Epilogue

 時は流れる。

 春休みが終わり、桜の季節がやってくる。大学二年の生活が始まり、講義を受けるためにキャンパスに通うようになって数日経ったある日、旭は香月と再会した。

「おはよう旭」

 あの告白騒動以来会うのは初めてだ。跳ね上がりかけた肩を気合いで下ろし、全霊で平静を装いながら返事をする。

「おはよう……眼鏡はどうした? どこかに忘れてきたか?」

 声のした方を振り返った旭は、顔のパーツが足りない香月を認め、訝りながら問いかける。香月は露骨に顔を顰め、

「コンタクトにしたんだよ……失恋したから」

「あぁ……うん……?」

 当てつけのような返答に口ごもる旭だったが、ややあって首を捻った。頭に疑問符を浮かべながら、胡乱そうにぼやく。

「関係あるのか?」

 口にした途端に睨まれた。あまつさえ蹴りが飛んできた。

「痛いよ」

「不毛な恋をしたせいで、貴重な青春を棒に振ったからねっ。新しい恋を見つけようと思ってっ。そのためのイメチェンだよっ」

「蹴るな蹴るな。分かったから」

 渋面で唸りながら、繰り返し下段の蹴りを繰り出す香月に白旗を上げる。まだ怒りが冷めないのか、鼻を鳴らして地面を踏み鳴らす香月の姿は、ほとんど猪と同じだった。指摘したらキレるだろうが。

 彼女は何かを諦めたように聞えよがしな嘆息をし、それから眼差しの圧力を少し下げた。

「ところで、美鶴ちゃんとはその後どーなの?」

 やはりこちらもわざとらしく投げやりな声音だ。

「まぁ、仲直りしたよ」

「喧嘩してたわけでもないくせに……何もなかったことにしたって意味?」

 適当にはぐらかそうとする旭だが、そんな意図を察した途端に追及を強める。怒りを引っ込めた代わりに、剃刀の鋭さを宿した眼光が喉元に突きつけられた。

 無視したいところだったが、あの日のやり取りを思い出すと、正直に答えないというのも気が引けた。不承不承、彼は薄く開いた唇の隙間から言葉を漏らす。

「……いや、何と言うか、落ち着くところに落ち着いたと言うべきか」

「ふ~~~~ん。そうなんだ」

 直接的な表現ではなかったものの、香月は彼女なりに、旭たちがどう決着したか理解したらしかった。そこに多少の誤解はあったかもしれないが、改めて懇切丁寧に説明するのも躊躇われる。

「まぁいいんじゃないの? どうせフラれたあたしには、今更関係ないし?」

「根に持つなと言う気はないが……せめて吹聴はしないでくれないか?」

 頬を膨らませて拗ねる香月に、げんなりと懇願した旭は、そこでふと腕時計に目をやった。そろそろ講義の時間が近づいている。

 彼の仕草に、香月も時間に気づいたようだ。大きく一歩旭から離れると、そこで立ち止まり、旭に体ごと向き直る。

「じゃあ旭」

「ん?」

「また、でいいのかな」

 相槌を打った旭は、少し不安げに問いかけられた。それに対し、旭は迷うことなく首肯した。

「ああ。またな」

「……うん、また」

 安堵した顔で、香月が頷き返す。それに手を振って、旭は自分の教室へ足を向けた。

 背を向けてその場を離れ、少し経ってから、旭もほっと胸を撫で下ろす。香月との繋がりがまだ残っていることに安心していた。

 彼女の好意に応えることは、確かに旭には出来ない。それでも、今まで友人として過ごしてきた縁が消えてしまうのは寂しかった。そうならなかったことが嬉しかった。

 香月も同じような気持ちだろうか。別れ際の表情を思い出し、そんなことを考える。そうかもしれないし、違うかもしれない。そしてそのどちらだとしても、二人の仲は決して今までのままというわけにはいかないだろう。

 時が経てば、そして何かきっかけがあれば、人も関係も変わっていく。そのままではいられない。逆に言えば、変化を受け入れることで繋がりは続いていくということ。

 旭と香月は、互いの変化を受け入れた。そして、旭と美鶴も同じように。

「……うん、ちゃんと講義に集中しよう」

 と、そこで、彼は生真面目に己に言い聞かせる。

 言い聞かせる必要があるということは集中できそうにないんだな、と、皮肉っぽく胸の内で笑いながら。


 ■


 講義が全て終わった後、帰宅途中でスーパーに寄り手早く買い物を済ませ、家路を急ぐ。家の玄関を開けると、まだ誰も帰って来てはいなかった。

 旭の春休みが終わってからというもの、家事は基本的に帰宅後の仕事になっていた。当然旭一人の手に負えるわけはなく、家族全員が分担することにしている。

 今日も旭は、洗濯や風呂掃除がまだなのを気に懸けつつも、自分の担当である夕食の準備を優先して動き始めた。

 料理に取り掛かってからしばらく、玄関が開く音がした。足音が続き、ほどなくして制服姿の美鶴が姿を現す。

「お帰り、美鶴」

「う~、ただいまぁ……」

 声をかけるが、返事は鈍い。声だけでなく表情も足取りも、何やら疲れているようだった。不思議に思う彼を余所に、美鶴はふらふらとリビングを横断すると、ソファーに寝転がってタカアシガニのクッションを抱きしめた。

「……疲れたの?」

 再度、問うまでもなさそうだが尋ねてみる。美鶴の返答は早かった。

「疲れたぁ~……何で一学期始まって早々に、受験があーだこーだ言われなきゃいけないのぉ……」

「受験生だからねぇ」

 旭の相槌は素っ気ない。ただ、彼は食事の準備をする手を止め、ソファーに近づいていった。労うように美鶴の背をぽんぽん叩き、優しく声をかけた。

「お疲れ様」

「うう、旭お兄ちゃんの優しさが沁みる……」

「おっさんみたいなこと言わないでよ。洗濯任せられる?」

 クッションの隙間から漏れ出た声に呆れながら、分担を確認する。旭に言われた美鶴は、ぐずるような唸り声を上げてゆっくりと上体を起こした。渋い表情のまま頷き、

「やる、やります。やるけどその前に充電させて」

 そう言いながら両腕を広げた。このところ常態化したおねだりのポーズに、今度こそ旭は苦笑した。

「はいはい……」

 要望に応じ、美鶴を正面からぎゅっと抱きしめる。あやすように肩や背中を叩き、頭を撫でてやると、嬉しそうに喉を鳴らした。大きい猫である。

 しばらくそうしてから、彼女の頭を押して引き離す。覗いた顔は、少し不機嫌そうだった。

「まだ足りない?」

「あとひと押し」

 尋ねる旭に、美鶴は神妙な面持ちで頷いた。それとともに、もう一度抱きつこうと腕の力を強めてくる。

 応じてあげたい気持ちもある一方、いつかの母の忠告が蘇ってくる。結局旭は美鶴の肩を掴むと、無理やり引き剥がした。

「足りない分は気合いでどうにかしてくれ。僕も夕食の用意があるし」

「えー、意地悪〜」

「あんまり遅くなると、母さんが帰ってきたときに怒られるよ」

「むぅぅぅぅ……」

 重ねて諭すと、酷い顰めっ面で渋りながらも、美鶴の腕が解けた。機嫌をとるように、もう一度彼女の頭を撫でる。今度はなかなか表情が緩まない。

 やむなく、旭は美鶴から手を離して立ち上がった。伝えた通り、食事の準備をそうそう放ってはおけない。美鶴も流石に弁えているようで、それ以上は旭に絡まずソファーを離れる。

「じゃあ、よろしくね」

「はーい」

 声ばかりはしつこく不満を主張していたが、それ以上は構わないことにする。

 リビングを離れ洗面所に向かおうとした美鶴だったが、不意にその足を止めて、旭へ振り返る。キッチンに入った直後の旭も気づいて、彼女に目を向けた。

「旭お兄ちゃん。好きだよ」

 さっきまでの不貞腐れた様子など消え去っていた。気軽な調子で、けれど心を込めた熱量の告白に、旭も微笑みを返す。

「ありがとう」

「……もう一言」

「嬉しいよ」

「んー、あとちょっと足りない!」

 悔しそうに吐き捨てて、今度こそ美鶴はリビングを後にした。

 足音を立てて遠ざかる気配を感じながら、旭は溜息にも似た笑い声を漏らす。そうしてから、さりげなく自分の左胸に手を当てた。

 いつもより少しだけ弾む鼓動を感じる。その意味に思いを馳せる。

 芽吹くのはいつだろうか。

 口の端を僅かに曲げて、旭は夕食の用意を続けた。

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