第50話 エピローグ 🖋️
のちに、産業組合中央会調査部に勤めた文子は、組織拡充に全国の農村を経巡って『日本農村婦人問題』を刊行。戦後は農村婦人協会を組織し、日本教職員組合の教研集会や全国婦人教員研究協議会の講師、日本母親大会開催の実現など女性の地位向上に尽くして「女性のみなさん、夫を主人と呼ぶのをやめましょう!!」と呼びかけた。
生まれついて薄幸だったむすめは、複雑な生い立ちに磨かれた繊細な感覚と聡明さを活かし、たびたびの挫折に堪えながら、不条理な社会構造の犠牲を強いられている女性たちの地位回復を求めつづけ、独力でそれを成し遂げた。いま、夫婦間で主従の呼称を当たり前に却下する女性たちは、偉大な先輩の軌跡に深い敬意を抱いている。
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数奇な人生が還暦に近づいた文子が、故郷の信濃追分に小さな山荘を建てたとき、家見に訪れた平太は背後を流れる御影用水をよろこんだ。三百年前、近くの御影村の新田開発用に浅間山麓の千ヶ滝から水を引いたのが手塚家の祖先だったからである。それを機に因縁の父とむすめは古い親せきを訪ね、和やかに談笑する機会をもった。
毎年六月、文子は再婚した夫と共に老父を囲んで神宮外苑の菖蒲園を訪れていた。早逝した茂雄の時代からつづく年中行事で、感慨深げに、うれしそうに玉砂利を踏む平太の老いの足を気づかい、東屋でジュースを飲み、よもやま話をしつつ清正公の井戸へまわり、帰路は新宿・中村屋でボルシチを賞味するのがいつものコースだった。
あれほどはげしく疎んじ合った父とむすめだったが、それぞれ同等に歳を重ねて、お互いを取り巻く環境が変わるにつれて、鋼鉄のように頑迷だった関係性もしだいにやわらかなものへと変わっていた。あのときああいう対応だったのも、このときこう言ったのも、いまから思えば無理がない、いや、自分こそが至らなかったのだ……。
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その平太が八十六歳になった春に、四男が勤務する東京の国立病院に入院したが、快復の見こみがないとして岡野に帰され、子どもたちとそれぞれの伴侶総勢十数人による手厚い看護が始まった。そのひとりとして父の枕辺に付き添った文子が異母妹に交替したある夜ふけ、その妹が走って来て告げる「姉さん、父さんが呼んでいます」
何事かと駆けつけると「すまないなあ、おまえがいてくれないと、心細くてなあ」枯木のように痩せ衰えた平太は、幼子が母親に哀願するように言い、しばらくすると「文子、長いあいだ、ご苦労だったなあ。言いたいことも言えないで……」なみだを滂沱と流しながら、胃潰瘍の痕がある(文子にもある)胸にむすめの手を置いた。
この瞬間、文子はすべてを了解した。ただの一度として抱いてもらった記憶も祖父らしいやさしい笑顔を向けられた記憶もない、五郎という頑迷なひとを義父に持ち、その太い膝に集う異母弟妹たちVS平太ひとりの歪んだ構図で生きねばならなかったこと、その軋轢の渦に投入される文子の存在は苦悶の種でしかなかったことetc.。
(父さん、まるでがんぜない幼児にかえったように澄んだ眸になった父さん……複雑な関係の大家族の手前、そっけなくせざるを得なかった先妻のむすめであるわたしのこと、本当は気にかけてくれていたんだよね。なのに、素直になれなくてごめんね。絹母さんのことだって、決して忘れたわけではなかったんだよね。(´;ω;`)ウゥゥ)
重篤な胸が語る素朴な言辞は文子にとって何万語にも相当する愛の言の葉だった。父さんも辛かったんだよね、いままで本当にありがとう、もうなにも心配しないでね。臨終の床でようやくわかり合えた父とむすめの宿命を思うとき、文子は先に逝った祖父母や実母の絹の加護に感謝せずにいられない。本当にありがとうございます。
[完]
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余談ながら、筆者と丸岡秀子先生(文子)は、ある全集の編纂を介して間接的な交流がありました。ご高齢でしたので一度もお目にかかる機会はありませんでしたが、幾星霜後のいまも、あらゆる生命への博愛&慈しみに基づく、やわらかでおおらかなお人柄をお慕いしています。拙作にはそんな思いの丈を籠めさせていただきました。
もうひとつ、文子がふたりの夫とともに父・平太を案内した神宮外苑の菖蒲園にも多少の所縁があります。文子の異母弟も文筆業でいらして、同じ全集の編纂を通じてお世話になったのですが、筆者の拙さからのお詫びごとに付き添ってくださったとき「いやなことの前にきれいな花を見ておこうね」と連れて行ってくださったのです。
参考文献:丸岡秀子『ひとすじの道――ある少女の日々』(偕成社 1976年)
『丸岡秀子評論集9 未完の対決――父と娘』(未来社 1988年)
not alone/小説・丸岡秀子 🧵 上月くるを @kurutan
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