私の一番幸せな場所
蜂賀三月
そこは、いつもの
暗闇を泳いでいる。
いったい何処を目指せばいいのか見当もつかない。なにせ、初めて行く場所だから。当てもないまま、上だと思う方向に進んでみるしかない。
私が目指しているのは、天国。
いつだったか、
上だと思っている方を泳いでいくと、雪のような光が降り始めた。
黄金色のものや銀色のもの、色とりどりの光がある。
そのなかで、一際輝く白い光があった。
その光がとても美しかったので目を凝らすと、その光のなかに颯介が映っていた。
ああ、そうだった。初めて会った時、颯介はとても困った顔をしていた。
当時、颯介は
光の中に、小さな私と向かい合う颯介がいる。抱きかかえる姿はどこかぎこちない。あの時、颯介は私のことを迷惑って思ったのかな。私は自分がどうなるのか、よくわからなくて不安だった。
颯介をもっと見ようとして光に顔を近づけると、ふわっと、光が弾けた。しんしんと光は降っていく。私は暗闇を泳ぎながら、輝くその光のひとつをまた覗き込んだ。
――颯介と私が遊んでいる。
桃色の猫じゃらしだ! 懐かしい。もう、壊れちゃったおもちゃ。颯介は、これを動かすのが上手だった。
右に左に上に下に、私が捕まえようとしてもなかなか捕まえられなかった。あまりにも捕まえられないから私、颯介の足を噛んだこともあったね。私って肉食系女子だから、つい力を入れすぎちゃったの。
あの時はごめんね。でも、颯介いつも笑ってた。痛いはずなのに、変なの。
また光が弾ける。薄桃色に変化した光は、小さな粒になって散っていく。
上を見上げると、何百何千という数えきれない光。ああ、そうなのね。
――これは、全て颯介と私の思い出。
颯介は話していた。颯介と私の寿命は違うから、どうしても、私の方が早く亡くなってしまうことを。「いつかきっと、待たせてしまうけど」なんて、謝っていた。
青く輝く光が舞う。颯介は光の中で、私に背を向けていた。これは、瑞穂と別れた時だ。
颯介が瑞穂と別れた時、私は少し寂しかった。瑞穂もおやつをくれたり、遊んだりしてくれていたから。
でも、瑞穂が勝手に連れてきた私だもの。瑞穂がいないなら、颯介が私を飼わなければならない理由もなくなる。
瑞穂がいなくなることより、私はそれが辛かった。
ずっと、颯介のそばにいたかった。
光のなかで、私は颯介の背中に顔をすり寄せる。
颯介はこちらを向いて、私の頭をくしゃくしゃと撫でてくれた。目が赤い。
「ルナ、お前は一緒にいてくれるんだな」
光から颯介の声が聞こえて、私は思わず目を閉じる。
一緒にいてくれる……なんて、違う。
私が一緒に居たかったの。
青い光は暗闇に溶けていく。触れると、私の肉球もキラキラと淡い光りを帯びた。
私はこの光を見ることや、触れることで「天国」に近づいていけるように思えた。
降り注ぐ光たち。その光のほとんどは何気ない日常だった。
颯介がくれたおいしいおやつ。
あんまり好きじゃなかったカリカリ。
窓の隙間から見えた鳥。
颯介の笑顔。
おぼつかない爪切り。
慣れてきた爪切り。
ぷにん、と肉球で触れれば、あたたかいものが伝わってくる。
代わり映えのないこんな毎日がとても幸せだった。
十三年間の思い出が降り注いでくる。
幸せって、毎日のことなのね。
私は昇る。真っ暗だったこの空間は少しずつ紫色に変化してきていた。
暗闇には境目ができていて、そこはグラデーションのようになっている。
――あそこまでいけば、虹の橋か天国の扉だとか、とにかくそんなものがあるのね。
前足を大きく動かして、空を漕ぐ。
気付いたら、私は霧に包まれていた。
冷たい空気を肌で感じると、私の意思とは関係なしに毛がぼわっと膨らむ。
鼻が冷たい。自慢のピンクのお鼻が凍えてしまうと思って、私は鼻を肉球で押さえる。ひんやりと冷たい感触がした。
しばらくすると、霧のなかで颯介の姿が見えてきた。
これは……最期の日の思い出。
朝、私はいつも通り颯介を起こしにいった。
午前五時、少しずつ空は明るくなってきている。
お腹が減っていた。
何度鳴いても起きないから、颯介の体をふみふみしたの。足だって噛んじゃう。
それでも、颯介は起きない。
顔を舐める。
指を舐める。
耳元で鳴いたの。
ごはんもいらないからって、泣いたの。
だけど、颯介は起きなかった。
少しだけ布団にぬくもりが残っていて。
いつも、あたたかいお布団なのに、どんどん冷たくなっていく。ねえ、颯介。
私が先に亡くなるんじゃなかったの?
颯介が息をしていない。いくらお腹をふみふみしても、もう二度と上下しなかった。颯介には、家族もいない。瑞穂と別れてからは、ずっと私とふたりだったの。だから、訪ねてくる人なんていない。
霧のなかに映る私は、ずっと颯介のそばにいた。
水も飲まず、ごはんも食べず、私の最期まで。
あの時のことを思い出すと、ピンクのお鼻がつんとした。
涙が、私の体に染みをつける。
颯介は話していた。いつか亡くなっても、また会えるからって。
本当なら私が「天国」の前で待たなければいけないはずなんだけど。
きっと、きっと颯介なら私を待ってくれているはずなの。
辛い感情を振り払うかのように、私は前足も後ろ足も思いっきり動かした。
空はどんどんと白む。あの日、颯介が亡くなった日のようだった。
必死に暗闇を泳いでいたはずなのに、いつの間にか私は見覚えのある部屋にいた。
ボロボロの爪とぎ、少し小さかった二個目のトイレ、羽根のとれたおもちゃ。
間違いなく、私達の家だった。
――そして、小さな机の前で颯介があぐらをかいていた。
いつもと同じように。
「みゃー」
私の尻尾がピンと立つ。座る颯介の膝に、額をぐいぐいと押し付けた。
「ごめんな。先に死んじゃうなんて」
そんなこと、もういいの。こうして会えたじゃない。
「ひとりで怖かっただろ?」
待っていてくれるって信じていたもの。大丈夫よ。
颯介が私のお鼻をむにゅと押した。指先があったかい。
今はもう、慣れた手つきで私を抱きかかえる。
ねえ、私覚えているのよ。
あれだけ下手な抱っこも珍しいわよ。
「それじゃ、行こうか。ルナ」
「んみゃ」
私は颯介の腕のなかで、ゆっくりと目を閉じた。
颯介の腕や胸から、春の陽射しのようなものが流れ込んでくる。
扉が開く、音がした。
私の一番幸せな場所 蜂賀三月 @Apis3281
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