春に溶ける

碧月 葉

春に溶ける

「もう、許さない! あなたなんか嫌い。馬鹿みたいに仕事ばっかりして。ホント……大っ嫌い……」


 あーあ、振られたなぁ。

 丁寧に関係を築き上げながら、順調に進んできたと思ったのに……急ブレーキがかかって、それっきり。

 仕事に精を出していたのは、きたるべき君との新生活のためだったんだけれど。

 優先順位、間違っちゃったや。

 もう、後戻りはできない。


 最後に見た君は、ぐちゃぐちゃに泣いて怒ってた。


「はぁーーーー」


 僕は公園のベンチに腰掛け、茜色の空に向かって大きなため息を放った。



「あらあら、お兄さん。ため息を吐くと幸せが逃げてしまうわよ」


 エレガントな花柄ブラウスを着たおばあさんが話しかけてきた。

 犬の散歩中だろうか、つぶらな瞳のウエストハイランドがピッタリと寄り添っている。


「僕、婚約者に振られたんです。よりによってバレンタインデーに。幸せなんてとっくに全部逃げちゃってますよ」


 初対面の相手に、僕は少しキツめに言ってしまった。


「まあ、それは大変だったわね。私は陽子、この子はルナっていうの。よかったら話、聞くわよ」


 失礼な態度をとったにも関わらず、陽子さんはニコニコと僕の隣に腰を下ろした。

 ルナと紹介された白い犬も、ぴょんとベンチに飛び乗ってクリクリした瞳で見上げてきた。

 僕は犬が好きだ。

 よく知らない人と話すのは億劫だったが、ぬいぐるみのようなフワフワしたこの犬に癒されたいという欲求には勝てなかった。


「ルナちゃん、撫でてもいいですか?」


「もちろん」


 僕は、ルナの背中を撫でながらポツポツと話した。


 彼女とは中高の同級生であること。

 ずっと憧れていた相手であること

 彼女がいるから地元の銀行に就職したこと。

 奇跡が起こって両想いになれたこと。

 残業や地域イベントへの参加で休みが無く激務が続いたこと。

 それでも、彼女との未来のために頑張ったこと。

 仕事をやり過ぎてフラれたこと。

 今でも、彼女が好きなこと。

 

「好きな人と、ともに暮らす、ありふれた幸せを掴みたかっただけなんですけれど……無理した挙句、フラれちゃいました」


「どうしようもない事ってあるものよ。あなた、精一杯やったんでしょ。彼女もきっと分かっているわよ」


「だといいですけれどね……。でも、ありがとうございます。話したら少し楽になりました。まぁ、つくづく馬鹿だったなぁって思いますけど」


 さあっと風が吹いて、桜の梢を揺らした。

 いつの間にか、だいぶ蕾も膨らんでいたようだ。


「だんだん咲くでしょうか」


「そうねぇ。立ち止まりたくても、季節は必ず巡っていくものですからね」


 さあっと再び風が吹いた。



「ルナ! ルナ……こんな所にいたのか探したよ……」


 息切らした高齢の男性が、公園に入って来た。

 彼の姿を確認したルナは僕の手からするりと抜けて、その人に元へと駆けていった。

 男性はルナの頭を優しく撫で、手に持っていたリードを首輪に繋いだ。


 そして、僕らのいるベンチを愛おしそうに、どこか悲しげに見つめると、くるりと後ろを向いて歩き去った。

 ルナは何度も後ろを振り返ったが、やがてその姿は見えなくなった。


「私ね、明日が四十九日なのよ。名残惜しいけれど旅立たなくてはいけないわ」


 陽子さんは、あの男性が立ち去った方向をまだ見つめていた。


——ああ、僕はこんな重要な事を忘れていたなんて。

 

「陽子さん……僕、僕らは……」


 陽子さんはゆっくりと頷いた。




——そう。


 あの夜、僕は残業をしていて、急に胸が強く締め付けらて、気がついたら自分自身を見下ろしていた。


 駄目、ダメだ。

 僕はこれから幸せになるんだ。

 やっと彼女と一緒になれるのに。


 そう思ったら、いつの間にか彼女の部屋にいた。

 部屋は甘いチョコレートの匂いでいっぱいだった。

 軽快なジャズを流しながら、彼女は作業の最終工程に進んでいるようだった。

 ブラウンのサテンのリボンで、小さな箱をラッピングしようと四苦八苦している。

 手先があまり器用ではない彼女が、スマホを見ながらオシャレな結び方に挑戦している姿はなんとも可愛らしく愛おしかった。


 その時スマホから呼び出し音が流れ、彼女は慌てて電話に出た。


「え………」


 彼女の表情が凍りつく。

 その手からリボンが滑り落ちた。


 その後彼女は病院に駆けつけて、冷たくなった僕の手をとって泣き続けた……。

 




 そりゃあ許してもらえない訳だ。


「僕は嘘つきだ。彼女を幸せに出来なかった。最低だ。本当に……」


 悔やんでも悔やみきれない。


「あなたはまだ若いから尚のこと辛いでしょうけれど、ここに留まっていてもいい事は無いわよ。それに……愛しているからこそ前に進めてあげなくては。だって、彼女は生きているのですもの。ね」


 陽子さんは微笑んで僕の背中を押した。


「はい」



 

 彼女を強く想うと、僕は彼女の部屋にいた。


 部屋に流れている曲は、彼女の好むジャズじゃなくて、僕がよく聴いていたコテコテのジャパニーズロックだった。


 彼女がスマホを見て泣いている……。

 スマホには……二人が笑顔で写っている。


「本当にごめんね。さよならだよ。どうか幸せに」


 彼女の耳元でそう囁き、頭に口づけた後、僕は空高く舞い上がった。

 無責任に祈る事しか出来ないけれど。


——幸せになって。


 もう一度深く願いをかけた後、僕は春風に溶けた。

 




                  【了】

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春に溶ける 碧月 葉 @momobeko

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