第二十話 正答

「……ただいま」

 家に近づくにつれ、飛び出してきた原因である美鶴とのやり取りを思い出し、気力を削ぎ落とされた旭は結局、玄関を開けて開口一番、無難な挨拶を口にするに留めた。

 リビング以外に灯りはない。重い脚を引き摺るようにそちらへ向かう。ドアを開け、中に入った。

「あ……」

 美鶴と目が合った。キッチンに立つ彼女を見て、少し驚いてしまう。それに少し遅れて、夕食の用意をすっぽかしていることを思い出した。

「お、お帰りなさい」

「晩御飯、用意してくれてたんだ」

 気まずさからか、固い態度で出迎えてくれたか美鶴に、申し訳なさを感じながら旭が確認した。近寄ると、鍋から微かにトマトソースの香りがする。

 肩を落とした旭の様子に緊張が解れたか、美鶴はぎこちないながらも微笑を浮かべて、

「お母さんたちにしごかれたおかげで、多少はできるようになったつもりだから。こういうときに活かさないとね」

 えへん、とばかりに胸を張る彼女に、旭は半ば無意識に伸ばしていた手を止める。

 いつもなら、躊躇なく頭を撫でて褒めてあげるところだ。それが、今は当たり前に出来ない。しばらく前の告白がずっと遠い昔のようにも思え、それなのにとても重い枷となって、旭の手脚に絡みついている。

 キッチンに一人で立つ美鶴は、旭の持つイメージよりも成長して見えた。それが当然だと分かっているつもりだった。時は人を成長させる。変えていく。個人も、人と人の関係も。

 今まで通りでいてはいけないのだ。

「……美鶴」

 名前を呼ぶ。けれど、それに続く言葉が出てこない。何を言えば良いのか、彼女の気持ちにどう答えればいいのか、未だに旭は分からない。自分だけが成長していないような感覚に、言いようもない不安が渦巻く。

 そんな兄の心情を、美鶴はどれくらい汲むことができていたのだろう。彼女は囁くように告げる。

「お母さん、帰るの遅くなるって」

 唐突な報告に、旭はすぐに反応することが出来なかった。思考を中断され、返すべき言葉を探しているうちに、美鶴が続ける。

「だから、それまでお話しようよ。どんなことでもいいから」

 静かに語りかけながら、美鶴の視線が上がった。ゆっくりかき混ぜていた鍋の火を止めて、旭に注意を移す。

 穏やかな眼差しだった。思わず吸い込まれそうなほどの。

「……どんな話でもいい?」

 繰り返すように問いかける。

 言葉通りの意味ではなかった。旭の問いも、美鶴の提案も。言葉通りでないことを、お互い分かっていた。互いに分かっていることを分かっていた。

「うん」

 美鶴が頷く。鍋に蓋をする。

 リビングの机に、二人は向かい合って手をついた。


 全て話した。

 家を飛び出した後、香月と会ったこと。彼女に告白されたこと。彼女が旭と光莉の秘密を知っていたこと。その秘密が何であるかも、全て美鶴に明かした。

 話し終えるまで、美鶴は黙ってそれを聞いていた。

「僕は光莉のことが好きだった」

 白状する口も随分軽くなったものだ。自棄にも似た気持ちで、そんなことを思う。

「妹としてじゃなく、異性として好きだった。自覚したのは光莉と死に別れる直前だったけど、その気持ちはずっとあったんだと思う。そういう行為を繰り返す程度には」

 こんな風に兄の醜態を聞かされる美鶴に対して、申し訳ない気持ちもあった。それでも、今の旭と美鶴の関係をどういう形にせよ再構築するには、既に兄妹としての距離感を見失った関係を繋ぎ直すには、このことを隠しておくことはできない。

 自嘲と、自身に対する失望を込めて、旭は大きく溜息を吐く。

「僕は光莉の兄になれなかった。血は繋がっていたのに。その後悔があったから、美鶴にとってはちゃんとした兄でいたかった。血は繋がってなくても、兄になりたかった」

 果たせなかった望みを、懺悔のように吐き零す。惨めさのあまり顔を伏せ、テーブルの木目を目で追った。うねりながら這う一貫性のない模様に、自分自身の至らなさが重なって見える。

 それ以上は、何も言えなかった。旭が胸の内にあった言葉を出し切ったことを察したのだろう。美鶴はようやく身動ぎし、組んでいた手の指を、思案するように動かした。

 ゆっくりと口を開く。

「私にもね、昔、お兄ちゃんがいたんだ」

 旭が顔を上げる。以前晴美から聞いてはいた、けれど詳しくは知らない内容だ。それを美鶴が今語ろうとする意味が、旭には分からない。分からないからこそ、それを知ろうと美鶴を見つめた。

「お父さんが、私やお母さんに暴力を振るってた頃。私が寂しいときに、お兄ちゃんは傍にいてくれた。お父さんにもお母さんにも、他の誰にも、私にだって見えなかったし、触れられなかった。声だって聞いたこともない。それでも、そこにいてくれるって思うだけで、私はいつも救われてた」

「…………」

 今度は自分が聞く番なのだろうと、旭は悟って口を閉ざす。話の行く末が想像できないという落ち着かなさはあったが、それも耐えるべきことなのだろう。

 そんな彼の様子をつぶさに見て取りながら、美鶴は一歩踏み込むように話を進めた。

「私は、そんなお兄ちゃんが好きだった」

 愛おしそうに目を細める美鶴を見つめる旭の目が、真円に見開かれた。兄の驚く様が面白かったのか、クスリと小さく笑い声を零して、美鶴は続ける。

「本当はどこにもいないとしても、私はお兄ちゃんが好きだった。兄だとしても、男の人として好きだった。辛くて悲しいときに、私に寄り添って安心感を与えてくれたあの人が、好きだったの」

 思いもよらなかった告白に、旭の思考が止まる。白紙と化した顔で見つめ返してくる旭に変わらず笑みかけ、美鶴は一方的に話し続ける。

「他の誰かに告白されても、お兄ちゃんと比べちゃって、好きにはなれなかった。お父さんと一緒にいた頃に、お兄ちゃんの代わりにこの人がいたら、って思っても、全然安心できる気がしなかったから。でもね、初めて旭お兄ちゃんと会って、話をした雰囲気とかで、私初めて「この人がお兄ちゃんだったなら」って思えた」

 それが、言葉通りに「兄だったら」という意味でないことは旭も分かっていた。順を追って線が繋がっていく。かつていた『お兄ちゃん』の実態も、美鶴が旭に惹かれた経緯も。

「……けど美鶴、僕は……」

 否定の言葉をかけようとして、しかしはそこで止まってしまう。それが本当にすべきことなのか、直前で迷ってしまった。

 逡巡に呑まれた旭に、香月は彼の言わんとすることを察したように、首を振って言った。

「私はお兄ちゃんが好きだったし、旭お兄ちゃんと昔のお兄ちゃんの雰囲気が似てるな、とは思ってた。でも、旭お兄ちゃんのことが好きなのは、お兄ちゃんと似てるからじゃないよ。一緒にいて安心できる。傍にいてくれて嬉しく思える。気遣ってくれるのを幸せに感じられる。そういう気持ちがあるから、私は旭お兄ちゃんが好き」

「けど」

 そこで、旭が続きを遮った。大きな声ではない。それでも、避けて通ることは出来ない存在感で、旭は美鶴の口を閉ざした。

 驚くわけでもなく、美鶴は旭に譲る。彼は一呼吸空けてから、言葉を選ぶようにゆっくりと語りかけた。

「その『お兄ちゃん』も、僕も、君の兄なんだよ」

「うん。分かってる」

 自分のことを棚に上げている自覚はある。だが、旭は光莉との関係を、自らの非だと思っていた。だからこそ美鶴に、新たな妹に、同じ道を歩ませたくはない。

 思い詰めた表情の旭とは対照的に、美鶴の答えは簡潔だった。

「それでも好き」

 シンプルな回答だった。あまりにシンプルなせいで、旭の思考はその答えに裏があるのかと空回りし始める。彼の混乱を知っているのか否か、美鶴は補足のように告げる。

「周りに何か言われることはあるかもしれない。その全部が間違いだとも思わないよ」

「そう、思ってるの……?」

「うん」

 それもまた、旭にとっては意外な言葉だったのだろう。半ば呆けたまま呟くと、美鶴は小さく頷いた。

「でも、私はきっと何回考え直す機会があっても、お兄ちゃんを好きになると思う。お兄ちゃんを好きになった後の私は、旭お兄ちゃんしか好きにならなかったと思う。他の誰かに責められるようなことでも、責められるべきことでも、私にとってはそれが正しいことだったんだって思うよ」

 穏やかに、しかし堂々と言い切る美鶴が、このときの旭には輝いて見えた。

 言い終えてから、今更ながらに照れるように目を伏せた彼女だが、それでもまだ口は閉ざさない。

「なんて、大仰なこと言っちゃったけど、あとはもっと単純にさ……」


「旭お兄ちゃんを好きになったこと、沢山悩んで考えた今でも、後悔してないから」


 そっぽを向いてもじもじしていた美鶴が、幾らか時間をかけて旭に向き直る。彼女をむ出迎えた旭の眼差しは、今までになく真剣で、しかし焦点がどこかズレていた。まるで、美鶴のさらに向こう側を見通そうと目を凝らしているような迫力があった。びくりと驚きながらも、美鶴は旭の反応を待つ。

「……そうか」

「……旭お兄ちゃんと光莉さんの関係がどうだったのかは、分からないけど」

 きっと特別な意味はない呟きに、美鶴も何となくそう嘯く。また黙って物思いに耽る旭に、美鶴は心なしか安堵した。

 沈黙は長く、けれど静寂は身構えたほど痛くはなかった。

 ただ、追い詰められた気持ちで告白したときよりも、返事を待つのは少し怖かった。

「……美鶴、僕は」

 不意に静寂が破られた。居眠りの最中に頭を叩かれたような俊敏さで美鶴の背筋が伸びる。これから起きる一部始終を見逃すまいとばかりに美鶴の目が見開かれ、その様子につい、旭の口から苦笑が漏れた。

 それでも、必死で意識を研ぎ澄ませる妹の姿を見て、旭はすぐに続けた。

「僕は、光莉のことが好きだった。それを罪だと思っていた。美鶴にとって良い兄であることが、罪滅ぼしになると思っていた」

「うん」

「でも、改めて思ったよ。僕は……僕も、光莉を好きで良かったと思ってる」

 そう告げる旭は、憑き物が落ちたような微笑を浮かべていた。

 穏やかな表情を見たことがなかったわけではない。特に美鶴の前では、彼はいつも温かみのある、落ち着きのある表情を見せていた。けれど、今目の前にあるのは違う。

 飾ることも気負うこともない、少し頼りなく感じるほどに肩の力が抜けた笑みだった。

「そのことに気づかせてくれてありがとう」

「旭お兄ちゃん……」

 旭の表情と言葉に、美鶴は感極まった様子で目を潤ませた。

 けれど、旭の言いたいことはこれだけではなかった。美鶴に気づかされた、美鶴のおかげで気づくことが出来た気持ちを、そのままの形で伝える。

「『妹にとって善い兄』にはなれなかったけど、美鶴の兄になれて良かったって思うよ」

「!!」

 両手で覆った美鶴の口から、言葉にならない声が漏れた。驚嘆か、歓喜か。旭にとってはどちらでも良い。

 目の端から涙が溢れ始める。美鶴だけかと思ったが、旭も同じように涙を流していた。自分自身の異変に驚きつつも、一方で心の片隅は湖水のように落ち着いている。

「……旭お兄ちゃん、まだ光莉さんのこと、好き?」

 嗚咽混じりの質問が投げかけられた。

 ここまで好意を向けられているのを分かった上で答えるのは、やはり少し心苦しい。それでも旭は、首を縦に振った。

「そうだね。別れて時間も経って、忘れてしまったことも多いけど、それでも僕はまだ、光莉への気持ちを忘れられない」

 自らの想いを噛み締めるように、ゆっくりと言い聞かせる。

 美鶴は彼の返答を予想していたようだった。立て続けにもう一度、

「じゃあ私は……光莉さんに似てて、光莉さんじゃない私は、いつか、旭お兄ちゃんに好きになってもらえる?」

 さっきの問いかけより力強く、そう尋ねた。きっと、確信はないのだろう。不安と期待とが内在した、揺れ動く瞳の中に旭が映っている。

 旭の手が、自然と美鶴の頭に伸びた。突然のことに硬直した美鶴の髪に手を置き、指を潜らせる。そうしながら、旭は口を開いた。

 ――その答えの狡さを自覚しながら

 ――それでも口にした通りの未来が訪れることを願いながら

「まだ分からない。けど、いつか光莉への気持ちが吹っ切れたときに、君を好きになれたらいいと思ってる。少なくとも、今の僕は」

 頭を撫でられながら、美鶴は彼の言葉をゆっくりと咀嚼している。彼女もその狡さには気づくだろう。せめてそれを隠さないこと、曖昧な本音を正直に打ち明けることが、旭なりの誠意のつもりだった。

 果たして、美鶴は旭の手の下で、苦笑の混じる笑顔を見せた。

「じゃあ私は、旭お兄ちゃんが心変わりするまで、旭お兄ちゃんのことを好きでい続けられるように頑張るね」

「……ありがとう」

「旭お兄ちゃん」

「うん?」

「好きだよ」

 彼女の健気な返答に、胸が熱くなった。感謝を込めてさらに髪を撫でる旭の名を再度呼び、美鶴は何度も告げた想いを、また口にする。

 居を突かれた旭に、美鶴は楽しげに微笑みかけた。

「これから何度でも言うね」

「……うん」

「あんまり待たせないでね?」

「……努力する」

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