今日一日だけ

呂兎来 弥欷助(呂彪 弥欷助)

第1話

 会社と言えば、きちんと働かないと行けない場所で。学生から社会人になるときは、とても緊張していた。

 その緊張を一瞬で溶かしてくれたのが、猫乃ねこの真白ましろ先輩。名前の通り猫のように愛くるしい外見の彼女は、俺の教育係で。やさしく朗らかに仕事を教えてもらい、あっという間に一年が経過しようとしている。


金井かないくんは、犬派? それとも猫派?」

「猫……ですかね、どちらかと言えばですけど」

 猫乃先輩に聞かれ、咄嗟に『猫』と出てしまった。本当は犬派なのに。それでも、猫乃先輩に問われたら、一択のような気もする。

「そう! よかった!」

「え、猫乃先輩はどっち派ですか?」

「名前の通り、猫派よ」

 ですよねー、と思いつつ、よかったーとも思う。

 ああ、無防備にニコニコ笑う猫乃先輩を永遠に眺めていたい。

「そろそろ定時ね。今日もお疲れ様でした」

「お疲れ様です」

 ノートパソコンの右下を見れば、定時の五分前。メールのチェックを再度して、未読がなければ帰る支度をしていい時間だ。

 一見無意味な会話だったが、これは猫乃先輩の気配りだと思う。席がとなりというのもあるだろうが、教育係として。日々こうして何気なく、俺の仕事が終わるのか気にかけてくれているわけだ。

 メールは二通来ていたが、目を通した限り明日の対応で構わない案件だった。メールを未読に戻し、開いていたエクセルやフォルダ、システムを閉じていく。

 シャットダウンを押したころ、となりでノートパソコンを閉じる音がした。

「それじゃ、また明日ね」

「はい、今日もありがとうございました」

 ニコッと微笑み、猫乃先輩は席を立つ。

 俺もパタリとノートパソコンを閉じ、席を立つ。猫乃先輩が一番に事務所を出てくれるからこそ、俺も帰りやすい。

 やさしいし、かわいらしいし、最高か。


 仕事を覚えてからは、正直、猫乃先輩に会いたくて会社に来ているようなものになってしまった。

 仕事なんて楽しいわけないと思って就職したが、正直、自分の気持ちを自覚してからは楽しいしかない。

 いや、仕事だから辛いことも面倒なこともある。特に、総務部というのは何かとあらゆる部署から電話やメール、書類が届く。書類の細かいチェックをして差し返さなければいけないこともあり、何度も同じことを言わなきゃいけない人もいる。会社内の人からクレームまがいの電話も入る。

 だけど、となりに猫乃先輩がいる。それだけで、それらはすべて吹き飛ぶ。

 猫乃先輩は入社三年目。俺と同じくはえぬきだ。ただ、短大卒と聞いたから、年はひとつだけ上。

「あ~、はやく明日になんないかなぁ……」

 帰路でこんな言葉が出るなんて、末期症状だ。




 帰路は鬱蒼とした気分だったが、朝になれば気持ちはリセットだ。また猫乃先輩に会える一日が始まると思えば、気分は上々。


 ただ、出勤する前の俺は知らなかった。

 まさか、猫乃先輩があんな風になっているだなんて。


「おはようございます、猫乃先輩」

「あ、金井かにゃいくん。おはようにゃ」

 ん? 『金井かにゃい』? それに、おはようのあとに『にゃ』って言わなかったか?

「あれ? 猫乃先輩……どうしたんんです、か?」

 よく見れば猫乃先輩のサラサラした髪から、白い猫耳が生えている。

 おずおずと聞いたが、猫乃先輩は目を丸くして俺を見つめてきた。白い猫耳がピクピクと動いていてかわいらしい……が違う、そうじゃない。

 勇気を振り絞ってもう一度聞こうとしたが、背後から部長の声が覆い被さってきた。

「あ~、猫乃くん。金井くん。おはよう」

「部長。おはようございますにゃ」

 俺は凍りつく。間違いない。やっぱり猫乃先輩は『にゃ』と言っている……。

「お、おはようございま……す……」


 俺のいる世界は、昨日と違う世界なのか?


 俺が混乱していると、部長は俺の横を通り過ぎて普通に席に着いた。あれ、猫乃先輩の猫耳は見えてないんだろうか……。

 何これ、どうなってるんだ本当に。俺の耳と目がおかしくなったのか?

「おっはよーございまーす」

 今度は総務部で一番長く在籍している長居ながい主任の声。

「お……おはようございます」

長居にゃがい主任、おはようございますにゃ」

 また、猫乃先輩『にゃ』って言っている!

 って、えーちょっと待って! 長居主任まで普通に猫乃先輩の『にゃ』をスルーなの?

「どうしたんだ金井」

 猫乃先輩の前の机に座った長居主任は、俺の動揺を察したのか。固まっていた俺の方を向いてくれた。

「い、いや、あの……。とっても言いにくいんですけど……」

「なんだ、猫乃のことか」

『なんだ』で済むことか?

「そ、そうです……ね……」

「今日は猫の日だからな」

「私、にゃにか変ですかにゃ?」

 長居主任は平然とノートパソコンを立ち上げ、猫乃先輩は首を傾げている。俺は、何というのが正解なのか。

「猫乃くんはな、猫の日にはそうなってしまうんだよ」

 あっはっはと部長は笑っている。すると、猫乃先輩はハッと気づいたように耳を触った。

「あ……これかにゃ?」

 これっていうか『にゃ』もですけどね? と思いつつ、俺は控えめにうなずく。

「私、東京に出てくるまで知らにゃかったんだけど、珍しい現象だったみたいにゃ」

「猫乃の地元では、二月二十二日猫の日には皆こうなっていたらしい」

「明日は耳が戻るにゃ」

 笑顔で言う猫乃先輩。『にゃ』の自覚は皆無らしい。

金井かにゃいくんだけには教えてあげるにゃ……」

 口に手を添えて近づいてくる猫乃先輩。ケモ耳好きというわけではないが、何だかドキドキする。

「今日一日だけは猫語がわかるにゃ!」

 ポソリと言った猫乃先輩は、なぜか得意げだ。猫耳もうれしそうにピョコピョコ動いている。


 もしかして昨日の帰り際の……あの猫乃先輩の質問はこういうことだったのか?


 今日一日だけで、俺はすっかり猫派になると確信した。

 定時になれば、来年が楽しみになるだろう。

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