何かが達成された故の解放感からくる熱狂の行方
与方藤士朗
何かが達成された故の解放感からくる熱狂の行方
何か大きなことが達成・実現可能になったときの心理状態。
そこから発生する熱狂について、思うところを述べてみたい。
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まずは私のことから。
その手の解放感、人生で3度にわたって体験した。
1回目は、大検を経て大学に現役合格し、養護施設に三下り半を突き付けるかのごとく飛び出したときのこと。
大学合格後も何とかこの施設に取んで、彼に何かを与えてやろうと企図する幹部職員らに三下り半を突き付けるかのごとく、とにもかくにも現金を稼げる場を確保し、逃げ出すようにあの地を去った、1988年春。
あれから1年弱、その解放感は持続した。
何をするにも自分自身でやり切れるから。
今までにない自由が確保できたわけだ。
理想に酔っていたあの幹部職員は、私に対して後ろめたさを感じていた。
彼の述べることを、私はほぼすべてに三下り半を突き付けた。
一番の否定は、彼の人生観。
彼とは共に何かをしていく関係になどなれないことは、お互い気付いていた。
無論、施設にいたときの対応が論評するに達せぬほどお粗末であったことも。
それでもしばらく、彼は私に好意を示す如き言動をしていた。
私はやがて彼の述べる言葉を、ことごとく否定し倒した。
まあまあなあなあで、飯でも食って与太話をして傷のなめ合いをして一人暮らしの寂しさを紛らわして・・・という気休めなど、私には有害でしかなかった。
彼の述べていた家制度をベースにした家庭論を、私はイスラエルがアイヒマンの遺体を火葬して地中海に撒き切るかのように排斥した。
すでに、自らの話していた岡山弁は「抹殺」していた。
2回目は、2006年。実父が自決後の約1年弱。
この時得られた金を用い、私はさまざまなことを一気呵成に実現した。
あの解放感は大学合格時ほどではなかったが、思う存分走り回れたこの時期は、私の人生において大いなる「奇跡」であった。
それゆえ本も出せた。
今思えば迷惑も多々かけたのは確かだが、本を出したという事実は何より重い。
その経験は、今に至るまで私を大きく後押ししてくれている。
3回目は、その本に書いたとおり岡山から他県への移住を実現したとき。
実はその期限を定めた日、行こうと思っていた地の反対側の県で仕事していた。
そしてその翌週から、すべてが動き出した。
予定より半年弱遅れたが、予定通り兵庫県に脱出成功。
それから約半年ほど、解放感からくる自由を存分に享受できた。
6年後に岡山に戻ったが、出る前とは状況も精神状態も変わっていた。
排除すべきものは排除され、新たな道へ進む算段が確立されたのです。
30年来の壮大なる、ホイップ・ステップ・ジャンプ!
もとい、ホップ・大麦・ビール!
なんのこっちゃ。ま、ええか。
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南海ホークスの入団テストに合格した、野村克也青年。
テストの後、球団の食堂のカレーライスを食べさせてもらったという。
世の中に、こんなうまいものがあるのかと感激。3杯も食べたとか。
それから2年間、彼は必死で練習した。
人生をかけて3年も真剣に取組めば、芽も出るものなのか。
3年目のハワイキャンプで見い出されて一軍定着。
翌4年目、本塁打王獲得。
中西太や山内一弘といった大打者の世界についに参入。
彼は南海の捕手にして四番となり、戦後初の三冠王も獲得した。
三冠王を獲得する少し前。
すでに本塁打王を何度も獲得していた野村選手、球団の食堂に。
あの日のようにカレーライスを食べたそうな。
どうもあの時と味が違うぞ。
聞いたところが、あのときとレシピも何も変わっていないという。
カレーのレシピッピ自体は変わっていないのに、
南海球団食堂のカレーのレシピッピとの相性に、問題が発生した模様。
それもそのはず。
彼は、もっと美味い飯を普段自由に食えるようになっていたからだ。
四番・キャッチャー・野村 背番号 19
大阪球場に限らずどの球場でも、彼の名前と添えられる 2 という数字がスコアボードの上もしくは左から4番目に掲示されることは、今やごくありふれた日常の一コマになっていた。
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そして、現在。2024年2月4日。
日曜の朝の、わんだふるぷりきゅあ。
女子中学生犬飼いろはの飼い犬、こむぎ。
いろはと一緒におしゃべりしたいワン!
一緒にもっと遊びたいワン!
その願いが叶えられた翌週の2月11日・建国記念日。
ついにこむぎは、犬の姿でも人間の姿でも、言葉を使う能力を得た!
飼い主であるいろはと、言葉を交わせるように、ね。
それどころではない。
その気になれば、こむぎは飼い主のいろはとほぼ同年代の少女になれるのだ!
自らの自由意思で、人間と犬の姿を行き来さえできるのですぞ!
猫がしゃべったで仰天のセーラームーンどころの騒ぎではない。
あちらも、映画では人間の姿になっていた。だけどそれは例外的状況。
こむぎにとって、人間レベルのやりとりは日常になりつつある。
三島由紀夫氏と東大全共闘各位の対談のような違和感さえもなしに、だぜ。
三島由紀夫こと平岡公威氏と全共闘各位の対話もまた、言葉を介していた。
その壮絶なる対談は、彼らの母校の教室で行われた。
私が生れた、1969年のことであった。
それは奇しくも、元阪神監督の岸一郎氏が亡くなられた年である。
長らく没年不明とされていたものが、その翌日発売された書籍に、そのれに係る情報が明記されていた。
著者の渾身の取材による大成果であった。
私の元には、予約していた楽天ブックスから日本郵便を通し、発売日より1日早く配達された。
この日の朝夕、私は未来と過去の歴史の交差点に立会ったのである。
岸一郎氏の命日は、こむぎがプリキュアになった翌日、正式に判明した。
1969年(昭和44年)4月 3日
三島由紀夫 VS 東大全共闘の対談は、この日実現している。
1969年(昭和44年)5月13日
わたくしの誕生日は、この日です。
1969年(昭和44年)9月12日
ちなみに、某高校野球の強豪校の監督と、某プロゴルファー各氏も同日生です。
パピヨン犬のこむぎが人間の言葉を得て、人間と犬の姿の狭間を自由に行き来できるようになった日の、55年前の数々の出来事。
それらは、形を変えて今のプリキュアに影響を与えているのではないか。
さて、問題はこれから先のこむぎ。
三島氏と全共闘各位の如き対立点ではなく、人間のいろはと同じ目線で一心同体の如き立ち位置で話し行動することが可能となったこむぎ。
いろはの友人の兎山悟少年とも正面切って話せるようになることは既成事実。
このこむぎの解放感、私の大学合格後のあの1年間や、野村克也氏が南海ホークスの主力打者になった後の解放感のようなものの比ではなかろう。
本来話すことさえできない相手と話せ、意思の疎通が可能になったのだから。
東大の卒業生同士どころじゃない。人間と犬だぜ。
初めから言葉だけでなく共通の土台となる共用その他素養と環境が与えられた上での三島氏と全共闘各位の世界とは、根本的に違う世界なのである。
かの対談もそりゃあ素晴らしいが、いくら物語とは言え、人間の女子中学生とその飼い犬が共にことばで意思の疎通を図れることがどれだけすごいことであるか。
こむぎのこの解放感。
毎週日曜朝の番組で、これから1年にわたって描かれていくことは間違いない。
だが、彼女の解放感からくる熱狂も、そのうち当たり前のことになるであろうこともまた、想像に難くない。
入団テストを受けた高校生にこの世のものとは思えぬ感動を得させたカレーライスが、4番を打つ本塁打王の常連選手にはごく普通のカレーとなっていたように。
そして、その熱狂も冷め、こむぎ本来の犬の姿に完全に戻ったそのとき、あるいは人間になってしまってもこの際いい。
問題はそのときである。
あの日の熱狂が冷めて元のさや、もしくは行き着く先まで行ったとき、こむぎはどう変貌しているだろうか。
過去と未来の歴史のそれぞれが大きく塗り替えられるきっかけ。
それは、2024年2月4日、私の周囲で確実に発生した。
この歴史の転換点を経験した熱狂は、幸か不幸かいまだ継続中。
私の心中にあるこの静かなる熱狂。
果たして、いつまで持続するのだろうか。
何かが達成された故の解放感からくる熱狂の行方 与方藤士朗 @tohshiroy
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