『矛盾した感情達―生と死とか―』
小田舵木
『矛盾した感情達―生と死とか―』
仕事を終え、酒をかっ喰らい、ベッドに寝転がる。
すると―私の脳を
私は。一般に負け組にカテゴライズされるような人間である。
死にたくなるの持病みたいなモノである。そもそもうつ病だし。
この希死念慮。もう付き合いだしてから十数年になる。
私の部屋にはロープと睡眠薬があり。やろうと思えば何時でも死ねる。
だが。私はもう一歩を踏み出すに至らない。
それは死にたくないからではなく、死ぬのが生きるのより面倒くさいからである。
そう。死ぬのが面倒くさい内は。死までは至らない。
だが。結構危ういラインだったりする。
希死念慮が出てきた時は適当に動画配信サイトで犬猫の動画を見て癒やして誤魔化すが。
この麻酔薬が何時まで効くかは分からない。
今の私は。安楽なアルバイト暮らしである。日雇いの。
だから仕事は一日6時間以内だ。最近はあまり疲れない。
これが希死念慮をやり過ごせる理由ではないか、と思うことがある。
一年少し前までの私は。
うつ上がりだと言うのに残業三昧で。
かなり疲れていた。片道一時間半の通勤と平均2時間の残業。
プライベートな時間など無かった。
すると。希死念慮はみるみる内に膨れ上がり。
気がつけば。うつが再発して仕事を辞めてしまった。
私は希死念慮と共に暮らしている。
それは私がニヒリスティックな価値観を抱いているからだろう。
人生に意味などない―これが私のモットーである。
15の頃にカート・ヴォネガットの『スローターハウス5』に出会ってから、私はニヒリズムに目覚めてしまったのだ。『So its Goes.』『そういうものだ』
私の人生に意味などないから。何時だって死んでしまいたい。
私は錯誤に陥っているのだろうか?それは分からない。
ただ。私は。人生や人類に大きな期待をしていない。
期待するだけ無駄というモノだ。
私達は愚かな猿の進化系でしかない。正しいことなど一つもしてない。
そして、その愚かな猿どもで構成された世界というものにも正しさなどない。
そも正しいとは何か?それは人類が発明した基準であり。そういうモノにも価値はない。
ああ。並べて。この世に存在するものには価値がないように思える。
私も。そして私を囲む人類も。平等に価値はない。死んでしまったほうが地球は長持ちするだろう。
私は傲慢なのだろうか?ここまでの文章を読んで思う。
私は今まで人類全般や世界や人生を貶して来たが―そういう事を言う権利はあるだろうか?
恐らく。これを読む奇特な読者も認めるだろうが―ない。私には何の権利もない。
私はただ。人生が気に食わないから文句を言っているガキと大差ない。
そう。
私は満たされないから文句を垂れているガキだ。
何時でもエンプティなのが私だ。何かを渇望している。
だが。それを満たす方法が分からないのだ。
そして渇いた私は。希死念慮に満たされる。
希死念慮を抱くのは案外に楽だ。
死にたい、自分に価値がない…そう認めている自分を一段上の段階に持っていくことが出来る。
…私は希死念慮を方便として使っているのかも知れない。
私はどうも、プライドが高くて、格好つけらしい。
無意味な人生に対して。何らかのスタンス―希死念慮―を取る事によって、格好つけているだけなのかも知れない。
―暇だから死などについて考える。生きるのに必死な者は死など眼もくれぬ。
私の中の賢いヤツは言う。
確かに私は暇である。仕事をしていると言っても、たかがアルバイトだ、一日6時間の。
かなり暇を持て余している方になる。だからほぼ毎日文章が書ける。
私にとって。文章を書くとは。思考の整理だ。
私は白昼夢を見がちな男で。それを系統化したのが私の文章だ。
だから。何時でも似たような文章を書いてしまうような気がする。
…少し話が
私は暇だ。あまり必死に生きていない。
しかしこれはある程度、わざとである。
私は必死に生きようとすればするほど。希死念慮やニヒリズムに冒される。
疲労で頭がボヤケて。死が頭を満たす―すると、私はうつっぽくなる。
だから。あまり必死にはならないようにしている。生か死か。この2択に陥らないようにしている。
人生というものは。生を迫る。明日がある。
だが、私はあまり未来的思考が得意ではない。予期不安を抱えているからだ。
予期不安、私は何時だって悲観的だ。マイナスの方向から未来を予想することが多い。
これでは。人生に期待などできようもなく。
希死念慮は忍び寄る。そして私は犯される。
人はタナトスに触れたがる―心理学方面で聞いた言質である。
だが。私の周囲には。死にたい、と漏らす人間は皆無だ。
まあ?人に要らん心配をかけぬよう黙っているだけなのかも知れないが。
私は十代の頃から死を願っている。生きたいという気持ちと共に死を願っている。
それはある種の逃げなのかも知れない。私は人生から逃げ出したいのかも知れない。
十代の頃は体調不良を抱え、二十代後半からは精神の不良を抱えている。
…死にたくもなるのだ。甘えに聞こえるかも知れないが。
責苦が私の中に内在する。それから逃れるためには私自身から抜け出すしか方法がないように思えてしまうのだ。
死とは。世界の終わりを意味する。
人間は世界を脳を介して受け取っているので、脳が停止すれば。その人の世界は終わる。
私は。地球が滅ぶのを見守る事は出来ない。恐らく数十億年先の話だから。
だから。世界を終わらせる最も安楽な方法は。首を括って死ぬことである。
世界を観測する私が消えれば。私の世界は消える。この並べて無意味な世界が。
それは喜ばしい事のように思える。
だが。その時喜んでいるのは誰なのか?
私は疑問に思ってしまう。私は無邪気に信じている。死んでも尚、考える主体があるのだと。
魂、霊魂、そんなモノがあるはずないじゃないか。
そも人間は。巨大なタンパク質のコンプレックスであり。維持されなくなれば。それは腐る。腐れば機能を停止する。
人は終わりを恐れている。一般的に。
私は終わりを心待ちにしている。矛盾しているが。
生きたいという気持ちを高尚なモノだと思う事が出来ない。
私はどこぞのエンタテイメントの人生賛歌を見る度に冷めた気持ちになる。
なーにが『人生は美しい、価値がある』だ。馬鹿じゃないのか?
私はそんな人生賛歌を聴く度に『人生は醜い、価値などない、ついでに意味などない』と言いたくなるのだ。
ま、せっかくのエンタテイメントである。不愉快な気持ちを
私は死にたがりであるが。同時に生きたがりの傾向もある。
…最初からしてた話を放っといて何を言うか、とお思いだろうが―あるもんはある。
そんな私を示すエピソードがある。
それは私が高校生の時、母と始めて飛行機に乗った時の事である。
飛行機の離陸。これは中々に恐ろしい。離陸時に事故が起きやすいと聞いた事がある。
その時、私はすでに死にたがりであったが―「死んでたまるか…」と漏らしていたらしい。母は聞き逃さなかった。
私は、普段から「死にてえ死にてえ」とホザイているが。
いざ、死ぬかもしれない場面になると、「死にたくねえ」とホザく。
ああ、矛盾。言い訳をするなら。人は矛盾を抱えて生きているものである。
だが。格好はよろしくない。
この矛盾めいた感情とどう向き合って行くのか?ここが問題であるように思える。
どちらかに舵を完全に切ってしまえれば。私の人生はかなり安楽なモノになろだろう。
生か死か。この2択。これが何時だって私を悩ませる。
ま、最近は死の方向に傾きかけている。
未来を想像すればするほど。死んだ方がマシじゃないかと思える訳だ。
昨日、私は仕事のライン作業をこなしながら、「ああ、一生こんな事をするくらいなら。死んだほうがマシかも分からん」とか思ってたのだ。
そう。私は。未来に期待が持てないから死にたくなる。
では?私が。一般に言われる勝ち組であったらどうなのか?
…多分。贅沢にすぐ飽き。人生には並べて意味がないとか言い出すだろう。
もう。これは
私の精神には。ガッツリと死が絡んでいる。同時に、生き物の本能である生も絡んでいる。
アンビバレレンス。私の精神には均衡がない。
だから、あっちに行ったりこっちに来たり。死んでみたくなったり生きてみたくなったり。
こうい綱渡りを毎日していて。最近は死に転びそうなだけだ。
言葉にしてしまえば簡単だが。ここまで思考を整理するのに3400字近くを使ってしまった。
ああ。私は頭が悪い。死ぬほど悪い。
もっと学齢期に勉強をしていれば。こんな阿呆な事に煩わされずに済んだだろうに。
そして。もっとマシな未来があったっだろうに。
私はプアなブルーワーカーである。
これは若い時に、ジョブホッパーめいた事をしていた結果だ。
ま、うつのせいも多分にあるが。
お陰で。毎日、暇を持て遊び。生か死か、なんて暇人しか考えないような事に煩わされている。
もっと充実した人生を送りたかった。何かに必死になれるような人生を送りたかった。
だが。私は何かに必死になることを馬鹿にしていた。
その結果が。何にも必死になれない私である。
…んまあ?最近は意図して必死にならないようにしているが。
ああ、人生に意味が欲しかった。
私は。何処ぞで埋め込まれた『人生に意義を求めよ』という呪いに冒されている。
だが。ここでニヒリズムが顔をだす、『人生に意味などない』
『人生に意義を求めよ』『人生に意味などない』この2つの矛盾した意見。
それが私の脳の余計なスペースを埋めちまっている。邪魔くさいったらありゃしない。
生と死と。生存本能と希死念慮。
これが私の頭の中の矛盾の代表例である。
頭にお薬打ち込もうが、このクソみたいな矛盾は消えてくれない。
当然である。頭のお薬は脳内の機能を改善するだけだ。考え出す思考までは改善してくれない。
思考が邪魔に思える。
だが。私は存在しており、思考している。
恐らくそれを止める事は出来ない。
だから。一生をかけて付き合いぬくしかないのだ。
この矛盾達と。
今日のこの文章は。矛盾達との付き合い方の一例である。
私は。頭が死ぬほど悪いので。文章という取っ掛かりを造らないと矛盾という山には登れない。
『矛盾した感情達―生と死とか―』 小田舵木 @odakajiki
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