第50話 その先へ

 イルゼ……イルゼ――……


 誰かが自分を呼んでいる。傍らにあることで心強く、安心感に満たされる声――


「おいっ、イルゼ!」


 その力強い呼びかけが、イルゼの意識を闇の淵から掬い上げた。双眸を開けると、必死な表情で自分を覗き込む金髪の少年がいた。


「セレ」

「イルゼ!」


 途端、金髪の少年――セレファンスは、歓喜に顔を輝かせる。


「イルゼ、やっと気づいたのか! 良かった、良かった本当に……っ」


 その語尾が一瞬、涙を孕んで掠れたが、負けん気の強い少年はすぐに声音を安定させた。


「イルゼ、お前、今の状況が理解できてるか?」

「うん。全部、理解してる」


 イルゼはゆっくりと頷いた。


「僕が今まで、鏡の力で意識を奪われていたこと。そのせいでセレやレシェンドさん、ラートリーに迷惑をかけたこと。それと……僕が気を失っている間、ずっとカルカースさんが世話をしてくれていたことも全部、知ってる」


 一瞬、それを聞いたセレファンスが、驚いた顔でカルカースを見やる。


「ごめんなさい。それと助けてくれてありがとう」


 イルゼが言うと、セレファンスは気にするなとばかりに強く首を横に振る。レシェンドも軽く微笑んで同意する。ただ一人、カルカースだけはどこか複雑な表情でイルゼを見ていた。


「セレファンス様、あちらに寝台がありましたので、取りあえずイルゼをそこに」

「ああ、そうだな」


 イルゼはセレファンスの手を借りて寝台の上へと移動した。その柔らかい場所に身体を横たえると思わず深い溜め息が出た。


「大丈夫か?」


 セレファンスが心配そうな表情でイルゼを覗き込んでくる。


「うん、大丈夫……少し眩暈はするけどね」

「だったら今はとにかく何も考えずに休め。俺達が傍にいるから安心して寝てろ」

「うん、ありがとう」


 セレファンスの勧めにイルゼは心の底から安堵して頷いた。


 確かに自分は精神的な休息を必要としていた。今まで様々な過去を見せられ続けていたせいか、脳内が鈍重としている。こうしている間にも抗いがたい睡魔がイルゼを支配しようとしていた。だが、その前にイルゼは目の前の少年に伝えたいことがあった。


「セレ」


 イルゼが呼ぶと、金髪の友人は「うん?」と首を傾げた。


「僕は鏡の中で君のお母さんだっていう人にあったよ――澄んだ青い瞳と金色の髪をした、とても綺麗で優しい人だった。……そういえば、女の子の格好をしたセレに似てたな」


 そう言ってクスリと笑ったイルゼに、セレファンスは目を丸くする。


「イルゼ、それって」

「うん、その人が全部、本当のことを教えてくれたんだ。父さんのことも、アラリエルお母さんのこともね」


 全てが夢のような出来事だった。だが、あれらは現実と真実に基づいているのだとイルゼは確信していた。


「僕が現実に戻ってこられたのは、きっと君のおかげだと思う。鏡の中に捕らわれている間も、どこかで現実との繋がりを感じていられたから――……それから君のお母さんが、いつも私達のことを愛してくれてありがとうって言ってたよ。私達も、ずっとあなたを愛しているって、君に、伝えてくれ……って――」

(駄目だ……もう、眠い――)


 イルゼの意識が朦朧となる。自分を覗き込むセレファンスの顔が徐々に薄れていく。

 だが、伝えたかったことは伝え切った。ならば、もう我慢をする必要はないだろう――


 そう思った途端、イルゼの意識は眠りの澱に深く沈んでいった。




 それからイルゼは、半日以上の時を昏々と眠り続けた。セレファンスらはイルゼの目覚めを待ち、目覚めた今はささやかながらも一息のつける食事を共に囲っている。


「それにしても敵の本拠地で、こうものんびりできるとは思わなかったな」

「そうですね。ですがそれが反対に不気味でもありますが。――どうぞ、セレファンス様」

「ああ、ありがとう」


 セレファンスはレシェンドの淹れた紅茶を受け取り、その温かな湯気に顔を緩めて口をつける。


「まあ、こんなところまで俺達が忍んでくるとは向こうも思っていないのかもな」

「それはどうだろうか」


 カルカースも渡された紅茶を受け取って口元につけてから続けた。


「その考えはあまりにも『奴』を見くびっている。イルゼが鏡の力から解放された以上、恐らく我々の行動は『奴』に気取られていることだろう」

「だったらなんで〈闇からの支配者〉は何もしてこないんだ?」

「する必要がないからだ。すでに賽は振られて久しい。『奴』も我々も後戻りなどできはしない。ここで全てを終わらせなければ人間は滅亡の一途を辿ることになる。それを『奴』は知っており、我々が後に引けない状況であることを十分に理解している。そして今ここで、イルゼを犠牲にすることの無意味さもな」

「僕の犠牲?」


 イルゼは目を瞬く。するとセレファンスは「余計なことを」と言わんばかりにカルカースを睨んだ。


「そんなの、俺は望まないって言ったはずだ。それなのに、なんでわざわざ、それをイルゼに聞かせる必要があるんだ!」


 強い不満を露わにした少年を横目に、カルカースはやれやれとばかりに肩を竦める。


「どうも君はイルゼが絡む話になると、途端に感情的な思考しかできなくなるようだ。友を大切に思う気持ちは結構なことだが、だからこそ、もう少し冷静な視野を持つように心がけたほうが良いのでは?」

「……なっ」


 カルカースの冷ややかな忠告にセレファンスは絶句する。


「確かにカルカースの考えは当たっているのでしょうね……」


 その横で腹心の臣下が思い深く呟くのを聞いて「おい、レシィまでそういうことを言わないでくれ」とセレファンスは情けない顔をした。


「いえ、そうではなく」


 レシェンドは困ったかのようにかぶりを振る。


「イルゼを犠牲にして得られる安寧は無意味であるとする考えについて私は申し上げているのです。何故ならば〈界の秩序の崩壊〉に導く〈鍵〉であるイルゼの死は、同時に世界を救い得る力をも失うことを意味する……そういうことではありませんか?」


 レシェンドがカルカースを見る。すると青年は頷いた。


「イルゼはエスティア王家最後の直系だ。このままイルゼを犠牲にしたのならば〈ディア・ルーン〉を継承できる血筋は完全に途絶える。そうなればフォントゥネルは短い安寧を得る代わりに、最大のよすがを失うことになるだろう。それは世界の滅亡を確定させる愚行に他ならない」

「つまり今が、この世界の未来を是正する最後の機会だってことか?」


 気を取り直したらしいセレファンスが問う。


「そういうことだ。それを成すためにはイルゼの持つ力が必要不可欠だ。ならばどんな些細なことであっても、イルゼには知る権利があるだろう。傷つくことや傷つけることを恐れて、全てを隠すことは誰のためにもならない。君は以前の一件で、それを十分に理解しているはずだと思っていたが」

「う……」


 セレファンスは痛いところを突かれた様子で呻いた。以前にセレファンスは重大な真実を隠し続けたことで、イルゼの信頼を失ったことがあった。それをカルカースは指摘しているのだ。


 彼らの論議を傍らで聞いていたイルゼは肩を竦める。


「いつも僕が情けない選択ばかりをするから、セレには心配をかけるんだね、ごめん」

「いや、今のは俺のほうが悪かったんだ」


 そう言ってセレファンスは首を横に振る。


「何度も同じ過ちを繰り返すところだった。確かにお前には知る権利がある。俺の勝手な判断で、それを取り上げるべきじゃない。ただ俺が言いたいことは、俺はお前を犠牲にするつもりはないってことだ」


 セレファンスの真っ直ぐな視線を受けてイルゼは微笑んで頷く。


「うん、でもセレの心配はもっともなんだ。だって以前までの僕だったら〈闇からの支配者〉に自分が敵うはずなんてないとか、自分みたいな奴にできることなんてないって、そうやって自分を卑下して、自分の犠牲で世界が救えるなら、自分を殺してしまおうって考えたと思う。それが一番、安易で楽な方法だから」


 そこまで言ってイルゼは自嘲気味に苦笑した。


「でも今は嫌なんだ。死にたくないって思ってる。僕自身がそう強く願ってる。まだまだ生きていたいって、セレ達と一緒に。だからきっと僕は、すごく貪欲で我が侭になったと思う」


 そう言って笑ったイルゼをセレファンスは興味深そうに見た。


「なんかお前、変わったな。我が侭っていうか強かになった。いや、もちろん良い意味でな」

「うん、そうならなきゃって思ったんだ」


 自分の大切なものを守り通すためには。


「セレ、聞いて。〈闇からの支配者〉は今、この宮殿の地下で〈界の秩序の崩壊〉に向けての準備を着々と進めている。そこには七百年もの間、〈叡智界〉へと去った最愛の者を求め続けた〈破壊の王〉が眠っているんだ。彼が持つ異常な妄執を軸として、そこに僕の存在を捧げることで、世界の――いや、ありとあらゆる空間の全秩序を崩壊させる大爆発を起こす。それが〈闇からの支配者〉が渇望する混沌への道筋」


 そう言ってイルゼは一呼吸を置いてから続ける。


「〈闇からの支配者〉は僕に言ったんだ。〈界の秩序の崩壊〉を起こせば失ったフィーナを取り戻せるだろうってね。そうやって『彼』は僕を〈破壊の王〉と同じ妄執に縛りつけようとした。そうすることで僕を好きなように操ろうとしたんだ。でも僕は〈闇からの支配者〉の言うことは間違ってるって思った。そんなことは、きっとフィーナは望まないって」


 イルゼは今は亡き最愛の少女を悼んで双眸を伏せる。


「だから〈闇からの支配者〉は自分にまつろわない僕の意思と感情をあの鏡の中に閉じ込めた。そこでアラリエルお母さんやエスティアの悲劇を目の当たりにさせて僕の精神を破壊してしまおうと目論んだ。でもそれをセレのお母さんが助けてくれた。それと同時に、君の存在が僕を現実に繋ぎ止めてくれていたんだ」


 イルゼはセレファンスを真っ直ぐに見る。


「セレ、僕はもう逃げない。僕の持つ現実から目を背けない。だからこそ〈闇からの支配者〉は僕達に何も仕かけてこないんだ。ここから僕が逃げ出すことはないって分かったから」


 強い決意を表明したイルゼをセレファンスは感慨深げに見つめる。だが次には苦しそうに表情を歪めた。


「イルゼ、俺はずっとお前に負い目を持っていた。俺はなんにもできないのに、お前に期待ばかりしてるって。だからこれ以上、お前が進むのを嫌がるのなら、それは仕方のないことなんじゃないかって思った。その末にフォントゥネルが滅びようとも、それはもしかしたら人間の宿命なのかもなって」


 そんなセレファンスの言葉に、イルゼは「それは違うよ、セレ」とかぶりを振った。


「その考えは間違ってる。さっきも言っただろう? 君の存在が僕の助けになったって。セレが今まで僕の傍にいてくれたから、絶望の中にいた僕を広い世界に連れ出してくれたから、僕は希望を持ってここにいられるんだ。君に出会えていなかったら、僕は世界を救おうだなんて思えなかった」


 そう言って微笑んたイルゼに、セレファンスは驚いたように目を見張る。それからゆっくりと強ばっていた表情を氷解させた。


「そうか、だったら俺は、どんなことがあっても最後までお前の傍にいる。俺も、もう迷わない」


 そう言い切ってセレファンスもイルゼを真っ直ぐに見た。その青く透き通った双眸には、もはや一片の迷いもない。


 そんな金髪の少年に、イルゼは「ありがとう」と笑う。彼がかけ替えのない唯一無二の親友だとイルゼは心から思えた。それは自分の弱さからくる妄信や盲目ではなく、迂曲しながらも固く紡がれた信頼によるものだ。だからきっとセレファンスは、自分の言葉を全て受け止めてくれる――そうイルゼは信じられた。


「今から話すことは多分、セレ達にとって、とても辛い内容だと思う。それでも、聞いてくれるかい?」


 イルゼの確認にセレファンスは当然だと言わんばかりに頷き、レシェンドはセレファンスと同心であるかのように目を伏せ、カルカースは聞かれるまでもないとでもいうように悠然としていた。


 そんな彼らを見回して、イルゼはゆっくりと語り始めた。この大陸における歴史の真実を。そして皇統が生まれるに至った悪しき由縁を。


 その語りは半刻以上にもなったが、途中で遮る者は誰一人としていなかった。


 そして全てが語られ終えた時、聞き手も語り手も放心したかのように暫くは口を開かなかった。


「……それは本当の話――いや、イルゼが、そんな嘘を言う必要なんてないもんな。でもちょっと、理解が追いつかない」


 最初に沈黙を破ったセレファンスは、混乱した感情を持て余すかのように大きく息をつく。そんな彼を見て、イルゼは居た堪れずに俯いた。


 イルゼもこの真実を〈闇からの支配者〉から明かされた時、あまりの内容に気を失いそうになった。それと同じことをセレファンスにも与えているのだと思うと辛かった。


「まあ、とにかく。一つだけ言っておく」


 イルゼ、とセレファンスに呼ばれ、鳶色の髪の少年は顔を上げる。するとそこには労りを見せる親友の顔があった。


「ありがとな、イルゼ。話すの、辛かっただろう? お前のことだから色々と余計な気を遣いそうだからな。――ほら、今も、そんな顔をしてる」


 図星を指され、イルゼは言葉に詰まった。そして泣きそうになるのを堪えながら、何度も大きくかぶりを振った。


「それにしてもまさか、古代皇国の存亡さえも〈闇からの支配者〉の思惑のうちだったなんてな」


 セレファンスは嘆息する。それにレシェンドも呻くようにして呟いた。


「その上、聖皇シエルセイドが〈闇からの支配者〉を打ち払った英雄ではなく、神の眷属を打ち滅ぼした者だったとは……。しかも今は〈闇からの支配者〉の走狗に成り下がり、世界の混沌を望む存在になっているなどと――イルゼ、これは本当に、全て真実なのですか?」


 この期に及んでイルゼが嘘をつくはずもなかったが、レシェンドは問わずにはいられなかったようだった。無理もない。イルゼの話は皇族の存在意義を覆すほどの内容だ。今まで疑う余地も意味さえもなかった神話は、全て欺瞞であり、皇族は〈闇からの支配者〉の策略から誕生した存在だったのだから。


「全て真実です」


 イルゼは短く、だがはっきりと告げた。しかしレシェンドは更に問い質してくる。


「ですが、それは全て〈闇からの支配者〉から告げられた事柄なのでしょう? ならば、あなたに絶望を植えつけるための嘘という可能性も有り得るのでは?」

「いえ……それは多分、ないと思います。確証はないんですけど、なんとなく分かるんです。そこに嘘がないということは」

「確証はないのに何故、真実だと言い切れるのですか」

「それは……」


 イルゼは言葉を詰まらせる。嘘か真かの判断ができるのは確かだった。聞かされた話が真実ならば、イルゼの中には何故か否定のできない確信が涌くのだから。まるで自分の中に元々、正しい答えがあったかのように。


「レシィ、もうそのくらいにしておけ」


 イルゼの困窮した様子を見かねたのか、セレファンスは語調を強めるレシェンドを制した。


「ですがセレファンス様、これではあまりにも」

「イルゼは嘘を言ってない。そんなことで嘘を言う奴じゃないし、確証もないのに確かだと言うからには、それなりの信念があるはずだ。イルゼにも〈神問い〉の能力が備わっていても不思議じゃないしな」


 セレファンスは全く疑念の含まない双眸でイルゼを見る。そしてレシェンドを見返って言う。


「俺なら大丈夫さ。そりゃあ驚いたけどさ。昔、父上がこんなことを言っていたんだ。伝説は伝説にしか過ぎない。その全てが真実であるとも限らないし、全てが嘘だとも今更、誰にも証明はできないだろうって。だけど今もなお、古代皇国フェインサリルや聖皇シエルセイドは、この大陸に住む多くの人々に畏敬の念を持たれている。現在の皇族に対して民衆が同様にそれを示すのも、その歴史と血統を貴重に感じて高貴だと感じているからに他ならないだろう。だからこそ皇族は、それに見合うだけの責任が必要とされる――」


 セレファンスは自戒するように呟く。


「俺だって少なくとも祖先であるシエルセイドへの敬意はある。でもそれは、父や母へのそれよりは遥かに軽いものだ。俺は今まで母と同じように、この生まれに対して責任を果たそうとは考えてきたけれど、自負として生きてきたわけじゃない」


 そう断言したセレファンスをレシェンドは眩しそうに見て目を細めた。そしてもはや憂いのない声音でセレファンスとイルゼに謝罪を向ける。


「申し訳ありません、セレファンス様、差し出がましいことを申しました。それにイルゼも」


 レシェンドがイルゼに詰めよった理由は、主である少年を慮ってのことだろう。いずれにせよレシェンドにとっては、セレファンスが英雄の血を引くか否かなど大した問題ではないに違いない。


「だけど胸糞が悪いのは確かだ。皇族の歴史そのものが奴らの手のうちで転がされていたなんてな」


 セレファンスは顔をしかめる。


「いや、そうとも言い切れないだろう。少なくとも第五の皇統については」

「第五の皇統って……エスティア王国のことですか?」


 カルカースの言葉にイルゼは首を傾げた。

 それはイルゼの母アラリエルとカルカースの故郷。十七年前にアドニスに攻め滅ぼされ、今はない国だ。


「ああ、そうだ。エスティアは四大皇国に続く第五の皇統だった。それは知られざる真実であり、エスティアの王族は唯一〈闇からの支配者〉の思惑から外れたところに存在していた。しかし十七年前、近年になって力を増し続けていた〈闇からの支配者〉は、とうとうエスティアの存在に気がついた。そして密かに受け継がれていた皇統を掌握するため、アドニスを使って我が祖国を攻め滅ぼしたのだ」

「カルカースさんはエスティアの滅亡が〈闇からの支配者〉の仕業だったことを知っていたんですか?」


 イルゼは意外に思った。この青年は、それを知りながらも〈闇からの支配者〉と手を組んでいたというのだろうか。


「ああ、知っていた」


 カルカースは感情の窺えない表情で首肯した。


「だが、それを知った時には、もう後戻りはできなかった。まあ、する気もなかったがね。私は、その後も素知らぬ態度で奴らと関わり続けたよ。もっとも奴らのほうも、そうと知りながら私を利用し続けていたのだろうが。なんにせよ、きっかけがどうであれ、ディオニセスの所業によって、アラリエル様が死に追いやられた事実に変わりはない」

(カルカースさんは、お父さんとお母さんの関係さえも〈闇からの支配者〉によって仕組まれたものと知っているのかな……?)


〈闇からの支配者〉に利用され続ける父ディオニセスと、死に追いやられた母アラリエル。〈闇からの支配者〉さえいなければ、彼らには別の人生があったに違いない。父だって、あのように歪んだ思考を持つ哀れな男になどならなかったのではないか?


 そこまで考えてイルゼは一瞬、口を開こうとした。しかし、その衝動を辛うじて振り払う。


 その憶測はイルゼにとれば意味のある慰めだったが、この青年にとっては無意味なものでしかないと思ったからだ。彼の言う通り、起因はどうであれ事実は変わらないのだから。だかそれでもカルカースは今、イルゼに対して敵意ではなく妥協でもって力を貸してくれている。


(きっとカルカースさんにとって、それが僕への償いなのだろう)


 イルゼは目覚めた直後、フィーナを殺したのは自分だとカルカースから明らかにされていた。カルカースは直接、その手を下したわけではなかったが、彼の命令によって動いた者達がフィーナとセオリム村の人々を非業な死に追いやっていた。


 その真実を聞かされた時、イルゼは気を動転させた。イルゼは今まで〈闇からの支配者〉がフィーナ達の仇であると考えていた。だがカルカースは残酷なほど明朗な言葉で、自分こそがイルゼの仇であると明言したのだった。


 このことについてイルゼの思考は凍りついたままだ。しかし今、その氷結を解く気には到底なれなかった。それを解いた時、自分の感情がどんな色を帯びるのかイルゼ自身にも分からなかったからだ。


「なあ、カルカース、何故エスティアが第五の皇統なんだ? どこからその歴史は始まっている? エスティアが皇統を持ちながらにして他の皇国と同じように大陸支配の名乗りを上げなかった理由は、いつかはこんな事態になることを知っていたからなのか?」


 セレファンスの問いにカルカースは「ああ、その通りだ」と頷く。


「エスティア初代国王は、世界の終わりを意味する混沌も、それを渇望する〈闇からの支配者〉という存在のことも、全てが在るものとして認識していた。そしてそれらによって、この世界が直面する危機も、いつか起こる未来として捉えていた。エスティア王国の母体は、古代皇国フェインサリルに属していた東の果て一帯を治めていた領主家だ。それが七百年前、主であるフェインサリルを失った混乱から独立し、そこに完全な自治が誕生する。その後、王政が敷かれてエスティア王国が誕生した。その初代国王は、領主家の娘を妻とした一人の若者だった。その男こそが、シエルセイドとリースシェランの間に産まれた最後の子供だったのだ」

「じゃあ、エスティア王国は、本質的には四大皇国と変わらない血統を保持していたってことか」


 セレファンスは驚きを露わにしながらも呟く。


「だけどそれにしてはおかしくないか? 〈闇からの支配者〉がシエルセイドらの血を引く子供を簡単に見逃すなんて」

「古代皇国が滅亡した時点では、まだ産まれてもいない子供であったのなら?」


 カルカースの水を向けるような言葉に、セレファンスは得心いった表情を閃かせた。


「そうか、なるほど。その時に子供はまだリースシェランの腹の中で、その後、どこかで秘かに産み落とせば――」

「その通りだ」


 頷いたカルカースにイルゼは疑問をぶつける。


「じゃあリースシェランは〈叡智界〉には戻らず、この世界にとどまっていたということですか? その子供を産むために、たった一人で?」

「リースシェランはシエルセイドや〈闇からの支配者〉から上手く身を隠しながら最後の皇統となる子供を産み落とした。だが彼女は一人ではなく、その傍らには同族の青年がいたという。他の〈神の使い〉らは肉体を捨てて〈叡智界〉へと戻っていったが、彼だけはリースシェランの支えとなることを選んでいた」


 その後、子供が十分に成長するのを見届けてから彼らも仲間を追って〈叡智界〉へと還っていったという。


 リースシェランとシエルセイドの血を引く最後の子供は、全ての真実と〈ディア・ルーン〉の知識を母から託される。そして後々のエスティア初代国王となったのだ。


 だけど妙なもんだとセレファンスは首を傾げる。


「リースシェランからしたらシエルセイドを始めとする皇国の人間は、自分達が護り続けてきた聖地を蹂躙した侵略者だったってことだろう? それなのに彼女は、いつか必ず〈闇からの支配者〉の脅威にさらされる人間のために〈ディア・ルーン〉を子供に託したっていうのか?」

「いいや、そうとは言い切れないかもよ。〈ディア・ルーン〉は元々、世界の興亡を担う力であり、人間達のためにあるものじゃないんだ」

「――というと?」

「つまり使いようによっては世界を滅ぼしかねないってことだよ。人間達にとっては良くも悪くも左右する力なんだ。セレは身をもって体験しているから、なんとなく分かると思うけど……」

「……まあ、確かにな」


 その時の感覚を思い出したのか、セレファンスは複雑そうな表情を浮かべた。


 以前、セレファンスはイルゼの〈マナ〉と同調したことがある。その時に彼はイルゼの圧倒的な〈マナ〉の力に晒され、その圧力に耐え切れずに気を失ってしまったことがあった。


 そんな二人の少年の話を聞いていたカルカースは言う。


「リースシェランは三百年間〈闇からの支配者〉によって捕らわれ続け、否応なくフェインサリルの聖皇妃として過ごしてきた。だが、それを知る由もない民達は、彼女を自分達の国の皇妃として深く慕っていたことだろう。リースシェランは人間の負的な側面も見ただろうが、同時に多くの光をも見い出したのかも知れない。でなければシエルセイドとの子供を産もうなどとは考えなかったはず……」


 そこでカルカースはイルゼを見る。


「少なくともエスティアの王族は〈ディア・ルーン〉が救世の力となることを願って継承していた。それについてアラリエル様は、こうおっしゃっていたことがある。私達はリースシェランの願いも共に受け継いでいるのだと」

「……お母さんが……」


 イルゼは目を見開いてカルカースを見た。話の内容よりも、この青年が自分にアラリエルの逸話を話してくれたことに驚きを感じていた。


「さて、イルゼ。君はエスティア王族直系の血を受け継ぐ最後の子供だ。その君は一体、何を望む?」

「……僕は――」


 イルゼはカルカースの問いに少し息を飲み、次には自分の心を顧みてから、ゆっくりと答えた。


「僕は、自分の持つ力を今ある全ての存続のために使いたい。僕達が生きていく世界を守り抜くために」

「ならば君は〈闇からの支配者〉に立ち向かい、打ち勝たなければならない。それがどんなに恐ろしくとも逃げ帰ることは許されない――それでも?」

「はい。それが僕の出した答えですから」


 迷いのない返答に、カルカースは了承したと頷いた。


「ならば私は、その願いを叶えるために尽力しよう」


 イルゼは驚きでもってカルカースを見た。それは本来ならば嬉しい申し出のはずだったが、イルゼは素直に喜ぶことはできない。


「それがフィーナのことに対するカルカースさんの償い方なんですか? でも僕は、そういうことをされても……」

「君には私の行為が償いに見えるのか?」

「それ以外に理由はないでしょう? 貴方は僕のことを殺したいほどに疎ましく思っているはずです」


 イルゼは自分の言葉に辛さを感じて双眸を伏せた。


「ああ、そうだ――そのはずだった。だが」


 カルカースは一端、言葉を切ると、その答えを探すかのように視線を彷徨わせる。それから小さく溜め息をついた。


「確かに償いの気持ちはあるのかも知れない。だが正確なところは良く分からない。いや、単に今は深く考えたくないだけのことかも知れないが……」


 そう独白してからイルゼを見て言った。


「取りあえず、ここはセレファンス皇子の言に従ってみることにした。だから私は、君に助力をしようと思っただけのことだ」

「セレの?」


 驚いたようなイルゼの視線を受けて、セレファンスは困ったかのように苦笑した。が、それについては何も答えなかった。まるでお前の好きに対処しろ、とでも言うように。


 カルカースとセレファンスの間にどんなやり取りがあったのか、イルゼには知る由もない。だが、そこに厭わしい意思など有り得ないと思った。カルカースは賢明な青年であるし、何よりイルゼはセレファンスを信頼している。


「私は二度と君を襲うようなことはしない。今までのことを棚に上げ、信用してくれと言うのはおこがましいのだろうが」

「……いいえ、分かりました。きっと貴方にも、貴方の考えがあるのだと思います。だったら貴方の思う通りにしてください。僕としては、貴方の助力を得られることは頼もしいですから」


 イルゼが答えるとカルカースは「ああ、そうしよう」と頷いた。


 よしっ、とセレファンスが威勢の声を上げると勢い良く立ち上がる。


「お互いの意思を確認したところで、とうとう〈闇からの支配者〉との最終決戦ってことになるな。――イルゼ、覚悟はいいか?」

「セレは、怖くないの?」


 不思議に思ってイルゼは金髪の少年を見上げる。


「怖いさ。でも、やらなきゃいけない。俺達の未来を切り開くために――そうだろう?」


 そう言ってセレファンスはイルゼに手を差し伸べる。


「うん、その通りだ」


 イルゼは頷くと、微かに震えるセレファンスの手をしっかりと握り締めた。

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