冬、無音、窓辺にて。
かに
第1話
遠くからかすかにサイレンの音が聞こえてきて、少しだけ目を開く。ずっしりと頭が重く、体はさび付いた金具のように軋む。はやく眠ってしまおうと思ったけれど、視界の端に仰向けになった彼女の姿が映った。少しだけ右手を伸ばして、彼女の脇腹からへそにかけて、ゆっくりと指を這わせる。少し冷たくなってきたようにも感じたけれど、それがかえって心地よかった。しっとりした肌は私の手のひらに吸いつくようで、これで彼女──鳥羽千冬がもう死んでいるなんて嘘みたいな話だと思った。
私が鳥羽千冬と初めて会ったのは三歳になったころらしい。らしい、というのはそれ以前の私にはろくに記憶がないから。物心ついたときには彼女が一緒にいるのが当たり前だった。
彼女の両親が、子どもが出来たことだしと一念発起して買った、ライトブルーの綺麗な新築の家の隣に、古ぼけた我が家が建っていることが美観を損ねているような気がして申し訳なくなる時があった。
近所に子どもがいなかったこともあり、私たちは家族ぐるみの付き合いをしていた。ぼんやりとした子どもだった私を利発な彼女があちこち連れまわして歩いた。お姉さんみたいだね、と言われて嬉しそうに笑っていた彼女の顔を、今でもよく覚えている。
そんな関係は小学校、中学校、高校に入っても変わらないままで、千冬は、
「放っておくとすぐ一人になっちゃうんだから」と言って、何くれとなく私の世話を焼いていた。
お姉ちゃんを自称する彼女を苦々しく思って、何度か喧嘩したこともあったけれど、結局いつも最後にはこっちから謝って、そして彼女がわかればいいよ、と得意げに笑った。このままの関係が続いてくれればいいと思ったし、なんとなくこのままでいられるような気もしていた。もちろんそんなわけがなかった。
「わたしね、結婚することになったの。春に」
25歳の冬、自宅に泊まりにきた千冬が言った。
私と彼女の交流は大学生になって別々の進路に進んでも、私が東京に就職して住まいが離れても未だ続いていた。こちらから連絡することは滅多になかったが、それでも彼女からの連絡は折に触れて届いていた。
「付き合い始めてから五年くらいだし、そろそろ……って。」
相手の男にも何度か会ったことがあった。決して目立つようなタイプではないけれど、誠実で気の利いた人間で、彼女の恋人でさえなければ好感をもっただろうなと思っていた。
「よかったね、おめでとう」
空っぽな祝福を口から吐き出しながら、私の脳は余計な思考を走らせるのに一生懸命だ。
「ほんとに嬉しかったし、ぜんぜん嫌なことなんてないはずなんだけどね。これでいいのかなって思っちゃって。もっと他にもいろんな選択肢、あったんじゃないかなって……」
その通りだ。
今までにもたくさんの選択肢があった。そして今までの私が何一つ選んでこなかったから今この状況があるのだと、そう思った。
「こんなこと言われても困っちゃうの、わかってるんだけど……ね、どうすればいいかな、わたし」
私がどうするべきか、なんて自明のことだ。きっと大丈夫だと彼女の不安を取り除いて、背中を押してあげることが、幼いころからの大切な友人である私がすべきことだ。
だから私は彼女に馬乗りになって、その細い首に両手をかけた。
動かなくなった千冬の体を綺麗に拭いてから、警察に電話した。いたずらだと思われていたような気もするが、どうでもよかった。隣に座って、いつもより少し多めにベルソムラを流しこむ。
彼女の顔からは血の気がひいて、ただでさえ白い肌がさらに白くなっていた。何もしゃべらなくなったその姿は、普段の明るすぎるくらいな彼女とは対照的で、それも相まって儚げで、まるで雪のようだ。
千冬のこんな姿を知っているのは自分だけだと思うと、嬉しくて涙がでるほど笑えた。彼女の手と自分の右手をつないで、空いた左手で目の端をぬぐった。なんだかいい夢が見られるような気がして、目を閉じた。
冬、無音、窓辺にて。 かに @nier_cancer
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