第7話 北海道大学

 みゆきはずっと泣いていた。

 如月はそんなみゆきを見るに付け、彼女が美月の死をこれまで必死でこらえてきたのが分かる。美月の夢を叶えたい一心で、母親の死を無かったものとして行動してきたのだろう。その夢が断たれた今となっては、否応のない現実が押し寄せてくる。美月は亡くなり、その夢も断たれてしまった。

 如月も泣きたい気持ちだった。この二日間、死ぬ思いをして瓶を運んできた。そして色々な人からの助けや犠牲を経て、ここまで来たはずだった。それなのになぜ、このようなひどい仕打ちを受けるのだろうか、遣る瀬無い思いがこみ上げる。

 パトカーの前席に座っている保科が話す。

「許せない。なんとしても犯人を捕まえます」

「保科さん、我々は当初の予定通り北海道大学に向かえばいいんですよね」運転をしている女性警官の冷泉が言う。

「ああ、どこまで事情がわかるのかは謎だが、柴先生が何を目指したのかを知りたい。我々もだが、むしろ如月さんがそうだと思う」

 その通りだと如月は思った。美月が目指したものが何だったのか、それだけでも知りたい。

 

 パトカーは道央道路を降りて札幌市内を走る。

 札幌駅が見える。ここは新幹線の駅として整備が進み、2003年に駅舎も新しくなっている。現在はいったん頓挫した新幹線計画が再び動き出したところである。そういった意味では駅前周辺は再開発が進み、近代的な様相を呈している。

 泣き疲れたのか、みゆきがぼんやりと駅を見ている。

「みゆきも北海道に住んでたんだもんな」

「小学生の三年間だけだったけど・・・」

「あの頃は何回かみゆきに会いに来たな」

 みゆきはうなずくともなしに、外の風景を見続けている。

 パトカーは北大に近づく。ここには広大なキャンパスがある。国内でも最大級の広さを誇る大学である。

 冷泉があまりの広さに面食らっている。

「保科さん、どこから入ればいいんですかね」

「農学部生物機能化学科だから正門から行けばいいはずだ」資料を見ながら保科が言う。

 パトカーは大学の正門に進み、受付で確認をする。受付には警察官も待機しており、例え警察車両でもしっかりと確認をするようだ。これまでの経緯からも十分な対応を行う必要性を認識しているようだ。相手はこちらの想定を超えてくるような組織だ。

 構内に入っても道警が警備しているのがわかる。学内にも多くの警察官の姿が見える。こちらは道警のパトカーに乗っているので、勘違いされているのか敬礼をされる。

 駐車場に車を停めて農学部の該当研究室を目指す。至る所にいる警察官に確認すると建物はすぐわかった。

 研究室に入る前に保科警部が道警に確認の電話を入れていた。成田と言う刑事のようだ。如月に話す。「残念ながら田口さんの持ち物に瓶はなかったそうです。それと死因は不明ですがおそらく毒物を注入されたのではないかということです」

 田口さんの笑顔が浮かんだ。


 農学部は赤レンガの壁で形作られている。元々は明治時代に農学校として開校された、この大学の歴史を感じさせる建物である。キャンパス内にはその当時の建物も残されている。 

 正面から見るとアーチ型の開口部が3つ並んでおり、扉は重厚感があった。なるほど如月の大学とはえらい違いだ。多摩地区の新興私大はどこかのマンションのような作りだったことを思い出す。

 受付で研究室への面会を申し入れる。警視庁のほうで事前に連絡をしたこともあり、ここはすんなり案内された。

 円谷教授の研究室は建物の2階にあった。研究室の入り口もまた、歴史を感じさせる樹の扉である。保科がノックをし、室内からどうぞと言う声がかかる。

「失礼します」保科を先頭に如月親子と冷泉も室内に入る。

 中から如月と同年代ぐらいの男性が迎えてくれた。

「警視庁の保科と申します。如月さんと柴先生の娘さんをお連れしました」

「中込です。この研究室の助手をしています」

「円谷先生の件は現在、警察の方で捜査中です」保科が円谷教授の件で断りをいれる。

「そうですね。こちらも急な話でごった返しています。それと本来であれば准教授の下野というものがおるんですが、彼は今、東京の学会に参加しています。例の遺伝子関連の学会です」

 なるほど、美月が発表を予定していた学会のことを言っているようだ。当然、北大からも参加者はいるわけだ。

「それで如月さんから柴先生の研究内容についてお聞きしたいという話が出ています。実際そういったことは可能でしょうか?」

「はい、そうですね。柴先生の意思を確認するためにも、遺族の方に知っていただくことは必要でしょう。研究内容を統括していたのは円谷教授なんですが、実担当は別にいました。渡辺というものです。彼に確認してみます」

 そういうと中込は奥に引っ込む。

 みゆきは美月が研究していた部屋を興味深く見ている。研究用のテーブルが数台並んでおり、理科の実験室のような広い部屋になっている。周囲には本棚があり、たくさんの書物が所狭しと収まっている。そこに白衣を着た数名の研究者が、それぞれ思い思いの研究に従事しているようだ。

 少し待つと先ほどの中込が戻って来た。

「そちらのミーティングルームに行きましょう。担当者と話をします」

 話が聞けるようで、4人は中込の後を付いていく。


 ミーティングルームは8畳ぐらいの広さで、大きな窓があり、そこから学内の青々とした樹々が見えている。四角いテーブルが置いてあり、奥に一人の男が座っていた。

 如月よりは若いのだろうか、30代後半ぐらいに見える。小太りというかむしろ太っており、大きめの銀縁で度の強い眼鏡を掛けていた。顔に吹き出物もあり、ぱっと見はオタクと言った印象である。

 中込が紹介する。

「こちらが渡辺元(はじめ)さんで、柴先生と共同で研究していました」

 渡辺が挨拶する。

「渡辺です。この研究室で助手をしています。柴先生と共同というか、彼女のお手伝いをしていました。よろしくお願いします」

「如月です。柴美月の元夫です」こういう紹介でいいのか気が引けるが仕方がない。ところが何故だかはわからないが、渡辺は如月を懐かしそうな顔で見る。

「柴みゆきです。娘です」

 みゆきを見る渡辺の顔が華やぐのがわかる。

「みゆきちゃんね。柴先生から話は聞いていました。歌がうまいんだってね」

「え、そんなことない・・・」みゆきが恥ずかしそうにする。

 美月がみゆきのことをそんな風に話していたのか、歌がうまいなんて初めて聞いたな。

「それとこの度はご愁傷さまでした」渡辺にとってもつらい話なのだろう、表情が曇る。

「僕としても柴先生は大切な人でした。実に残念でなりません・・・」

 つらい現実を如月も思い起こす。

 警視庁の二人も挨拶し、如月が気を取り直すように話を始める。

「どこから話をしたらいいのか、意味が分からない、取り留めのない話になるかもしれませんが、実は今日まである瓶を運んでここまで来ました」

「瓶ですか?」

「ええ、黒い小瓶です。それは残念ながら無くなってしまったんですが、それをこちらの研究室に届けるようにと美月に言われていました」

 渡辺は肯定も否定もせずにじっと聞いている。

「その瓶は美月の夢だそうで、ここまで持ってくればその意味がわかるはずでした」

 その言葉で突然、渡辺が驚いた顔をし、次に徐々に涙がこぼれだした。

「そうか、ついに完成したのか・・・よかった」

「でもそれは無くなってしまって、我々はそれが何だったのかを知りたいのです」

「え、無くなったんですか・・・残念です。・・・ああ、そうですね。美月さんの夢、いやそれどころか、あれは科学者にとっての夢です」

 そういって渡辺は話し始めた。


 渡辺は元(はじめ)と言う名前だが、仲間からはゲンと呼ばれていた。ゲンちゃんというのが通称とのこと。

 美月が北大の研究室に来たのは2015年で、都内の大学から研究場所を変えて、本格的に研究をしたいという話だった。円谷研究室では微生物を専門に研究しており、彼女の専門分野も単細胞生物で、研究テーマは極限環境微生物だった。ここでの研究環境が美月には最も適しているという彼女自身の判断だった。

 美月は持ち前の人当たりの良さから、渡辺をゲンちゃんと呼んで、すぐに仲良くなる。それもあって渡辺が研究のお手伝いもすることになった。


 5月、渡辺は研究室の自室で資料をまとめていた。そこに美月が勢いよく入ってくる。

「元ちゃん、やったよ。認めてくれた」美月が飛び切りの笑顔を見せる。

「え、じゃあ現地で採取できるんですか?」

「そうなの、許可が下りたよ」

 美月は福島第一原子力発電所の土壌内微生物採取の許可を経済産業省に申請していた。その許可が降りたという。

 彼女の研究テーマは2014年のイギリスマンチェスター大学による「極限環境微生物」に端を発していた。マンチェスター大学での研究とは、放射性物質の処理場地下の土中に、極限条件下のみで増殖するバクテリアが存在しており、そのバクテリアが放射能廃棄物を食べていたというものだった。当時は大きなニュースとなった。具体的にはイソサッカリン酸という物質を食べていたのだが、これは放射性廃棄物の処理に一定の希望をもたらす発見となった。

 美月は福島の原発事故跡地にも、同じような極限環境微生物が存在している可能性があると考えていたのだ。彼女の研究は極限環境微生物でもあり、故郷が福島の事故現場直近というで、彼女自身がこの研究をやるべき使命と捉えていた。

 経済産業省としても美月の熱意に打たれたようだった。根回しや依頼を繰り返しおこなっていた彼女の意気込みもそうだが、最終的には政府としても真摯に対応してくれた結果となる。

 そして美月はその後、定期的に現地に行くことになる。そこで土壌の採取を行い。研究室に戻っては微生物確認作業を続けていた。当然、研究内容に賛同を得て、廃炉作業を行っている東京電力の協力も受けていた。

 美月の実験は放射線量の高い3号機周辺からの微生物採取だった。そして3号機周辺を1平方メートル範囲でマッピングし、その該当箇所の放射線量を測定することから始める。それを2か月間続けたが、結局、期待する微生物の発見までには至らなかった。


 美月たちが福島の宿舎に戻って、いつものように渡辺の部屋で缶ビールを片手に打ち合わせる。これが日常だったらしい。

「やっぱり、周辺じゃあダメなんだよ。原子炉直近のデブリを当たりたいな。私の直感がそう言ってるんだ」美月がビール缶を突き出しながらしゃべる。

「美月さん、それは難しいって話でしたよね。危険性は高いし、今のところ、直近まで近づく方法がないです」

 渡辺がそう言うと美月は珍しく不敵に笑う。今までは仕方なく同意した後は、やけ酒だったのが、今回は少し違うではないか。

「それがさ、協力してくれる企業が出てきたんだよね」

「え、どこですか?」

「都内のベンチャー企業でさ、自走型のドローンを作ってる会社なんだよ。こっちに来る前に私からアクション取っててさ、向こうもやる気があるんだよ。若い社長でさ、うちの元亭主にも爪の垢を煎じて飲ませたいぐらいだよ」

 美月は酔うと元夫の話が多くなる。愚痴がほとんどだが娘の話と同じぐらい多い。独身者の渡辺に夢を無くすような話を言うなと常々思う。まだ、結婚に希望を持ってるんだからと、何回言っても酔うたびに話し出す。

「そこがさ、試作機が出来たっていうんで、ここに持ってきてもらうんだ」

「ひょっとすると、そいつは自走型でデブリの採取も出来るんですか?」

 美月の顔が輝く。「うん、そうなんだよ。放射線量も同時に測定できる。こっちの要望をほとんど聞いてもらった」

「それはすごいな。で、お金はどうするんですか?」

「大学の研究費と経産省の資金援助だよ。そのベンチャー企業も協力してくれて、実費のみでやってもらう。後で宣伝するって約束でね」

「それはすごいな。で、現物はいつ来るんですか?」

「明日、イケメン社長が持ってくるって」

 なんか、そのイケメンってところが妙に引っかかる。

「随分、急な話ですね」

「いや、はっきりするまで話をしなかっただけで、もうかれこれ1年前から動いていたんだ」

 美月の執念を感じる話だ。

「でも、うまく動くんですかね。あと、東電が許可しますか?」

「大丈夫だろ、もし、廃炉内でドローンが動かなくなっても誰も気にしないよ。この実験自体、非公開なんだから、失敗しても誰にもわからない」

 いやいや、それはないだろうと突っ込みたくなる。こういうところを見ると、この人の旦那さんは大変だっただろうなと同情したくなる。

「元ちゃんの故郷はどこだったっけ?」

「また、その話ですか、僕は群馬です。沼田のほうです。何回か話しましたよ」

 彼女は酔うと、あまり興味のない話はほとんど忘れてしまう。

「そうか、そうだっけ?いいところなんだろうな」

「田舎ですけど、良いところですよ。北海道には負けますが、自然も多いし、山も多くて景色は最高です」

「そうなんだ。私はここからすぐの福島の南相馬市なんだ」

「はい、聞いたことあります。今も立ち入り禁止なんですよね」

「そう、震災で両親も亡くしてさ」

 その話は初めて聞いた。ご両親を亡くされていたのか、そうだったのか。

「知り合いも何人か亡くなって、家を無くしたり、もう住めなくなったりする人もいてね。元ちゃん故郷が無くなるってどういうことかわかる?」

「ああ、それはつらいですね」

「つらいなんてもんじゃないよ。子供の頃に遊んだ場所や風景が根こそぎ奪われるんだからね。その上、原発事故だよ」

「でも原発事故は人為的な要素も大きかったですよね」

「そう言い切れるかな。あの場で何が出来たかって、今になると色々と言えると思うけど、あの時はみんな必死で対応したんじゃないかな。私は科学者だけどね。そう信じたいよ」

「そうですか・・・」

「それと科学者だからこそ、原発を無くせなんて言いたくない。だって原子力を捨てて人類に未来はあると思う?アインシュタインが泣くぞ。人類は原子力を凌駕する科学力を身に着けるべきだと思うんだ。その考えで進んでいかないと。そのための科学者だし科学だよ」

「それはわかります。僕も科学者の端くれですから」

「情けないこと言うな!うちの旦那もそうなんだけど、端くれじゃないぞ、王道を行けっつうの」

 美月がビールをあおる。

「はあ、美月さんがやりたいことはそれなんですね」

「うん、放射線を処理できるバクテリアが見つかったら、廃炉処理も簡単だろ、それと原発の安全性の問題だって解決できる。ましてや放射性廃棄物の処理問題も一気に解決されるんだ。そうなると世界が問題視している2酸化炭素の排出問題だって、原発を推進できれば無くなる」

「素晴らしいですね」

「うん、私の使命だと思ってる。まずは原発問題を解消し、次世代原子力エネルギーに行くべきだよ。科学の進歩を止めたくない」

 美月のいつもの演説が続いていく。


 そして翌日、不細工男子の天敵、イケメン社長が福島原発まで来た。30歳前半なのだろうか、おそらく渡辺と同じぐらいだが、明らかに顔の作りは違っていた。まさに天敵だった。

 どこかの俳優さんのようなイケメン社長は、元大手電機メーカー勤務で、仲間数人と数年前に独立起業したそうだ。自走型ドローン市場に販路を見つけようとしていた。ドローンと言っても彼が作るのは地上を走るものも含む。今回の案件も二つ返事で引き受けたそうだ。名前を若林結弦といった。名前もイケメンだ。

 その若林が車から大きな段ボールに入れた機械を、仲間と二人掛かりで降ろす。小型の耕運機並みの大きさで、キャタピラを前後に4か所装備している。前方には小型のキャタピラがあり、後部には大型が付いている。それらが前後に独立して駆動することにより、方向変換や前後進もできるようになっている。そして機器の中心部には、下向きにクレーンのような突起物があり、まるで映画のエイリアンの口のように見える。それが下側に出てきて、デブリや土砂を掴んでは、機器の内部に格納することが出来る構造になっていた。

 また、充電装置は別に設けてある。放射能汚染が懸念されることから、それも遠隔操作が出来るようになっている。つまり、ドローンは自走し、そのまま人の手を借りずに充電することが可能となっていた。

 ドローンを実際に使用する前に、東電の担当者と経産省のお役人に動きを見てもらう。発電所付近の凹凸があるフィールドで操作を見せ、その上で使用許可をもらうことになる。

 マシンは丘の上り下りを速やかにこなし、岩などの隆起物を簡単に乗り越える。また障害物回避をするなどし、実に小気味よく動いていく。機器は数十メートル離れた場所から動かしており、遠隔操作もスムーズだ。美月が質問する。

「これは若林さんが今、持っているパソコンで動いているんですね」

 若林はノートパソコンにコントローラを付けて操作している。

「そうです。ゲーム機と同じ要領です。ただ、このマシンはAIも持っています。指示しなくても、自走も出来るようになっています」

「すごいですね」

 若林はうれしそうな笑顔を見せる。男のくせに八重歯があり、それが光った気がした。しかし機械を褒められた時の反応自体は普通のオタクっぽい。

 美月が経産省の役人に確認する。「どうですか、これを使ってみても良いですよね」

「どうかな。上の許可を取ってみないと何とも言えないな」

「そうですか、許可にどのくらい時間がかかりますか?」

「うーん、それはなんとも・・・」

 この役人と言うやつはとにかく要領が悪い。ここにいる人間であるのでキャリア官僚であるのは間違いないが、とにかく失敗を極力嫌うようだ。石橋を叩いても渡らないってやつだ。

 そこで東電の担当がフォローしてくれる。

「使う分には問題ないと思いますよ。万一、故障しても表に出なければいいし、どうせ、内部はデブリだらけですから、さらに放射線の被害が広がる恐れはないでしょう。それよりもうまくいったときのメリットが大きいですよ」

 この話にキャリア官僚も納得しそうな顔をする。美月が追い打ちをかける。

「東電さんの言う通りです。それにこれで上手くいったら国の手柄です。これはまさに国民の希望ですよ」

 美月の押しが出た。大学教授とは思えない口の達者さである。彼女はこれまでもこの武器で渡り合ってきた。結局これが決め手となり、キャリアは一応、上に連絡を入れてからと話すも、その後最終的なゴーサインが出た。


 そしてそれから数日後、防護服を着たイケメン社長若林が、東電担当者と原子炉3号機内部でドローンを動かしていく。社長の遠隔操作でマシンのみが原子炉付近まで動いていく。

 美月と渡辺はコントロールルームにてモニターを見ている。その画面には若林のパソコンと同じ画像がリンクされている。

 ドローンは周囲の放射線量も同時に測定しており、画面には数値がシーベルト単位で表示されている。奥に行くにつれてその放射線量が上がっていくのがわかる。美月が言う。

「この単位はミリシーベルトだよね」

「そのはずです」渡辺もその数値に驚いている。

「まだ、こんなにあるの」数字は数千単位になっている。

「500ミリで白血球障害が起きるんだよね。これだと骨髄障害で死に至る・・・」

 さらに奥に入って行く。ドローンは瓦礫を難なく超えながら進んでいく。まるでムカデなどの生き物のようだ。それでも越えられない障害物が出ると、迂回しながら原子炉近傍まで進んでいく。

 遠隔操作なのだが、原子炉内の瓦礫の中でもスムーズに動いていく。

 放射線の数値がさらに上がっていく。これだと即死レベルに近いのではないか。美月の顔も青ざめている。

 無線から若林の声が聞こえる。

『柴先生、どうですか?何か気になる点はありませんか?』

「今のところは、それにしてもよく動きますね」

『ええ、試作を何回もやりましたから、もう徹夜の連続でしたよ。でもちゃんと動いてよかった。ああ、まだ、これからでしたね』

「ありがとうございます。このまま周辺を動かしてみてください」

『わかりました。大きな瓦礫は無理ですが、動かせそうな場所を回ってみます』

「確か連続で5時間は動かせるんですよね」

『そうですね。予備バッテリーを使えばそこまでは大丈夫です。ただ、安全係数をみたいので稼働は3時間以内とさせてください』

「わかりました」

 3時間だと昼前には終わりそうだな。昼飯はゆっくり食えるかな。などと不謹慎なことを考える。

 美月は3号機の図面をもとに予め平面図を起こし、区分けをおこなっていた。いわゆるマッピングである。区域ごとに放射線量の分布を測定し、それを数値化したものを図面上に表示する。その中で他と比べ放射線量が低くなっている個所があれば、微生物が存在しているという仮説を立てていた。

 東電側で許容してくれた測定可能期間は2週間で、それで出なければ諦めてくださいとのことだった。その後、3号機周辺の放射線量のマッピングだけで、1週間を費やした。しかし残念ながら明確な放射線量の違いは出なかった。


 1週間が経過した時点で、渡辺と美月とで今後に向けた打ち合わせをおこなう。

「美月さん、どうしますか?この状態でも土壌サンプルを採取してみますか?」

 美月は先程からずっと考え込んでいる。

 当初の方針では、放射線量が低い箇所の土壌サンプルを収集し、現場の設置場所に保管したのち、放射線量の推移を観察する計画としていた。放射線量が低くなっているということは、その土壌にそれを分解している微生物があるということである。その場での観測にしたのは、微量な土壌サンプルと言えども、高い放射線を含有しているために、危険性の観点から外に持ち出すことは厳禁であるからだ。

 その上で微生物存在の可能性が高い、放射線量が下がっていくような土壌が見つかれば、以降は実験室での管理、実験継続をすることとなっていた。もちろん実験室においても放射線の露出は厳禁である。

 ところがここまでで、肝心の放射線量が少ない場所が見つかっていなかった。

 美月は仕方がないという顔で話をする。

「とにかく、もう少し待とうよ。当初の予定通り放射線量の低い場所を探すことを優先する。まずはそれが見つからないと次には進めない」

「でも2週間では終わらない可能性が高いですよ」

「うんそうだね。そこは別途考える」

 まさに苦渋の選択だった。ただ、その方向性しかないとも思った。

 そしてさらに次の1週間を測定に充てるが、結局、分布上で極端に低い箇所は見つからなかった。

その結果を受けて、仕方なく美月は誤差範囲ではあるが、比較的放射線量の低い、5か所から土壌を採取し、別途、原子炉周辺に設けたサンプル保管庫にその5点だけを残し、経過観測することにする。しかしここまでで当初の予定よりすでに1週間オーバーとなったのだが、それについては東電にお願いし認めてもらっていた。

 さらにその後1週間を経過観察するも、土壌サンプルの放射線量に大きな変化が見られず、結局、この実験は失敗に終わってしまった。


 この実験結果をもとに、関係者で打ち合わせが行われる。

 美月が現在までの進捗状況を関係者に話す。結論から言うと微生物の存在は確認できなかったことを話した。

 会議に集まった全員がそれなりに落胆していた。その中でも美月とイケメン若林の落胆ぶりは大きかった。もちろん渡辺も同じだった。

 経産省の担当が話す。

「まあ、残念ですが諦めるしかないですね」

 ところが、美月はここで新たな提案を行う。

「すみませんが、最初にお願いしていた、1号機の土壌も採取させていただけないでしょうか?」

 実は当初美月は1号機の土壌採取を希望していた。ここは水素爆発を起こした場所でもあり、放射線の放出がさらに大きかった。それ故に切望したわけだが、廃炉に向けた作業そのものが難航しており、これまでのところ大型カバーの設置までが済んで、ガレキの撤去はこれからの状況だった。そのため、現場では作業が遅れるとの判断で、見送られた経緯がある。

「ですから、それは無理だとお話したはずです。東電さんも難しいというお話でしたよね」

「はい、それは重々理解しております。ただ、そこにこそ微生物がいる可能性はあると思っています。放射線の放出は3号機の比ではないですし、より期待できるものと確信しています」

 東電の担当も苦渋の表情である。このまま実験を続けても成果が出る可能性があるのかないのかが見通せない。しばらく考えた末に担当が言う。

「我々もなんとか実験を続けさせてあげたいとは思います。しかし、科学的、数値的な裏付けがないと厳しいですよ。まずは廃炉、ガレキの撤去を優先しろと言う、上の指示もあります。1号機周辺を調査するための科学的な根拠が必要です」

 確かに担当の言う通りで、闇雲に調査を続けるわけにはいかない。数字的な裏付けは必要だと思う。しかし、これまでも美月と打ち合わせしたが、そういった根拠は出てこなかった。 

 これはどうしようもない話だったはずだ。ところが、ここで美月が言い放ったのは、

「わかりました。あらためて科学的および数字での根拠を提出します。その上で再実験の申請をさせていただきます」

 美月の話に東電担当は驚く。

「大丈夫ですか?上を納得させるだけのものが必要ですよ。それと実験費用については、これ以上の東電側の捻出は厳しいですよ。大学側で用意していただく必要があります。それでもいいですか?」

「わかりました」

 美月は敢然と言い放ったが渡辺は唖然としていた。ここまでの調査費用はすでに2000万円を超えている。ほとんどは政府と東電や協力企業から捻出してもらっていたが、それを大学側で出せるのだろうか。


 会議後、渡辺は美月に確認する。

「美月さん、さっきの話ですが当てはあるんですか?」

「数値的根拠ってやつ?」

「それもそうですが、費用面はどうしますか?」

「数値は現在の放射線の推定量と放出分布をシュミレーションしてでっち上げるさ。費用はなんとかする」

「いや、なんとかって大丈夫ですか?」

「大丈夫かな・・・」

 よくよく確認してみると、でっち上げにしても費用捻出にしても、全く根拠がない話のようである。

「この際、前の御主人に相談してみたらいいんじゃないですか?社長なんでしょ」

「あいつはまあ、無理だな。このところの不景気で青息吐息だから、何せ養育費も難しいようなところがあるからな」

 渡辺も言葉がなかった。大学から拠出できる金額はほとんど期待できない。国立大学の予算は潤沢ではない。基本は民間頼りなのである。

 相談してみるも案の定、円谷教授も費用には難色を示す。するとなんと美月はしばらくして、費用の目途を付けてきたのだ。本人曰く協力してくれる企業を見つけてきたそうだ。北大以前の美月の交流事情をよく知らないが、なんとか見つけてくるところがこの人のすごいところだと思った。

 さらに数値的根拠についても十分眉唾ものだが、なんとなくありそうな形の提言書を作成してきた。美月のなんとしてもやりたいという執念が垣間見えた。

 そして美月の熱意で、この申請もなんとか通り、前回から3カ月後に1号機周辺の土壌確認を行うこととなる。


 季節はすでに夏になり福島でも連日、猛暑が続いていた。

 ベンチャーの若林は、さらに改良された自走型ドローンの2号機を持ち込んでいた。

 費用面で最も高額だったのはこの機器である。スーパーカー並みの費用だったが、若林も実費請求のみということだった。美月が言うには大部分を出世払いするそうだ。詳しい金額は怖くて聞けなかった。

 原子炉1号機は水素爆発を起こしたこともあり、周囲のガレキも3号機とは比較にならない量だった。その中を進むために、ドローンも大幅な改良を加えたそうだ。ドローン1号機は放射能汚染で廃棄となっており、もちろんこの2号機も実験後はそのまま廃棄となる。もったいないとは思うが、致し方ない。

 そして実験が開始される。前回と同様に放射線量のマッピングから始めていく。計画は3週間とさせてもらった。今度こそはと意気込んだが、残念ながらやはりここでも分布量に大きな違いが見受けられない。

 実験開始から10日たっても、場所による放射線量の違いは見られなかった。


 そしてその夜、宿の部屋で美月と打ち合わせとなった。この日は酒も飲まずに今後について確認する。

 パソコンで放射線分布状態を確認しながら渡辺が話す。

「美月さん、やはり違いがないですね」

「微妙な差しかない・・・誤差範囲だ」

「ここは放射線量が高すぎるんじゃないですか?これじゃあどんな生物も生き残れない」

「だから極限環境微生物なんだよ。元ちゃんも知ってるよね。チェルノブイリ原発跡からも真菌が発見されたんだ。ここにだって絶対あるはずだよ」

「でも環境が違うでしょ。福島は違うのかもしれない」

 美月が唸るように話す。

「いいかい。東北は未曾有の震災に見舞われたんだ。それこそ有史以来人類が経験しなかった災害だよ。世界のどこよりも激しい震災だったんだ。それは自然の力だ。だからこそ、自然が別の意味で恩返しをするはずなんだよ。それでつじつまが合う」

「いや、それは無茶苦茶な理論ですよ。根拠がないですって」

「そうかな。私はそうやって、つじつまが合うようなことが起きてもおかしくないと思うよ。それが自然さ、そうじゃなきゃおかしいよ」

 いつになく美月は真剣だ。

「私は故郷も親も亡くした。このままじゃあ何も残せない・・・」

 美月の今回の実験にかける並々ならぬ執念のようなものを感じた。渡辺はここでひょっとしてと思った。

「美月さん、今回の実験費用って自腹を切ったんじゃないですか?」

 美月は俺の顔をじっと見る。「そうだよ。わかった?出世払いだ」そう言って笑顔を見せる。

「出世払いって、それは・・・」

「いいんだよ。やらないと自分が納得できないだろ」

 その時の美月の決意には誰もかなわないと思った。まさに命を懸けているとしか思えなかった。この案件に自分で決着をつける気なのだ。

 しかし、運命は残酷だった。

 それから2週間の測定でも放射線量に大きな差が出ることはなく、前回と同様、誤差範囲となり、比較的放射線量の少なかった土壌を採取し、サンプルとして経過観測に回すこととなった。

 そしてその後1週間待ったが、結局、サンプルの放射線量に変化は見られなかった。

 その時の美月の落胆ぶりは、傍から見てもかわいそうなほどだった。自然はつじつまを合わせなかったのだ。


 この結果を受け、全体会議を行い。最終報告会が行われ、実験終了という結論となった。

 美月は相変わらず実験の継続を嘆願したが、政府も東電もそれを良しとはしなかった。ここには極限環境微生物は存在しないということになったのだ。

 その日の夜、美月はやけ酒だった。渡辺も落胆して酒なんか飲む気分ではなかったが、仕方なく付き合った。

「八甲田山じゃないけど、天は我を見捨てたのかって心境だよ」

「仕方ないですよ。必ずしも微生物がいるわけじゃないですから」

「自然はそうやって辻褄を合わせるものじゃなかったのかな。これじゃあ私の人生は凹みっぱなしじゃないか」

「美月さんはよくやりましたよ」

「やりましたって、まだ終わってないぞ」

「いや、もう無理ですよ。これ以上、続けられないです」

「科学者は諦めたらそれで終わりなんだ。いや、科学者だけじゃない人間は常に挑戦し続けないと生きてる意味がない」

 いつもの美月の信念論になってきた。それから深夜まで美月の愚痴につきあわされる。


 翌日は朝から荷物をまとめて北大に戻る。

 渡辺は二日酔いで頭が痛かったが、宿の食堂で朝食を取っていた。その向かいに座った美月は、それほど二日酔いでもない様子で黙々と朝食を取っている。

 二人とも無言である。

 渡辺の落胆よりも美月の落胆のほうが大きいはずだが、美月が次の一手を考え続けている気がしていた。この人は何もあきらめてはいない。以前からそういう人なのだ。

 とはいうものの、こうして食事しているということは、今のところは何も為す術がなかったようだ。

 ホテルにあった荷物をまとめ、宅急便で大学に送る手配をする。美月は片付いた部屋を感慨深く見つめている。

「美月さん、行きますよ」渡辺の問いかけにも無言でとぼとぼと歩いてくる。少しかわいそうになってくる。

 ホテルのロビーでタクシーを待つ。これから飛行機に乗って北大まで戻るしかなかった。

 しばらく考え込んでいた美月が突然、ひらめいたように叫ぶ。

「そういえば、3号機のサンプルもあのままだったよね」

 渡辺は突然、何を言い出すのかと思ったが、確かに美月が言うように3号機の土壌サンプルは、廃棄も出来ずにそのまま保管はされている。

「もう一回測定してみよう」

「いや、無理だと思いますよ。あの時も全く変化がなかったでしょ」

「いや、あれから3カ月経ってるよね。見るだけ見てみようよ」

 飛行機の時間も迫っていたが、そんなことは言いだせない。言い出したら梃子でも轢かないのが美月である。渡辺は仕方なく飛行機をキャンセルし、現場に戻ることにする。


 発電所のコントロールルームに血相を変えた美月が入って行く。そこにいた東電担当者がびっくりする。

「柴先生さん、どうされました?」担当は何か忘れものでもしたのかと思ったそうだ。

「3号炉のサンプルについて、もう一度数値を確認させてください」

「3号炉ですか?いや、変化はないと思いますよ」

「ええ、無くても構いません。まったく変化がないということを確認したいです」

 東電担当者は渋々モニター画面を表示させる。

「まだ、機能してるかな」そういいながらモニターを表示させ、3号機の土壌サンプルの放射線量を再度、測定してみる。

 5つのサンプルの数値が表示されている。そのうち、4か所は変わりがないが一か所が何故か低い値を示している。

「あれ、おかしいな。表示器が故障したのかな」東電担当が操作パネルをいじる。

 何回か操作を繰り返すが値は変わらない。他と比較しても桁数が2桁も下がっている。

「下がってますね・・・」東電担当も目を白黒させている。

 なんと奇跡が起こっていた。ここに来て自然はつじつまを合わせたのだ。5つのうち、ひとつのサンプルの放射線量が劇的に下がっている。

 全員で放射線量を表す表示を何度も確認する。しかし、その値に違いはなかった。

「美月さん、下がってます・・・」渡辺は涙を流さんばかりだ。

「うん、見つけたかもしれない。ここまで数値が下がるなんて・・・」

「誰かがすり替えたんじゃないですか?」渡辺は笑顔だ。

「そんなことするやつがいるか、放射線で死ぬだろ」美月は久々の笑顔を見せる。

「見つけたよ。この中に人類の希望がある」

 そしてその土壌サンプルを北大に持ち帰り、実験室で確認する。

 確かにそこからバクテリアが検出される。そしてそれは放射線を処理する微生物だった。


 その日から単細胞微生物と美月との格闘が始まった。もちろん渡辺も手伝ったわけだが、とにかくそれからのほうが大変だった。

 まず大きな問題があった。一つは微生物の放射線処理速度だ。放射線の分解に時間がかかりすぎるのだ。今回、判明したように、3か月もあれば一定量の放射線は処理できるのだが、それを原子炉規模で行うためには、膨大なバクテリアが必要となり、なおかつ時間もかかってしまう。

 現在の放射線の半減期を待つ、自然に任せた処理よりは格段に早くはなる。半減期で言うとセシウム134が約2年、セシウム137が約30年かかるのに対し、このバクテリアは数倍も短くなる。これで良とも言えるのだが、美月は納得しなかった。もっと処理速度をあげる方法はないかと模索し始めたのだ。

 さらに他の問題として、バクテリアは放射線を吸収し、増殖するのだがその規模が小さく、広範囲に分布していかない点もあった。よって増殖速度をあげる必要もある。

 そして最後の問題としては、この単細胞生物は放射線が無いと死滅してしまうことだった。凡そ72時間で死滅してしまう。これについても対策を講じたいということだった。

 こうして美月の出した最終結論は、海外の研究機関でバクテリアの遺伝子操作をおこなうというものだった。そう決めた後の美月の行動は早かった。数ある候補先からイギリスのフランシスクリック研究所を選定し、なんとか先方からも認められて、ついに研究者としてそこで勤務することが可能となった。

 その過程においても、美月の真摯な努力はあったものと思われる。


 渡辺は一通り話し終えてお茶を飲む。

 如月は美月の壮絶な戦いを目の当たりにして、体が震えるような感動を覚えた。そして美月の執念に感服もした。やはりすごい人間だ。

「柴先生は渡英当初こそ、研究内容についても色々連絡をくれていたんだけど、1年ぐらいたつと順調になったのか、それともそんな余裕もなかったのか、連絡が減ったんです。たまに時候の挨拶や近況報告が来るぐらいだけになっていました。でも実際はうまくいってたんだな」

 如月がうなずく。「そうです・・・」

「2018年の渡英だから、結局それから5年かかったわけだね。でもたった5年で改良できたのはすごいと思うよ」

 これまでの話を聞いていたみゆきが紅潮した顔で言う。「じゃあ、ママは今話した課題を克服できたのかな。でも72時間って問題は残ってたんだ・・・」

「そうだね。72時間は無理だったのか、でも処理速度の問題はクリアーできたのかな」

「でもサンプルは無くなった・・・」

「フランシスクリック研究所には残ってるんじゃないかな?」

 渡辺の必死の問いに保科が答える。

「それなんですが、研究所にある柴先生の研究室が火事になったそうです。現地に問い合わせしたところほぼ全焼で、研究サンプルも残ってないと聞いています。詳細は現地に確認中です」

 渡辺は頭を抱える。如月も同じ思いだった。

「美月の所持品には何か残ってなかったですか?」

 如月が聞くが、これには冷泉が答える。

「それですが、ホテルに残っていたものの中に、液体に関するものが何もなかったんです。それも盗まれたと思っています。私が最初におかしいと思った点でした」

 研究室にもない。所持品も残っていない。今回の瓶も無くなってしまった。まさに八方ふさがりだ。 

 如月はふと疑問に思った。

「渡辺さん、淵さんや田口さんが言うには、これは東西のミリタリーバランスを壊すものだということでした。でもどうしてそうなるんでしょうか、放射線被害を無くすものです。いったいどこにそういった要素がありますか?」

「ミリタリーバランスですか?」渡辺がしばらく考える。「いえ、放射線を無くすものですから、原発を所持している国にとっては、朗報以外は無いと思いますよ」

「そうですか・・・」

「ミリタリーバランスか、世界の秩序を変えるものだったよな・・・」

 保科がつぶやく。確かにそうだ。しかし美月はなんで世界の秩序を変えるものと言っていたのか・・・。

 しかし如月はここで何か違和感を感じる。

 何だろう、この違和感は・・・しばらく考えると少しづつ見えてきた。なぜ、今の話を保科が知っているのか、どこかで世界の秩序の話をしただろうか、いや、これは秘匿事項としてみゆきと俺、そして淵と田口のみが知っている事実ではなかっただろうか。取り調べの中でもこの話だけはしていなかったはずだ。如月は恐る恐る聞いてみる。

「保科さん、今の世界の秩序って話をどこで聞きましたか?」

「世界の秩序?え、どこだったかな・・・」

 保科が思い出そうとするが、歳のせいなのか、寝不足のせいなのか、はっきりしないようだ。そこへ冷泉が助け舟を出す。

「保科さん、それは柴先生の通信アプリですよ。彼女の携帯の通話記録を確認したからでしょう。確かにその中にそういう文章がありました」

「ああ、そうか。でもあのアプリは如月さん宛に送られたはずですよ」

「そうですか、いや、実は私の携帯は行方不明になってたんです」

 その話で保科が気付く。「ああ、なるほどそれでですか。柴先生は如月さんからの呼び出しで、ホテルの外におびき出されていました。盗まれていたんですか・・・」

 そうだったのか、あの慎重な美月が迂闊に外に出た理由がわかった。偽の連絡があってそこで罠に嵌められたのか、携帯を盗まれたことに気付かなかったとは、なんとも悔しい話だ。

 さらに冷泉が気付く。

「じゃあ、如月さんは柴先生からの伝言をご覧になられていないんですか?」

「そうです。それでみゆきから口頭で話を聞いてここまで来たんです」

「そうでしたか。ああ、それだったら通信内容を確認してみますか?」

 美月からの通信アプリの記録か、最後にどんな連絡をしたのか見てみたい気持ちが大きかった。

「はい、ぜひお願いします」

 冷泉は自分の鞄から紙を取り出す。

「こちらがその通信アプリの通話記録です。前日分と当日分になります」

 つまりは今回の依頼事項と、如月になりすました犯人からの連絡になる。如月が文書を受け取り、確認しようとすると、みゆきも顔を寄せて中身を見ようとする。如月はみゆきにも見えるようにして内容を読んでいく。

 二日分のやり取りがあったが、問題の最後の通信アプリの文書を見る。


 大事な話だからよろしく。これからみゆきをそっちに行かせる。そしてみゆきが持っているものを北海道大学の円谷教授まで届けること。これは世界の秩序を変えるもの、そして今から72時間以内に届けること。無くしたらあの日に帰るしかない。


 みゆきがうなずいている。

「ママが私に言った話。あの瓶を72時間以内に届ける」

 そうだった。美月はこれを俺に依頼したのだ。ただ、少し気になる文がある。最後の一文だ。これはどういう意味なのか、妙に引っかかる、あの日に帰るしかないとは、何だろうと考えてみる。

「みゆき、最後の文章のあの日に帰るしかないってどういう意味かな?」

「え、知らない。最初の日の戻るしかないってことじゃないの。出発する日に戻るしかないってこと」

「そうか・・・」

 そう言いながら如月には何かが引っかかる。あの日、そういえば美月と同じ言葉を何回か言った覚えがある。

 それで思い出した。ああ、最初に付き合い始めた頃のことを言ったんだ。

 美月との離婚が決まって、あいつが北海道に行く前にもそう言った。あの日に帰りたいねって、あれがそうか、如月がはっとする。

 ああ、そうかもしれない。これで美月がなぜあんなことをしたのかの、つじつまがあった気がした。

「みゆき、ママからもらったネックレスをどうした?」

 如月は血相を変えている。みゆきはその勢いに驚きながら、

「ネックレスってママがくれたやつのこと?」

「そう、ロケットが付いてたやつ」

 みゆきが自分のリュックからそのネックレスを出す。如月はそれを受け取って確かめる。

 確かにこれは美月と最初に付き合いだした彼女の誕生日に、如月がプレゼントしたものだ。二人にとっての間違いないあの日だ。

 あの日に帰るしかない!

 如月がロケットを触っていく。周りの人間が何事かと見守る。

 ロケットは何かを守るようにしっかりと閉じられていた。元々は自分の写真を入れたはずだった。それがここで出てくるのか、もしそうだとしたら、ちょっと恥ずかしいがそんなことはないと無理やり開ける。

 ロケットの蓋が開くと、そこには小さな円筒形のカプセルがあった。まるで何かの錠剤のような大きさだ。それと小さな記録媒体も一緒にある。如月が言う。

「これが美月の夢です」

 渡辺が目を見張る。「如月さん、それを確認してもいいですか?」

「はい、ぜひ、お願いします」

 如月が渡辺にカプセルと記録媒体を渡す。

「これはNMカードですね。カプセルの中身を確認してみます。もし、バクテリアだったら放射線を当てないとならない。皆さんはここでお待ちください」

 渡辺は急いで自分の実験室に向かう。

 如月はまだ信じられない気持ちだった。手が震えている。やはり美月は奥の手を用意していた。もし何かあった場合の最後の一手だ。

「美月はすごいやつだ」

「ママ・・・」

 

 それから数分後に実験室から渡辺が出てくる。顔が紅潮しているのがわかる。

「如月さん、皆さんもこちらに来てください」

 如月を先頭に実験室にみんなが入る。

 実験室にはテーブルに乗った機器があり、左側には円柱の突起物が伸びている。そして右側にモニターがあり、画面に何かが映っている。渡辺が言う。

「これは電子顕微鏡です。先ほどのカプセルの中にあったものがこれになります」そういってモニターを指さす。

 そこには先ほどのカプセルと同じような円柱型の物体が見える。それが画面の中で動いている。

「放射線バクテリアです。福島のバクテリアを基礎とした改良型のようです。やはり完成していたんです」

「そうですか・・・」

「残りのバクテリアは、元祖バクテリアと一緒に放射線容器に入れました。容器はセシウム137照射装置になります。こいつに定期的に放射線を吸収させる必要がありますので」

 渡辺の実験室に黒い箱型の装置がある。それが照射装置のようだ。

「あと、NMカードにバクテリアの資料もありました。まだ全部は見きれてませんが、概ね生産方法や取り扱いについての記述があるようです。これで量産もできるでしょう」

「そうですか、よかった」

 如月は保科に向き直って言う。

「保科さん、今のところこのバクテリアの存在は秘匿事項ですが、いずれは表に出る可能性が高いです。こちらの厳重な警備をお願いできますか?」

「わかりました。警備については間違いなく対応します。これ以上、被害を出すわけにはいきません。警察の威信をかけて臨みます」

 電子顕微鏡のバクテリアが動いている。美月の夢を、人類の未来を救うであろう新たな発見である。

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