Aspiration

平山文人

第1話

 通り過ぎる風がほんの少しだけ私を癒す。七月の照り付ける日差しはいよいよ真夏の到来を予感させて、私は前髪を耳元にかきあげた。額に少し汗がにじんでいる。街を南北に走る川沿いに作られた歩道を歩く私の視界に、水遊びをする親子連れが入ってくる。いいなぁ、私も足だけでも水につけたいなぁ。黒ずんだアスファルトを白のクロックスで踏みながら、高校が夏休みになったらプールか海に行く約束を友達としている事を思い出して一人微笑む。どこまでも澄んだ青空には入道雲が大きく構えている。並び立つポプラや銀杏は燦々と降り注ぐ陽光を緑の葉に受けて喜んでいるように見える。瞳に映る景色を楽しみながら、目的地であるコンビニに着いた。あんまり暑いからアイスクリームが欲しくなったんだよね。店内に入ると冷房がよく効いていて、ふぅ、と声が漏れる。さて、アイス売り場へ、と向かった私は通路の途中で立ち止まった。冷凍食品が入っている冷凍庫の前に、一人の若い女性がいる。まっすぐ肩まで伸びた黒髪、高い鼻、バランスの取れた輪郭の顔、そして、白そのものの膝までのワンピースが私の瞳に眩しさのように焼きついた。なんて綺麗な女の人なんだろう。私は瞬きもせずに彼女を見つめて固まってしまった。視線を感じたのだろう、ゆっくりと彼女がこちらを見た。その大きな瞳は包み込む優しさのようで、口元は静けさを湛えて凛としている。私は身じろぎも出来ずにいた。その美しい顔はほどなく正面に向きなおし、移動していった。彼女が他の陳列棚へと去った後、私はようやく我に返り、ともかく目的のアイスを探すが、全く集中できず、視線はあちこちへ走る。いた。もうレジで会計をしている。私も急いで二個選んだアイスを持って、そっと後ろに並ぶ。彼女は持っている薄いベージュ色のトートバッグに買ったものを入れて、静かにコンビニを出てゆく。彼女が残したほのかな柑橘系の香りが私をくすぐる。軽い陶酔すら覚えた私は、支払いもそこそこに急いで店を飛び出した。左右を見渡すと、幸い、私の帰り道と同じ方向へ歩いている。私は一定の距離を置いて彼女の後ろを歩く。歩みもしなやかで、暑さなど一切感じないかのようだ。後をつける私は彼女の香りを何度も反芻しながら、不審者っぽいな、と軽く自嘲して苦笑いした。が、それはすぐに終わることになった。彼女は川沿いに立つ瀟洒な造りの高層マンションのエントランスに静かに吸い込まれていった。あ、と声をあげた私は思わずそびえる高い建築物を見上げた。ここに住んでるのか……。しばし立ち止まった私は、暑さを思い出しまた歩きはじめた。セミがやかましく鳴いているが、ほとんど気にならない。鼓動が少し早くなっている。なんだろう、この感覚。私は自分自身が、あるような、ないような、浮いているような気持ちで家まで辿り着いた。


 お父さん、お母さん、妹との家族団欒の夕食が終わり、私はシャワーを浴びた後、鏡に映る自分をまじまじと見つめている。胸はそれなりに膨らんできたが、腰に括れというものがない。両手でぐいぐい押してみても何も変わらない。顔も目は二重だし鼻もそれなりにあるから、そんなに悪くないはずなのだけれども、いかんせん子どもっぽいと自分でも思う。17歳の私はまだまだ女性として未完成なのだ。私は斜めに顔を傾けたり、両手で頬を押さえたりとしているうちに、妹がお姉ちゃんまだ~? と声をかけてきたので浴室を出た。自分の部屋に戻り、鏡面台の前に座って化粧水を顔になじませる。肌もまぁまぁきれいだよねぇ……。私の髪の毛には若干癖があって、左右共に少し後ろにくねる。まっすぐサラサラの髪に憧れるのだが、ストレートパーマはとても高いので、お母さんには大学生になって自分でアルバイトして稼いでからあてなさい、と言われている。ふん、と唇を尖らせてゴムで後ろにくくる。遠くから電車の走る音が響いてくる。夜は比較的涼しいので窓を全開にして扇風機を強で回せば何とか耐えられる。私はベッドに体を投げ出して静かに瞳を閉じ、昼間会った白ワンピースの女性を思い出す。なんというか、女性としてのお手本というか、ああなりたい、と思わせるに十分なほどの魅力を湛えていたと思う。あんな女性になったら男の人にもてるんだろうな。ちっとももてない私はまた溜息をついてスマホを見るでもなく眺める。幾つかLINEを返し、ふと見た窓の外はすっかり暗くなっていて、マンション四階の私の部屋からも少しだけ見えるネオン街が輝き始める。私はスマホを投げ、読みかけの「ノルウェイの森」を開く。読むうちにどんどん物語に引き込まれ、やがて睡魔に襲われたので、明かりを消してまどろんでいるうちに眠りに落ちた。


 よし、これでバッチリだ。私は鏡に映る自分にそれなりに満足した。普段引かないアイラインもアイシャドーもしっかり入れた。服もお気に入りのINGMIのスカイブルーのワンピースにGERRY BEANSの花柄のサンダル。高校が夏休みに入った最初の土曜日に、お母さんと妹と一緒に百貨店に夏服を買いに行くのだ。録画していたメジャーリーグの試合を興奮しながら見ているお父さんを尻目に私たち三人は出かけた。土曜日の繁華街は流石の人出だった。広い国道をまたぐ交差点は人、人、人で溢れかえっていて、ただでさえ暑い夏が更にむしむしと私に沁み込むように思えてうんざりした。が、それも百貨店に入るまで。ああ涼しい、と私は満足した。一階はなぜかどこのデパートも百貨店も化粧品売り場だよね、と中学三年生の妹が嬉しそうに言う。そうねぇ、なんでだろうね、とお母さんが返事をしている間にも私は目ざとく目に入る商品を片端からチェックしていた。フロアには幾つもの化粧品のブランド店が並んでいる。独特のいい香りで満ちているな、と来るたびに思う。そして、あれこれと必死に視線を走らせている私に「いらっしゃいませ」と声をかけてくれる店員さんがいた。何気なく見て、私の心臓は飛び出しそうになった。一目見ただけで分かった。一週間ほど前にコンビニで見たあの白ワンピースの女の人だ。うわわわああ、と私が思考停止状態になっていると、お母さんが怪訝な顔で、あなたどしたの、と聞いてきた。店員の女の人は表情を変えず、柔和な面持ちでこちらを見ている。私はとっくに視線を外しているのだけれども、見られているのは分かる。べ、別に大丈夫、と言って私はその場を離れたが、早鐘のような鼓動の中、女性のお店のブランド名はしっかりと記憶した。エレベーターは混んでそうね、エスカレーターで行こか、などとお母さんが言っている中、私はあえて振り返った。あの女の人はもう他のお客さんの相手をしていた。……よし、今度一人で来て、あのお姉さんのお店で化粧品を買って、お化粧を教えてもらおう。私は心中固く決意していた。



 あの日から一週間経った。私は手を付けずにいた、お年玉を貯め込んだ銀行の通帳と、キャッシュカードの入った財布を大事にCORCHの白のバッグに入れて、朝からシャワーを浴びた。今日、私はお姉さんに会いに行く。ただ、一人で行く勇気は遂にもてなかったので、友達のアイコに一緒に来てもらうことにした。ただし、事情は一切話していない。どう説明すべきか困ったのと、自分でも、一体お姉さんにどんな感情を持っているのかはっきり分からないのだ。憧れか、好意か、どちらでもあるようだし、どちらとも言えないような気もする。ただ、恋愛感情ではないのは間違いないけど……。とにかく会って話してみたい、それが今の一番の欲求だ。今日はメイクはほどほどにした。教えてもらうのに、余り塗りたくっているとまずいと思ったからだ。それに、下手くそなメイクを見られるのも嫌だし……。服は今日はあえてGYのシンプルなTシャツにGパンにしておいた。変に着飾って誤解を受けるのは望ましくない。8時30分には家を出て、駅前の銀行でお金を下ろした。そして駅の入り口で待ち合わせていたアイコと合流し、電車に乗り込む。今日も混んでるな、と思っているとアイコがとめどもなくおしゃべりをはじめる。内心緊張している私はそれなりに応対はするが、心ここにあらずなのが自分でもわかった。アイコは何も気にせずお昼はタルトゥーンのビュッフェバイキングにしようね、1100円で二時間食べ放題は超お得だから、と瞳を輝かせている。それはお得ね、と相槌を打っていると、目的の駅に着いた。この瞬間に、胸に何かを入れられたかのような重みと、息苦しさを感じた。この一週間、毎日あのお姉さんに会う事、化粧品売り場で会ったら、こんな事を聞こう、こんな質問をしようと言うようなことばかり考えていた。そして、いよいよ今日それが実現するのかと思うと、足がすくんでくる。しかしアイコは陽気そのもので、私の腕をつかんで引きずるかの如く歩く。そのおかげで私も開き直ることができ、真夏の暑い空気をかきわけ、なんとか〇X百貨店に到着した。クリスチャンデオーレだよね、あそこだね、とアイコは目ざとく一階の地図を見つけて教えてくれる。私は、もうここまで来たら行くだけ、と無の境地に辿り着いて進む。あと20m……というところで、お姉さんを発見した。お姉さんも私に気づき、目が合った。その瞬間、お姉さんが小首をかしげた。……少なくとも私にはそう見えた。私は次の瞬間、左に曲がり、全速力で歩く。

「ちょちょ、そっちじゃないよっ。デオーレはまっすぐだよ」

「分かってるけど、急にお腹が痛くなっちゃったの、トイレ行く」

 あらそうなんだ、じゃあ行ってらっしゃい。私ここのイスで座って待ってるから、とアイコはエレベーター前にある長イスにちょこんと腰かける。私は行きたくもないトイレに行き、まず便座に座って、さっきのお姉さんの表情を思い出す。もう、「私」を認識しているのじゃないかしら。この前も来た子。その前にコンビニで会った子。それで今日も来たのかしら、という事で小首をかしげたんじゃないかしら。一旦そう考えると、とてもじゃないけれども直接話したりなんか出来そうにもなかった。勇気が出ない。私は三分ぐらい目を閉じて考えた末、止めることを決意した。足取り重くトイレから出て、アイコの横に座り、正直に全てを話した。と言ってもたいした内容はないので1分ぐらいで説明は終わる。アイコは、えぇー、気にし過ぎじゃない? とは言ってくれたものの、私が断固として話には行かないと決意表明すると、わかった、んじゃ私がサンダルを見たいから三階に行こう、と立ち上がってエレベーター横の▲ボタンを押した。私はうつむいたまま、とにかく早くエレベーターに乗り込みたかった。この場を離れたかった。……ようやく来た。乗って、扉が閉まったあと、何かとても大きな失敗をしたような、恥ずかしい事をしたような気持ちに捕らわれて、体が縮んでいくような感じがした。喉が渇いた。隣にいるアイコの付けている香水の匂いが今は不快に感じられて仕方ない。張り切って銀行で下ろして持ってきた三万円が泣いてるや。三階についた。アイコの後をついてブーツやサンダルを見ても、なんの関心も抱けない。お客さんでごった返しているフロアにいる私は、場違いそのものの存在に思えた。……もういいや、忘れよう。お姉さんがどうでも、なんでもいいのよ。私は……もっとキレイになってやる。そう考えると楽になった。熱心にお洒落なサンダルを見ているアイコが急に愛しくなって、思わず背中に抱きついた。(終)

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Aspiration 平山文人 @fumito_hirayama

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