春待ち探偵事務所
橘 紀里
迷子の子猫
うちには大きな猫がいる。同年代と比べても小柄なセツからしてみると、本当にずいぶん大きい。本人
「セツ、その説明で猫は無理がないか」
「夜行性で、単独行動を好む。警戒心が強くてなかなか懐かない。意外と清潔好きで、身綺麗にしているし、ハル、やっぱり猫でしょ」
「あのねえ、
そんな余裕はないからね、と断固たる口調で言う。ここしばらくずっと猫の動画を見続け、隙あらば事務所備え付けのデスクトップの背景を可愛い猫ちゃんで埋め尽くしているセツの行動の意味はすっかりお見通しらしい。
うらぶれた事務所には不似合いなやたらと鮮やかなオレンジ色のソファ(本革)の上で横になったまま、大きな猫——もといハル、本名
「漏れ出る心の声を
「そんな
セツは全力で頬を膨らませる。花も恥じらう女子高生、何も好き好んで渋谷は道玄坂のメインストリートから一本どころか二本も三本も入ったところにある、若干治安も怪しい地味な事務所に入り浸っているわけではない。本名
「いくらなんでもちょっと自虐が過ぎない?」
「いいの、そういうお年頃なの」
斜陽な事務所には似合わないそれなりにいい所長の椅子の上で、膝を抱えて頬を膨らませたセツに、ソファの方から一際大きなため息が聞こえてくる。
つまりは、紆余曲折を経て後見人となってくれたのがこの叔父なのだが、小さな頃から顔見知りであったがゆえに、逆に距離感が近すぎてどうしていいかお互いわからないまま過ごすこと一ヶ月。
悲しみも虚しさもとりあえずは傍に置いて、家族として過ごすのも違和感が拭えずじゃあとりあえず所長とその助手で、という謎の提案に乗ったのがつい二週間ほど前のこと。そうして助手という役割が何をするのかは未だ判然としないまま、給与の支払い期日を一日千秋の思いで待ちつつ、いつか飼いたい可愛い猫ちゃんの動画を眺めながら、ついでに依頼人を待っている次第だった。
「あ、お客さん」
「え?」
すらりとソファから立ち上がったハルは、同様に出迎えようと立ち上がりかけたセツを制して入り口から視界を塞ぐように彼女の前に立つ。ガラガラ、とやたらと軋んだ音を立てて開いた引き戸の向こうから現れたのは、ひどく顔色の悪い女性だった。青ざめている、を通り越して、真っ白に白粉を塗りたくってでもいるかのような不自然な白さ。
「……またぁ?」
「ちょっと、俺が見極める前に見抜いちゃうのやめない? ありがたみが薄れるじゃん」
軽い口調のまま、来訪者に向けた顔は相変わらずの飄々としたままだった。それでも眼鏡の奥が何やら鋭い光を宿す。しかも普段は前髪でよく見えない左目の方は、比喩でなく文字通り、普通の人間にはありえない深い紫色に。
「うちは別にそれ専門てわけじゃないんだけど、必要なら相談には乗りますよ?」
表情ばかりは穏やかなのに、不穏な紫色の眼差しをじっと向けられた来訪者はしばらくゆらゆらと揺れて、やがて、ぐわっと大きく口を開けて威嚇する。両手の指を鉤爪のように曲げてこちらを睨みつけてくる般若のような恐ろしい表情は、先ほどまでの無気力な様子が嘘のようだ。
ハルはやれやれとため息をついて、それでもちらりとセツの方を見やる。避けてやり過ごすという選択肢はない、と認識したのだろう。左手の人差し指と中指を立てて——剣印というやつだ——相手に突きつける。黒い手袋をしたままのその手の甲には、蓮の花にも似た(彼女には判別できないが)美しい文字が浮かび上がる。
わくわく目を輝かせたセツに、けれどハルは若干目を泳がせて、それからもう一度ため息をひとつ吐いた。
「——
「えっ、何で格好いいのに」
「あなたがそうやって囃し立てるから、俺の羞恥心がMAXになっちゃうわけでしょ。いい大人がなにやってんの的な」
「別にハルの場合は、チュウニ的なあれじゃないからいいじゃない」
そんなことを言っている間に、ざっと不穏に床を蹴る音がして、真っ白な顔の女が上方から飛びかかってくる。ざんばらに広がる長い黒髪は、それでも艶やかで美しくて、そのギャップが逆に怖い。
風を切る音と共に、ハルの前髪が何本か宙に舞った。盛大な舌打ちと共に、ハルが左手を大きく横に薙ぐ。鋭利な刃物のように、触れた女の長い髪が一房すっぱりと切り落とされた。
「げっ……!」
「年頃の女の子がそんな声出すもんじゃないよ」
呆れたようなハルの声に、セツはただ顔をしかめて彼のベストの裾を掴む。邪魔になるべきではないと分かっていても、視界に映るそれがあまりにも気色悪かったので。
切り落とされた女の髪は、束ごとうねうねと何かの生き物のように蠢いていた。もぞりもぞりと、それこそ芋虫のように這って、女の方へと近づいていく。まるで元の場所に戻ろうとでもするかのようだった。
「あー、本体そっち?」
「気色わるっ」
「いいからあなたは下がってなさいって」
脇から覗き込んだセツを、結構な力で後ろに押し戻すと、ハルは両手を勢いよく合わせた。手袋をしているというのに、パン、と澄んだ音があたりに響く。ぴたりと白面の女とうねる髪の動きが止まった。
追い打ちをかけるように、ハルが低い声で古い言葉を歌うように紡いでいく。お経にも似ているけれど、もっとはっきり意味のわかるそれは、神に捧げられる言葉の連なりなのだという。だから、セツはそれを真似しようとは思わないし、ハルも説明しようとはしない。
「俺も罰当たりだからねえ」
ちらりとこちらを向いた黒い右目に浮かんだ光は、少し寂しげに見えた。ハルは構わず動きの止まった女の横に滑り込むと、剣のかたちに結んだ指先を首の辺りに横に滑らせた。ざん、という音とともに艶やかな黒髪が切り落とされ、床に散った。倒れる直前、女の口から漏れたのは、にゃあ、といういやに可愛らしい猫の鳴き声だった。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
「ご主人様の髪の毛を舐めすぎて、お腹に毛が溜まって死んじゃった猫ちゃんの霊とか、ややこしくない?」
「まあ、だからどんなに可愛くても距離感は正しく保ちましょうねっていうね」
うんざりしたような声でいうハルの視線の先は、セツ——ではなく正確にはその膝の上に乗っている真っ白な猫だ。雪のように白いその猫は、突然の死を受け入れられず、飼い主の悲嘆の感情と相まって生き霊プラス死霊で、異形の化け物を生み出す直前だったらしい。
「猫には九つの命があるっていうからねえ」
「何、じゃあこれ生きてるってこと?」
「普通に死んでたら触れないだろ」
「じゃあ飼ってもいい?」
「ダメ」
ぱっと顔を輝かせたセツに、無情な宣告が下される。
「いいじゃん、迷子猫みたいなもんだし。放っておいたらまた誰かに
「それであなたに憑かれたら意味ないでしょ」
そう言った後、背の高いその影が近づいてきて、頭のてっぺんに何だか柔らかい感触が触れる。え、とセツが気を取られた隙に、ひょいと白猫は黒い手袋の手に首根っこを掴まれ攫われてしまった。
「ちょっとハル!」
「俺の大事な姪っ子だからね。危ないものはなるべく遠ざけておかないと」
くるりと背中を向けて、ひらひらと空いた方の手を振りながらそのまま事務所を出ていってしまう。
一緒に暮らすようになって一月半。見守る眼差しは優しいくせに、ごく稀にしか触れようとはしないし、その背中がそれこそ迷子の子猫のように見える理由を、セツはまだよく知らない。
春待ち探偵事務所 橘 紀里 @kiri_tachibana
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