第44話 〈分散〉の雷
気が付けば山の中にいた。
勇人の身に何が起きたのか、何が彼を導いたのか、確かに手に取るように思い出すことは出来た。すぐ手元の記憶は当然だが勇人の足で歩んできたもののはず。しかしながら何故だか上手く実感を思い返すことが出来ない。
疲れてしまったのだろうか。
そこまで思い、ようやく勇人は自覚を持った。
そう、この身体は、この頭は疲れていた。
この世の中でひっそりと息づきながら人伝にて歴史の裏に塗り付けられるチカラ。
それは科学の思考では今でも分類できないのだという。
かつてこの界隈の先祖は「仮に科学の力を以て魔法のカラクリを解き明かす日が来るならばその時にはそれ相応の名を持って枠組みへと加わるべし」などと書き留めたそうだがこの調子では勇人の目ではその時を納める日は来ないだろう。彼の心臓はその日まで駆け抜けることなど出来ないだろう。
そんな説明を聞きながら勇人は魔力の扱い方を教え込まれながら練習して、というよりは半ば強制的に練習させられていた。
勇人の傍に立っている女は顔面からはみ出してしまいそうなニヤけを容赦なく見せつけていた。日頃からそうなのだ。何が愉快なのだろうか。勇人の頭では到底理解できないほどの穢れの高見に立っていた。
「はいはい、今の勇人ははいはいしてる赤ちゃん同然だね」
罵倒だろうか。左肩にひとまとめの髪を垂らしている女、刹菜の口から出て来る言葉はニヤけ面から現れていた。
「言葉と表情が合ってない」
「そりゃあそこまで肩入れしてないからね。私が本気出したらもっと嫌らしい夜の指導」
「黙ってろ」
「そうだね、もっとイメージしな、心臓の下辺りで考えるんだるんだ」
本気を出したところできっと真面目になるだけだろう。言葉は幾らでも飾り付けておきながら一応は指導の言葉を混ぜ込んでくる辺り、やる気がないわけではないということだけは伝わっていた。しっかりと思考をジメジメと蝕むように妙な気配を伸ばし拡大していた。
「いくぞ」
大きく息を吸い、思い切り外へと邪念を追い出す。再び新鮮な空気を取り入れて心臓の下辺り、恐らくは心情的なことだろう。胸の内で、勇人の中の痛み、みぞおちを殴られるような感覚を、息すら吸えないあの想いを身体の外へと追い出すイメージを右手でつかんで後ろへと引く。
「いいよいいよ、人々の痛みを闇をも全部全部何もかもこの世の中に追い出す意識で苦しみをその手で押し出せフレフレガンバ、孤独の世界のチアリーダー」
余計な言葉が鬱陶しい、全て総て凡て統べてみせるように足腰に力を入れて踏ん張りを利かせながら、これから来る分かり切った衝撃を想いながら唱えてみせる。
「目の前に固まりし闇よ、世界の中に蔓延りし大いなる闇の中へ〈分散〉されよ」
右手は押し出される。腕を引いている時に弾けながら纏わり付いていたのだろうか。青白い雷が空気を噛み締めながら喰らうように突き進む。
雷が空気を引き裂きながら進んだ軌跡はまさに世界のひび割れ。
突き進んでいた雷はやがて目標などどこにもいないことを悟ったかのように、期待外れを主張するように空気中へと消え去った。
突然気怠さが背にのしかかってきた。左手を膝について身体を支え、正面を睨み歯を食いしばる。
立っているのがやっと、今を歩み続けるので必死な勇人に対して刹菜は羽根のように軽い気持ちをそよ風に乗せながら拍手を添えて讃えて見せた。
「お見事、魔女の秘薬が抜けても大丈夫、これで他力本願魔法は完全に幕閉じだね」
「閉幕っていうんだよ」
「知ってる、キミのおつむなんかで理解できるか怪しかったんでね」
刹菜が言葉に含んでいたとおり、魔女の秘薬を口にしたことがあった。それは勇人の戦いの日々の幕開けの合図となった。
この界隈でのみ通用する呼び名の〈魔女〉、人類亜点第一種の特徴として周囲の魔力や属性的な空気を操ることがあった。そうして外のチカラを借りて己の才能以上の力を発揮する。勇人が扱っていた魔法とはそう言った類いのもの。
元来の〈魔女〉であれば問題は無かった。
しかしながら秘薬を用いて強引に開かれた亜点のチカラを振るい続けるにあたってどうしても副作用が生じてしまう。
勇人の場合は周囲から取り込んだ闇が身体に残留してヒトとしての感覚も人間としての心も薄れてしまうと言うもの。つまるところ人と関わる生活をしている限りはあまりにも致命的なモノだった。
刹菜は大きく息を吸い、肩の力を抜いて勇人に向けていたニヤけを緩めて優しい甘さを含んだ微笑みへと表情を塗り替える。
「じゃあ、今からの依頼も多分遂行可能だね」
「い、依頼?」
唐突に出て来た言葉の意味が理解できなかった。疲れは思考を鈍らせる。たった一度、それも緊張や緊急性のない状況での〈分散〉の術の練習、ただそれだけで肩で息をして身体を支え、意識の遠退きに抗うことでやっとのこと。
その様子を見ているにもかかわらず刹菜は出回っている依頼のひとつを受けようと言っていた。見えてる世界でも異なるのだろうか、そう思いつつもどうにか耳を傾け澄まし聞き入れの意志を広げた。
「ああそうそう、そうなのさあ」
刹菜は大きく胸を張ってみせる。細身の身体は綺麗なアーチを描いているように見えた。必要性の分からない態度、わざとらしい仕草は本音と嘘とは言えない程度の冗談めかした遊びが交差し独特な模様と心地の滑稽な生地へと仕立て上げられていた。
「雑魚魔獣の討伐らしいけど多分あの学校での研究所の関係だろうね」
刹菜の言う研究所、勇人がかつて身を置いていた学校、今では母なる学校と気取って語ることが出来るだろうか。その地下室で人類蘇生の計画が立てられ研究が進められていた。
そこで作られていたモノの多くは生ける土人形のゴーレムに人工的に作られた人物のホムンクルス。地獄より魂を呼び出し、或いは人々の記憶から人格を構成してホムンクルスに定着させることで仮の復活の代替案とするというところまで進んでいたらしい。
それを阻止したのはと話すまでもない、現状という結末を手繰り寄せた人々の一部は今ここに立っているのだから。
「てことでさ、倒してきてきてくれないかな、計画を潰したその手腕でさ」
ニヤけ面はいつになく深く機嫌の良さを主張していた。
「計画潰しって俺は殆ど役に立ってないんだけどなあ」
あの夜のことを思い返す。夜闇の中煌めく一閃は鋭く、堂々とした銀色に迷いなど見られない。あの線の範囲を無視した一撃はどこまでも恐ろしい。攻撃の位置がつかめない。夜空の闇よろしく攻撃の形も強さ速さ色合いでさえ闇に潜んで出てこない。
菜穂との戦闘などもう二度と行いたくない。あの夜の戦いにおける主役は間違いなく友人の怜だった。
そんな思い出話を差し出されて刹菜は刹那にニヤニヤとした面の湿度を上げて雰囲気を蒸して言った。
「はははそれはいい。計画潰しの中に仲間割れがあった。危うく計画潰し計画が潰されるところだったわけか、内部から」
今でも鮮明に返しが出て来てしまう。勇人の中で渦巻き続けるあの言葉は口から音となって滑り落ちていった。
「寧ろ俺がいない方が上手く回ったかもしれない」
「いやそれじゃ怜は動かないっしょ、心が冷たい彼じゃあね」
冷たい、というよりは仲間意識だろうか。友がいなければ積極的に噂話に立ち向かうこともなかっただろう。まさに中高生友人間限定の振る舞いの延長線上の出来事。
「高校生ふたりの気まぐれなんかで保たれた平和ってなんだかなあ」
そう零しつつも刹菜の笑みには退屈や不満は見られない。桃色のリボンを掛けられたような眼差し、包み込むひんやりとした声の優しい心地、完全に温かな感情で紡がれ続けている会話だった。
「ま、気楽に行ってらっしゃいってわけだ、迎えは既に来てるから」
刹菜が指した方へと従い勇人は振り返る。想いのまま、意思のまま。逆らう必要性など今ここにはなくて。
振り向いたそこには五十は超えているであろう男の姿があった。
「よっ、行くぜ」
刻まれた皺のひとつひとつに過去が、生きるにあたって作り続けてきた想いが差し込まれて色付いている。鈍色の眼には未だに曇りひとつ見られない。細身の身体は痩せていると言うよりはやつれているという感想を当てはめて古び霞んだ枠組みを作り嵌める方が適切。そんななりをしていた。
「行くってどこに」
「聞いてなかったかな、魔獣の討伐だよ」
「そうじゃなくて」
刹菜の応えは明らかに意味を取り違えている。ニヤけが影を纏っている辺りに意図の糸を感じてしまう。恐らくふざけているだけなのだろう。
「山までいってら、害獣駆除のロケーションのド定番だねえ」
勇人は顔に薄暗い影を蔓延らせる。近所の山、恐らくは過去に幽霊船を目撃したあの場所だろう。小さな山ではあったものの、そこにたった一頭の猛獣が潜んでいてそれを探し当てるともなれば非常に重苦しい依頼だった。
遭難してしまわないだろうか、登山客に被害は及んでいないだろうか。近所の公立高校の生徒たちが一ヶ月に一度登っているという話を耳にしたことがある。考えればそれだけ深みに嵌まり、立っているだけで息が詰まってしまいそうだった。
「危機感を見たな、ならば行くしかないだろう」
男の口が開かれ重々しい言葉が溢れ出す。選択権という言葉を知らないのか、勝手に同行することが取り決められていたものの、勇人には抗う心など残されてはいなかった。
このままでは何も罪を着ていない人物にまで被害の牙が食い込んでしまう。
このままではいられない、いてもたってもいられない。
「良い目だ、覚悟の熱が香ってくるぜ」
満明は感情を見抜いていた。固い意志、平和を願う想い、無為に傷付く人物を出したくない。ならば動かない理由などどれもこれもが空回りするブレーキとなって足に絡みつくことすら出来ない。
「車は真昼さん以外誰も運転できないから歩いて行くぞ」
話に依ると満明は過去に交通事故を起こして運転免許取消の処分を受けているのだという。幸い怪我人は無し、隣に乗っていた友人が魔法使いだったが為に生き残ることが出来たようだが例外的に再取得の権利の消失を下されたそう。公は隙を見ては魔法使いに関係する人物に対して不利になる処分を下そうとするということを魔法使いたちが知った初めての貴重な事例なのだという。
家を出て足を進め、景色の流れることしばらくの時を経て。
アスファルトを快適な様で走り抜ける車たち、信号機という合図の機械にせき止められる車たち、せき止められるのは車だけではないのだという事実。
「はあ信号無視してえ、俺の世代では余裕が誇らしく胸張ってたってのに」
一から十までこの態度、この男は時代からはとうの昔に置いて行かれてしまっていたのかも知れない。
「でも出来ない、だよね」
「ああ、俺は免許の件で魔法使い絡みって割れてるからな」
理由がどこかズレていた。命を守るためというべき話ではなかっただろうか。そこで語られることは完全に見つかれば必要以上に重い罪を着せられるという話になっていた。
信号機は赤く輝いていた。輝きはすぐさま青へと変わり果てる。
「おいおい俺らが渡るからってビビるなって、顔面真っ青だぜ」
信号機に対してここまで痛々しい反応を見せることが出来るのは世間からズレたおじさんの特権なのだろうか。勇人の偏見の話、なぜだか年老いた男に言動のおかしな人物が多い印象を持っていた。この男を見ている限り偏見は事実だったと言いたくなってきてしまう。偏見は更なる加速を見せていた。
少し進んでまたしても迎えた赤信号。顔を赤らめる様は満明にはどのように映っているのだろう。答えはすぐさま、勇人の想像通りの形で訪れた。
「おいおい信号機さんよお、顔赤くして惚れてんなあ」
もはや呆れることしか出来なかった。
「惚れてもらえることは光栄だが俺には機械を愛でる趣味なんかねえぞ」
信号で立ち止まり発する言葉の一字一句が阿呆の極みに立っていた。
「勇人も何か言ってやれ」
「知り合いと思われたくない」
「だとよ、信号機」
聞いていて恥ずかしくなってくる。もはやここまでの痛々しさ、どのような薬でも治せないだろう。このような人物に処方できる痛み止めは無いものだろうかと天に問いかけたくて仕方がなかった。恥のあまり勇人の頬まで赤く色付いてしまっていた。
「惚れんなって」
「恥ずいんですけど」
茹で上がってしまいそうな恥ずかしさに身を包まれた最悪のひと時。夢であって欲しい瞬間だった。
信号機は青い光を示す。見栄えとしては青と言うよりも緑、そうとしか見えない古くさい光だった。
「青空と言うには小さすぎるぜくっ、もうせき止めんじゃねえぞ」
ここまで参加したくない会話というものも初めてのこと。もしかして周囲の人々が勇人に対して抱く印象を下げたいのだろうか。
――だとしたら、あまりにも厄介だ
きっとそこまで卑下な思考など持っていないだろう。単純に満明という人間がそう言った性格をしているに過ぎなかった。ただそれだけのこと。
「おいおいいつになったら着くんだ」
「さあ、その目に映る距離感が正解なんじゃないかな」
「じゃああと一秒で到着ってことでいいな」
勇人は大きなため息をつく。脱力感と会話への疲れがあまりにも大きく果てしなく、まさに人格のズレというものを色濃く刻むように認識させられているようだった。見えないはずの壁がここまで鮮明に見えてしまうのは初めてのことだった。
「そりゃあ刹菜さんもあんな感じに育つはずだよ」
「ああ? 刹菜がどうした、惚れんなって」
「会話の流れってなんだっけ」
きっとわざとそのように振る舞っているのだろう。あなたの町のコメディアン、誰も求めないネタを延々と流し続けるだけの哀れなる存在。刹菜のふざけが控えめなことを思い知らされた。今ならあのニヤけ面に二本の無駄ほどに可愛らしい指を伸ばして送る雰囲気が桃色のヴェールを纏っているように見えた。
――普通の女の子になれなかったのこの人のせいだ、カワイソ
哀れむ視線は満明の眼にはどのように映ったのだろう。満明は勇人の顔を見てすぐさま近くのコンビニへと入り込む。
「悪いな、歩かせて疲れちまっただろう」
「は、はあ確かに疲れてるんですけど」
疲れの要因は確実に隣の男にあった。彼に関しては是非とも女たちから「だからモテない」という言葉を浴びて欲しい。既婚者であることが最大の幸運という事実を思い知って欲しかった。「悪魔憑きの痛々しさ」という称号でも冠して欲しくて堪らなかった。
満明は缶コーヒーとチョコレートドリンクを手に取り会計へと進む。
レジで立っている女性に優しく見えるが恐らくはイヤらしい視線を向ける。ここまでの変態が余計な口を開くとしたら言葉の形など容易に想像できた。
金を払い、商品を受け取るついでに飛び出してしまいそうな言葉を勇人は満明の口を手で覆うことできっと最後に出るであろう感謝の言葉もろとも塞ぎ、左腕を引っ張り早足に店を後にした。
「待て、キラキラした美しさにお褒めの言葉を捧げ忘れてる」
「流石にマズいから、チョコレートドリンクは美味しいけど」
昔ならば当然のことだったのだろうか、彼が若かった時のことなど知らなかったものの、この場面で大切なことは確実に今がどうなのか、その一点に尽きる。その様なことを考えながら満明から受け取ったチョコレートドリンクの甘みを肺一杯に充たしていく。
「狭っ苦しい世の中だなおい」
「寧ろだだっ広いから」
態度のことに対して物理的な世界の広さを諭す。この程度のズレを意図的にもたらすだけの余裕がなければこの男と接するだけで眼を回しながら目前は混沌の星空となってしまうかも知れない。
横断歩道を渡っている最中にも満明は勇人との会話を試みていた。
「なあなあ昔こういう歩道で白い部分だけしか渡らないと穴に落ちるゲームみたいな想像しなかったか」
「昔って小学生の頃かな」
いつになく冷ややかに返してみせる。もしかするとそうした態度を取ることに問題があるのだというメッセージでも込めているのかも知れない。しかしながらこの男に対しては今の態度を貫く程度で正解だと断定していた。
きっとこの悪ふざけに乗るのは中学生か開き直った社会人の建て前の仕事、時期が異なる。きっとそうだと心に留めてぶら下がる。
「さっきから冷たいな暇で暇で仕方ねえから開いた口が塞がらねえってのに」
この男は何を望んでいるのだろう。答えはすぐさま示された。それはあまりにも無邪気な少年のままのものだった。
「この口を塞ぐのは予想外のイベント」
「どうせそうなったら饒舌になってお仕舞いだろう」
「心意気が俺の発言に乗るのは楽しい証拠だ」
何が言いたいのだろう。どのような回答を望んでいたのだろう。今時の若者であれば答えは伏せていること間違い無し。
しかし目の前の男は若者の二倍近くの時の歩みと当時の流行りで異なる文化が形成されていた。
「もっと楽しもう、世界ってそんなに退屈じゃないぞ」
見抜かれていたのだろうか。かつて少しずつ失われていた感覚、心までもが沈みきって何も感じ取れなくなっていく、人類から遠ざかっていく実感に包まれていた時が未だに覆い被さっているということ。
確かに今では風を感じ取ることが出来た。流れてくる香りはパンのものだろうか、近くの建物から鼻腔を撫でるように流れ込んでくる。車が通る音はそれだけで時の流れや地面を踏み込み叩き付けるような感覚を思い知らせてくれる。
世界の中の何もかもが鮮明でありながら何かが異なる。勇人の中のどこかが昔のように横並びで歩いてきてくれない。何が違うのか、口を開いて伝えることは叶わないものの、それは態度の違いにも表れてしまっているのかも知れない、否、確実に何かをつかみ取られていた。
やがて身体は自然の香りに包まれた。木々は鮮明でありながらも淡く、太陽の香りはこの場所に他とは異なる想いを置いて息づいている。広い草原では野良猫が呑気にあくびをしながら子どもたちに撫で回されて暇な大人や餌を手渡された子どもたちの手によって命を紡がれていた。
「ここだな」
平和の象徴のような場所。草原の向こう側に生い茂る木々が山を形作っている。あの深い自然の中に不自然な獣が潜んでいる。この平和の塊のような場所を本能のままに壊そうとしているかも知れない。
人々に不幸を与えることなど決して許されなかった。
引き締めていた気が満明にも伝わったのだろう。彼の表情に明るい灯が点けられた。
「いい顔だ、そうだ、もとの勇人を手繰り寄せて帰ってこい」
刹菜や怜が求めている姿はきっと今のものなのかも知れない、かつて持っていた穏やかなカタチなのかも知れない。
「いいか、今から敵を倒すが守り抜こうとしているのはあの笑顔だ、はしゃいで回って喜んで、これからの世代の魔法使いたちでは滅多なことがなければ歩むことのない円満な家庭だ」
勇人は人々の愉快な様を見届ける。きっと勇人と洋子や怜と風の精、鈴香と雪時なら迎えられる道、それが壊されてしまうことを想像するだけで、罪悪感という言葉も知らぬ無慈悲な獣によって踏み荒らされて災害や獣害のように扱われることを想うだけで、ただそれらを経るだけで決して許してはならないことだと思い知らされていた。
「大丈夫、絶対にここで狩る」
そう述べて山に入ること数十分が過去に溶かされてのこと。
山は寒気を容赦なく運び込んでくる。
満明は何かを思い返しながら心が迷子になりかけている勇人に告げた。
「この辺り、気配があるな」
気を引き締めようと、想いを張り詰めてみせようとしたその時、肩に男の手が優しく置かれた。
「肩に力が入ってる。大事なモノを探るあまり不意と共に来た時に対応できない。もっと自然に生きろ」
勇人ははっとして辺りを見回した。
水が流れ落ちる音、木々が鳴いている、鳥が歌って花はいつになく美しく飾られている。空気は澄んでいて肌寒く、春の訪れからは隔絶された場所のように思えていた。
そんな中で自然の全てを見て聞いて香って気配に触れる。
乾燥した緊張感、こちらを向いているひとつの気配をつかみ取った瞬間、勇人は右腕を素早く引いた。
「よし、それでいい」
腕を引いた後に周囲から雷が集う、と言ったこともなく。しかしそれでも構うことなく勇人はいつものあの言葉を唱えて見せた。
「目の前に固まりし闇よ」
途端に勇人の内側から、手元から張り裂けた空気が青白い稲妻の姿を取る。
「世界に蔓延りし大いなる闇の中に〈分散〉されよ」
勢いよく右腕を突き出した。それと共に弾けながら空気を割りながら、正面へと食いつきながら進む雷。この世界に瞬く間だけ入る青白いヒビは素早く突き進んで見えない標的の首筋に爪を立ててそのまま激しい悲鳴と共に、見知らぬ獣と共にこの世の中へと消え去ってしまった。
「一件落着だ、その調子でこれからも頑張れ」
そう告げられ金を手渡されて。
満明はひとり背を向けて歩き出す。そこに言葉はない、言葉など必要としていないのかさらけ出すべき本音の音色を奏でることを恥ずかしがってでもいるのか。
そんな背中を追いかけることなくしばらく立ち尽くす。力が入らず立っているのがやっとな今の彼。そんな勇人が浮かべている表情はここ最近では見せていなかったほどに晴れ晴れとしたものだった。
〈分散〉の雷 焼魚圭 @salmon777
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