本編

 私は車で斎宮調整池の傍を走り、駐車場が見つかったのでそこに車を止めた。

 そこはトイレもあって、一休みするにはちょうど良さそうだったからだ。

 調べた情報によると、駐車場は他にもあるらしい。私が止めた所は池の南側、玉城町側らしかった。

 エンジンを切って外に出ると、アスファルトから熱気が上がってくるのが分かった。

 私は持ってきていたペットボトルのスポーツドリンクを開けて、一口飲んだ。

 これを持ってきたのは正解だったかもしれない。少なくとも私が見た限りでは池の傍に自販機はなかった。

 私は暑さのせいで少しおぼつかない足取りで、池の柵へと近付いた。

 池は強い日差しを反射してギラギラと輝いている。釣りや水遊びは禁止されているそうなので、池に入っている人は居ない。周囲は森に覆われており、セミの鳴き声が容赦なく降り注ぐ。


 池……を…………見たかった。


 ふいにそう聞こえた。私が喋った訳ではない。かといって、辺りには誰も居ない。

 その声は弱々しく、年老いた声に聞こえた。それでいてハッキリ聞こえる、というか頭の中に響いてくるようだ。

 私は声の主に連れられてきたのではないか、ふとそう思った。

 根拠は無い。だが、否定する理由もない。

 まあいい。池を見て、適当に歩いて帰ろう。

 私は池の周りを歩きだした。

 調べた情報によると、池の周囲の遊歩道は約四キロメートル。大人なら一時間もあれば歩ける距離だ。この暑い中散歩を……少々馬鹿げていると思うが、そうしないと帰れない気もした。


 歩き出すとアスファルトの熱気がやはり厳しかった。しかし、一度始めたことをやめるのは気が引ける。なるべく道の脇の草の上を歩くようにはするが、全部という訳にはいかない。

 時折、サギが飛んで行く。


 完成……した? 池?


 またあの声だ。もはや暑さによる幻聴のような気もするが、確かに聞こえている。

 完成? なんのことだろう? ――分からない。この池はずっと前からあったのではないのか?

 私は調べた内容を思い出していた。元々この斎宮調整池は二つの池(斎宮池・惣田池)を合わせてできたものだとどこかで見たはずだ。つまり「完成」というのは、その工事のことを指しているのかもしれない。

 ――まあ、分かったところでどうとなるものでもないが……。

 そうだ。私には大して意味がない話だ。

 歩いていくと、日傘を差した上品そうな老婆が池をのぞき込んでいた。

「こんにちは」

 私は少々不機嫌になりながら言った。

「あら、こんにちは……また、来ちゃったのねえ」

「は? いったい何のことです?」

「あなた……池を見たいには分かるけど、いい加減に誰かに連れてきてもらうのはやめないといけませんよ」

 老婆は私というより、私の背後に向けて語りかけているようだった。

「あの……一体、何を?」

 私には理解できなかった。いや、なんとなく想像がついたが認めたくないと言った方が正しかったかもしれない。

「あらあら、ちゃんと説明せずにすみませんね」

 老婆はぺこりと頭を下げた。そして、語りだした――

 昔、老婆とその夫である老人は、近所の散歩をするのが日課だったそうだ。

 暑かろうが寒かろうが、雨や雪でもない限りは近所のあちこちに散歩に行っていた。

「中でも、この池が完成するのを心待ちにしていて――」

 約四年間の工事によって二つの池が繋げられて、新たに斎宮調整池となることを楽しみにしていたのだという。そして、その池の周囲を歩くことは、もはや予定というよりも決定事項だった。

「この池にそんなに特別な物でもあったんですか?」

 私は言ってからしまったと思った。人の思いなんて人それぞれだし、それに口出しする権利などないのだから。気を悪くしないかと後悔した。

「ええ、この池はあの人にとって特別でしたからね――」

 しかし、老婆は気にした様子もなく話を続けた。その目は遠くを見つめていた。

 老人は、元々は玉城町に住んでいたのだという。それが、ふとしたことから両親、特に父親と大喧嘩して、半ば勘当同然の身で明和町に移り住んだ。そのまま明和町で仕事に就き、老婆と出会って結婚したのだそうだ。

「あの人のお父さんも、本当はこんな近くに住んでるって風の便りで知ってたでしょうけどね。どちらも頑固だったみたいで、全然連絡を取ろうとしなくて……。それどころか、あの人ったら実家は当然のこと、玉城町に入るのまで嫌がるようになって――」

 玉城町自体をやたらと避けるようになったという。他の場所に行くのに少し横切る程度でも、とたんに不機嫌になったのだそうだ。

「結局、あの人のご両親に最期まで挨拶できず仕舞いだった……」

 老婆はもう完全に私を見ていなかった。遠く昔の出来事を見つめていた。

 老人は両親が相次いで亡くなったと聞いても、頑として葬儀にすら出ようとしなかった。老婆が説得しようとしても、決して首を縦に振らなかったという。

 そうしている間に、実家は老人の弟が相続して勝手に売却してしまった。今ではその跡形も無く、その弟もどこで何をしているか分からないらしい。

 それから数十年後に、惣田池と斎宮池を統合、拡張して斎宮調整池とするという事業が始まると聞いた。それは明和町と玉城町にまたがる貯水池を作るということだった。

「私はそれを聞いた時、『これだ!』と思って――」

 老人に池が完成したらその周りを散歩しないかと誘ったのだという。最初のうちは嫌がっていた老人だったが、そのうち満更まんざらでもない様子をするようになった。

 老婆が言うには、本心では玉城町に行きたかったのではないかという話だった。

「でも、あの人は具合を悪くしてね……冬の寒い日だったか、肺炎でね……」

 老人は工事の竣工を待たずに逝ってしまった。

 老婆は完成した池を一人で歩きながら、本来なら一緒に歩くはずだったと度々思ったのだという。

 しかし、それで終わりではなかった。

 老人は死後もこの池になんとかして来られないかと思ったらしく、こうして私のように体よく若者に憑りついては来させることを仕向けるようになった。

「自分では、来られないんですか?」

 私はそう疑問を口にした。

「ええ、不思議とね……あの人のお墓が遠いからいけないんじゃないかと思うんだけど」

「見えてるん……ですよね?」

「ええ、他の幽霊はてんで駄目だけど、あの人だけはハッキリと分かります」

 私はしばし黙った。

 沈黙。

「何度も来ているのなら、池が完成していることは知ってるはずでは?」

「それもねえ……死んだ時のまま、思考が止まっちゃってるみたいでしてね」

 老婆は少し言葉を濁した。

 相変わらず池はギラギラと輝いている。

「本当に、ごめんなさいね。あなたみたいな人に迷惑をおかけして――」

「いえいえ、構いませんよ。それで、旦那さんが喜ばれるのなら良いんじゃないですか?」

 私は本心を口にした。たまの休日に、こうして散歩するのも悪くない。

 いつの間にか、「声」は聞こえなくなっていた。満足したのか、それとも――

「良い場所ですね、ここ……また来て良いですか?」

 別れ際に私はそう言った。

「ええ、来てください。きっとあの人も喜ぶと思います」

 老婆は満足げにうなずいた。

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斎宮調整池の怪 異端者 @itansya

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