第8話 世界の秩序をかえるもの

 その後、様々な事実が分かって来た。

 美月の実験内容が犯人側に露呈したわけは、彼女自身による国際特許の出願が起因だった。放射線バクテリアの完成段階で特許出願をしており、そこから情報が漏れたようだ。

 そして今回の事件はバクテリアの完成をもって、学会に発表をするという情報を掴んだ犯人側が、その廃棄と情報公開阻止を目論んだことによるものだった。特許内容だけでは詳細な生産方法まではわからないことから、廃棄と美月の殺害を果たせば、その存在自体を抹消できると考えたわけだ。

 警察の捜査は継続されたが、相手の方が数段上手のようで、犯人の特定はおろか、その背景までもが闇に包まれたままとなっていた。

 美月が自身の危険に気付いたのは、これもあくまで想像の域を出ないが、英国の情報機関からの進言によるものだったようだ。学会のため帰国直前に前述のような危機が迫っていると伝言があったらしい。それにより、美月は二重三重に防護策を講じていた。バクテリアの北大への輸送もそうだが、自身が亡くなった後までも考慮していた。

 美月はみゆきを自身の生命保険の受取人にしていた。帰国前に生命保険の金額をあげ、一億円もの保険金がみゆきに渡るようになっていた。そしてバクテリアの生産と使用については特許出願が成されたため、それは如月が管理運用することになる。それについても美月の希望であった。

 さらにバクテリアの安全管理については日本政府がそれを行うこととなる。よって今後は国家的な防護体制が取られることとなる。それにより如月達の安全も確保されることになった。

 そんな美月だったが、図らずも如月からの偽の伝言を信じて、この世を去ることになってしまった。それは如月には重ね重ね残念な事件だった。


 短期間ではあるが、みゆきは如月のマンションに住むようになり、美月の葬儀が終わるのを待って、一旦ロンドンに戻ることとした。そして1学期まではそこで学び、夏休みに身辺整理をおこなってから帰国することにする。


 如月の携帯に目黒署の冷泉から連絡が入る。

『如月さん美月さんの司法解剖が終了しました』

「ああ、そうですか」

『死因は後頭部の脳挫傷および脊椎骨折になります。以前、連絡した内容と変わりはありません。他に外傷はありませんでした』

「はい、わかりました」

『あと、あらかじめ連絡をいただきましたように、ご遺体は指定の葬儀場のほうへお渡しすればよろしいですか?』

「はい、そうしてください」

『また、犯人逮捕について、進展がなくて申し訳ありません。我々も必死で捜査に当たっていますが、いまのところ有力な手掛かりがない状況です』

 やはり、進展はないか、相手が悪いといったところなのだろう。2名も殺害し、さらに一人は重傷でありながら、犯人の特定が困難とは、これが国際的な犯罪組織というものなのだろうか。

『それでは、また何か進展がありましたら、連絡させていただきます』

「わかりました」

 如月は電話を切り、リビングにいるみゆきに声をかける。

「今、警察から連絡があった。お母さんが葬儀場に送られるそうだ。あとで会いに行くか?」

 みゆきの顔がこわばるのがわかる。如月も同じ思いだ。どこかで美月の死を認めたくない自分がいる。遺体を見てしまうとそれを認めざるを得なくなる。

 みゆきがうなずく。


 翌日、葬儀場へ、遺体の確認と葬儀の詳細を決めるためにみゆきと赴く。如月の車で葬儀場に行くが、元々会話も少ないのだが、さらに二人とも無口になる。

 亀戸近くの3階建ての白い斎場に着く。

 一階が駐車場になっており、車をそこに駐めて中に入る。

 葬儀場の担当者と挨拶を交わし、いよいよ美月と会うことになる。

 みゆきは如月の後ろをとぼとぼとついてくる。

 担当者が部屋に案内する。大きな木の扉を開けて、室内に入る。そこは凡そ10畳程度の畳の部屋だった。

 その部屋の奥に美月がいた。

 美月はこれから旅立つための最後の死化粧をしていた。白の衣装をまとい、まるで息をしているかのように見える。

 みゆきが母親に近寄る。

 そして顔に手を触れ、彼女が二度と話をしないことがわかると嗚咽を漏らす。如月の頬にも涙が伝う。

 そして思った。ああ、自分もどこかで美月の死を認めていなかった。こうして遺体を目の前にすると、それが疑いのない事実であることを思い知らされる。

 2年ぶりの美月は相変わらず、凛としていた。

 美月は人類の希望を見つけただけなのに、どうして殺されなくてはならなかったのか、そしてそんな彼女の力になれなかった自分が悔しい。美月が自分に残してくれたもの、みゆきとバクテリアについては、これから命を懸けて守っていくしかない。

 葬儀社と今後の打ち合わせを行い。葬儀日程を決める。

 

 帰りの車で涙も涸れ果てたみゆきがポツポツと話をし出した。

「ママは待ってたんだよ・・・」

 如月は運転しながらみゆきを見る。

「やり直したいって言ってくれるのを・・・」

 如月に言葉はない。

 それはわかっていたのだ。

 あれだけ慎重に事を運んでいた美月が、如月からという偽メールでまんまと罠にはまるほど、やり直したかったのだ。如月にも美月は必要だった。恋愛関係を越えた人生のパートナーとして、お互いの関係を確立していくはずだったのだ。

 なぜ、そうしなかったのかは自分でもよくわからない。解決しないといけない問題から逃げていたのか、面と向かって話をする手間を惜しんだのか、言い訳ばかりを集めていたのかもしれない。心底だらしのない男だ。

 ただ、今となってはその機会を失い、大事なものを無くしてしまった後悔だけが残る。みゆきに何か言いたいが、その言葉すら見つからない。

 運転中だが嗚咽と共に涙が止まらなくなった。


 そして如月はこのバクテリアを『ミツキ』と名付けた。

 発表当時は世界的な大発見として大騒ぎとなった。それこそ、この微生物は世界の核問題を一気に解決するものだった。また、開発責任者の柴美月が不慮の事故で亡くなったことも世間の耳目を集めることとなる。彼女は誰に殺されたのか、そしてその背景にあるものは何か、マスコミの中には興味本位で書き立てるものが多かった。

 如月はこの騒動に必死で対応しながら、北海道大学の協力のもと、ミツキの量産化に成功する。美月が残したカードの中には、詳細な製造方法や計画表があり、基本はそれを踏襲したのだった。

 そして、このバクテリアの最初の使用は、美月の夢であった福島原発の放射線処理に使われることとなる。バクテリアの管理、運営については日本政府の支援もあり、それについての公聴会が内閣府主催で行われることとなる。中央合同庁舎第8号館1階講堂に関係者が集まる。

 しかし、ここまで来るには事件から3カ月も要していた。

 事件については継続捜査としながらも何一つわかっていなかった。証拠の類があまりに少なく、目撃証言もほとんど得られないと言った異常事態で、実際は警察も八方ふさがりと言った状況だった。


 如月は北海道大学の下野准教授、渡辺元と共に公聴会に出席する。

 中央合同庁舎第8号館は2014年に竣工された比較的新しい建物で、セキュリティも万全であった。

 政府関係者は復興大臣、官房長官、経済産業大臣、環境大臣も参加しており、まるで大臣披露会見のようなメンバー構成となっている。さらには各省庁の責任者やマスコミ、大学関係者も集まり、総勢300名にまでになる公聴会となった。

 如月に緊張するなと言うのが無理な話だ。ここまでの人間を前にしたスピーチの経験などない。せいぜい友人の結婚式でのスピーチぐらいだ。

 ステージ上の末席に如月と北大関係者が座っており、大臣連中が中央に並んで座っているという塩梅だった。そして会場には大勢の聴衆がいる。

 まずは内閣府の担当者が中央の演台に立ち、公聴会の趣旨と目的を話す。如月は次に自分があそこで話すのかと増々緊張が高まってくる。

「それではまず冒頭に、当バクテリアの管理責任者であります、如月コーポレーションの如月社長からお話をいただきます」

 如月が呼ばれる。雲の上を浮ついているような足取りで演説台に立つ。あらかじめ用意した内容が台上のパソコンに映っている。

 しかし、なぜかよく見えない。興奮が最高潮に達しているのがわかる。心臓の鼓動がありえないほど激しい。

「ただいま、紹介に預かりました如月コーポレーションの如月覚と申します」

 しまった。声が上擦っている。くそーなんとかしないと誰か助けてくれ。めまいに近い状態だったが、ふとどこからか声が聞こえる。だから、あなたはだめなのよ、美月の声がする。ああ、そうだよ。俺はいつもそうなんだ。どうせ人望がない男だよ・・・美月が笑った。それでどこか不思議と落ち着いてきた。隣に美月もいるのだ。

「今回、福島原子力発電所の事故処理に置きまして、当社の放射線バクテリア、ミツキの使用を認めていただきました。関係各位のご対応につきまして感謝申し上げます。まことにありがとうございます。つきましては私の方から一言述べさせていただきます」

 会場を見渡す余裕も出てきた。ぎっしりと会場を埋め尽くしている聴衆は真剣な顔で話を聞いている。今回の事案がそれだけ関心の高いものだということがわかる。

「このバクテリアは、私の妻であった柴美月が命を懸けて開発したものです。彼女は福島出身でまさに原発事故の起きた相馬市の出身でした。美月はなんとしてもこの故郷を取り戻したいと当研究を続けてきました。そして原子炉近傍でこのバクテリアを発見し、さらに遺伝子組み換え技術を使って、人類の夢であった放射線除去を実現いたしました。残念ながら不幸な事故により彼女はこの世を去りました。ただ、彼女の思いはこのバクテリアの中に生きています。そしてそれを実現させるために、私は今後も活動を続けていきたいと思います」

 期せずして会場から拍手が揚がった。如月もほっとする。美月の思いを伝えることが出来た。

 再び司会担当が北海道大学の下野准教授を紹介する。下野は円谷教授の後を継いで研究室を仕切ることになった。バクテリアについての実験自体は渡辺が担当したが、担当教授は下野である。その下野がバクテリアについて話をする。

「北海道大学農学部生物機能化学科の下野と申します。私の方から当バクテリアの研究課程を申し上げます」

 さすがに大学の先生だけあって話をするのには慣れている。

「このバクテリアは国際特許出願がなされています。申請者は先程、如月社長から話がございました柴美月先生です。

 彼女は2015年に都内の大学から北海道大学に転籍されました。彼女の専門は単細胞生物で北大での研究環境が、希望と一致したことが大きかったと聞きました。彼女はそのときからこのバクテリアの発見を望んでいました。

 うちの研究室は微生物についての研究が盛んで、彼女はそこに魅かれたようでした。私との話の中でも、なんとしても放射線対策が可能な微生物研究を実現させたい旨を、熱く語っておられました。彼女のそういった熱意がここにおられる政府関係者や東京電力の支援を得ることが出来た一番の要因です。危険性の高い原子炉近傍で、のべ3か月に及ぶ研究を行い、ついに当バクテリアの原型ともいうべき単細胞生物の発見に至りました。

 しかしながら当初、このバクテリアでは放射線の処理は可能ですが、非常に時間がかかるといった課題を残していました。それでも放射線の半減期よりも数倍も早い期間での処理が可能でしたが、彼女はそれを良しとはせず、さらなる改良を目指します。そこでバクテリアの遺伝子組み換えを試みたのです。国内にもそういった研究機関はありますが、彼女は世界でも最先端のいわゆる遺伝子研究のメッカでもある、英国のフランシス・クリック研究所に研究場所を移します。 

 もちろん、先方の許可を得るために様々な活動が必要でした。ただ、ここでも彼女の熱意が研究所に通じて、研究を行うことが出来たのです。彼女は微生物については専門でも遺伝子工学については未知の分野でした。それでも持ち前の頭脳と努力、そして研究所からの助力を得て、遺伝子組み換えについても確固たる実力をつけていきました。そうして研究所で5年を費やし、ついにこのバクテリアを完成させることができたのです。

 ここでこの放射線バクテリアについて簡単に説明いたします。ミツキと名付けられたこのバクテリアは0.2ミクロンとバクテリアの中でも微小なサイズです。エネルギー源は放射線になります。放射線といっても様々な種類があります。アルファ、ガンマ、ベータ、中性子線など色々ですが、このミツキはすべての放射線に対し効果があります。とりわけ生物的に影響のある電離密度の高いアルファや中性子線への効果が高い事が分かっています」

 専門的な話であるが、生物的に危険性の高い放射線に効果があるということは、期待が持てる。聴衆も納得している模様だ。

「そして、福島原発で問題となるヨウ素131、セシウム134、セシウム137、ストロンチウム90の4種類の処理が可能となります。研究室でおこなった実験ではセシウム137の処理は1日で無効化できました」

 聴衆から感嘆の声が漏れる。如月も当初はその実験結果に驚いた。

「このバクテリアは放射線を吸収し、細胞分裂を起こします。その放射線量により指数関数的に数が増えていきます。そういった点でも放射線除去に関して理想的な働きをします。実際の現場でどのくらいの効果を発揮するのかは不確かな部分ではありますが、十分効果はあると思っています。 

 さらに皆さんが聞きたいのはこのバクテリア自体の処理の問題だと思います。実はこのバクテリアは放射線が無くなると72時間で死滅します。ですからすべての放射線を処理し尽くせば無くなることになるのです」

 これにも同じく聴衆が納得する様子を見せる。美月が72時間での死滅という特性を変えなかった理由も今になるとわかる。こういったバクテリアが死滅しない場合、その後の悪用が懸念されるからだ。すべての放射線が悪さをするものでもないのだ。

 公聴会はその後も続けられ、政府関係者の挨拶や色々な議事進行があり、質疑応答も行われ、概ね問題なく終了した。


 如月は慣れない会議後、政府ならびに北大の関係者との打ち合わせも終わり、講堂出口の長椅子に座りしばし呆然としていた。

 今回の役目は無事果たした。公聴会よりもバクテリアの現地使用の認可に骨が折れた。一番、大変だったのは政府関係者、特に官僚たちとの折衝だった。理論的な裏付けや根拠、さらには費用対効果についての事細かい資料提出に四苦八苦した。それでも北大渡辺の粘り強い対応もあり、何とかここまでたどり着けた。後は実施あるのみである。

 そんな如月の前に立つ人物がいた。

 顔を上げると警視庁の保科である。

「如月さんお疲れ様です」

「保科さん、居られたんですか?」

「ええ、関係者の端くれとして見させていただきました」

 そしてその後ろには目黒署の冷泉もいた。

「お疲れさまでした」相変わらずどこかのモデルのようだ。

「冷泉さんもいたんですね」

 保科がまじめな顔になり、「如月さん、その後の報告です。連絡が遅くなり申し訳ありません」

 事件については一向に解決していなかった。犯人像は明確になっているのだが、証拠の面や国際的な軋轢もあって結局は進展がなかった。

「警察としても威信をかけて臨んだんですが、未だに犯人に結び付くものは出てきません。公安のほうでも動いてもらっているんですが、国際的な問題もあるようで・・・」

「そうですか。残念です」

「ただ、その後の警備については万全を期しています。表向きには言えないようですが、アメリカの情報機関の協力もあるようです。それによると多分、今後は事件が起きる恐れはないだろうとのことです。つまりは奴らも諦めたということでしょう」

「そうですか、ここまで発表されれば、手出しは出来なくなったということですかね」

「そのようです」

 冷泉が聞く。「バクテリアは世界からも注目されていますよね」

「はい、問い合わせは引っ切り無しです。何せ放射線の問題はいまや世界の課題です。放射性廃棄物の問題もありますし、放射線被害は世界各地で起きています。そういう意味では福島の結果を世界が注目しています」

「そうですか、これからも大変ですね」

「ええ、でも美月の夢ですからね。やりがいはあります」

 保科が聞く。「福島での放射線除去はいつから行うんですか?」

「8月頭からやります」

「そうですか」

「福島の現地の方々が、お盆には大手を振って地元に帰れるようにしたいです」

 保科達も感慨深げにうなずく。


 如月との話を終えた保科が職場に戻ろうと中央合同庁舎から外に出る。

「保科さん」声が掛けられ振り返ると冷泉がいた。「もう、本庁に戻られますか?」

「ああ、仕事が立て込んでる」

「すみません、少しお時間取れませんか?」

 保科は時間を確認する。まあ少しぐらいであればいいのか、「うん、大丈夫だ」

 冷泉が話とは何なのだろうと思う。

 冷泉の知っているヒルズにあるカフェに入る。普段飲んでるコーヒーの3倍の値段だがそれを注文する。

「すみません、お呼びだてして」

「いや、どうした?何かあるのか?」

 冷泉が話しやすいようにしようと思うが、どうも若い女性とうまく話ができない。まさか恋愛相談でもあるまい。

「実は今回の件でずっともやもやしています」

 なるほど、そういうことか、保科も同じだった。「うん、そうだな」

「はい、腑に落ちないというか、なぜ美月さんが殺されなければならなかったのかがわかりません」

 保科はすぐに答えようとしない。

「ひょっとして筋読みの保科さんであれば、何か気付かれたのではないですか?」

 保科がコーヒーを飲む。さすがに高いコーヒーはうまい。署のベンディングマシンとは違うな。

「筋読みか・・・」

 冷泉が真剣な顔で保科の答えを待つ。保科は背広の内ポケットから手帳を出す。

「筋読みの道具だ。関係者からの聴取や自分の思ったことを取り留めもなく、書きなぐっている」

 保科はその手帳をぱらぱらと捲りながら、「根拠はない。ただ俺もあれから色々考えた。いまさらだけど微生物や放射線についても調べはした。調べはしたがにわか仕込みだ。それと今回のバクテリアについても、資料は一通り読んでみた。そうして筋読みはしてみた。まあ、捜査にもかかわることだからな」

 冷泉がうなずく。

「如月さんが・・・元々は淵という元自衛官の男が言っていた話が引っかかっていた。ミリタリーバランスの話だ。つまり国家的な危機が無いと、奴らも爆発物や銃器を使用しないという話だ。精々、美月さんや円谷教授のように事故死に見せかけるのが関の山だ。それが証拠が残る方法にまで手を染めて阻止に動いた」

「はい」冷泉がうなずく。

「冷泉が言うように、今回発見されたバクテリアは原子力の使用にとっては朗報でしかないはずだ。それがなぜここまでやっきになったのか。

 それと美月さんが言っていた世界の秩序を変えるって言葉だよ。原子力にとってそこまでの話なんだろうか、秩序ということはもっと大きな理じゃないかと思うんだ」

「そうなんです。私もそう思いました。世界の秩序が変わるようなことではないし、ましてや殺されるようにはならないと・・・」

「それでな。俺が出した結論は・・・」

 冷泉が身を乗り出すようにする。

「核兵器だと思う」

 冷泉の大きな目がさらに大きく見開かれる。

「核兵器・・・」

「ミツキというバクテリアは、核兵器を無効化できるんじゃないのかな。核爆弾もウラン239や放射線を出す物質を使用するだろ、このバクテリアはすべての放射線を分解する。

 爆弾の中身にまでどうやってバクテリアを到達させるかの技術はいるだろうが、このバクテリアは0.2ミクロンで極小だ。そういった意味でも爆弾に影響を及ぼしやすいと思う」

「核弾頭の貯蔵庫などにバクテリアを持ち込めれば、増殖して放射線を無くしてしまうということですか。そうなると核爆弾が無効化される・・・」

「そういうことだ。核弾頭がどう管理されているかは知らんがね」

「核兵器って隙間はあるんですか?」

「そこもよくわからない。調べてはみたが各国とも秘密にしているからな。ただ、やつらが慌てていたことを考えるとそう言うことだと思う」

「つまりは核兵器を無効化できる」

「そうだ。それで俺が考えるに、美月さんはそれこそが究極の目的だったのかもしれない。核の脅威のない世界だよ」

「想像するだけでもそれは素晴らしい世界に思えますね。でも、そうなるとミリタリーバランスが崩れます」

「そういうことだ」

「今は核兵器の使用を人質のようにして強国が交渉している状態です。それが通常兵器だけの交渉になる」

「そうなるとロシアなどは困るだろうな・・・」

「そうですね。アメリカの軍事力が際立ちます。でも、それで真の平和が訪れますか?」

「どうかな。それはわからない。ただね。核による脅しは通用しなくなる。話し合いによる解決が最善の道になってほしいと思うよ。そうなれば、それはそれで大きな意味があることかもしれない」

「美月さんはそこまで考えていたんですか・・・」

「北大の渡辺さんが言ってただろ、柴先生は渡英してからしばらくすると研究内容を連絡しなくなったと、つまり彼女はそこに気が付いたんだろうな。だから、研究内容を秘匿事項として、研究所内でも非公開にしていた。世界の秩序を変えたかったんだよ」

 冷泉はそんな世界を想像しているのかもしれない。頬に赤みが増してくる。

「核兵器のない世界・・・」

「日本政府はそれを知っているはずだよ。バクテリアの警備や管理が政府の支援を受けるようになった。それとミツキの使用方法も明文化されて、放射線除去に限定されている」

「国家間で交渉もあったんですかね」

「おそらくな。それがないと今後も同じような争いが起きるかもしれない」

「本末転倒ですね」

 保科は再びコーヒーを飲む。

「まあ、これが俺が思いついた筋読みだ。なんの裏付けもないがね」

「いえ、いつもながら保科さんはすごいと思います。あの、いつもメモされてますよね。どうされてるんですか?」

 保科は自分の手帳をそれとなく見る。

「これか、やりだしたのは捜一に来てからだな。書いてるのは単語だけなんだよ。聴取している中でキーワードみたいなものを書きだしてる。大事なのはそれを読み返す時だな」

「読み返すんですか?」

「メモのままだとそれこそ訳が分からなくなるからな。そうして見返すと色々気付くようなことが出てくる。そう言った事柄を書き足していくんだ。まあ、俺のやり方だから万人にいいとは思えないけどね」

「いえ、参考にします」冷泉の目が輝く。

 ここで保科は以前から思っていたことを冷泉に話してみる。

「それで話は変わるが、前から冷泉には言いたかったことがある」

「はい、何でしょう?」

「君にその気があればの話だが、よければ捜査一課に来ないか?」

「私がですか?」冷泉はきょとんとする。

「それなりに厳しい面も多いが、やりがいはある。それよりも俺は冷泉に期待する部分が大きい」

 冷泉は返答せずに考え込んでいる。

「そちらの上司と署長の推薦もいるだろうが、俺は向いてると思う」

「はい、ありがとうございます」

「まあ、前向きに考えてみればいいと思う。その気があるなら、俺の方からそれなりに根回しもしてみるよ」

「わかりました。少しお時間をください」

「うん」

「ああ、でも欠員が出ないと異動も難しいんじゃないですか?」

「大丈夫だ。宮本は機動隊に行くはずだから」

「本当ですか?」

「いや、俺の希望だ」

 冷泉が今日初めて笑顔を見せた。


 福島の夏は暑い。東北地方だがまるで熱帯地方のように蒸し返す暑さである。それでも海沿いの福島原子力発電所は海風もあり、幾分は暑さも和らいでいる。そこに如月とみゆき、そして大怪我が癒えた淵がいた。

 北海道大学の渡辺元はこの暑さの中、サウナスーツならぬ防護服を着て飛行ドローンの遠隔操作を指示している。

 いよいよバクテリアミツキによる放射線除去が始まる。今日は原子炉1号機へのバクテリア散布から始めることとなっていた。

 如月達は空調の効いたコントロールルームからこの様子を見守っている。

 淵はその年齢とは思えない回復力で、事故後1カ月もするとけがも徐々に癒え、元の仕事に復帰していた。今回はぜひ参加したいとのことでここに来てくれたのだ。 

 この光景は如月だけでなく、淵にとっても何としても見ておきたいもののようだった。今回の事件では淵が失ったものも大きい。

 おそらく防護服の下は汗だくだろう渡辺が指示して、大型のプロペラを4基携えたドローンが飛び立つ。原発一号機の大型カバーを飛び越えてドローンが中に入って行く。渡辺の話によると、バクテリアは空中散布だけで、十分に原子炉内まで浸透していくはずだと言う。

 ドローンはすぐに外からは見えなくなっていた。コントロールルームのモニター上にはそのドローンからの映像が映っている。如月が高揚感をもって淵に言う。

「いよいよですよ」

「ああ」淵も満足げに答える。

 あれから如月は色々考えた。美月がどんな思いでああいった行動を取ったのか、なぜ、あのネックレスのロケットにバクテリアを託したのか、そしてあの日に戻るしかないとメッセージを残した意味だ。

 美月はあの日に帰りたかったのだ。如月はいつも煮え切らなかった。美月と別れたかったわけでもないし、みゆきと離れたくもなかった。ただ、それを言葉として伝えてこなかった。美月の意見をそのまま受け入れて、自分から行動を起こすことはなかった。 

 元来がそういった性格で自己主張もなく、淡々と周囲に流されてきていた。美月はそういった如月自身を変えてほしかった。もっと自分の意見をぶつけてほしかったのだ。それさえできれば、こんなことにはなっていなかった。離婚の申し立てもあくまできっかけに過ぎなかった。それを如月が反対するべきだったのだ。そうして自分の意見を主張し、どうであろうと決意を示せばよかった。

 これまでの自分の仕事もそうだった。流れに抗おうともせず、成り行きに任せて生きてきた。そんな生き方を変えなくてはならない。美月の思いはそこまでも含んでのことだった。

 もはや、美月とはかなわない夢だが、これからは自分を変えていこうと思う。みゆきについては全力でぶつかって行く。自分の意見を言い、みゆきの話も聞いて関係を構築していく。それが美月の希望に他ならない。

 みゆきが席を外していると、淵が如月の近くに来る。

「如月さん、娘さんとの距離は縮まったのかい?」

 淵は最初に会った時から、みゆきとの関係を心配してくれている。

「はい、少しづつですが、距離を縮める努力をしています」

「うん、それでいいと思うよ。実際、今日見ると随分、親子に近づいている気はするよ」

 親子に近づいてるか、やはりこの人は鋭いな。

「そうですか、それはうれしいです。淵さんからそう言われるのは、自信になります」

「とーちゃん、がんばれってとこだな」

「はい、頑張ります。もう後悔はしたくないので・・・」

「ああ、それがいい」農業ヤクザが笑顔を見せる。


 いよいよ、ドローンからバクテリアが散布され始める。ドローンはその下側に円柱形のタンクを装備しており、4基のプロペラの中心から下向きにノズルが出ており、霧状のバクテリア溶液が散布される。散布量は全部で8?となる。

 東電の担当者も固唾を飲んで見守る。これが成功すればすべての福島の放射線問題がクリアされるのだ。放射能被害の問題だけではない。日本の原子力電力事情の進展にもつながる。それは日本のいや世界の希望になるはずだ。

 霧状のバクテリア溶液が散布されている。如月の隣のみゆきもじっと見守っている。みゆきは9月からは日本の中学校に転校することになっている。如月の有明のマンションから通うのだ。

 長い間、親子ではなかったから、お互いの信頼関係を培うには時間がかかるだろうが、如月はそれを乗り越える覚悟を持っている。美月の二の舞だけは避けないとならない。美月もそう望んでいる。

 ドローンがバクテリアの噴霧を終える。そしてそのまま原子炉近傍に降りていく。バクテリアの効果があれば回収可能だが、万一、失敗すると放射線をまき散らすことになるためだ。

 しばらく待つと、防護服を脱いだ渡辺が戻ってきた。案の定、汗だくである。もう少しやせた方がいいと思うが敢えて言わない。言えば食事が生きがいだと言われるのがおちだ。

「渡辺さんお疲れ様でした」

「いやあ、防護服は暑いですね。いい汗かきました」そういいながらタオルで汗をぬぐっている。まるでサウナにでも入ったかのようだ。

「実験室だと一日で効果が出てくるとおっしゃってましたが、ここだとどのくらいかかりますか?」

「そうですね。おそらく今晩辺りから効果が出だすと思いますよ。いったんバクテリアが増殖を始めると早いと思います」

「そうですか」


 そして如月達はその日の夕刻までそこで待機するが、残念ながら放射線量は一向に下がって行かなかった。段々と渡辺の顔が曇ってくる。如月はあえて言わないが、実験室と現地の放射線では色々な違いも出るのだろうと素人考えでは思う。

 ここまで一緒に待機していた淵がそろそろ帰宅するという。明日は仕事を抱えているそうだ。新会社による民泊事業は順調だそうだ。

 みゆきと如月で淵を見送る。淵の車は以前のシルバーの軽トラだ。

「それじゃあ、如月さん、みゆきちゃんまたな」

「はい、今日はありがとうございました」

「淵さんありがとうね」みゆきは少し涙声だ。

「みゆきちゃんお父さんを支えてやってね。如月さんはちょっと頼りないからな」そういってにやりとする。

「うん、わかってる」おいおい、わかってるはないなと如月も苦笑いする。

 淵さんは軽トラに乗り込んで、そのまま走り去ってしまった。結局、少しも振り返らなかった。そういうところが淵さんらしい。

「淵さん行っちゃったな」みゆきに反応はない。「また、会いに行こう」

 そこでみゆきは珍しくうなずく。やはり二人にとって淵さんは掛け替えのない人になったのがわかる。生死を掛けて自分たちを守ってくれた人だ。まさに正義の味方なのだ。


 結局、その後、夜になっても放射線量が下がることはなかった。

 関係者から失望の色が見えてくる。数値はほとんど変わりがなかった。

 北大の渡辺がもっとも落ち込んでいた。こんなはずではなかったと顔に書いてある。現場の関係者も本日はここまでと徐々に帰宅し出した。如月もとりあえず、宿に戻ることにする。 

 渡辺は残るという。

「それじゃあ、渡辺さん後はよろしくお願いします」

「はい、大丈夫です」

 全然、大丈夫な顔ではない。顔面蒼白とはこのことだ。

 如月とみゆきは、サブスクを続けることが出来たポルシェカイマンでホテルに戻る。途中のラーメン屋で夕食を取ることにした。

 券売機でチケットを買う都内にもよくある方式の店だ。如月は醤油ラーメン、みゆきは塩ラーメンを注文する。そして出てきたラーメンを食べ始める。

 向かい合わせの席で二人とも黙々と食べる。ラーメンはそれなりの味だった。如月は会話の糸口を探す。

「みゆきは将来の夢とかある?」

 みゆきがラーメンを頬張りながら言う。「何、急に」

「ああ、そうだな。急だったかな。いや、お父さんもみゆきの年頃に何か考えていたかと言うとあんまり考えていなかったからな。そういうものかな、仕方ないか」

 みゆきは箸を止めて、「私はママみたいに頭がよくないからね。何になれるのかわからないけど、人の役には立ちたいと思うよ。それこそママみたいに」

「うん、いいな。みゆきはちゃんと考えてるな。それはママの血筋だ」

「何それ、当たり前じゃん、頭は貴方に似たみたいだけど・・・」

「ああ、それは悪かったな」

「ほんとだよ」みゆきがにやりとする。それだけで如月はうれしくなる。少しだけみゆきと近づいた気がする。

「みゆきは若いんだから、これから色々な力がついてくると思うよ。お父さんはみゆきが成りたいものを応援するよ」

 みゆきはふたたびラーメンを食べながらうなずく。如月も同じようにラーメンをすする。みゆきが言う。

「貴方とママは似てる」

「え、そうか?」

「ママも感情をぶつけることをしない人だった。いつも冷静だし、怒ったりもしない。貴方もそう。ほんとは怒りたいのにって思うけど、何も言わない」

「そうだな。美月も感情を露骨に出すようなことをしなかったな。俺もそうだ。確かに似てるか」

「でも私はいいと思うよ。私もそうだから、怒っていいことなんかないもん」

 初めて褒められた気がした。そういう見方もあるか、人によっては気持ちがわからないとか言われたこともあったが、みゆきにそういわれるとほっとする。

「ああ、それからさ、さっさと再婚していいからね。私のことは気にしなくていいよ」

「いや、そう言われてもな、お父さん、そんなにモテナイから」

「そうか、ママで運を使い果たしたか」

「そうそう」

「あ、でも浮気したもんね」

 如月が思わずラーメンを吹く。

「汚いな。まったく」みゆきがにやける。

 関係はこれでいいのかな、こんな二人を美月はどう思うのか。


 翌日になっても残念ながら放射線量に変化はなかった。おそらく何かが間違っていたのかもしれないと思い出す。午後になってコントロールルームで関係者が話をしていた。今後の進め方も含めての話となる。

 政府関係者は実験失敗を考慮し、最もダメージが少ない方策を話し出し、北大は今後の対応策と研究続行の道を探る。

 しかし如月は再び、失業の憂き目にあったことになる。


 そしてその次の日の朝である。やはり奇跡が起こった。


 放射線量が下がりだしたのである。

 それも極端な値を示しだす。コントロールルーム内で人々があわただしく動き回る。渡辺は嬉々として放射線量の画面を見る。数千ミリシーベルトだった数値は一気に下がり、いまや数百まで落ちてきた。ついにバクテリアが動き出したのだ。

 コントロールルームでの騒ぎに驚きながら、如月とみゆきが渡辺に話をする。

「渡辺さんよかったですね。いったい、どうなったんですか?」

 渡辺は満面の笑みで答える。

「昨晩、遅くになって急に放射線量が下がりだしました。そして今朝はさらに下がってきました。加速度的に値が減少しています」

「それはすごいですね」

「ええ、ただ、これは実験室で起きた現象と同じなんです。ようやくバクテリアが増殖を始めたというところです。単細胞の分裂は鼠算式に増えていきます。解析はこれからになりますが、おそらく実験室と比較して放射線のレベルが高すぎたのでしょう。それで反応が遅れて見えただけだと思います。ただ、もうこれで大丈夫でしょう」

 みゆきもうれしそうに画面を見ている。

 原子炉内の壁面などから液体のようなものが広がっているのがわかる。バクテリアが周囲に拡散しているようだ。

 後でわかったことだが、実験室と違い、現場の放射線量は極端に高かった。さらにその分布も均一ではないことからバクテリアの増殖に時間がかかったようだ。しかしいったん、増殖し出すと、それは実験室と同じように指数関数的な伸びを見せたのだ。

 その日の夜には放射線量は問題ないレベルまで下がっていた。事故前の自然界と同じ環境となる。これで目標通り、お盆までに美月の故郷を取り戻すことが出来る。

 

 バクテリアの終息状態を確認するために、放射線量が自然界と同等になり、無くなった後も観察を続けていた。

 バクテリアは72時間を目途にその活動を停止し、死滅していくはずだ。そして三日後には徐々にその兆候が表れだし、4日目の朝にはすべてのバクテリアが死滅する。

 如月とみゆきはそれをコントロールルームからモニター越しに見ていた。

 いまや原子炉内にはバクテリアの死骸が白く沈殿していた。壁面にへばりついていた単細胞はそのままそこに残っている。微細なバクテリアのため、白い死骸があたかも降り積もった雪のように見える。

 原子炉や炉心内部の水にも粉雪のような沈殿が積もっている。

 如月はその光景を美しいと思った。あたかも炉内に雪が降り積もったかのようだった。

 みゆきがつぶやく。

「雪みたい・・・ママが好きだった。雪・・・」

「うん」

 如月も思い出す。美月の好きだった雪だ。

 美月の得意げな顔が浮かぶ。

「ああ、そうだ。みゆきって名前は俺と美月がつけたんだよ」

「知ってる」

「美月は漢字で美雪って名前にしたいって言ったんだけど、俺はなんか生き方を決めつけるみたいで少し抵抗した。それでひらがなでみゆきになったんだ」

 みゆきが如月の顔を見る。

「美雪でも美幸でも三幸でも何にでもなれるようにしたかったんだ」

「ふーん、そうなんだ」

 みゆきが笑顔を見せる。

                                     了

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世界の秩序をかえるもの 春原 恵志 @kshino825

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