死んだあなたの名前を呼ぶ人はいない

黒心

 朝の明るい陽光が男の体を優しく包み込んでいる。そこに扉を開けて入ってきたのはまだ若年者の年頃なる刑事だった。こつこつとした足取りで何の疲れも感じ取れない軽快さに男は機嫌が急降下していく。


「おはようございます、あれ先輩クマが出てますよ」


「おはよう、係長から叩き起こされたんだよ」


「ありゃあ災難ですねぇ」


 深酒の祟った頭がジンジンと痛む。


「誰だったんですか?」


「いんや……俺にはわからん」


 男が若造を一瞥するといかにもな疑問符を顔に浮かべている。


 思慮の足りない刑事たちではない。すでに深夜のうちに事件は解決しているから男はここで惰眠を貪り尽くしているのある。若者もそれに気づき、被害者の人相がさっぱりイメージ出来なくなってしまった。


「名無しの権平よろしく戸籍すらない。お手上げだ」


「は、はぁ」


「まぁ犯人はすぐに捕まった。後味悪りぃけどな」


 深夜の異端安置所は腐臭に包まれ、長年の同僚ですら部屋から飛び出し酒のつまみを床にぶちまけた。男は耐え切ったが胃の中にある銘酒が腐り果てていくのを感じとった。


「犯人はわかったんですね」


「ああ」


 深夜三時、遺体発見から僅か一時間。彼女は出頭した。


「そいつ、なんて言ったと思う」


「……謝罪じゃないんですよね、先輩」


 窓から刺しこまれた光が雲に遮られ、電気のついていない部屋は一瞬にして暗くなった。


「名前を決めてきました……ってよ」


 若い刑事は初仕事以来の吐き気が込み上げ、鞄を放り投げて廊下で倒れ込みながら口を開けた。


 男は真実を話してはいない。

 彼女は遺体を安置している部屋まで連行され、実際に腐敗したそれを見ながらこう言った。


「思い出したくもねぇ。寝る」


 再び陽光が部屋に入り込み、下がった気温がゆっくり上昇する。

 若刑事がいなくなり静かになったため、男は記憶をまさぐるのを止めて再び目を閉じた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

死んだあなたの名前を呼ぶ人はいない 黒心 @seishei

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ