月泥棒
平山芙蓉
1
世界中から、月の概念が消えてしまった。
ゴッホはあの『星月夜』を描かなかったため、代表作には入っていない。日本からは、月見の習慣がなくなった。しかし、兎と夜空には関連があり、何故か夜が訪れると、何もない夜空を見上げる、不思議な生物として認識されている。夏目漱石の愛情表現に関する俗説は、ネットから消滅した。アポロ計画は月面ではなく、更に遠い火星を目指したロマン溢れるプロジェクトとして語られた。だが、最新号に至るまで、全て失敗に終わっているし、宇宙飛行士たちは地球へ帰ってきていない。世界中の文明にいた月の神たちは、影も形もなくなり、大抵信仰されているのは、太陽の神ばかりだ。
月が消えたことを、憶えている人間は誰もいない。天文学者も、陰謀論者も。僕だけが、月のことを憶えている。
それもそうだ。
だって、月をこの世界から盗んだ張本人は、僕なのだから。
結果として、世界から月の概念が消えてしまった。
そんな暗い空の下を、僕は俯きながら歩く。夕方に差しかかっているので、視界の端にちらつく地平線は、薔薇色に染まっている。東の空は既に夜の装いだ。道路には落ち葉の絨毯が、遠くまで続いていた。時々、落ちた銀杏の実の不快な臭が、痺れた嗅覚を擽ってくる。絶え間なく吹く風は、剃刀みたいに冷たくて鋭い。もう、すぐそこまで冬の気配が、近付いてきている証拠だ。
アパートに着いて、階段を上る。スチールの踏板を踏むと、硬い音と振動が返ってきた。その中に、僕の足音とは違う音が上階から聞こえてくる。
「おや、こんばんは。今お帰りですか?」
声をかけられた方へ目を向けると、初老の男性が僕を見下ろしていた。大家さんだ。顔には溶けたチーズみたいな笑みが、どっぷりと張り付いている。
「……ええ」僕はすぐに隣の民家へと視線を逸らして、彼に階段を譲った。
「すみませんね、失礼失礼……」若干急ぎ気味に下りていく。けれど、階段の中腹くらいで、立ち止まると、僕の方に振り返った。「そうだ、忘れないうちに……。今回は家賃、遅れないようにしてくださいよ。いつも遅いの、お宅だけなんですから」
「すみません、気を付けます」
口角を無理矢理に上げて、僕はそう言った。筋肉が痛い。彼の笑顔と比べれば、渋々といった様子が、如実に表れていただろう。でも、大家さんはそんな僕の態度でも、嫌な顔一つも浮かべず、その場を去った。
僕はその背中を一瞥してから、また階段を上る。自室の前に立つまで脳裏には、あの笑みが道端のガムみたいにへばり付いていた。
昔の大家さんの笑顔なんて、見たことがない。彼は常に、何かに対して怒り狂っていた。今日のように、僕が家賃を少しでも滞納すれば、部屋の前で丸一日、怒鳴り散らされたことだってある。だから、ここに住む人たちは毎日、怖い思いをしていたし、入居しても一月で引っ越すなんてことは、当たり前だった。今はそんな姿、見る影もない。住人からも、優しい人として親しまれている。
変わってしまったのはやっぱり、僕が月を盗んでからだ。それも、変わったのは彼だけじゃない。世界中の多くの人間が、優しいという感情を覚えるようになった。パソコンのOSを丸ごと入れ替えたかのように。誰もが他人を慈しみ、敬い、助け合う。世界中の全てから、嫌われているはずの僕でさえ、例外ではない。
僕の目的は達成された。
世界は限りなく、辞書通りの『平和』へと近付いたのだ。
歴史上のどんな偉人でさえ、導けなかった世界。そこへ辿り着けなかった理由が、月にあるのだと、僕は気付いた。あの眩しさは精神を蝕み、知らない間に狂気へ陥れる。人々は、月光のせいで夜を知り、醜い心を平然と曝け出せるようになったのだ。そうして、無自覚の内に狂った他人たちのせいで、僕は朝にだって、昼にだって、夜にだって、理不尽に苛まれてきた。
祈っても救いの手なんて伸びてこない、泥水の中に沈んだような日々を。
だから、こうするしかなかった。
僕自身が世界を変える以外に、救済なんてなかった。
神様も、仏様も、ましてや身近な人間様だって、僕を助けてくれなかった。
ようやくそう理解できたからこそ、僕は犯行に及んだ。
そして、手に入れた。
僕だって生きても良いと思える世界を。
手に入れたはずなのに、
「どうしてこんなにも、不安は消えてくれないのだろう?」
独り言ちた声が、ドアを叩く。疑問に対して、答は返ってこない。聞こえてくるのは、外出時に切り忘れたエアコンの室外機の回る音だけだった。
僕はそいつを聞きながら、不思議だと思った。あんな大罪を犯したのに、誰にも咎められていないからだ。もちろん、注目だってされていない。平然と外を出歩けるし、ハンバーガだって買いに行ける。もっとも、盗まれたことさえ誰も憶えていないから、当然なのだろうけれど。
陽が音もなく地平線に溶けていく。ドアスコープが入らないのか? とでも言いたそうに、こちらを睨んでいた。僕はうるさいな、と舌打ちを一つ、わざとらしく鳴らしてやる。それから、不愛想で冷たいドアノブを回して、部屋に入った。
室内に入ると、点いたままの暖房のせいで、熟した空気が僕の身体を包んだ。キッチンのシンクから立ち込める臭は、その暖気によって一層、きつくなっている。床の見えない廊下は、足で踏むと不愉快な笑い声を上げた。僕はできるだけそいつらを無視して、リビングに向かう。
ゴミで装飾されたテーブルからリモコンを探し出して、暖房を停止した。風の出る音が止んで、静けさがやってくる。手にしたリモコンの置き場所を考えるのが面倒で、適当に投げ棄てた。後悔するのは目に見えているけれど、どうでも良い。
窓際のベッドへ、上着も脱がず寝転んだ。湿気た布団に、疲労が染みる。餌に群がる鯉みたく、身体に睡魔が襲いかかってきた。そいつを助長するように、部屋は刻々と暗くなっていく。降り始めた深い色の夜の帳は、天井が遠ざかっていくような錯覚を覚えさせた。それでも、思考が巡っているせいで、睡魔の恩恵は得られそうにない。
亡っとしていると、隣室から話し声が聞こえてきた。隣はたしか、中年の夫婦が暮らしていたはずだ。話の内容までは分からない。でも、声色は明るくて、平和な雰囲気が壁越しに伝わってくる。
こうして暮らしている自分が、惨めになるくらいには。
そうだ。
みんな、幸せなんだ。
みんな、安心しているんだ。
僕だけが違う。
月を盗み出したところで、僕だけは変わらなかった。
間違いでも、
正しさでも、
僕を認めてくれる存在がいると、信じていたのに。
望んだ
僕は満ち溢れる優しさにさえ、不安を覚えてしまった。
まるで、僕だけが世の中に適応できないよう、
脳の端子の規格が、別物にでもなっているみたいだ。
横になっても眠れないので、身体を起こす。喉が渇いた。眠れないのは、そんな渇きのせいかもしれない。辺りを見回すと、一口だけ底に液体の溜まったペットボトルが、墓標みたく、いくつか佇立している。そんな飲み残しでも良いか、とも思ったけれど、流石に黒ずんだお茶を飲む勇気はなかった。
溜息を一つ吐く。たしか、かなり以前に買った水が、冷蔵庫に残っていたことを思い出す。ベッドを抜けて台所へと向かい、機嫌の悪い犬みたいな稼働音を唸らせている冷蔵庫の前に立った。こうして目の前にするのは、久々のことだ。最近は、できるだけその日に必要なものだけを、買いに行く生活をしている。
だからだろう。
ドアを開けると、腐りきった食材たちの強烈な臭が、鼻腔を衝いた。どうしてこんなになるまで、放置していたのか。様子を窺うのが怖くて、思わず目を逸らしてしまう。自業自得とはいえ、最悪だ。僕は意を決して、悪臭を放つ冷蔵庫へと頭を突っ込んだ。
そして、僕はそれを目にした。
盗み出した月を、ここに仕舞い込んでいたことを。
月面と呼ばれる部分は、梅干しのように皺だらけになっている。盗んだ当初は白色だったはずの表面は、すっかりピンク色の黴だらけだ。手を伸ばし、触れてみると、冷たい粘液が糸を引いた。
僕は目的を放棄して、冷蔵庫のドアを閉めるとそのまま、床のゴミを蹴りながら、自宅を飛び出す。
外気は酷く冷たい。空は既に真っ暗で、往来に僕以外の人影はなかった。そんな町を、僕は当てもなく走る。ただただ、脳裏に焼き付いたあの月の惨状と、自分の犯した罪の重さを振り払いたいがために。
どうすれば良かったんだ?
どうすれば、僕は救われたんだ?
正しさも、
間違いも、
どちらも踏み外してしまう僕は、
どうすればこの愚かさから抜け出すことができた?
「教えてくれ」
誰か、人間の正しい生き方とやらを教えてくれ。
「教えてくれよ!」
僕は暗晦の空に向かって叫んだ。
流石に何事かと思ったのか、民家の窓の開く音がした。
近所迷惑だと、怒鳴られるだろうか?
いや、そんなことはない。
だってここは、僕の望んだ優しい世界なのだから。
優しさが、間違いも正しさも飲み込んでくれる。
人を狂わせる毒とも知らずに。
そんな毒を孕んだ誰かの視線が、僕を穿つ。
誰の目だ?
星ではない。
風でもない。
こんな僕を誰が見つめているのだろう?
涙が流れる。
雨の匂。
同時に、苦い罪の味が舌の上を転がった。
振り返って、僕は空を仰いだ。
視線の先にある濃紺の夜空。
そこには、盗まれたはずの月が、浮かんでいた。
愚かな僕を、嘲笑うかのように見下ろしながら。
腐った月が。
月泥棒 平山芙蓉 @huyou_hirayama
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