ただ僕たちは何も分かれないだけだった
黒羽椿
蜘蛛の縄
「君って、面白い眼をしてるね。
閑散とした図書館の一角。出された課題を進めていた僕の前に、彼女はそう言って現れた。
長い前髪と黒色のスクエア型の眼鏡、黒いリボンで髪を一つに纏められた姿は、どこか陰気な雰囲気を醸し出していた。そんな彼女の瞳はどこまでも昏く、僕を映しているはずなのに、どこか違うところを見ている様に思えた。
「……どちら様ですか?」
「酷いなぁ……同じクラスだって言うのにさ」
「……あぁ。ごめん、そうだったね」
「その顔、私の名前分かんないんだ。まっ、仕方ないか。学校じゃあ、接点なんか無かったもんね」
そういう彼女は、ドカッと僕の目の前の椅子に腰掛けた。その姿を見て、思い出した。高校で、僕の席の斜め前側に座っている子だ。誰とも関わらず、いつも勉強しているか本を読んでいるのを見たことがある。しかし、目の前にいる彼女からは、いつもの大人しげな様子からは考えられないほど、良く喋る。
「ちゃんと覚えておいて? 私の名前は、
「そう。それで、何か用?」
「冷たいなぁ。学校以外の場所でクラスメイトを見かけたら、普通声かけるでしょ」
「僕は無視するかな。話すこともないし」
「そんなんだから友達居ないんだよ。それじゃあ、学校つまんなくない?」
驚いた。彼女はどちらかと言えば、そういった協調性や同調などを嫌うタイプだと勝手に思っていた。意外に、友達は多いのかもしれない。
「居てもつまらなかったから、作るの辞めたんだ」
「ふぅん……そっか。やっぱり、佑月君は面白いね」
にやりと、彼女は笑った。僕なんかに面白さを見いだせるなんて、本当に羨ましいことだ。毎日を無為に消費して、投げ捨てて、すり潰している僕なんかとは大違いだ。
「僕はちっとも面白くないよ。要件があるなら、早くお願い」
「強いて言うなら、佑月君と話すことかな。知らず知らずのうちに、佑月君は私の策略に嵌まっていたんだよ」
「そう。なら、僕はこれで」
「あっ、ちょっと待って! もうちょっと話そうよぉー」
「……僕と話しても、きっと退屈だと思う。良くそう言われるんだ」
味気ない。AIと話しているみたい。興味ないのが丸わかり。どれも端的に僕のスタンスを説明していた。僕は会話というコミュニケーションにおいて、上手くいった事が無い。これはもう、治らない悪癖なのだと思っている。
「えぇー? 私は今、結構楽しいよ? 佑月君、気とか使わなくて良いし」
「仮に命花さんが良くても、僕はちっとも楽しくない」
「あっ! 名前で呼んでくれたね! 最初から名前呼びなんて、大胆なんだから」
「……不快に思ったのならごめん。苗字を教えてくれたら、そっちで呼ぶ」
「教えてあげなーい」
「……そう」
人は見かけによらないとは言うが、これは意外だ。命花さんは所謂、陽キャと呼んでも差し支えないほどのコミュ力を持っている。僕も彼女を良く見ている訳じゃないが、それでもギャップが激しすぎだ。
「私が佑月君に声を掛けたのはね、きっと仲良くなれると思ったからなんだ」
「君なら誰とでも友達になれると思うよ」
「あはは……仲良くなれるのと、友達になれるのは違うんだよ。佑月君なら、分かるんじゃないかな?」
命花さんの視線が、僕に突き刺さる。確かに、その意味はよく分かる。僕も、そうやって期待して、羨望して、そして叶わないと失望してきた。友達というのは、酷く曖昧で、脆くて、名前負けした薄弱な関係に過ぎない。だから、僕は友達らしきものは出来ても、真の意味でわかり合える……言い換えれば、仲良くなれたことは一度も無い。
そうだ。僕は昔から、人の心に疎いところがあった。他人はもちろん、僕は家族さえもちっとも理解できない。自分の事さえも、どう思っているのかよく分からなかった。
「どうして、そう思ったの?」
「うーん……佑月君が、普通であろうとしてるからかな?」
「その言い方じゃ、まるで僕が異常みたいだね」
「そうだよ? もしかして、自分がマトモだと思ってるの?」
ニコリと、命花さんは言った。彼女がいつも一人の理由が、何となく分かった様な気がする。
確かに、僕はそれを否定出来なかった。昔から、両親は僕に普通を求めた。その理由は、僕の兄にある。僕が産まれるより三年先に産まれた兄は先天的に身体が弱く、僕が産まれた四年後に亡くなってしまった。
兄みたく、虚弱な身体で無いように。何かの障害が無いように。何の問題も起こさないようにと、世間一般で言う普通の子供であれと、僕は両親に望まれていた。
だから、僕は普通であろうとした。両親が思う普通を選び取ってきた。最初はそれが分からなかったが、成長するにつれその意味を知識として知ることは出来た。
知っていても、それを字面通りに実践出来た事は無いけれど。僕は普通を選んで、ノーマルに生きていたはずだ。そうしている時点で、僕は少しおかしいのだと分かっていながら。
「佑月君は、今の現状に満足してる? 幸せだって、心の底から言える?」
「満足も何も、これ以上何を望めば良いのさ。歴史を見れば、今の現状は天国に近い。選ぶことさえなければ、どこにでも仕事があって、例え仕事が出来なくとも、公的機関が助けてくれる。生存という観点だけで見れば、現代は最良に近いんだからさ」
「ふふっ……なんだか、そう思いたいだけに聞こえるけど」
「仕事があれば、お金が貰える。お金があれば、食うに困ることも、気まぐれな天候に命を脅かされる事も無い。これだけ住みやすい環境を誰もが享受している。それは、幸せなことだろう?」
実際、親の援助を受けて仕事をせずに生きている僕が言うことでは無いが、これは間違いではないはずだ。僕にはそれら全てを得て、その上に何かを選び取る権利すらも与えられている。僕はそれら全てを何の労も無く手にし、そして押しつけられている。
それが普通であるから。
「私はね、この現状は地獄よりも辛く厳しいものだと思うんだ。確かに、現代は全てに恵まれ、未だ理不尽は存在していても、それを防ぐことが可能になってきている。どんな病気、どんな災害、どんな争い事であっても、以前までの様に仕方の無いことだって、諦めることは無くなった」
「…………」
「一見、良いことの様に思えるけど……でもそれって、普通の敷居が高くなったってことじゃない? 今までは生きて子孫を残すことが何よりも尊ばれ、ただ生き残ることだけが優先すべき事だったのに、今じゃそれだけでは足りない。色んな事が義務として乗っかってくるんだよ? 生きているだけじゃ、何の意味もなくなってしまった」
「じゃあ、命花さんはどうしたいの?」
「どうもしたくないよ。というか、どうも出来ない。進んだ現状を巻き戻すことは出来ないし、この先はもっと今以上の地獄が待っている。皆そのことに薄々気付いていながら、当たり前のことだって顔して生きている。それが、気味が悪くて仕方が無い」
吐き捨てる様に命花さんはそう言った。僕はそれを噛み締めて、ちょっとの後悔を感じた。ただ同時に、何だか嬉しかった。明らかにマイノリティなその意見が、僕はどうも気に入ってしまった。
「……もうすぐ、閉館だ。場所、変えようか」
「そうだ、ね。今は誰にも、邪魔されたくないし」
荷物をまとめて外に出る。目的地も定めずに、僕たちは歩き始めた。今日会ったばかりだと言うのに、命花さんは僕の考えを見透かしているようだった。
「嬉しいなぁ。まさか佑月君の方から誘ってくれるなんてさ」
「……ちょうど、退屈してたところだったんだ」
「奇遇だね。私も同じ気持ちだ」
ならば、彼女も僕と同じような気持ちだったのだろうか。代わり映えしない毎日に、いつか来る終わり。さらには、皆が尊んだり有り難がったりする普通に、何にも共感出来ない孤独。それを、命花さんは知っているのだろうか。
「さっきさ、命花さんは今が幸せかどうかって聞いたよね」
「うん、言ったね」
「僕はさっき言ったことが間違いじゃないとは思ってる。でも、理解は出来ても共感は出来なかったよ。正直なところね」
僕たちには殆どのことが許されている。何かを選び取るのも、掴み取るのも、捨てることすらも。
けれど、同時に僕は思う。僕は今まで得てきた全てを、有り難いと思ったことは一度も無いのだと。普通の幸せを幸せだと思えなかった。だからといって、これ以上の幸福を想像することも出来なかったし、それ以下の不幸を嘆くことすらも出来なかった。
今までの人生で、僕は色んなものを捨ててきた。それを惜しいと思ったことは無いし、要らなかった訳でもなかった。ただ、僕は気付いたらそれを捨てていて、もはやゴミとなった廃棄物は皆から見れば有り難い何かだったのだとは分かっていた。
だとすると、僕は不幸なのかもしれない。皆が欲しがる物を求められないし、得たとしてもその価値が分からないのだから。
「僕は皆の言う普通がよく分からない。どうしてそんなものを有り難いと思うのか、微塵も共感出来ない。だからきっと、それが分からない僕は幸せでは無いと思う。さっきの答えは、これが正しいかな」
「くふっ……佑月君の本心がちょっとでも聞けて良かったよ。でも、まだまだ曝け出してはくれないんだね」
じっとりと、命花さんの視線が絡みつく。何もかも見透かす様なその視線は、全くもって末恐ろしい。ここ数年は普通に振る舞えていると思っていたのに。一体、どこでボロが出たのだろう。
「それでも、嬉しいなぁ。こんなに嬉しいのは産まれて初めてかもしれないよ」
「大袈裟だね。でも、そこまで言ってくれると清々しいかも」
「こんな薄っぺらい言葉じゃ伝わんないくらい、喜ばしくて仕方が無いんだよ。佑月君にも分かって欲しいな。きっと、今まで捨ててきた腐り果てた幸せなんかよりも、よっぽど有り難いはずだからさ」
その感情はよく分からない。でも、よく分からないことが悲しいことなのは分かる。それをちっとも悲しいと思えなくともだ。
「ね、学校でもお話しよ? というか、話しかけに行くね」
「……うん。命花さんとは、友達、だもんね」
「えぇー? もう友達になったつもりなのぉ? 佑月君ってば、案外さみしがり屋なのかもね」
「君から言ったんだろ……じゃあ、やっぱり知り合いのままで良い?」
「わーわー!!! ごめんって!!!」
クスッと、笑みが漏れた。それと同時に、僕は自分の反応に驚いてしまった。何時ぶりだろう、こうやって自然に笑えたのは。それはまだ、僕が人間的な感性を残している証拠で、そんな当たり前のことが嬉しかった。
そんな僕を見た命花さんは少し前を歩いて、こちらにくるりと振り返った。月明かりに照らされ、ニマりと口元を歪めたその姿は美しい。けれど、綺麗なはずなのに何故かゾワッとしてしまう。
それは多分、彼女の双眸が全くもって濁っているからだろう。黒に黒を何重にも擦り込んだ様な、いくつもの漆黒が混じっているからだ。
「私は今まで、この世を地獄だと思ってたんだよ。私の喜びは片手の指で数えられるほどしか無いのに、絶望は星の数ほど溢れかえっている。ただ自己を磨り減らして、削って、潰して……そんな毎日の果てが、何の救いも無い死だなんて、酷すぎるってね」
少しだけ、その意味が分かる。恐らく、彼女は皆が同情する様な境遇に置かれている訳でも、波瀾万丈の毎日を送ってきた訳でもない。
ただ、幸せを幸せだと思えなかった。大多数が好むものを、好きになれなかった。そんな自分を不幸とも感じず、ただ自分が普通では無いと暗に理解してしまった。
僕たちはそんなところが似通っている。だから、僕は彼女に対して感情を揺さぶられるんだ。僕は命花さんにシンパシーを感じている。その気持ちを、僕は少しだけ理解出来てしまう。
「でも、今はちょっとだけ違うと思える。だって、こんな汚れた蜘蛛の糸、私以外望んでいないから。これは私だけが掴んで、引っ張って、垂らした人を引きずり落として、私だけのものにするんだからさ。こんな喜び、地獄には似付かわしくない」
本当、面白い眼をしている。そう考えて、僕は納得した。命花さんも、僕と同じ事を思ったのだろう。まるで、自分の姿を鏡越しに見せられている様だったのだ。それは、あまりにも愉快で、滑稽で、思わず笑ってしまうくらいだったのだろう。今の僕が、まさにその様に思っているのだから。
「垂らしたのは、佑月君が先だよ? だから、離しちゃダメだからね?」
「そっちこそ。掴んだのは、命花さんだから」
もはや糸は、お互いを雁字搦めにして離さないだろう。どちらも切り離すつもりが無い以上、それはどこまでも僕たちを絡め取る。
そこに、ただ現状を傍観し、歩みを止めたガラクタは居ない。ただそこには、少し歪な普通だけが横たわっているだけだ。それが、僕たちの証明なのだから。
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