果たしたのだから。
「……だけど、自分と同じことをしようとする、カルカースさんを見たくなかったから……それに、やっぱり僕は、お父さんの子供だから――」
頭が上手く働かない。意識が途中で途切れそうになる。そんな支障のある中でイルゼは、ただただ胸に生じる感情をとりとめもなく言葉にした。
「ふん――結局、くだらない感傷でこのざまか。愚かしいにもほどがある。初めから大人しく従っていれば、このように辛い思いをすることもなかっただろうに」
「貴様は……っ!」
カルカースは冷たく言い放った『ディオニセス』を鋭く睨みつける。
「貴様が本当にディオニセスだというのならば何故、そんなことが言えるっ? 実の父親であり、イルゼをアドニスの皇城に閉じ込めておきながら何故、貴様は、この子の優しい心を知ろうとしなかった!!」
「優しい心? そんなものは覇者である余の子供には必要のないものだ。それにしてもカルカース、その台詞は余と共にイルファードを陥れた其の方の言う言葉ではないな。余は其の方を高く買っていた。その精神を最後まで己のものとして保ち続け、闇に屈することはしなかった。その気魄は賞賛に値しよう。だがその毒気も、ここにきて完全に抜かれたようだな。そんなに我が息子は、其の方の愛しい娘と似ていたか? イルファードをアラリエルの代わりにして、それで満足か?」
「っ……違う! この子はこの子だ! だが、アラリエル様には、良く似ている――……」
悲しみと苦悩に満ちたカルカースの声。今となってはイルゼの視界は薄暗い膜に覆われており、そんなカルカースの表情までは判別できなかった。
ああ、きっと僕は死ぬのだろう――。ぼんやりとイルゼは思った。
そんなイルゼの耳に興醒めしたような『ディオニセス』の声が届いた。
「まあ、なんにしろ、それを其の方にくれてやるわけにはいかないな。イルファードは〈破壊の王〉に捧げる供物なのだから」
「っ……何をする!」
カルカースが叫ぶ。
「言ったであろう、供物だと。多少、活きは悪くなったが、死んでいないのならば問題はない。いや、むしろ、この状態のほうが〈破壊の王〉も〈鍵〉であるイルゼの力を喰らいやすいであろう」
「やめろ!」
カルカースが再び叫んだ。
この時、イルゼは自分の身体が宙に浮いているような感覚を感じていた。……いや、ようなではなく、本当に浮いているのだろう。
「やめろっ……やめてくれ!!」
カルカースの懇願が悲鳴となって響いた。
次の瞬間、イルゼは重力に逆らう力から解放される。その時、彼が認識したのは、胸がすくような不思議な感覚。そして「イルゼ!」というカルカースの叫声。
そんな救われない状況を、イルゼはただぼんやりと甘受するしかなかった。
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