短編小説「分岐点」~生死を分かつ場所~

白鷹いず

 

 抜けるように澄み切った青空の下、巨大な綿の塊のような雲が、地平線が見えるほど果てしなく広がる草原を舐める様に流れていく。それもあちらこちら無数に。

 草原には獣道の様に露出した細い地面が地平線の彼方までワインディングしながら伸びている。俺は見知らぬ男と2人でその道を黙々と歩いていた。


 見知らぬと言っても、そいつは良く知っている親戚か友達か何かで、俺はそいつと一緒にこんなに気持ちのよいハイキングコースみたいな場所を歩くのが楽しくてしょうがない。こんなに晴れ渡って太陽が眩しいというのに季節は春か秋なのだろうか? 暑くもなく寒くもなく、草の匂いを含んだ心地よい風にそよそよとあおがれて最高の気分だ。

 俺の前を歩いている男はグレーのジャンパーにデニムか何かのグレーのズボンを履き登山帽を被っていた。男は時おり俺を振り返り、俺がちゃんと付いてきているか確認するとニコッと微笑みかけてくれる。俺も笑い返す。俺はこの男が好きだ。と言ってもゲイとかホモとかそういう意味ではなく、昔からいろいろ世話を焼いてくれた先輩? あるいは田舎に帰る度に優しくもてなしてくれた叔父さん? そんなイメージで厚い信頼を感じているようだ。『感じているようだ』なんてまるで他人ごとのような物言いだが、実際この男が誰なのか皆目見当がつかないのだからそういう言い方になってしまう。

 男は歩きながら振り返り俺に何かを語りかけてくるのだが、1メートルと離れていないのにも関わらず何を言っているのか全くわからない。言葉は確かに聞こえているし勿論日本語で話しているのは確かだが、どういうわけか俺は男の言葉を理解出来ずにいた。それでも大好きなこの男に気を使ってニコニコしながら頷く事だけは忘れないでいた。

 辺りは風になびく草がサワサワと揺れるような音と俺たちが小さな石ころを踏みながらザクザクとあるく足音しか聞こえない。俺たちがどこへ向かっているのか? 何故俺はこの男の後を一生懸命について行くのか? だいたいここが何処なのか? どうしてこんな場所にいるのか? とにかく俺は何一つわからずに歩いているのだ。

 それでも不思議と不安や疑問は一切感じていなかった。この男について行くだけでそれで十分、全ての疑問はまるで意味を持たない、そんな気がしていた。

 それに何よりも楽しくてしょうがない。男の背中を見ながら歩いていると、普段気にしている仕事の問題、家族の問題、職場の人間関係の問題など、ありとあらゆる現実世界での心配事が全く気にならないのだ。それら一切のしがらみから完全に解放されて、こんな清々しい気分になったのは何年ぶりだろうか。


 人生において、幼少期も子供時代も学生の時も社会人になっても、常になんらかの悩みを抱えて生きていくのがあたり前のように思っていた。問題を抱える事に麻痺してしまい、それを問題と感じないまま悩み傷つき成長をして行く、それがヒトの生きる道……そんな心持ちで今まで生きてきた様に思える。

 ところが今はどうだ?この男の後について歩いて行けば行くほどに、それらの問題が次第に浄化され、心がどんどん軽くなっていく。まだ悩む事を知らなかった赤ん坊の時代に母親に守られて安心し切っていたような気分をぼんやり暖かく思い出してくるような気さえするではないか。

 何がそうさせるのか? この男は本当にいったい誰なのか? 俺たちは何処へ向かって歩いて行くのだろうか? ……だけど本当にそんな事は気にならないのだ。然るべき未来に向かって? 今はただこの男の背中を見失わない様に付いて行きさえすれば、それで万事OK! それは俺にとって簡単な事だった。


 気付くといつの間にか空は曇り辺りは薄暗くなっていた。更にいつの間にか爽やかな風が吹いていた草原の道は終わり、ごつい岩肌を登る様に道無き道を登っていた。男は相変わらず黙々と急な斜面を踏みしめて登って行く。

 俺はバランスを崩して転びそうになった。辺りに掴まるものも無くあきらめて地面に手をつこうとすると、サッと男の手が伸びて俺の手を引っ張った。俺はその手に助けられ辛うじて転ばずに済んだ。


「ありがとう」


 そう言って手を差し伸べる男の顔を、実はこの時初めて見たのだが、登山帽を深々と被り辺りも大分薄暗くなっていたので顔ははっきり見えなかった。ただ、ニコリと笑う男の目の優しさだけが俺の目に焼き付いた。男の手を握ったことで、今まで以上に安心感が込み上げて、俺は本当にこの男が大好きだった事を思い知る。いったい何処の誰なのだろうか? それがわからないのが自分でも不思議で仕方なかった。


 やがて辺りに濃い霧が立ちこめてきた。いきなり視界を遮られ俺は慌てた。前を歩く男の姿が見えなくなってしまったのだ。しかしここでも不思議な事が起こった。何処かもわからぬ道を男の背中だけを頼りに歩いてきたというのに、視界がほぼゼロのこの場所に一人でポツンと残されても慌てたのは最初だけ、その後はまったく不安を感じなかったのだ。

 やがて霧に切れ間が生じ、所々に辺りの景色が見え始めた。気付くと目の前に空の果てまでも伸びて頂上が見えないほど恐ろしく高い山があった。その岩肌は巨大な黒壁の様に行く手を遮っていたのだ。

 更に霧が晴れてくるとようやく辺りの状況が見えてきた。正面は壁になって塞がれているが、よく見るとここはT字路のような分かれ道になっていた。

 俺は左側の道を見て愕然とした。

 俺が今立っているこの場所はとてつもなく高い山の中腹だった。左には、今まで登ってきた山道より更に険しく下る坂道がはるか下の方まで伸びていた。長く遠い坂道の先を見下ろすと木々の合間に茅葺き屋根の家が点在している様子が小さく見えていた。その村に向かう坂道があまりにも急でここから覗くと胸がすく思いだ。一歩間違えばそのまま転げ落ちていきそうである。

 今度は右を見た。

 右は小高い土手に挟まれた浅いせせらぎになっていた。川の水の中を道さながらに歩いていけるほどに浅そうだ。しかし、その土手の上に、何故か頭に逆三角形の白い布を巻いた白装束の男女が無数に立って居て俺の方を見ていた。まるで幽霊の集団に待ち構えられている気分でゾッとする。


 俺はすぐに理解した。と言ってもたいした事ではない。ここは分岐点で今まで案内してくれていた男が姿をくらましたということは、それはつまりここは自分の意思でどちらかの道を選べと、そう告げているのだ。

 俺は迷った。

 普通に考えれば民家らしき物が遥か下に見える村に行くべきだろうが、この坂道を下って行くのは相当にきつい。運悪く足を滑らせれば数百メートルも坂を転げ落ちて命を落とすかもしれない。だからといって、気味の悪い白装束の集団が待ち構えているせせらぎを歩いて行く気にはなれないし……。


 ふと気付くと、今俺と男が二人で登ってきた坂道に見知らぬ大勢の人間が無言で行列を作って登ってきていた。俺は驚いて正面の岩壁まで下がって道を開けた。いったい何処から湧いてきたのだろう? その集団は服装がなんとなくお洒落でボストンバッグでも持っていればまるで旅行者のようにも見える。そいつらは俺が迷っているこのT字路の分岐点では立ちどまらずに、皆が皆迷う事無く左の坂道へ降りて行った。男や女、年齢も様々で小さな子供までいるのに、それにハイヒールを履いている女までもが、この急な坂道に臆する様子もなく、不思議と足を滑らすこともなく次々と歩いて降りていくのだ。

 何事かと驚いて見ていると、その坂道を10メートルほど下ったあたりにさっきまで俺を道案内をしてくれていた男が立っていた。男は相変わらず登山帽を深々と被っていて顔は見えないが、どういうわけかその目の輝きだけがはっきりと見えていた。男は片手を大きく何度も仰いで「こっちに来い」と言わんばかりに俺を呼んでいるようだった。


 そこでまた不思議な気分になった。さっきあれほど好きだったその男に一切の親近感を感じなくなっていたのだ。あれほど信頼し、世の中のしがらみの一切を忘れてすっかり安心出来ていたというのに、今はむしろその逆で、俺を苦行だらけのイバラの道へ引き込もうとしている? そんな邪悪な気配まで感じてしまった。

 男は笑っていなかった。「何をしている? さっさと来い!」とばかりに怒ってさえいるような気がした。そうまでして呼ばれているのなら男の呼ぶ方へ行ってみようか? どうせ自分でどちらに行けばいいのか決められないのだから……俺は気を取り直し、その気になって降りていくつもりで再び急な坂道を見下ろした。大勢の人間が、小さな子供ですら次々に下って行っているというのに、俺にはどうしてもその道を降りて行く勇気が出なかった。男の態度や雰囲気が豹変したのもその理由だったかもしれない。

 すると男は手を振って俺を呼びながら笑いかけてきた。だけどその笑顔はあまりにも胡散臭く、さっきまでの笑顔に感じていた安心感は微塵も湧いてこなかった。

 俺は右のせせらぎの道を見た。相変わらず青い顔をした無数の亡者のような連中が全員で俺を見つめていた。

 どうする? 出来ればどっちにも行きたく無い。だからと言ってここにこのまま居るわけにもいかない事を俺は知っていた。決断せねばならない。


 俺は手を振って呼ぶ男を振り返ると、しばらくその男を見つめた。男は何故俺が付いてこないのか不思議そうな顔をしていた。その時、何がどうしてどうなったのかはわからないが、俺は歩き出す決心をした。


 心配そうに俺を見つめる男の視線を振り切って、俺はせせらぎの道へ向かって歩き出した。土手に佇む頭に逆三角形を付けた白装束の無数の男女達は俺の動きを皆一斉に目で追った。俺がジャブっと浅瀬に足を踏み入れた途端、そいつらは一斉に宙に浮かび上がった。俺はまったく動じる事無くジャブッジャブッと浅瀬の上を歩いて行く。宙に飛んだ亡霊モドキの奴らは次々に俺の頭上や真横や後ろや行く手までも、まわりをうるさく飛び回っていた。


 ここでも不思議なことが起こった。さっきまで土手に佇んでいた亡霊モドキたちは、その悲壮な表情とは打って変わって皆が皆笑っていたのだ。それも不気味な幽霊や妖怪のような笑い方ではなく、心底嬉しそうに、込み上げる歓喜を隠し切れないという屈託の無い笑顔だった。

 よくよく見ると中には知った顔がいるような気がした。何故か皆、歳の頃は二十歳前後、見知った顔でも微妙に違う? 若返っているのだ。随分前に亡くなったじいちゃんとばあちゃんが二十歳に戻ったような? 仲が良かった叔母さんも二十歳に戻ったような? 気付くと空一面に飛び交っている亡霊モドキの連中は、全員が俺に縁とゆかりを持った人々に感じられた。

 皆が口々に、とは言っても声を発してはいなかったが「よかった~」「よくやった」「頑張ったね」「まったく気が気じゃなかったぞ」などと囁きかけてくれているような気さえした。

 すると飛び交う人々のその中に、登山帽を被ったさっきまで俺を道案内してくれていた男も交じっていた。その男も笑っていて、今度はその笑顔を見た時になんだか涙が出そうなくらいに安堵して嬉しい気持ちが込み上げてきたのだ。

 宙を飛びかう大勢の白装束の人々、その群れの中から外れて男は俺の前に降りてきた。男は俺に歩み寄り顔を目の前に近づけると、口を開かずに俺に囁きかけた。


「あんな奴に騙されないで本当によかった」


 そう言われた途端に意識がぼんやり薄れてきて目の前が暗くなり、そして目が覚めた。




 俺は鼻にチューブを入れられて酸素マスクを付けられベッドに寝かされていた。ぼんやりと天井の蛍光灯を見つめながら周辺を伺うと、どうやら病院か何かの個室のような雰囲気。体がゴリゴリに固まっている感覚で力が入らない。それでも無理に足に力を入れて動かそうとすると激痛が走る。


「あ! ヒロシ! 先生ヒロシが目を覚ましました!」


 焦点が定まらぬ視界に母親の泣きじゃくる顔が見えた。すぐに何人かの見知らぬ顔が俺を覗き込み周りで何かをしている気配。すると頭に響くエコーがかかったような根太い男の声がぼんやりと聞こえてきた。


「意識が戻ったようですね。このまましばらく安静にして、もし眠るようならそのまま寝かせてあげてください」

「先生、ヒロシは?」

「ええ、脳波、心拍、血圧、その他にも異常は見られないようです。しばらくは絶対安静ですが、おそらく回復に向かうでしょう」


 母親の泣き崩れるような気配、他にも誰かいたようだが俺はすぐに眠ってしまったみたいで、遠くから聞こえてくるような母親の泣き声だけが記憶に残っている。

 眠りにつくわずかな瞬間に思い出したことは、バイクで走っていた時、対抗車線のトラックがいきなり目の前に曲がってきて……おそらくそれで事故にあったのだろう。後日きいた話では、俺は丸二日間も意識不明の昏睡状態だったらしい。だとすると、夢で見たあの光景は俗に言う『死後の世界』というヤツだったのだろうか?

 さらに驚いたのは、俺が意識不明の昏睡状態の時に旅客機の墜落事故があったそうだ。もしあそこが死後の世界だというのなら、あの時T字路で見た大勢の人々はその犠牲者だったのだろうか? すると坂を下って向かった先は死後の世界そのもので、俺は反対側の道を選んだから、今こうして生きていられるのか?


 だとすればますます気になってくる……あそこで俺を助けてくれたのは一体誰だったんだろう……今でもそれを思い出そうとすると、何か心に温かい感情が湧き起こりとても心地よい空気に包まれるような気がして涙が出そうになるんだ。



            短編集「分岐点」~生死を分かつ場所~ END

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