序章1
仮に君が異世界に飛ばされるとする。
一口に飛ばされると言っても、様々な可能性があるだろう。誰かしらに召喚されるとか、記憶を保持したまま生まれ変わることもあれば、ただ単に迷い込むこともある。転移に関わった人間(あるいは生命体)とコミュニケーションが取れるか否かも重要なファクターだ。もし「飛ばされ方」を選べる場合、君なら何を選ぶだろうか?
「生き延びる確率」だけを考えた場合、最良の手段は「召喚」だ。というのも、安全面では「転生」はかなり危険な手段だ。治安・衛生水準が低い文明では子供の安全は保障される確率は低い。その点、「召喚」には目的があり、被召喚者は少なくとも役割を果たすまでは保護してもらえる可能性が高い。召喚者とのコミュニケーションがとりやすいのも「召喚」の強みと言える。
一方、「転生」にも独自の強みがある。転移先の世界の一員でありながら、記憶というアドバンテージを持ち、じっくりと言語や教養を学ぶこともできて将来性が非常に高い。適切な庇護のもとで成長できる場合は最も良い選択肢だ。
そして、最悪なのは「召喚」でも「転生」でもなくただ単に「迷い込んだ」場合だ。
地球表面における陸地の割合はたかが3割、そのうちの都市の割合は1割にも満たないだろう。転移した時点で、その多くは海に沈み、あるいは森に一人取り残され、残り数パーセントがやっとの思いで人間社会にたどり着く。そこで安全に保護してもらえる確率は?財産も身分もない、言葉すら通じないかもしれない人間が保護される可能性は?
だから、僕は非常に幸運だった。いや、「幸運」という言葉では表現しきれない。うまく伝えられないが、僕の中にあるのは「感謝」だ。異世界での初めての出会いが、僕の運命を完全に定めてしまったのだ。
僕は森の中にいた。ふかふかの土に寝転がって、木の根を枕がわりにしてうたた寝していた。青々とした葉の奥に、これまた青く澄んだ空が垣間見える。鼻を突く土臭さが、これはビルと道路のバランスを取るために造られた自然ではないと告げていた。涼んだ風が肌を流れて、感覚がすっと研ぎ澄まされる。時間だけが穏やかに過ぎていく。
そんな時間が永遠に続くかと思われた矢先、横目に映る橙色の虫にびっくりして飛び起きた。都会人と虫の相性は良いとは言えない。根っこの上で寝ていたせいか、頭が痛い。さっきまでの爽快感は橙虫と一緒に飛んでいってしまった。
次第に視界が現実味を帯びていく。
辺り一面、全て森だ。
夢か?
昨日は布団に入った記憶がある。というか、寝巻きを着ている。酒を飲んでいたわけでもない。そういう病気でもないし、なんなら最近はよく眠れていた方だ。第一、夢遊して来れるような場所に森なんてない。
ドッキリ?そうだと良いな。今すぐにでも仕掛け人が出てきて欲しい。ニコニコして「大成功!」と言いながら、大層な看板なんて持っていても、今なら全て許すから。
頬をつねってみるが何も起こらない。こういうときって本当に頬をつねるんだな、と思わず笑ってしまう。笑いながら冷や汗が止まらない。呼吸が浅い。このまま気絶してしまって起きたら元通りに、なんてことがあって欲しい。
こういう状況で立ち止まって冷静な状況判断ができるとしたら、それは類まれな才能だと思う。実際のところは、差し迫った状況にある時、人間は動かずにいられない。何の解決策も手段もなかったとしても動かずにいられないのだ。
とりあえず木に登り始めた。高いところに登れば状況が把握できると思ったのだろう。周囲を調べもせずに、我ながら愚かすぎると今では思うが、その時の僕にとっては、闇雲に歩くか、登るかの二択だった。
木登りなんて小学校の校庭以来で、最初は地面から足を離すことすらままならなかった。足に擦り傷ができたが構ってはいられない。木登りをしながら、頭では前日の行動を一挙手一投足振り返る。
––––––何も違和感はない。もう一回。
––––––何も違和感はない。
ふと、「スマホがあれば」と思う。ポケットに入れて寝れば良かった。ポケットに入れなくても、もっと近くに置いておけば。というか、起きていれば良かったじゃないか。最近よく眠れていたし、別に徹夜しても良かった。なんでこんな目に遭わないといけないんだ。なんで…
文字通り、血と汗と涙でもって、僕は木を登った。が、登りきれなかった。目の前には太い枝がこれでもかと生えていて、これ以上進むことはできなかった。そういえば、小学生の頃も同じことを思った気がする。年を重ねれば解決する問題ではなかったようだ。
降りるのは登るより大変だった。結構高いところまで来ていて、傷だらけの足が震えるのを感じる。降りる方が負荷がかかるのだ。足がものすごく痛い。
地に足がつく頃には疲れ切っていた。そのまま地面に寝転がる。虫のことは気にならなくなっていた。僕を阻んだ木の葉の間から陽光が差す。眩しくて煩わしかったので枕を変えた。
体力を使ったからか、頭が冷えて落ち着きが戻った。そもそもここはどこなのか。日本なのだろうか。空気はそんなにジメジメしていないし、森の風景も日本らしくはない気がする。いや、別に森に詳しいわけではないから本当のところはよく分からないけど。見たところ、ジャングルのように蔦や低木が生い茂るような感じではなく、高木と低木がバランスよく、低密に生えている。地面は一面芝が生えている。日本らしくないと感じたのは、少し景色が青く、冷たく見えたせいだろう。結局、植物にも虫にも詳しくない僕が自然の生態から場所を特定するのは無理だった。
このときが初日で最も落ち着いていたかもしれない。持てる体力を出し切ってとりあえずひと段落した気分だった。いや、疲れて全てを後回しにしただけかもしれない。
とりあえず寝よう。起きたら何か変わっているかもしれないし、ひょっとすると布団の中かもしれない。何も起こらなかったとしても、どうするかはまた後で考えればいい。
木肌を背に座りこんで、しばらくの間、ただただ雄大な自然を眺めていた。最近は寝付きが良かったから寝れなくて、ただぼんやりと目を開けていた。
人の声が聞こえた気がした。それで立ち上がった。初めて行き先ができた。ゆっくりと歩く。本当に声が聞こえたんだ、と言い聞かせる。頼む、もう一回。
聞こえた。何かを叫んでいる。昔見たドイツ映画の、軍隊の伝令のあれだ。言葉は分からないけど、何かしらの隊列がいる。
一旦立ち止まる。
軍隊だとしたら、今は戦争中なのか?それはまずい。最悪、敵だと判断されて即殺される可能性もある。ファーストコンタクトが重要だ。味方とはいかずとも、敵ではないとアピールしなければいけない。逆に、最初うまくいけばそのまま保護してもらえる可能性もある。いずれにしろ、戦場に非戦闘員が丸腰なんて到底生き延びるのは無理だ。ここで勝負をかけないと…
服を脱ぎ捨てて埋める。この際恥ずかしいとか言ってられない。とにかく丸腰をアピールする。裸になると、恥ずかしさより不安が勝った。何も自分を守ってはくれない。身体中から一気に危険信号が鳴る。
自分から隊に近づくのはダメだ。遠くから近づいていったら確実に撃ち殺される。隊の目の前で、戦意がないことを確実にアピールしないといけない。そのためには、一定の距離を保ちながら隊が自ら近寄るのを待つ。話し声だけが頼りだ。
呼吸が半分くらい止まっているようだ。時折思い出しては深く息を吸う。動悸は多分大きかったが、聞こえなかった。お腹が鳴るたびに心臓が止まりかけた。
日が暮れかかっていた。隊の足音が大きくなる。ガチャガチャと金属のなる音がする。鳴るな、鳴るな、と祈りながら、隊が十分に近づくのを待っていた。
誰かが叫んだ。男の声だ。鋭く一言。続けてもう一言、二言。意味はわからないけど、絶対に僕に話しかけている。気づかれた。ここで出るしかない。
手を挙げて木陰から出る。速すぎず遅すぎない動き。目は真っ直ぐ前を向く。あくまでも自然な姿勢で。急に鼓動が聞こえ始める。息が続かない。頭がガンガン鳴る。足がすくむ。どんな表情をしていいか分からない。隊が見えた。20人くらい。もう弓を向けられている。弓だ。矢の先がこちらに伸びている。いつ撃たれる?顎が壊れそうなほど歯を食いしばる。馬に乗った一人が何かを二言、三言発した。もう一人が鋭く一言叫ぶ。
全員武器を下ろした。僕はその場に座り込む、というかへたり込んだ。腰が抜けて立てない。
先ほど一言叫んだ、部隊の隊長らしき女性がやってきて、何やら話しかけてきた。僕は頭を下げに下げ、何度も「ありがとう」と言った。言葉が分からない。察してくれ、頼む。ここへ来て涙が止まらない。すごく情けなくてまた涙が出た。隊長は、「しょうがない」と呆れたような顔をして、部下と何かを話して、それから僕を立たせてくれた。
その時、熊が現れた。車なんて簡単に吹っ飛ばせそうな巨大な熊が、僕が通ってきた方からこちらに近づいてくる。最初はのそのそと、しかしエンジンがかかるように加速して巨体が突進してくる。バキバキという音がして低木が吹っ飛んだ。大熊はもうそこの茂みまで来ている。
隊長が何かを叫んだ。「下がれ」だ。ダメだ、また腰が抜けた。動け。避けろ。とにかく横。横だ。でも目が正面から離れない。熊と目があった。何だ、目が黒光りしている…
眼前に隊長がいた。熊と対峙している。彼女は、剣を持つ手を胸に当て、そのまま天高く掲げて何か呟いた。
その瞬間、何かが地中から伸びて壁を作った。蔦だ。ぐっとしなって熊を受け止める。後ろから第二群が伸びて、前足を縛る。第三群が後ろ足、最後に首。
隊長が動く。熊の背中にふわっと飛び乗り、ど真ん中に細剣を突き刺した。まるで鞘に収まるように、剣が吸い込まれる。熊は低く唸り声を上げる。
パキンという音がした。瞳が割れた音だ。黒光りしていた眼球に、落とした水晶玉のように亀裂が広がっていき、やがて粉々になって灰のように、霧のように消えた。背から降りた隊長は、瞳を失って落ち窪んだ熊の瞼を閉じた。
隊からもらった衣服は、やけに肌触りが悪かった。服を着ると人間に戻った気がする。そして実感する。ここが、日本どころか地球ですらない、同じ宇宙ですらないかもしれない、「異世界」である、ということを。
というか、夢なんじゃないか?だって、あまりにも「なろう」すぎる。いつ終わるか分からない悪夢だ。しかも夢特有のクオリティ、ご都合展開を許さないハードモード。でも死にはしない。夢そのものじゃないか。
でも、もし夢ではないとしたら––––––この世界で生き抜かないといけないのなら、僕は彼らに救われたのだ。言葉の通じない、まるで中世ヨーロッパの騎士のような格好をした、魔法を操る彼らに。…やっぱり夢だろうか。
隊は二分された。熊の後処理が必要だったのだろう。僕はもう片方の隊に移送される。少なくともこの場で切捨御免ということはなさそうで良かった。
隊長はこの場に残るようだ。金髪を真ん中で分けていて顔がよく見える。端正な顔立ちで、焦茶の瞳に力がある。ドレスを着ても似合いそうだが、眼力のせいか鎧姿がよく映える。
じっと見ていると気がついて、こちらにやって来た。話しかけられるが、何を言っているのかわからない。返事をする代わりに深く頭を下げた。
2度も命を救われた。彼女がいたから、僕は生き残った。頭を下げながら、「ありがとう」と何度も言った。
顔を上げると、彼女は困ったような顔をして何かを考えるように俯いた。が、ふと顔を上げて、自分を指さして単語を繰り返し言った。そして黙り込んで、僕を見つめる。復唱しろということだろうか。僕は「もう一度」と言って人差し指を立てた。彼女は頷き、もう一度、ゆっくりと単語を発した。僕が復唱すると、彼女は悪戯に成功した子供のように、満足そうにニヤリと笑った。
フェイタリス。彼女の名だ。
無能力の僕でも現代知識で異世界救って良いですか? @tensor_product
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