対照的な二人

 「…………まいったな」


 僕は手に持った少し皺の寄ったプリントに目を落とした。書きかけで、半分ほどしか埋まっていない。全くもって不完全な、今日提出の現代文の課題であった。


 その上、現文は一限だ。後数分ほどすれば先生が来る状況で、この出来映えは絶望的だった。いつもは図書館で全ての課題を終わらせて帰るものだから、すっかりとそのつもりでいたのだ。


 浮かれているなと、自分でも思う。命花さんとの邂逅が、明らかに僕のローテーションを乱していた。


 それも仕方ないだろう。見つけたそれは、十数年追い求めていたものかもしれないのだ。そんな状況では、些細なミスを犯すのも致し方ないはずだ。そう思うことにした。


 「はーい、席について下さーい。授業を始めますよー」


 現代文の担当である、四方田よもだ先生が入ってきた。普段からニコニコとしていて、怒っているところを誰も見たことが無いという、ある意味怖いタイプの男性だ。とはいえ、僕が課題を忘れるのは今日が初めてだから、問題は無いだろう。


 「おや? 姫崎ひめさきさんはともかく、伊坂いさか君もですか? 珍しいですね」


 「せんせぇー! ともかくってなんですかともかくって! 今回は学校にプリントを忘れただけで、不可抗力って奴ですよ!」


 隣の席の少女がいつものように吠えた。150ほどの背丈に、髪型はミディアムボブ、というのだろうか。肩くらいまで伸ばした浅黄色の髪に、着崩した制服。


 その姿は、僕とは違って青春を惜しげ無く謳歌できる側の人種そのものだった。僕が欲しかった、全てを持っている人。まさに、僕の理想の体現者だ。


 「はいはい。とりあえず、いつも通りのペナルティです。ちょうど準備室から運んでこないと行けないのが溜まっていますし、それを少し手伝って貰いましょうか。もちろん、伊坂君もですよ? あと、プリントは後日再提出ですから」


 「……分かりました」


 「結局出すのぉ? ケチんぼ四方田めぇ……」


 「何か言いましたか?」


 「ななな、何でも無いですよ!!!」


 「よろしい。それでは、二人とも昼休みに職員室まで来て下さい。さて、授業を始めましょうか。教科書の102ページ、四段落目から――」


 四方田先生はにっこりと笑うと、授業を始めた。その程度であれば、甘んじて受け入れよう。忘れたのは僕の責任であるのだから。隣の彼女から飛び火したような気もするが……仕方ないだろう。


 ふと、視線を感じて顔を前に向ける。こちらを見て、少し笑った命花さんが居た。全く、間接的にではあるが、命花さんが原因なのだが……


 しかしそれと共に、僕と命花さんとの関係が確かに変わったことが、何より嬉しかった。友達、という存在にここまで心を乱されるのは初めての事だろう。


 「…………ん?」


 「ジー……」


 命花さんの後ろ姿を見ながらそんなことを考えていると、隣から目線を感じた。何だったら、擬音付きで見つめられていた。僕と同じく課題を忘れた、姫崎さんだ。


 「伊坂君って、速水はやみさんと仲良いの?」


 「はや、み?」


 「え? いや、二個前の席の速水さんだよ。さっきまで伊坂君のこと見てたじゃん」


 なるほど。命花さんのことを言っていたのか。存外、この子は周りを良く見ている。流石、僕の理想だ。眩しくて死にたくなってくる。


 「そうだね。僕とめ……速水さんは友達だよ」


 「ふーん……そーなんだ」


 ぷいっと、姫崎さんは顔を背けた。僕と彼女の接点は、一ヶ月ほど前に隣の席になったというものでしかない。そんな彼女にとって、僕の交遊事情などどうでも良いことなのだろう。


 そのまま、変わらぬ日々は続いていく。授業を終え、また次の授業へ進む。内容を出来るだけ頭に詰め込んで、退屈な時間を誤魔化すようにノートを埋めていく。しかし、ずっと命花さんのことが気になっていた。


 しかし、命花さんは昼休みになっても話しかけては来なかった。多少は期待していたこともあって、少しだけガッカリした。例のペナルティが終わったら、僕から話しかけに行くことにしよう。案外、命花さんも周囲の目がある場所では話しかけずらかったのかもしれない。


 さて、なら手早くことを済ませよう。僕は姫崎さんと一緒に、四方田先生の待つ国語科準備室へ向かった。


 その道中、僕の少し先を歩いていた姫崎さんが、眼を泳がせながら遠慮がちにこちらへ振り向いた。こちらをチラチラと見上げている彼女は、確かに愛嬌があって可愛らしい。


 「あの……さ、伊坂君。お願いなんだけど、さっきのプリント貸してくれたりはー……しない、かな? もう、伊坂君以外みんな回収されちゃってるんだよぉ……」


 弱々しい声で、そんなお願いをする。僕が三限の自習時間でプリントを終わらせたことをちゃっかり見てたのか。あの時間、僕が気付いた頃には彼女はすーすー寝息を立てていたというのに。本当に良く見ていると感心してしまう。


 「ごめん。それは駄目だ」


 「…………うぇ?」


 けれど、僕が姫崎さんに関わるのは許されていない。万に一つでも、彼女が曇ることは許されないのだから。


 確かに、姫崎さんは可愛い。そんな彼女に頼られては、力になってあげたくなるのが男子としては当然の反応だ。けど、今の僕は彼女と関わってはならない。


 言うなれば、姫崎さんは太陽だ。全ての動植物に日光というエネルギーを分け与える、無くてはならない天体。もちろん、彼女に太陽ほどの影響力があるわけでは無い。ひとえに、その在り方が太陽のようであるというだけだ。


 だからこそ、僕がその在り方を貶める訳にはいかない。姫崎さんには、僕の理想のままでいてほしいのだ。


 「そ、そこをなんとかできない……? あ、ほら! ジュース奢ったげるから!」


 「いや、この後四方田先生に渡すつもりだからさ」


 「期限明日までだからそんな焦んなくてもいいってば! 私が内容を写し終わるまで、ちょーっと貸してくれればおっけーなの! ねっ? お願いだよぉ」


 「こういうのは早く出した方が良いから……」


 僕と関わっては姫崎さんが汚れてしまうかもしれない。しかし、特定の誰かを無下にする彼女は理想では無い。難儀なことだが、僕を頼り関わろうとする彼女は、まさに理想そのものだった。


 「お願いお願い! ここで貸してくれたら、伊坂君に良いことがきっとあるよ!」


 「……分かったよ。提出するのは明日にして、今日は姫崎さんに預ける。これで良い?」


 「やったー! 伊坂君、ありがとね! お礼はちゃんとするから!」


 「気持ちだけ貰っておくよ」


 誰とでも仲良く出来るのが姫崎さんの凄いところだ。そんな彼女が、ほんの少し僕と関わった程度では穢れないだろう。そう結論づけて、僕は姫崎さんにプリントを渡した。


 その後、僕は紙の束やら何かの資料やらを運ばされ、昼休みの大半を消費することとなった。というか、姫崎さん一人だったら絶対終わらない量だった。急遽男手が出来たから、本来頼む予定に無かったものまで運ばせたのだろうか。見かけによらず、案外図太い人だ。


 とにかく、時間はかかったが終わった。予定通り命花さんのところへ行こう。


 「んー!!! 終わったねぇ」


 「お疲れ様。それじゃ、僕はこれで」


 「あ、ちょっと待ってよ!」


 袖を両手で掴まれた。正直、振りほどくのは簡単だが流石にそれは無い。さて、どうしたものだろう。


 「伊坂君、購買でしょ? 一緒に行こ!」


 「……いや、遠慮しておく」


 「えぇなんでぇ!? 折角の機会だし、親睦を深めようよ!」


 その眼はキラキラしていて、混じりっけがなくて、それでいて純粋だ。大して話したこともない無愛想なクラスメイトに対し、これだけ優しく出来るのは、たとえ打算ありきだとしても凄い事だと思う。それが、彼女が僕の理想たる所以なのだが。


 「親睦、ね。僕と仲良くなって、それで姫崎さんに何のメリットがあるって言うの?」


 「……へ?」


 しまった。口から溢れてしまったのは、普段は隠している本音だった。あまりに姫崎さんが眩しくて、輝かしくて、つい嫌みを言ってしまった。彼女に、そんなつもりは全く無いと言うのに。


 「め、メリットって……友達って、そういうものじゃないじゃん? 一緒に居ると楽しかったり、くだらないことを言い合ったりさ。損とか得とかじゃ、ないと思う」


 「そう……姫崎さんは、凄いね」


 「うぇ!? きゅ、急にどしたの!? 私、そんなこと初めて言われたよ!」


 これが正しい。これが理想だ。そして、僕が分かれないものだ。姫崎さんは、僕の欲しかったものも、知りたかったものも、まるでそれが普通かの様に持っている。


 それがとても……酷く、妬ましい。それと同時に、憧れてしまっていた。


 「はいこれ、丸写しはしないでね。じゃ、僕はこれで」


 「あぁ、ありがと……って、早っ!」


 そそくさと、その場を後にする。このままだと、余計なことをもっと口走りそうな気がする。本当に浮かれすぎだ。以前の僕なら、もう少し上手く出来たはずなのに。薄っぺらい偽物を貼り付けて、上手く躱せたはずだ。


 欲しくて欲しくて堪らない理想に、触れることなくただ身を焼かれていれたのに。


 「はっ……はっ……」


 急いでいる訳でもないのに、自然と走っていた。ただ、あの場からすぐにでも逃げたくて。


 彼女の眩しさは僕にとって毒だ。お前は間違っていると言われ続けているようで、気分が悪くなる。それなのに、僕はあの輝きが欲しいと思っている。


 僕は一体、何がしたいのだろうか。


 「こらこら、廊下は走っちゃダメだぞ」


 「……っ! あ、すみませ――」


 出ない答えを考えていると、前方からそんな声が聞こえてきた。そして、それが聞き覚えのある声であることに気付いた。


 「めいか、さん? どうしてこんなところに?」


 「うーん……強いて言えば約束のため、かな」


 にこりと、命花さんは笑った。ちゃんと、覚えていてくれたのだ。やはり、嬉しいモノだった。


 「で、どうしたの? 今の佑月君、酷い顔してるよ?」


 「……そんな、はずは」


 「してるしてる。例えるなら、ヘビに睨まれた蛙? もしくは、生理的嫌悪を催すナニカを見た、みたいな?」


 「はは……命花さんは何でもお見通しだね」


 僕は、姫崎さんの行動を何一つ理解出来なかった。どうして僕にそれを頼むのか、どうして僕と関係を持とうとするのか、どうして、それを当たり前だと思っているのか。何一つとして、分からなかった。なのに、それが正しいと思っていた。


 それが普通なのだと、お前が気色悪いくらい過剰に反応しているだけだと、言われているみたいだった。だというのに、僕はそれを欲していた。二律背反が過ぎて、気持ちが悪い。


 「僕の隣の席の子、知ってる?」


 「もちろん。クラスで一番可愛くて、友達の多い姫崎燈奈ひめさきひなちゃんだ。天然物でも作り物でも、あのクオリティは凄まじいよね」


 「あれは本物だよ。いや、偽物であって良いはずが無い」


 「……へぇ。随分と、評価が高いんだね」


 彼女の行動が全て人に好かれるための擬態だとしたら、それはこの世に贋作と虚栄ばかりが蔓延っていることの証明にほかならない。そう言わしめるほどに、彼女は眩しかった。


 だから、それは駄目なのだ。あの輝きが、この胸の嫌悪感が、僕の追い求めた理想が偽物であって良いはずが無い。姫崎燈奈を否定することは、僕の今までを否定することに他ならないとまで言っても良いだろう。


 「僕と姫崎さんは分かり合えない。それは、僕の当たり前や常識が彼女と違うことの証明になるんだよ」


 「一応聞いてあげるけど、それに何の意味があるの?」


 「だってさ、僕が今まで苦しんで、それでもなろうとして……でも駄目だった普通ってやつが、実のところ誰にも分かっていないものだったなんて、認めたくないでしょ?」


 皆が皆、普通とか一般的とかいうものの正体を知らず、ただ曖昧な観念に振り回され、取り繕って生きているだなんて認めない。


 普通が理解出来ないのが普通だなんて、そんな馬鹿な話があってたまるか。


 「わがままだなぁ。結局、普通じゃ無い自分とやらに酔ってるだけなんじゃ無いの?」


 「自覚はしてるよ。でも、そうでもしないと分からなくなるんだ」


 「周囲に迎合できない理由?」


 「それよりも、もっと大事なこと。簡単に言えば、自分の存在意義かな」


 どんなことにも、少数派は存在する。完璧な純度100%は存在せず、そこには切り捨てられた小数点があるのだ。僕はその切り捨てられた数字に価値を見いだした。


 なればこそ、端から小数点なんて存在しなかった。自分も姫崎さんも結局は同じ人間。切り捨てた何もかも一切合切も、全部同質だったなんて、そんな結論を認める訳にはいかない。

 「姫崎さんが正しい。姫崎さんが正解。姫崎さんが普通。それで良いんだよ」


 「そっか。佑月君ははそういう風にあの子を見てるんだ」


 「命花さんは違うの?」


 「まぁ、ちょっと違うかな。私にとって、あの子の振る舞いが作り物だろうと関係ない。私は私で、あの子はあの子。それだけのことだよ」


 「凄いね。命花さんは、この先何も分かれないことが怖くないんだ」


 普通なんて無い。当たり前も常識も無い。あるのはただ、それらしい偽物や思い込みだけ。そんな真実は、僕には耐えきれない。


 「私だって怖いよ。私の悩みは何処にでもありふれていて、そのくせ誰も解決方法を知らない。やっぱりこの世に救いは無いんだって断定してしまうのは、あまりに残酷で希望が無いじゃん」


 「じゃあ、どうして平然としていられるの?」


 「それは簡単だよ。ほら、前に言ったじゃん。私は、私だけの蜘蛛の糸を見つけたんだよ」


 ぐいっと、制服のネクタイを引っ張られる。ふわりと、命花さんの香りが僕を包んだ。甘くて、嫋やかで、溺れてしまいそうだった。


 「佑月君が姫崎さんみたいな人種に救いを求めている様に、私は、君に希望を見いだしたんだ」


 「僕に……? 僕は命花さんの考えを少し理解出来るだけなのに?」


 「やっぱり分かってなかったかぁ……佑月君は唯一無二にこだわってるみたいだけど、私は違う。私は、私を分かってくれる誰かが欲しいんだよ」


 僕の頭の後ろを、命花さんの両腕が覆い尽くす。目の前は全て命花さんに染まり、僕の耳には彼女の鼓動と言葉しか入ってこなくなった。


 「君なら私を分かってくれるかもしれない。君なら私の理解者になれるかもしれない。君なら私と一緒に地獄に堕ちてくれるかもしれない。そんなもしかしたらが、私は欲しいんだ」


 「命花さん……」


 「だから、私はあの子が気に入らない。私にはあの子の悩みも苦労も分からないけど、私には無いものを沢山持っている。なのに、私のやっと見つけた大切なモノまで持っていこうとしている。そんなの許さない。許されて良いはずが無い。私には君が必要なんだ。もう探すのは疲れたんだよ。いつかはきっと私を分かってくれるはずだって期待するのにもさ。君は私が掴んだんだ。誰にも渡さない。君は私のものだ。もうどこにも逃がさない」


 その独白には、余裕が微塵も感じられなかった。いつもの飄々とした態度は無く、そこに居たのは、細い一本の絡まった糸を手繰る少女だった。


 「だから……お願いだよ。その糸を、離さないで……」


 姫崎さんと命花さんは対照的だ。誰に対しても愛想良く、皆に平等に接しようとする姫崎さん。限られた人だけに、ずっと自分だけを見て、接して欲しい命花さん。


 僕の理想は姫崎さんだ。吐き気がするほど綺麗で、目眩がするほど輝かしくて、あれこそが理想だと信じている。


 でも、僕は命花さんを受け入れたいと思っている。間違っていて、歪で、それでいて、絶対に切れない絡まった繋がりを。


 僕にはどちらもちゃんと分かれていない。ただ、一つだけ分かることがある。僕は、どちらかを選び取らないといけない。理想か現実か。幻か真実か。嘘か本当かを。そのためにすべきことはただ一つだけだ。


 僕は命花さんを、姫崎さんを、もっと知らなければならない。その先に、僕が求めていたものがきっと、あるはずだから。

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ただ僕たちは何も分かれないだけだった 黒羽椿 @kurobanetubaki

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