ショコラメッセージ

九戸政景

本編

「……はあ、美味いな」



 ある日の事、西垣一路いちろは独り言ちる。とある商社の給湯室にその姿はあり、その手には湯気を上げるコーヒーが淹れられたカップが握られていた。



「頭をスッキリとさせるのならやはり濃く淹れたコーヒーに限る。部下達はそんなに苦い物をよく飲めるなと言っているが、私にはこのくらいがちょうど良い。人生もコーヒーも苦すぎるくらいがちょうど良いんだ」



 そう言って一路は再びコーヒーを啜る。今年で四十代に到達して主任を務めている一路は指示も的確である上に面倒見も良い事から部下達からとても慕われており、変にゴマをする事無くしっかりとした意見を言っている事で上司からの信頼も厚い。そんな一路にとって至福の時と言えるのが、人が二人入るのがやっとという狭さの給湯室で淹れたてのコーヒーを飲む事だった。


 とは言え、一路は特にコーヒーが好きというわけではない。あくまでも一路が好きなのは自分好みの濃さに淹れたコーヒーを飲む事であり、外で飲んだり部下が気を利かせて淹れてくれたコーヒーには物足りなさを感じていた。


 そうして一路が至福の時を過ごしていると、そこに一人の人物が現れ、一路はその人物の姿に笑みを浮かべた。



「おお、甘利さんか。お疲れ様」

「お、お疲れ様です。西垣主任」



 現れた甘利千代子ちよこは一路の部下であり、今年入社したばかりでまだ二十歳の女性社員だ。多少引っ込み思案なところがあり、男性社員どころか同性の社員に対してももじもじしてしまう。


 そんな彼女ではあるが、仕事の飲み込み自体は悪くなく、すぐに仕事を覚え始めると同時に周囲からの信頼を集め、艶のある長い黒髪と透き通るような透明感のある肌、そして類いまれな美貌とふとした瞬間に見せる笑顔に男性社員達は心を奪われ、ひそかに千代子の良さを語るファンクラブに似た物を作っているという噂すら立っていた。


 一路も千代子の働きぶりには感心すると同時にしっかりとした若さを感じさせる容姿には少し好ましさを感じており、多少の交際経験こそあれど独身であり続けた一路にとって千代子の存在はとてま眩しく魅力的であり、同年代であれば間違いなく部下達のように心を奪われていただろうと思っていた。



「仕事はどうだい? 何かわからない事とかあったら遠慮なく聞いてくれ」

「あ、ありがとうございます……西垣主任は本当に優しい方ですね」

「そんなの当然だとも。そういえば、甘利さんも少し休みに来たんだろう? 私がいては休みづらいだろうし、すぐに仕事に……」

「いえ、そんな事はないので西垣主任もゆっくりコーヒーを飲んでいて下さい」

「そうか。それならもう少しいるとしようか」



 一路は給湯室の奥に戻ると、コーヒーを一口飲んでからふうと息をついた。



「やはりこのくらい苦いと頭がスッキリするな」

「たしかだいぶ濃くしているんですよね? いつからその飲み方を続けているんですか?」

「自分に甘い物は似合わないと思ってからだよ。これでも女性との交際経験というのは多少あって、一夜を共にしたりプロポーズ直前までいった相手だっていた。けれど、恋人がいるという甘い生活と私は相性が良くないようでね、そちらに少しでも意識を向けると仕事が疎かになりそうになって、それを良くないと思って仕事に集中し始めると今度は交際相手との関係が疎かになる。それに気づいた時に私は思ったんだ。私には甘い物は似合わないとね」

「甘い物は似合わない、ですか……」

「甘い食べ物は苦手じゃないし、また恋が出来るならそれに越した事はないと思っている。だけど、さっき話した事もあったし、私にはどだい無理な話だ。第一もう四十にもなった私の事を異性として好いてくれる人なんて早々いないし、考えるだけ無駄な話なんだよ」

「西垣主任……」



 千代子は少し寂しげな一路を見ていたが、やがてスーツのポケットから小さな花柄の桃色の袋を取り出した。



「あの、良かったらこれどうぞ」

「これは……チョコレートか。ずいぶんちゃんとした袋に入っているけど、本当に良いのかな?」

「はい。今日はバレンタインデーですし、他の社員さん達にもお渡ししてるので」

「そうか、それならありがたくもらっておくよ。たまにはチョコを摘まみながらコーヒーを飲むというのも悪くないからね」

「喜んで頂けて良かったです。それじゃあ私はそろそろ戻りますね」

「ああ、わかった」



 一路が答えた後、千代子はスッと一路の目の前に立ち、上目遣いで見つめてくる千代子の姿に一路の心臓の鼓動が速くなる中で千代子は口を一路の耳に近づけた。



「西垣主任は男性としてとても魅力的だと私は思いますよ。体形もがっしりとしていますし、しっかりと抱き締められたらどんな女性も虜になると思います」

「あ、甘利さん……」

「それじゃあ今度こそ私は行きます。西垣主任、また後で」



 そう言って千代子はそのまま給湯室を出ていき、一路は奥の壁にもたれながら思わずボーッとしてしまっていた。



「な、何だったんだ……けど、さっきの甘利さんはどこか扇情的な雰囲気だったし、まだ女性経験が乏しかった頃のように緊張感して心臓が脈打ってしまったな。それだけ甘利さんに魅力を感じてしまったという事だが……けど、ダメだ。甘利さんはあくまでも大切な部下だし、そもそも年の差がだいぶ……」



 一路が頬を軽く染めながら呟いていた時、そこに一人の男性社員が給湯室に入ってきた。



「あ、西垣主任。お疲れ様です」

「あ……ああ、お疲れ様。君もコーヒー休憩かな?」

「そうですけど……どうしたんですか? なんだか軽く息も荒いですし、顔も赤いですよ?」

「ああ、少し疲れが出たのかもしれないな。とりあえずさっき甘利さんからチョコレートを貰ったし、軽く摘まんでから仕事に戻るとしよう」

「あ、主任も貰ったんですね。甘利さん、本当にマメですよね。しっかり部署のメンバー全員分用意をして……って、主任の持ってる袋、なんだか小綺麗な感じじゃないですか?」

「え、そうかな? 君達が貰ったのもそうじゃないのか?」



 一路の疑問に対して男性社員は首を横に振る。



「俺達も袋に入っているのを貰ってますけど、そんな花柄の奴じゃなくて無地の奴ですよ。西垣主任、甘利さんから結構好かれてるんじゃないですか?」

「そ、そんな事……だが、そうなるとこの柄の花も少し気になるな。せっかくだから調べてみるか」



 一路は携帯電話を取り出すと、花の特徴を検索窓に打ち込み始めた。



「この花は……コチョウランか。花言葉は……」

「何か良い言葉でした?」

「幸福が飛んでくる、と書いてるな。ん……よく見たら袋の中に小さな紙も入ってるな」

「もしかしてラブレターじゃないですか?」

「そんなまさか……えーと、これが私の気持ちですと書いてるな」

「気持ち……幸福が飛んでくるがそれだとすると西垣主任に幸せになって欲しいって事ですかね?」



 一路は手紙を軽く畳みながら首を横に振った。



「それは私にもわからないさ。とりあえずこのチョコレートを頂くとしよう。そしたら仕事に打ち込もう」

「西垣主任はいつも真面目ですね~。まあそんな西垣主任は嫌いじゃないですし、俺もハリキリますよ」

「ああ、残りの時間も頑張るとしよう」

「うっす!」



 男性社員が返事をした後、一路と男性社員が楽しそうに話をする様子を“桃色のコチョウラン”が静かに見つめていた。

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ショコラメッセージ 九戸政景 @2012712

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