アラフォー女とままならない恋の悩み

白木 春織(しろき はおる)

アラフォー女とままならない恋の悩み

 それはどうしようもないことだったのだ。


 地球のエネルギーを詰め込んだ液体を前に、現代日本人の甘やかされた口輪筋こうりんきんが勝つわけもなく、SNS最盛期、口から直接紡がれた愛の言葉に心臓が飛び上がらないわけもない。


 だから致し方なかったのだ。眼前で行われたこちらが頰を染めるような告白を前に、私がマーライオンがごとく放物線を描き、神秘の水を吹き出したことは。

 *

 ――ガタタン

 大袈裟な揺れが静まった電車に、残っているものはほとんどいない。終電の2本前、帰宅ラッシュも過ぎた赤いベルベットの電車の座席は、カバンを自らの膝に持たずとも、座れるだけの余裕がある。

 金曜日、会社から1時間、電車の旅も束の間の土日きゅうそくを迎える。最寄駅まであと1駅。前の駅で電車の扉が閉まる、と同時に荷物を持ち、私は右扉の前に陣取った。見慣れた光の流れに、間も無く訪れる安住の地に心を馳せる。

 *

 チンっという音と共に開いた扉は、その幅以上に季節の風を取り込む。春だというみずみずしい息吹の香りと共に、指につけた装飾から伝わる底冷えが、まだほのかに冬の匂いを漂わせてくる。

「スー」大きく息を吸って、「ハー」それ以上に二酸化炭素を意識して吐く。今日1日で纏った毒素を電車ここに置いていく。いつもの儀式を終えると、1歩、下界のコンクリートへとその高い靴音を鳴らした。


 扉から出て横目に見えたのは、あきらかに自分より年下だとわかる数人の若者。近くの大学の学生だろう。1年前に買った終の住処、20階建てマンションも10階から下は賃貸になっていて、時折、いかにもな芸大女子が出入りしていたな、と思う。

 降り立った人々の格好はてんでバラバラ。しかし、駅にたった1つしかない改札口でぐちへと、狭いホームを1列、いっときの連帯感をもって、軍隊のように進む。皆その間にもゲートを潜るためのパスを用意していて、行軍はあっという間に解散。三三五五さんさんごごほどけていく。


 携帯と一体化した交通系ICをトレンチコートの右ポケットに突っ込んだまま、薄ら寂しい駅前のロータリーを歩けば、横断歩道の先、続くようにセーブポイントが見えてくる。暗闇に明順応を起こしそうなほどの不自然な灯り。企業戦士のコンビニきゅうそくばしょ。私も例外に漏れず足を向けた。

 

 新たなゲートを潜ると、レジの見えるところに店員が1人。深夜のコンビニで馴染みとなりつつある、彫りの深い外国人アルバイト生。確かジャニーだったか、ジョニーという名前だったか。彼は、

「いらっしゃっせー」

 とコンビニ特有の雑な省略挨拶をかけてくる。不思議なイントネーションで放たれる言葉に、日本語を覚える環境としてあまりよろしくないのでは、と頭に浮かぶが顔には出さない。いつもどおりスルーして奥のトイレへとそそくさと向かった。

 

 すっきりとした気持ちで個室を出れば、手洗い場の鏡と瞳を合わせる。この前かけたばかりのマツパはまだバシバシ存在感を放っているし、長めに引いたアイラインもよれていない。こだわって決めた眉毛タトゥーも、入れてまもなく1年になるが、まだまだ色を保っている。朝の5分を3万で買ったかいがあったというものだ。視線を口元にむければ、朝引いたままの真っ赤なルージュが乾燥し、表面がぷつぷつと禿げてきているのに気づく。そういえば、今日は営業も入っておらず、新婚旅行で休みだという社員の穴埋めに、昼も取らないまま仕事をしていた。歯を磨くついでの化粧直しを1度もしていない。

 右の壁に取り付けてあるティッシュケースから、再生紙を2枚引き出して、雑に口元に押し付ける。グレー味がかったザラザラとした紙質は唇と摩擦し、かなり痛い。が、力を入れて思いっきりこする。もう1度鏡を覗き込めば、ぴりぴりとした後遺症は残るものの、ルージュはきれいにぬぐわれ、血色の悪いピンクがのぞいていた。くしゃくしゃの紙についたべっとりとした染料にほっと一息つくと、紙を力の限り丸めゴミ箱に放った。

 

 トイレをでると、右向け右、足はいつもの習慣を覚えていて、導かれるよう、すぐ隣にある陳列棚と向かいあう。唯一コンビニここで美術館のようなガラス戸付きの保管庫に、カラフルな展示物のみものがラインナップされている場所。都心では静電気対策か、はたまた技術の進歩か、この風情あるガラス扉は失われつつある。が、ここの店舗はまだ、その余波を受けてはいない。ショーケースにある季節限定、ポイント割引、限定特価そんな謳い文句の鮮やかな目玉商品のみものを無視して、どこまでも澄みきったボトルを手にとった。レモン味のサイダーの隣、ところどころ小さな泡が浮かんでは消えていく液体。1本、2本とボトルを手にとって、1本目にとったボトルものを元に戻す。

 5本の指でペットボトルをキャップをつまむように吊り下げ、レジへと向かう。道すがら、速度を落として、道路側に面した雑誌コーナーに横目をやるも、めぼしい見出しは見あたらず、一直線に会計へと向かう。

 

 私がレジへ足を向けた時点で、後ろを向いてスタンバイしたジョニーさんに首をふりつつ、ペットボトル1本をレジ台に置いた。本当にいいのか、と口より多弁に訴えかけてくる大きな目玉を無視し、炭酸飲料をぐっとを前に押し出す。ジョニーさんはそれに少し寂しそうにハンドリーダーを通すと、

「130円です」

 と「で」を異様に強調したイントネーションで炭酸1本の値段を告げてくる。ポケットに入れっぱなしにしていたスマホのICカードで支払いを終え、一分もたたず、やりとりは終了。レシートを断り、袋も、シールさえ貼らず、出入り口、セルフポットの下に備え付けられたゴミ箱にラベルを捨て、透明なボトルだけをもって店を出る。

 

 ひっつめにしてまとめていた髪のバレッタを外しつつ、ふらりと立ち寄るのは、横長いコンビニの短辺、コピー機等々置いてある裏側。ポスターが集中してガラスに貼られ、漏れ出る光は少なく薄暗い。その場所で、底の真っ赤なピンヒールを鳴らしつつ、キリリっと先ほど買ったばかりのペットボトルの栓を開ける。キャップが分断され、プラスチックのリングができる音、花の金曜日、幸福

へと駆け上がる始まりの音。

 キャップをスルルっとなめらかに回し、飲み口を乾き切った唇につける。自然と左手は腰に据えられ、顔は斜め45度上を向く。口いっぱいに広がる液体は、昔、テレビで見ていた青汁のCMのように不味くはない。柑橘の爽やかさと炭酸が、口内をやんちゃな幼児のように、手足をめちゃくちゃに振って暴れ回る。舌でそれを巧みに宥めつつ、その強烈な刺激の代償が訪れる前に、一気に3分の1ほどを飲み干す。今日は調子がいい。半分いきそうだ。しかしやはり、途中で訴えてきた胃のギブアップにはさからえず、

「ゲーッ」

 と妙齢の女性には似つかわしくない下品な音がでた。いや、でもこれがいい。これが最高なのだ。誰もいない、夜も深いコンビニで、誰にも縛られず、ちょっとしたマナー違反をする。その背徳感が贅沢なのだ。溢れる吐息もレモンより一層、清涼感が強いグレープフルーツ。大学生の頃は、甘いレモン味の炭酸飲料ばかり飲んでいたが、いつからか、この少し苦味のあるグレープフルーツフレーバーの炭酸水を買うようになっていた。

 

 一息つき、もう1度ペットボトルそれに口をつけようと、首を後ろに反らす。すると、斜め上になった視界の隅、ピョコピョコとこちらに向かってくる2つの頭が映り込んだ。意識を目にうつし盗み見れば、おそらく20歳前後、チェック柄のシャツの青年が、金色頭の男に肩を貸していた。その時点で、私のコンビニおあしすに暗雲が立ち込める。直後、遠くからでもかおるかすかな酒精とミントの香り。さらにそれを纏う、金髪の男の口元に光るピアスを認識した瞬間、私は通り雨が来そうな予感を本能的に察知した。

 すぐさまその場から去ろうとするも、時すでに遅し。私のことが見えていないのか、はたまた、見張りのためとそこに置いたのか。青年は力尽きたように、背負った金髪の男にもつを私の正面におろし、

「水買ってくるから待ってろ」

 といいおいてそそくさとコンビニに入っていく。

 残された男はかろうじてヤンキー座りを維持し、カラーコーンのように私の行く手をはばむ。おそらくタッパもあるのだろう。膝に置かれ伸びる手が、項垂うなだれていながらも長く、やじろべえのようになって、完全に私をとうせんぼしていた。


 下手に動いて刺激すれば危ない。爆発物処理班のように思考を巡らせているとまもなく、連れの青年が緑のキャップの真透明な水を抱え、その場に戻ってきた。1人そっと安堵するとともに、早くどかせ、という気持ちはおくびにも見せない。ただ、足の位置を変えるため、その場で少しハイヒールを鳴らす。すると、さきほどの考えは前者だったのか、

「すいません、おい、こっち」

 と、人の良さそうな顔だちの青年は、連れの金髪男のレザーで包まれた腕を引っ張り、道を開けてくれる。

「いえ、ありがとうございます」

 私はそれに仮面を貼り付け、にこやかに礼をいう。しかし、すぐに歩き始めれば、迷惑だと思っていたことが如実に伝わると、もう1度ペットボトルを傾ける。

 その間にも、平々凡々へいへいぼんぼんチェックのシャツの青年はキャップを開けた水を口元に近づけ、連れの男の世話を甲斐甲斐しく焼いている。どんな関係性だろうか。と頭をよぎったのはたしか。しかしすぐさま、下手に好奇心をのぞかせ、面倒ごとに巻き込まれるのはごめんだ、とやぶをつつく手を引っ込めた。

 ――だが、この時、すでに私は選択肢を間違ってしまっていたらしい。見栄を張って大人の女の余裕など見せず、譲られた時点で、有難くその道を歩んでいればよかったのだ。そうすれば、すべてを吹き飛ばす、醜態をさらさなかったものを……。

 

「好きだ」

 突如としてその場の空気を割いた、下半身からはってくるような低い声は、静まり返った深夜に異様に響いた。遠くに聞こえる換気扇の音に今起こったことが現実なのだと知る。

 RPGで敵とエンカウントしたように場面がぱきりと固まり、寒の戻りがきたのだろうか、という冷えが急激に身体を襲う。ブルっと体が震えた時は、近くに霊がいるのだと、小学生の頃、ヤンチャな餓鬼大将が教えてくれた。しかしそれよりもっと恐ろしいものがあるのだと、大人になったいま、口をつけていたペットボトルのうちを白く曇らせる。

 今、音を発したのは恐らく、座り込んだままの金髪の男。視界に入るチェックのシャツの彼が目を丸くしているあたり、彼に言ったのだろう。

沈黙があたりを支配する中、知らぬ存ぜぬを貫きとうそうと、私はなんとか衝撃を切り取って、500ミリリットルのボトルに淡々とそれをつめていく。


「――好きだ」

 だがしかし、時間を置き、再び放たれた言葉と同じくして、私の強弱様々、感情の吐け口となっていたペットボトルは、簡単に容量オーバーを迎える。いつのまにか、小さなボトルは、荒い息に右往左往する感情が詰め込まれ、パンパンに膨らんでいたのだ。行き場のなくなった液体は逆流し、大量の炭酸が口内へと流れ込んでくる。

 それを必死に頰に溜めこんで我慢しようとするも、冬眠間近、生きる瀬戸際のリスならいざ知らず。昼の大半を菓子パンにお世話になっている私の口内筋はそれを溜め込んで置けるだけの力はなかった。気まずさ、苦しさ、驚き。全ての感情がごちゃ混ぜになったそれは、必死に溜め込んだ勢い余って、ミストのように小さな粒を撒き散らし、花開くようにその場にばらまかれた。

 先にいたのは、例の2人。意識をそちらに向けるあまり、いつの間にか元凶たる、彼らに全てをぶちまけていたのだ。


「……」 

 口の周りに残った水滴が新調したばかりのシャツに落ち、気持ち悪い感触が肌に伝わった瞬間、ハッと自らおかした所業に凍りつく。しかし脳から体への伝達がうまくいっていないのか、近くに据えつけられた赤標識のように体はまだ動きだしそうもない。

 

 ――事件後、はじめに動いたのは、この中で最もおとなしそうな青年。色の抜けきった髪に、口元にピアスをつけてもいなければ、10センチのヒールで武装しているわけでもない。どこの量販店にも置いてあるチャコルグレーのチェックシャツを羽織った彼だった。

 青年は、季節を早送りしたりんごのように耳まで一気に朱を走らせたかと思うと、脱兎のごとくその場から走り去った。それはきっと10メートル走なら世界新記録だったと思うほどの、見事な逃げっぷりだった。

 ――1つ点がなくなれば、3点で紡がれていた三角形はただの線になる。残された2人が一直線に向かい合うことは必然……。

 この時もまた、わたしはチョイスを間違ってしまった。顔を合わせず、チェックの彼と同様、万札でも撒き餌に、逃げだしていればよかったのだ。しかし、鋭角に整ったフェイスラインに、鋭く据えつけられた三白眼とピタリと視線を合わせた瞬間……、ダメだった。蛇に睨まれたかえる、メデューサに睨まれたがごとく、体が石のようになってその場に止め置かれる。

 私の放った噴水はほぼ彼にかかったようで、濡れた容貌もあいまり、さらに凄みがかってこちらに訴えかけてくる。逃げ出したい気持ちはある。それでも、高いヒールが現代アートのようにコンクリートにとってつけられ、一切の動きを許さない。できるのは、残った両手りょうしんでハンカチをとり出すことだけだった。


「すみません、大丈夫ですか」

 すっかりくたびれたタオルハンカチを左手に差し出せば、彼から飛び出したものはタオルを飛び越し、私の骨張った手首を5本の指でガッチリとホールドしてきた。

「ひっ」

と声が漏れて、反射的に手を引こうとするが、それも許されない。

 彼は私の手を支柱にして、ゴールデンレトリバーのように体を震わせる。払う飛沫が直に掛かるが仕方ない。これは私が吐いたもの。戻されているだけだ。なんとも言えない表情で私がそれを甘んじて受け入れていると、彼は最後の振りかぶりの勢いのまま、私の埋まった体をコンクリート畑から、引っこ抜いた。そして、なすがままになっている私の腕をそのままつかみ、無言で歩き出す。恐怖を感じるも声が出ない。一方で頭の片隅では、ああ、犯罪ははこうやって静かに起こるものだと冷静に考える。

 

 私は荷台にのせられた子牛のように、何ごとも理解することができないまま、無防備に街頭の少ない夜道よみじへと連行されたのだった。

 *

 拉致された先は深夜でも明るい、ファミリーレストラン。雑居ビルに入る表からは見えない半地下タイプのテナントだ。とりあえず、連れられた先が埠頭でも山中でもなかったことにホッ、と胸をなで下ろす。

 先ほどから、私の細く筋張った手首を離そうとしない金髪の男は、店員の案内を待たず、空っぽの座席を突っ切って、最深部のボックス席へと陣取った。彼が奥に、私も顎をしゃくられ、対面に着席を促される。

 ツンと残るスモーキーな香りに、ここが喫煙席なのだと知るが、拉致された身に拒否権などない。しかし、彼はそんな状況で、厚い胸ポケットからたばこを出すわけでもなく。机に肘をついて寄りかかったと思うと、深淵へと辿り着きそうなほど重いため息を吐いた。

 目の前の彼の格好はいわゆる指令座り。私が小学校の時分に一世を風靡したポーズだ。そういえば、ここ10年、またブームが来ていたっけとおかしな方に矢印が向かう。そう思考が飛躍するほどに、このポーズを笑いのネタ以外で、現実に取る人に私は出会ったことがなかった。だがしかし、目前の彼は『考える人』より深い彫りの顔に、その格好がいたく決まっていた。


 ――どのくらい時が経ったか。少なくともほぼ客のいないファミレスで、3回は注文ボタンがポーンと高く鳴る音を聞いた。何かと選択を間違っていがちな今日は、「沈黙は金」と黙っていたが、もう限界だ。

 帰ってお風呂に入りながら、サブスクにあった恋愛ドラマの続きが見たい。ファミレスに着いてから今までの時間できっと、1話は見終わっている。来週から公開される劇場版に備え、今日中に残り3話、見終えようとしていたのに。ただでさえ、最近は2時を過ぎたあたりで、眠気が勝って寝落ちすることが増えている。……それに明日は朝から予定も入っているのだ。

「はあー」

 思わず、ため息に音がのったことに自分でも驚いた。ここに連行されるまで恐怖しかなかったが、存外、体はこの状況に慣れが出たのかもしれない。自分で余裕を自覚すると、対策を練るため、少しは相手の様子を伺おうという気にもなってくる。

 対面に座る彼は、深く手を組んで額を乗せる体勢にはっきりと表情を伺うことができない。出会い頭は、酒にかなり酔っ払っている様子であったが、今も気分が悪いのだろうか……。そんな重そうな頭をアーチ橋のようにして支える手は、意外にも、石膏で作られた彫刻のように細くしなやかだ。

 チロチロと様子を伺ってみるも、男は項垂れたまま、気づく様子はない。それをいいことにジッと観察して見てみれば、繊細そうな手には、滑らかな甲に血管が浮かび上がるようにしていびつな傷がはしっている。

 思いの外深い稲妻のような亀裂きずに、はたと意識が現実に戻り、何をしているのだと我に返る。家で待つ楽しみかれらのためにも、はやくこの場から離脱する方法を考えねば。乾いていた口内をつばでしめらせ、あくまで平静を装い目前の男に問いかける。

「あのー、水注いできましょうか」

 今、自らおかれている状況をつくったとも言える元凶が欲しいか、と被害者に聞きたくはなかったが、仕方ない。逃げるための口実だ。水を取りにいくふりをして、出口ごーるめがけてダッシュ。短絡的ではあるが、この状況で他に案は浮かばない。それに何か細かく策を練ったところで、実行するには最新の注意を払わなければならない。それができるだけの余裕はさすがにまだ持ててはいない。直球でいくのが1番安全だと考える。

 幸いにも料理は注文していない。店からすれば時間だけ食い潰した迷惑な客ではある。が、ここは歓楽街の店のように、座席のチャージ料は取られないはずだ。

 するりと足裏を冷たいソールから滑らす。1足1,000円、おろしたてのストッキングがダメになるが致し方ない。取捨選択。年齢も、性別も、体躯も及ばない目の前の猛獣から逃げ切るには、何かを犠牲にする他ない。

 しかし、正面に座る男は、私の声にようやくその大きな身体を動かしたかと思えば、巨人とも取れる緩慢かんまんな動きで身を乗り出し、手を前に差し出す。男の伸された手のひらに思わず、ビクッと身をすくめる。その間にメニュー表近くのベルが鳴った。その音を合図に、今の今まで店の奥で気配を消していた店員が即座に社交辞令の笑みを浮かべ、現れる。

 男は手に取ったメニュー表を指し示し、無言で注文を伝える。

「山盛りポテトと、ドリンクバー2つですね。以上でよろしかったでしょうか」

 声を出して確認した店員の言葉に男が頷いた瞬間、私は再び退路が立たれたことを知る。

「かしこまりました。少々お待ちくださいませ」

 去っていく店員の後ろ、エプロンの縦に結われたふぬけた蝶々を地味に睨みつけ、私は、ガクリと肩を落とした。

 

 ドリンクバーにて、再び逃げ出す機会ちゃんすを伺うも、金髪の男は、看守のようにピタリと私の後ろに貼り付き、逃げる隙を与えてくれない。結局おとなしく、ゼロカロリーのコーラを注ぐしか、私に残された選択肢はなかった。自らセルフのドリンクを注ぐという久しぶりの体験に、泡の調整感覚が掴めず、大幅にグラスから黒い琥珀色の液体を溢れさせてしまう。

今日はなにもかもうまくいかない。ちらりと店の中央、据えつけられた時計に目をやれば、針は頂上の逢瀬からしばらくが経っている。そんな時間にポテトなど、アラフォーの胃袋は色んな意味で、コーラでないと流し込めない。

 首を振ってストローのありかを探していると、後ろから脇腹を超えてヌッと何かが這い出てきた。背後から弱点を突いて差し出され、思わず身構えてしまったそれは、お目当てストローのもの。どうやら私が探しているのに感づいてくれたらしい。

「どうも」

 無言の圧で渡されたそれを、私はおずおずと受け取った。ストロー1本差し出されるのにもナイフを突きつけられたような心地がする。

「ふー」

 なかばヤケクソになって、大きなため息を伴い席につく。男も私の後を追って、対面の席に戻った。

 男は迫り出した喉仏を大きく揺らし、たった今注いできたばかりの烏龍茶を、一気に身体に流し込んだ。そして愛の言葉以来、1時間ぶりに言葉を吐く。

「どうしたらいいと思う」

 唐突に球を投げてきたとおもったらスプリット。

「へ?」

 今日はよく口から間の抜けた短い音が漏れる日だ。会社のマナー講座講師が言っていた「驚きは行」が次々と出てくる。にしても、どうとはなんだ。今の状況?あの青年との関係?山盛りのポテト?

 ひどく不躾な質問に眉をしかめつつ、

「どうって」

 と尋ね返す。

諒太りょうたのこと」

 ――主語がない。

 ……が、ここにいたるまでの状況や、漏れた人名に、問われた意味がなんとなくわかる。悲しくも「私」はそれがわかってしまう。そういうことを察するのはさとい方だと思う。空気を読めるがゆえに、損な役まわりばかりおしつけられる。それでも、

「諒太って?」

 とりあえず確認を込めて、定型通りに聞いてやる。

「さっきおれと一緒にいた奴」

 朴訥ぼくとつとして言葉を放つ口は窄まり、女なら二重顎ができると避ける背に深く持たれる体勢も、シュッとした顔の輪郭を持つ彼ならば、哀愁漂っていて大変様になる。

 それにしてもしかし、この男、言葉が足りないと言われないだろうか。まあ、諒太と呼ばれた青年の、この男に対する甲斐甲斐しい様を思い起こせば、なんとなくそれでも関係が成り立つのだろうかと思う。そしてきっと属性的に私も諒太側の人間だ。

「えーっと、君は諒太くんのことが好きってことで間違いない?」

 私の言葉に、目前の彼は顔をこわばらせ、こくんと頷く。きっと彼は、緊張したり、恥ずかしかったりすると、顔が中心に寄ってしまい、迫力が増してしまうタイプの人間なのだろう。というか、

「どうして私に?」

 最後の言葉は音になって漏れた。私の問いに、彼の目線がわかりやすく一点に落ちる。

「化粧とか、靴とか、あんたなんか色々とモテてるような気がした。それに……」

 言葉は途中で止まり、三白眼の小さな虹彩がトロンと手元に落ちていく。

 ――ああ、なるほど。

 ここに留め置かれた理由を段々と理解するうち、私をここまで縛ってきたつわものに対する恐怖は跡形もなく、なくなってきた。それに反比例するよう、めんどくささが胃に巻き付いておもりのように重さを訴えてくる。

「別にそういうわけでもないけど……。だれかもっと適任いないの?」

 かれはイヤイヤする子どものように首を横に振った。

「私、君たちのことなんにも知らな」

「知らないからいいんだよ」

 ――まあ、確かに。

 なだめるように放った言葉は、被すようにして奪われる。しかし、言葉を遮られたことより、放たれた言葉に自分が反射とも言えるスピードで納得したことのほうがショックだった。

 自分のうちに固く秘めたものほど身内には話せない。事件を起こしてそんな人じゃないと驚く人ほど、近い存在ゆえに何も知らないことが多い。私もそれを実感を伴って知っている。彼が私に相談しようと思ったきっかけが破綻したことを、私はいまだ、両親に話せてはいない。きっと私も今、何か事をおこせば、世間でそう揶揄やゆされるのだ。

 それでもやはり、カウンセラーでもない素人には、自分の知る前提条件だんじょのれんあいと違う、恋の悩みを受けるには荷が重い。

 どうしようもなく目を伏せていると、金髪の彼が、声を小さくして

「それで、さっきのことなしにするから」

 とたたみかけてくる。しかしそんな言葉とは裏腹に、これをいうのはさぞ不本意だったのだろう、彼は寄せた顔に、わずかな少年のあどけらしさを漏らし、そっぽを向いていた。顔を少し赤らめ、拗ねたようにして言葉だけで脅してくる。それが彼という人間をよく表している気がした。

 そんなことをされれば、年下を相手にするアラサー女としてはタチが悪い。あの強い目線を向けられればすこしは慄き、私が弱者として振る舞えたものを。いくら言葉に圧を乗せようとも、年下然とした態度をとられるならば、こちらが悪いことをしている気になってくる。

「君は……」

「こちら山盛りポテトになります。」

 ようやく小指のほどのぞかせた関心も、KYバイト生の介入にポキリと折られた。先ほどまで存在を消していたのに、こんなときばかり仕事をしているとしゃしゃり出てこなくていい。さらに、その男が連れてきた想像より一回り大きなポテトの山に、ドラマが遥か、遠方、須弥山しゅみせんへと離れていく。この日何度目かわからない、子どもが反抗期真っ盛りの友人にさえ、幸せが逃げていくと注意された、より一層深い吐息を、コーラに突き刺さったストローへとプクリと逃した。

 

 きっとだれにでも揚げられるが、店で食べると無性に美味しく感じられる冷凍ポテトを2本の指でちびりちびりとつまみつつ、目の前の無口な男から事情聴取さながら、改めて必要最低限の情報を聞き出していく。

「名前は?」

 端に置かれたテッシュを1枚摘み、投げた問いに、目前の男は疑問符を浮かべたように首を傾げる。コワモテの男でも、整った容姿だと首を傾けた様は小動物のようで可愛いらしい。首だけを捻る様は、どこかイグアナのようである。そしてどうやら、私も男と過ごすうちコミュニュケーションをおざなりにして、主語を忘れていたらしい。

「君の、名前」

 きれいに拭った人差し指で、髪をくるくると巻き取りながら、YOUをやたら強調して、もう1度問いかける。

拓海たくみ

 ――名前を聞かれて、下の名前だけを言う男はモテる奴だと私は思っている。他人に名前を聞かれ慣れていて、かつ警戒心もあるため、フルネームを悟らせないようにする。苗字だけ言ったところで大方、好意をよせるものは下の名前を呼びたがる。だったらはなから下の名前だけを教えるのだ。たくみという普遍的な名前なら、日本には五万といるイケメンの代名詞のような名だ。教えてもなんの問題もない。彼も例に漏れず、それに含まれている。

「諒太くんだっけ。彼とはどんな関係?」

 これ以後続く関係でもないので、前置きもせず、さっと知りたいことだけ抜いていく。遠慮など、カロリーとともにゼロのコーラで流し込んだ。胃の虫が少し文句を言っている気もするが、無視を決め込む。

「高校からの同級。で、今は大学も同じ、多分1番仲良い」

 ということは彼等は20歳前後か。自身と一回り以上の年の差を確信し、かるく鳩尾にボディーブローが入る。正面から来たパンチをなんとか受け逸らし、質問を続ける。

「いつから好きなの」

「高2の時」

 拓海は、年上の女から押し付けられる質問に顔を赤らめていき、だんだんと年齢相応の顔をのぞかせはじめる。いつのまにかパワーバランスはこちらに有利に傾いていた。そんな姿はやはり、年長者として庇護欲を掻き立てられる。

 まあ、それはそれとして、知らぬ他人の恋愛相談とは何を聞けばよいのか。そうそうに白旗をあげそうになる。

 ぶっちゃけた話、男だ女だ悩む前に、恋愛こういう話とは5年以上遠ざかっている。めぼしい友達は、20代のうちに結婚してしまっているし、30代半ば、微妙な年齢の女を恋愛相談に駆り出すような後輩もさは職場にはいない。法令遵守コンプラにも厳しい昨今、少なくとも、私の会社の同僚はそういう空気は読んでくる。

 取引先の難癖ならば、仕事だと、マンションのローンのタメだと淡々と無心で捌けるのに。若者の恋愛相談がこんなにも難解だとは。とりあえず、就活の面接官よろしく、履歴書の項目をなぞるよう一言で済む疑問をぶつけていく。

「きっかけは?」

「よく、わからない、ただ、高2の時、告白してきた女子と付き合った時、直感的に違うと思って」

「直感的?」

 大人になるにつれ失われていく、その衝動的な感覚に思わず反芻して、そのワードを聞き返す。

「手を繋ぐ、とかそんなこともなかったけど、ただそばにいて、甘いシャンプーの匂いがしただけでダメだった」

 今日1番、胃がせり上がってきたよう顔を歪める拓海の姿に、それが本心から吐いた言葉なのだとわかる。

「短い間に何人かそんなのがつづいて……」

 そしてやはり、モテていたのだ。

「で、じゃあ誰ならいいんだってなって……」

 彼は私の左手薬指にひっかかっている『それ』にはっきりとピントを合わせた。

 きっかけは、少女漫画なんかでよくみるパターン。他人と付き合ってみて大事なものが何か本当に気づくやつだ。「男って馬鹿だから、1回間違わないと気づかないんだよねー」とベタベタな展開を、私も昔は知った顔して、友達とせせら笑っていたっけ。ただ、その頃の私に、現実問題、目前の男の訴える恋愛の価値観があるとは微塵も思っていなかった。

 教室の後ろ、女子が中身の見えない袋でこっそりとやりとりをしている薄い本の中の世界。それが現実に降ってきて、今、目の前でその相談を受けているとは……。恋愛相談だけでも今の私にはハードルが高いのに、これまで培った価値観の梯子はしごでのぼれはしない、そそり立つ壁が、グランドキャニオンのようにして、目前に立っている。

「……」 

 私が黙ったのを、あまりいい意味で捉えなかったのか、拓海は口元のピアスを親指でめり込ませるようにしながら言った。

「俺もはじめはそんなのおかしいって思って、告られた何人かの女子と無理矢理に付き合った」

 拓海は内臓全てを絞り出すようにして言葉を吐いた。

「でも……ダメだった」

 数秒の沈黙に込められた意味は、推して然るべしだろう。

「他のことには全然関心が向かないのに、諒太のことだけ、は前のめりになって、気になって、でもそう想うことにどうしても、名前をつけらんなくて、この感情をどうしていいのかわからんくて、ずっとうだうだ考えて」

 拓海の薄い唇は金属の輪に執拗に責められ、真っ白になってはち切れそうだった。 

「そばにいれればいいって、それだけだったのに」

 今、彼の目に私の存在は見えているだろうか。

 言っていることがとびとびになって、人に対して吐く言葉として支離滅裂だ。駄々っ子を相手しているような心地になる。

「でも、一緒にいればいるほど、気持ちばっかり募って」

 しかし、言葉以上の想いが音に乗せられ、糸をギリギリとはったような、切羽詰まった心の有り様を、切々と私に訴えかけてくる。到底綺麗な一言では言い表すことはできない現状こそ、拓海の彼に対する想いの深さを表しているのかもしれない。

「それを必死で押さえつけて我慢してたのに、」

 不快さに顔をしかめるのではなく、拓海は切なさに眉根を寄せていた。人を好きになるということは、憎らしくも、愛しく、乱される。どうしようもなくなるのだ。……私には必要ないと手放した感情。

「あいつ無自覚にいちいち優しいから、たまんなくなって、気づけば声にでてた」

 ――その高まりの最高潮があの瞬間だったのだ。

 とんでもない現場に居合わせ、ぶち壊したのだという罪悪感がようやくとジクジク胸に痛みをもたらした。なんとか、口の中のベトベトした油と共にそれを流しこもうと、ストローを捨て置いて、直接コップを傾ける。が、何もかもをゼロに近づけた真っ黒なコーラを持ってしてもそれは到底無理な相談だった。

 むしろオリジナルよりも甘ったるいそれは、煮詰め切った砂糖からめるのような渋みが口の中にどこまでも残る。それをカエルが潰れる鳴き声を鳴らし、身から滲み出る胃液にがいしるでどうにか無理やりに飲み込む。

 はてさてどうしたものか。彼から述べられた想いは、深さはあろうが、私の知る普通の恋心と何ら変わりはない。ただやはり、同性同士の恋愛という点を除いては。

 なんとか物差しをもってそれをおしはかろうとするも、私の中には、基準になるものが何一つなかった。これまで両手で足らないほどに結婚式に招かれたが、1度も同性のカップルにお目にかかったことはない。昔1度友人に誘われ、今や一大観光地ともなっている男性同士のコミュニティの場にも社会見学と訪れたが、こんなピュアな恋心をのぞかせるものはいなかった。彼がいったように恋愛という経験が少ないわけでもない。が、彼の悩みはこれまで30年以上培っていた常識の範囲を一足飛びに超えてきた。

 果ては、なぜ、見知らぬ他人のためにここまで悩んでいるのだと、段々と大人の仮面という名の責任感をかなぐり捨てイラついてきた。コーラに再びつっこんだストローにぶくぶくと息を拭く。もう1度最初にたちもどって拓海に問いかける。

「やっぱり身近に相談できる人はいないの?」

「いたら、あんたには相談してない」

 間髪入れずに戻ってくる返事に、ぐうの音もでない。こちらが優位に立っていると思っていたが、一瞬にして形勢逆転。シーソーのように一気に持ち上げられ、簡単に宙に投げ出される。

「それに手近なやつに相談したところで、きっとその相手が諒太だって勘繰られる。それくらいには俺たちの友達としての距離は近いと思う」

 だから余計に複雑なのか……。

「それを抱いた俺自身がおかしいと思って苦しんだように、きっと俺の諒太に対する感情は、世間にすんなりと受けいれられるもんじゃない。奇異の目にさらされる。自分で選んだわけでもないのに、諒太をそんなことで苦しめたくない」

 強い口調で言い切った割に、大事なおもちゃが壊れたような表情を浮かべる拓海。それは大人の男の言葉であるのに、大人であるがゆえに、自分の幼心を理解し、苦しんでしまう矛盾。

 私は混乱する頭に、軽く右手で髪をかきあげ、手を上に置いたまま、後頭部を人差し指で掻いた。指に絡まる髪にふと、高校時代、通学カバンの奥底でぐちゃぐちゃに絡まっていたイヤホンのコードが思い出される。

 レシートのキレはしを巻き込み、カバンの奥、固まっていた小さな塊。あれをほどくにはコツがある。1度手の中でぐちゃぐちゃに、毛糸を解くように柔らかくして、めぼしい線から外側に広げ、外していく。落ち着いている時なら、それを理解し根気よく向き合うが、イライラしていて焦る時は、塊はさらに小さな塊を産み、絡まっていく。きっと目の前の彼はワイヤレスイヤホンの世代。コードのイヤホンすら使ったことがないのではないか。だから、最後には一直線になって解けるはずの絡まったコードの解き方すら知らない。その緩まった場所さえ見つけることができずにいる。ゆえにそのきっかけを彼は私に求めたのだ。

 拓海かれのどこまでも諒太りょうたのことを想う、深いところから汲み上げた深層水のような澄み切った恋心を、私が30年以上に渡って身につけてきた、黒煙のような価値観で測ってはきっとダメだ。なのに、彼は迷子になった先にたまたま居合わせただけの私に助けを求めている。指に引っかかったままの冷たい輪っかが自身の存在を主張し、身のうちから出る淀んだ汁が、深酒しすぎた次の日のように口内に張り付いてくさい。身の内で様々な感覚、感情がせり上がってきて、クラッシュをおこす。

――ああーもうめんどくさい。

 何のために会社から1時間、乗り換えが2回もあるこの場所にマンションを買ったのだ。こういう人間くさい感情の面倒ごとにまきこまれたくなかったからなのに。

 仕事場の人間は人事以外、10年来の大学の友人にさえ、マンションを買ったことは言っていない。

 私だけの楽園を作るために引っ越したのだ。好きな時間に起きて、観葉植物がわりのタッパーで育てている豆苗の水を変える。彼らは手間をかけた分だけ、一日で一目瞭然の成長を遂げてくれる、夜はその成果でおつまみを作って、春は、近くに見える河辺の桜を、夏になれば遠くに覗く花火を見ながら、秋は天高い空を、冬は葉の落ちた枯れ木の隙間に覗く余白を楽しみ、ハイボールを流し込む。そんなささやかな、穏やかな、日常を守る堅牢強固な壁を1年かけて築いてきたのに。

 なのになぜ今になって、他人のことに心乱し、躍起になっているのか。健やかなる時も病める時もと誓った神への制約をあっさりと破った罰なのか。

 今なら諭吉を置いて逃亡しても、きっと目の前の弱りきった男は追ってはこない。けれど、

「それでも、諒太くんのこと好きなんでしょう」

 明日の朝には完全に築城が終わる予定の城の城門を、私はまだかろうじて閉じ切ってはいなかった。だから、その隙間を縫って入ってくる小さな子猫を突き放すことはできなかったのだ。

 彼の返答をきけば、きっと自分の気持ちからも逃げられない。

「すきだ、……好きだ……好きなんだ」

 猛獣が唸るように全身を振るわせ、一雫のかけらと共に、その言葉を捻り出す彼の姿は、私の堅い外壁こころをぬって、想いの雫を源泉のように染み出させる、切ないまでの想いが波を立て、口いっぱいに甘みと苦味が誇張され広がり、ぎりぎりと胸がきしむ。

「あいつがいないと俺は生きていけない」

 ――ああ、なんて陳腐なセリフだろうか。昨今、何かとお騒がせのメンヘラ女子がよく使う言葉だ。しかし、弱々しい女子がはくと、反吐が出そうな言葉も、野生味あふれる生命力に満ちた青年が言うと、本当に生存に直結しそうでとてつもなく恐ろしい。

 目の前の彼はきっと、諒太に好意を伝える気はなかったのだろう。ただ漏れてしまったことばはあまりに切実で、誠実で、相手に伝わってしまった。

 彼の傷ひとつないむきたての半熟卵のような、どこまでも無垢で柔らかく繊細な恋心を聞いていると、自分が過去にかわした愛をうたう契約がいかに打算的なものだったのかと、やはり銃口を突きつけられる――。

 結婚適齢期、世間体、プライド、それらの欲求を見たすため、それなりの男と結婚したのだと。

 決して愛のない結婚ではなかったと思う。世間でいう順当なお付き合いを2年経て、結婚をした夫のことは好きだった。はずだった。それでも、たった一言・・をきっかけに崩れてしまうようなささいな関係でもあったのだ。

 男だ女だ関係なく、1人の人間に涙を流し、真摯に向き合える拓海が酷く愛しく、うらやましい。

 この半地下の小さなボックスには、神に誓いを立てて破った女もいれば、ただ深く相手を想うあまりその場から動けない男が共存していた。


「人間って遺伝子は、多分大半は、異性を好きになるようになってるのかもしれないね。生産性的にもそれが効率いいし」

 中指で、髪をゆるゆると弄びながら、脈絡もなく発した言葉に、彼がひゅっ、と息を呑む声が聞こえる。

「でも、それでうまくいくともかぎらないよ」

 少なくとも、

「わたしは女であることで、うまくいかなかった」

 そういった私は笑えていただろうか。

「君はタバコ吸うよね」

 禁煙をしたら、余計に他人のタバコの匂いがわかるようになった。彼からは出会った瞬間から、つみたてのミントのような爽やかな匂いがした。近くにいる今は少し、バニラの匂いも香る。

拓海は、突如として方向転換した話題にも、目を丸くしながら素直に、コクンと頷いた。

「結構好き?」

「朝起きて、ベランダで一服しないと落ち着かないくらいには、日常の1部」

「私もそれは好きだったなあ」

 はにかみながら共感する。次に叩き落とすとはおくびにも出さずに、

「じゃあ、諒太君がいやだっていったら辞められる?」

 くるくると巻いていた髪が指から離れて、弱っていた髪の1本が毛先で切れる。にひた笑みを浮かべたアラフォー女の問いにも、拓海は先ほど頷いたものとさして変わらず、脊髄反射のように首を上下させた。思わず毒気を抜かれ、苦笑いが漏れる。

「……私も朝、冷たい空気の中で吸うのが好きだった。とにかく何かの区切りとか、その余韻を感じたい時に吸ってたの」

 結婚して、一緒に住みはじめた翌朝もそうだった。

「幸せの余韻てやつかな。それを感じる時間だったの」

 うすら寂しい空にスーッと伸びてゆく紫炎は口で吐く息より、細く長くどこまででも高く届きそうだった。

「けど、夫はいったの。女なのにタバコを吸うのかって」

 寝室に戻った時、一緒に眠った布団の温もりはまだ残っていたと思う。けれどその言葉が音になって吐かれた瞬間、エベレストの頂点に身を晒されたような風が吹きすさび、結んだばかりの糸がプッツリと切れてしまったのだ。

「たった一言、たった一言だった。でもダメだったんだよね」

 大抵の人間が、そんなことで、と首を傾げるだろう。男から言わせれば、当たり前のことをいったまでだと、反論するのかもしれない。両親だって、苦い顔をするだろう。しかし心の支えとしてきた儀式を真っ向から否定されたことを私はどうしても許せなかった。

 それでも、心の底から愛した人なら、その間違いを許せたのかもしれない。しかし、私はその一言を流そう、と思いやれるほど、理由を述べて謝罪を求めようとするほど、自分自身がきっと一生を一緒に過ごすだろうと決心した男のことを好きではなかったのだ。

いやそもそも理解し、愛し合っていたら、私自身その時までタバコを吸うことを隠してもいなかったのかもしれない。

「男だ女だって言う前に、人として、その人と合うかが大事なんだと思う」

 短く切れた紐を再び結び直そうと、私は思えなかった。割り切って、生活費が折半になった分、浮いたお金で、自分だけの家を持とうという考えにさえ至った。

 おかしなもので、夫にはたった一言を許そうというだけの気力をさこうとも思わなかったにも関わらず、自分だけの要塞を築くことに労力をおしまなかった。平日は残業を詰め込み、たまの休みにはマンションのモデルルームを見にいった。もちろん単身用だ。文句を言われないよう、妻として、女としての役目は必要最低限にこなした。そうして人を寄せ付けない最果ての楽園を作り上げるため、必死で頭金を貯めたのだ。

 結婚して5年目、1年半前の15日、別で作っていた通帳に、10万円が振り込まれ、目標額を達成した翌日。婚姻届とともに興味本位でもらっていた緑の枠の書類を夫に手渡した。交わす言葉を1音ずつ減らした夫婦関係に、みてみぬふりをした女の影を問い詰めることがなかったからか、財産分与もなく、スムーズに道を分つことができた。いや、そんな生活を送れば、最終地点、夫が不倫するそうなることはわかっていた。相手のために努力しないものを誰が可愛がるだろう。そういう意味では、袂を分つと決めた日から、無意識に夫の関心がほかにいくよう、仕向けたのかもしれない。どこまでも可愛げのない女だと自分でも笑ってしまった。

 せめて少しの可愛げを取り戻そうと、手に入れたマンションではじめに決めたのが禁煙だった。誰のためでもない自分のため。自分だけのための楽園だから、やりたい放題ではある。でも自分だけの楽園を手に入れたからこそ、タバコを吸う必要性はないのだと思ったのだ。

 休みはそこから一歩も外に出ないでいいように、水曜日の特売に合わせ、スーパーに寄って食材を買い込み、作り置きをして、週末は気兼ねなく自分の殻に篭った。

夜更かしした金曜日に、土曜日は繭玉のようなゆりかご椅子につつまれて、防音の部屋にヘビメタを音量気にせず流す。日曜日は、午後、ゆっくりと沈んでゆく西日を見つめながら、昼間からアルコールを入れる。その孤独こそが、幸せなのだと思っていた。結婚というこの世で1番の縛りさえ、言葉ひとつで破綻してしまうと知ってしまったから。でもなにもかも自由に、解放されたはずなのに、どうしても左手に絡まった指輪は巻きついたまま、外れてはくれない。

 

 そんな哀れな引きこもり女に比べ、目の前の彼はどうだ。外界で、世間の奇異の目に晒されることが、わかっていながら、あらがい、想い人への苦しい想いに逃げずに戦おうとしている。彼がいないと生きていけない、とこちらの心臓を抉りとるような涙を流して。

「……男だ、女だってこだわる恋愛は、今まで周りにその世界がなかっただけで、知ってしまえば、受け入れられる余地が人間にはあるんだと思う」

 暗い遮光カーテンからわずかに漏れ出る朝日のように、実際、目の前の彼の想いは、外界をシャットアウトした わたしの心さえ打つものがあった。男であろうが、女であろうが、ここまで1人の人間に想われる諒太を、私も羨ましいとおもったのだ。いつぶりに私は外の世界に目をやり、人への想いにこんなにも羨望を向けただろうか。

「少なくとも、私が一瞬で逃げようと思った君の見た目それを受けいれた上で、あんな時間までほったらかさないで一緒にいてくれる諒太君は、それができる人間なんじゃないかな」

 私の放つ言葉に、生まれたてほやほや、子犬が初めて世界をうつしたよう瞳を潤ませる彼の姿は、やはり庇護欲をそそるものがある。

「大丈夫」

 だから滅多に出ない、無責任にも宙ぶらりんな肯定の言葉を吐いてしまったのだ。


 ――ブー、ブー、ブー

 想い人がいる男をまえに、アラフォー女と心を通わせる必要などない。瞳がぴたりと音を立てて、出会う前に2人の間に置かれた拓海のスマホが鳴った。

 少し見えたのは『諒』の文字、いや見えずとも拓海の如実に変わった表情で誰からの着信かわかってしまう。スマホに伸ばした大きな手は、ケロイドになった傷跡がはっきり浮き出るほどに筋張っている。 

 私は彼の手を包み込むように握った。そこにやましさなどは一切無い。なぜかその時、私はその行動が正しいような気がした。神の導きを授かった聖母にでも、なったような心地がしたのだ。拓海はすがるような目をして見つめてくる。私は自覚のない母性を瞳に宿し、ゆっくりと頷いた。

「もしもし」

 ながく続いたバイブの音が途切れる。受話器口から音は漏れてこない。拓海の動きもないことから察するに、きっと互いにキッカケの言葉を探っているのだろう。

 しばらくの沈黙の後、くぐもった声が聞こえてくる。なんと言っているのかまではわからない。しかし拓海は真っ赤に染まった耳に全ての神経を集中させているようだった。指先は冷たく震えている。拓海はスマホに向かい、何度も大きく頷く。合間に吐かれるのは、

「本当だ。お前のことが好きだ。何度でも伝える。信じてもらえるまで」

 こちらが砂を吐きそうな、甘く不器用でまっすぐな飾り気のない言葉。

「うん。いまからいく。マッハで、そしてちゃんと今度は顔見て伝えるから」

 するりと重ねていた手を解く。そのまま右手をテーブルの上にさらりと滑らせ、端に置かれていたバインダーを手に取った。

 拓海の意識はもうここにはない。彼は急いで立ち上がり、走りさろうとした。

 が、1歩進んだところで軽自動車が、急ブレーキをかけたようにして振り返る。 

 拓海の顔は今までにないくらい中心に寄っていた。そんな彼に伝票を持った手を振ってやる。拓海はそれに、さらに顔をぐちゃぐちゃにしかめて、深く、深く、腰を折った。マナー講師でも敵わない美しい所作のおじぎだった。


 嵐がさり、残ったのは、より一層冷え切って油がベットリ感じられるシナシナのポテトと、コーラと氷水の層が真っ二つに別れたグラス。なんとなく残すのが嫌で2つ一気にかき込んだ。しかしやはり、大量のポテトの油はアラフォーの身には消化しきれず、再び馴染みのコンビニへと足が向かう。


 本日2度目の来店に、またまた目を大きくするジョニーさんに頭を下げつつ、一直線に店の奥へと向かう。壁一面に飲料水の並ぶ棚の2段目、右の端っこ。グレープフルーツフレーバーの炭酸水を手前から1本取り出し、レジに向かう。

 しかとこちらを向いてスタンバイするジョニーさんに向かい、苦笑して、

「401番ひとつ」

 とペットボトルとともに、追加で注文をつけた。一瞬何が起こったのかわからない顔をした彼にもう1度告げる。

「401番、ボックスのメンソールのやつください」 

 その言葉にジョニーさんはさらに目をポトリと落とさんばかりに丸くした。その表情に少し声を漏らして、笑ってしまう。

 そういえば、マンションの契約をした帰り、ここで唯一タバコを買った時、レジを担当してくれたのが、まだ研修生のネームプレートをつけたジョニーさんだった。私のつけた注文に、彼は背面に並ぶタバコの山と慌てふためき、格闘していた。後ろについていたであろう先輩のバイト生も、増えてくる客に、別のレジに入っていた。背後に立った客を見て、私がもういいのだと断ろうとした時、彼はようやく砂漠から1粒の砂を見つけんばかりの笑顔で、

「「401番のおタバコですね」」

 と、今と同じように、パンパンの大きな手のひらにちんまりとしたタバコを乗せて、丁寧に差し出してくれた。

 それから私がこのコンビニを訪れるたび、心にその出来事が印象深く残っていたのか、彼はいつも私の口からその番号が告げられるのを待っていたようだった。結局、マンションを買ってから、禁煙し、1年近くタバコを買ってはいなかった。それでも今日、彼は以前と変わらず、満面の笑みをつけて、それを差し出してくれた。

 

「ありがとうございましたー」

 シールを貼ってもらったボトルを手に持ち、店内を後にする。向かう先は左、コンビニ長辺にある喫煙スペース。幸いにも人はいない。パキリと炭酸水のキャプをあけ、豪快に果実の香りを体に取り込んだ。全てが生理現象として、空に消えてしまう前に、タバコの封を切り、鞄のフロントポケットに入れっぱなしになっていた100円ライターを取り出す。しばらく手に取っていなかったそれは、10数回目にして、思いのほか大きな火花を散らし、勢いよく灯る。まだこの爽やかな香りが残っているうちにとタバコを急いで咥え、空気を取り込みながら火をつける。炭酸の刺激に人工的な苦味が混じり合う。

 1度軽く煙を吐いて、その味をしっかりと噛み締める。グレープフルーツとメンソールの清涼感が合わさり心地よい。全てが計算された美食のフルコースのように、絶妙なハーモニーを奏でているわけではない。が、富士山のてっぺんで息を吸うような清々しさがある。

「ふー」

 充分に口の中でそれを回し堪能すると、しっかりと周りに人がいないことを確認し、深く、長く息を吐いた。深夜の空気は冷たく、紫煙は上へ上へと上っていく。

 ふと、タバコをもつ左手が軽くなった気がして、薬指のリングに手をかける。禁煙してからというもの、糸を使っても、ダイエットしてもとれなかったそれは、節くれだった第2関節をすっぽりとかわし、つきものがおちたようにあっさりと抜けた。どうしようもなくなって、明日の朝イチ、消防署に切りにいく予定だったのに。……思いがけず時間ができた。

「さーて、帰ってドラマの続き、みるか」

 思わず漏れた声は、誰に告げるでもない、これから始まる1人時間の宣言。それにハッとする。

 ――参考資料あったな。

 今ハマっているタイのドラマのモチーフは、美しい男性同士の純愛。

 30も折り返し、ままならない日常に、ひとりふっと笑ってもう1度深くタバコをくゆらせた。


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アラフォー女とままならない恋の悩み 白木 春織(しろき はおる) @haoru-shiroki

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