吾輩は猫である、らしい。
接木なじむ
(一)
吾輩は猫である。――らしい。確証はまだない。
だが、僅かな証拠に、共に暮らしている人間は、吾輩をその目にしたときに『お前は美人な猫だねえ』と、よく口にする。
まったく、それじゃあ人なのか猫なのか判然としないじゃないか、と文句を言いたくなる台詞だが、文脈を考慮すると、吾輩は猫なのだろう。
わからないが。
きっとそうなのだろう。
ちなみに、その生活を共にしている、二本足で立つ大きな生物が、何故、人間であるかがわかるのかと言うと、そいつ自ら「人間」と名乗るからである。
吾輩はこの部屋から出たことがない。だから、自分以外の猫と呼ばれる生物を見たことがなければ、
まあ、どうでも構わないが。
それから、吾輩には名前がある。
「ナン」
人間は、吾輩を呼ぶとき、そう言う。
ちなみに、名付けたのは、人間であるらしい。
いつだか、吾輩が人間の膝の上で心地よく微睡みに沈みかけていたときに、とどめを刺すがごとく語りかけてきた話によれば、吾輩の薄く黄色がかった白色の地に、茶色の
まあ、それも、どうでも構わないが。
さて――、
人間は、よく吾輩を膝の上に乗せて、酒の入ったグラスを片手に、様々なことを語る。戯れに話を聞いてやろうとするが、口から発せられるその独特な空気の震えはどうにも心地よく、五分と経たないうちに眠くさせられる。なんとも不思議な現象だが、きっとこれは、猫を世話するという使命を負った人間に、生来備えられている機能なのだろう。よくできたものである。
とは言え、眠るつもりがないときまで眠くさせられるのは困りものだ。話を聞いてやりたいのに、毎度、途中で寝てしまう。それもこれも人間のせいではあるが、
その、人間の語りによく出てくるのが「会社」という場所だ。どうやら、人間は、吾輩以外にも主を持っているようで、労働でもって、その主に奉仕しているようだ。なんでも、吾輩を養っていくためには、必要なことであるらしい。吾輩に仕えるために、他の者に仕えるというのは、なんだか不思議な話のようにも思えるが、兎に角、ここ最近は、特に忙しいらしく、夜中に帰ってくることも珍しくない。
吾輩は、人間が吾輩以外にいくら主を持っていたとしても、一向に構わないし、晩餐の時間が遅くなるぐらいなら、いくらでも我慢できる。だが、吾輩の世話をするという仕事に支障が出てしまうのは少々いただけない。この前なんて、帰宅するなり気を失ったように翌朝まで眠りに落ち、その日の晩御飯と翌日の朝御飯をすっぽ抜かされた。猫の言葉が人間に伝わらないのは、既に実証済みだが、もし伝わるのだとしたら、会社に電話をして、使い物にならなくなる前に人間を家に帰すよう直訴するところである。
――おっと。
噂をすればなんとやら、だ。
人間の足音が聞こえる。
どうやら、帰ってきたようだ。
一定のリズムを刻んでいた足音が近くで止まり、玄関のドアに鍵が差し込まれる。そして、がちゃりと音を立ててドアが開く。それと同時に、小さな声で「疲れた……」という呟きが聞こえる。
間違いない。帰って来たのは
内側から鍵を閉め、人間はリビングへとやってくる。そして、いつものように、吾輩に向かって「ただいま」と言う。それに対して、吾輩は、いつも、その日の気分で返事をしたり、しなかったりする。
今日は返事をしない日だ。
人間は、挨拶を無視した吾輩に腹を立てるでもなく、そのまま洗面所へと向かい、手を洗う。それから、リビングに戻ってきた人間は、吾輩専用の皿を洗い、入念に布巾で拭いた後、その上に缶詰を開けた。
吾輩お気に入りの、マグロの缶詰だ。
人間がマグロを電子レンジで少し温めている間に、そのマグロというやつを紹介しよう。これも人間の話からの引用になるが、マグロというのは、風呂を果てしなく大きくしたような海という場所を忙しなく泳いでいる、魚という種族らしい。その円柱状の風貌は、腕も足もついていなければ、目もついていないという奇怪な姿ではあるが、その味は、筆舌に尽くし難いほど旨い。諸君も、機会があれば食べてみるといい。
と、電子レンジが甲高く鳴いた。
「お待たせ。遅くなってごめんね」
そう言って、人間は、マグロの盛られた皿を吾輩専用のテーブルに置く。吾輩は、この度も返事はしない。
何も言わず、マグロを頬張る。
それに対して、人間も何も言わない。
何も言わず、電子レンジで自分用の弁当を温めて、食べ始めた。
そうして、厳かにディナーが開始されたのだった。
しばらくして、両者共に食事を終える。すると人間は、空いた弁当の容器を片付けたなり、そのまま、キッチンで何かしだした。
かちゃかちゃと鳴る、涼しい音。
どうやら、今日も
人間は、氷の入ったグラスと、ウイスキーボトルを手に持って、戻ってくる。そして、床に敷いた座布団の上に胡坐で座り、とんとんと、膝を二回叩く。
はあ。
仕方ない。これも主の務めか。
自然、
すると早速、人間は、吾輩の耳の付け根や、首周りを優しくマッサージし始める。
ああ、くそ。
本当に好き勝手しやがって。
そう好き放題されると、その大きな手を、噛んでやりたくなる。
まったく、仕方のない奴だ。
我慢してやるから、もっとやれ。
しばらくすると、どこからか、ごろごろと音が聞こえてきた。
そうか。
どうやら、今日も天気が悪いらしい。
やれやれだ。
少しして、満足したらしい人間は、吾輩を揉む手を止める。そして、ボトルを開けて、とくとくと心地よい音を鳴らしながら、グラスにウイスキーを注ぐ。それから、
「ふうー…………」
酒の入った人間は、本当によく喋る。今宵も、毎度の如く、会社であった出来事を長ったらしく聞かされた。
また上司に怒られたとか。仕事が全然減らないとか。事務の女の子が笑顔で挨拶してくれたとか。
いつもとそう大して変わらない話だった。
もう少し聞けば、新鮮で目新しい話が聞けるかもしれないと頑張ってみたが、駄目だった。
吾輩の意識は、ぷつりと途切れた。
ふと、目を開けると、吾輩の身体はまだ人間の膝の上にあって、人間はと言えば、まだ喋っていた。
ひとりで。
何を言っているのかは判然としないが、確かに喋っていた。
それから、人間は、グラスに半分ほど入っていたウイスキーを、一気に
その大きな音に、びくりとしながらも、自然、吾輩の視線は、テーブルの上のウイスキーボトルの方に向いた。すると、どうだろう。先程まで、十分にあった琥珀色の液体が、もう少しも残っていなかった。
こんなに飲むことなんて、今までには無かった。
いったい、どうしたのだろう。
滅多にない人間の様子に首を傾げていると、不意に、人間が立ち上がった。
膝の上にいた吾輩は、否応なしに、ぼとりと落とされる。
ふらふらと、不気味に立つ人間。
流石に心配になって、人間の顔を見上げると、その見上げた先、人間の頭の上に何かあった。
よくよく見てみる。
すると、それは、太い紐だった。
太い紐が天井から吊るされていて、その先の方は、輪っかになるように結ばれている。
はて。
あんなもの、今まであっただろうか。
吾輩が、気付かなかっただけで、以前からあったのだろうか。
わからない。
わからないが、次の瞬間には、吾輩は、疑いもなくそれを受け入れていた。
――そうか。
人間が、吾輩のために新しい遊具を用意してくれたのか。
そうか、そうか。
そうだった。
やや輪っかの位置が高すぎる気もしなくもないが、吾輩の跳躍力があれば問題はないだろう。ひとっとびに輪っかをくぐり、見事に着地してみせよう。
早速、輪っかに狙いを定めて、腰を落とし、前足を縮ませるように屈んだ。そして――
さあ、いくぞ、と。
跳ぼうとしたタイミングで、人間が目の前に割り込んできた。
吾輩は、咄嗟に勢いが殺しきれず、人間にぶつかる。
おい。なんだ、邪魔をするな。
そう言いながら見上げると、そこにあったのは椅子だった。
椅子?
そして、その上に、人間が立っていた。
「何をしているんだ?」
吾輩が、そう問いかけると、人間は「邪魔をしないでおくれ」と確かに言った。
確かにそう言って、輪っかに頭をくぐらせた。
はあ?
邪魔をするなだと?
何を言っているんだ。
邪魔をしているのは、人間の方ではないか。
吾輩は、腹が立って、目の前にあった椅子の脚を、ぽかりと殴った。
ぽかりと、柔らかい肉球で、殴った。
すると、どういうわけか、いとも簡単に椅子が倒れた。
そして、どうなったか。
宙づりになった人間が、声にならない呻き声を発しながら、じたばたと暴れ出した。
全身から血の気が引くようだった。
確認するまでもなく、人間は、天井から吊り下げられた紐で、首を絞められていた。
「何をしているんだ!」
と、咄嗟に問いかけるが、首が絞められた状態で答えられるはずもない。
吾輩は、すぐさま、人間に飛びつき、人間の身体をよじ登って、首のところまで来た。そして、人間の首を絞めている紐を嚙み千切ろうとする。
しかし、吾輩の鋭い牙は、紐の繊維の隙間に刺さるだけで、断ち切ることはできない。
くそ!
何でこんなことになってしまったのだ。
人間は何故こんなことをしているのだ。
吾輩が返事をしなかったからだろうか。
人間の話を聞かなかったからだろうか。
何故だ。
どうして。
どうして。
必死に紐に噛みつきながら、人間と過ごした時間が、走馬灯のように脳裏を駆け巡る。
代り映えのない、人間の話を聞いている時間が好きだった。膝の上で、うとうととする時間は、どんなときよりも安心できる時間だった。
吾輩はまだ、最後まで話を聞いてやれたことがないじゃないか。
そうだ。
また、話を聞かせておくれよ。
嫌だ。
死んでしまっては嫌だ!
吾輩は、無我夢中で紐に噛みついた。
ぷつり。
やった!
紐が切れて、宙づりになっていた人間の身体が、どさりと床に落ちる。
そして、すぐさま、人間の容態をうかがった。
が、
人間はもう息をしていなかった。
動かない。
人間は、もう、動かない。
あ。
あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ――
「どうした!? 大丈夫か!?」
大声で呼びかけられ、目を開けると、目の前に人間の顔があった。
「うなされてたけど、怖い夢でも見たのか?」
と、人間は、続けて問いかける。
そして、吾輩は――
たしりっ。
「痛い! 何するんだよ!?」
吾輩は、咄嗟に人間の顔を殴っていた。
いや、それもそうだろう。当たり前だ。寝起きに酒臭い顔が目の前に合ったら、誰でも殴るはずだ。
しかし、殴られた側からしてみれば、殴る側の想いなど瞬間的に理解できるはずもなく、正に突然の凶行だったはずだ。
さぞ、人間は驚いたことだろう。
吾輩は放り投げられた。
放り投げられたが、何の苦もなしに、足から着地する。
そして、何事も無かったかのように、背を向け、歩み去りながら、思った。
お前なんか、どうなったって構わない。
吾輩は猫である、らしい。 接木なじむ @komotishishamo
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