第6話
「自分の中の魔物と向き合ってみようと思って本を手放したのよ」
飲み込んだ蜂蜜入りの紅茶が、熱さを伴ってゆっくりと胸に降りてくる。
「魔物……ですか」
古い一軒家は、家人の品性を感じさせる家具が必要最低限に置かれている。
「そう。小説を書きたいという欲求が完全に私を支配する前にね」
後日、私は偶然にも娘さんを探し当てたことを告げに一軒家を訪れていた。
「書くとしたら、次はどんなお話ですか?」
淑女は、感謝しながらも私の説明に少し訝しむような様子だったけれど、探し当てた理由が作者の名前がペンネームではなく珍しい本名であったこと、フルネームを知っていたこと、診察券を拾えたことで腑に落としてくれていた。とうぜん、こちらの事情は伏せたまま。また、本人とは既に会えたそうで病状を伝え聞いてもいた。
「あの娘は、売女なんていってごめんなさいって泣きながら謝っていたわ。でも、あの娘がいったことは、ある意味正解。貴重な資料が手に入るなら、斬新なアイデアをくれるなら、私はなんだってしたでしょうからね」
口元の笑みが、自身を嘲笑している。そして、
「書くとすれば、娘を失う親の思い……かしらね」
といった。
「そう、ですか……」
「あの本の最後のページに書いたこと。あの娘への届くはずのなかった一方的なメッセージ。本当の親なら《ごめんなさい、ありがとう》だと思うの。でも、私は違う。感謝の後に作家としての性を赦して欲しいと願う言葉。あの娘が出て行ってからも変えようのなかった書くことへの執着。でも実際、そういった面に疲れた部分もあったの。だから、向き合うことにしたの」
確かに、この人の中には魔物が棲んでいるのかもしれない。それは、文歌さんを恐怖させたのかもしれない。でも、目指したくなるほどの魅力であったのも事実。畏敬、憧憬。だから、私は尋ねた。
「――文歌さんが生まれなくても、その執着はありましたか?」
淑女の微笑みは、とても温かかった。
鈴と淡く光る ひとひら @hitohila
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