13 アパート
アキは紙から顔を上げた。書こうとして何度も紙につけた鉛筆の先が、曲がりくねり、奇妙な模様を作っているだけだった。なにも思いつかない。
アキは頭を抱え、椅子から下りると、クローゼットの中に入り込んで扉を閉めた。狭すぎるそのクローゼットは、普段から猫背なアキの背中をさらに丸めることを強いた。
コンコン、とクローゼットの扉がノックされた。
「ねえアキ、僕だよ」
ケロの声が頭の中に流れ込んできた。
「もう放っといて。私はなんにも生み出せないただのクズ」
「アキ、外に出よう。世界を見てよ」
「外に出たって灰色の街並みと灰色の将来が広がっているだけ。子供のままでこの安全な部屋に籠っていることが一番安全なの」
「世界には美しいものがたくさんあるよ。お願いだよ。それを見たらきっと、物語が書けるよ」
「もうダメなんだよ。私にはもう創造力が残ってないんだよ。それに、美しいものを美しいと感じられる力ももうない。ただ、死ぬのが嫌だから生きていたいというそれだけなんだよ。私はインプレッションが欲しいし、汚い承認欲だってある。評価されない無価値な人間なんだ」
アキは吐き出した。惨めだった。思い出に縋って引きこもり、自分を切り売りしようとしても、もう自分は空っぽだった。
ケロの返答がない。数分待つが、もう声が聞こえない。部屋はしんとしていた。そうか、ケロはただの思い出だから実際にはいないんだ。
アキはクローゼットの扉を開けた。自分で開けた覚えは無いのに、部屋の窓とカーテンが開け放たれていて、夜風にレースが緩やかに揺れていた。外は夜で、満月が空に浮いていた。月明りが部屋に差し込んで床を照らしている。
「あ、れ……?」
見つめているだけでだんだん大きくなって、やがて全部を飲み込んでしまいそうなくらい、真っ白で冷たい月光。
「綺麗だ」
アキの世界にはアキと満月しかない。クローゼットから這うように出て、月光のスポットライトの中へ入る。目の中に月が浮かんでいるのが分かる。それが一粒一粒、目から零れ落ちる。
答えが出る。あまりに簡単なことだった。いつまでも見ていたい。この美しいものを、美しいと感じられなくなるまで、いや、そんな終わりのことなんてどうでもいいから、今、このまま眺めていたい。美しいものを見たいから死にたくない。
アキは月に手を伸ばす。書かなくちゃ。この美しいものを書かなくちゃ。この創作欲は私のため?それとも誰かのため?もう、そんなことはどうでもいい。ただ、書きたい。それだけしかない。
アキは這うようにして鉛筆を取り、月光の中、床に這いつくばるようにして先ほどの紙の裏側に書いた。月が美しい、ただそれだけを伝えるための物語のプロットを書いた。
🌕 🌕 🌕
「そこを退いてくれ」
ハヤシは片手で銃を構えて、ドアの前に立ちふさがるナニエルとミカに言った。片方の腕は包帯で固定されて痛々しい。
「それは出来ないよ。アキが最高傑作を創り上げるまで時間を稼ぐ。それが僕たちの役目だから」
「最高傑作とはなんだ?この世界で生き延びるための基準をクリアするような作品か?もう遅いんだよ」
「そうじゃない。この世界を丸ごと全部ひっくり返すような、そういう作品」
ハヤシは無表情のまま銃を振って合図した。銃を構えた大人たちが物陰からぞろぞろと現れる。
「時間切れだ」
「アキは、書くよ」
銃が一斉に発砲される。
🌕 🌕 🌕
ハヤシは無残な肉片となった二人だったものを踏み越え、アキの部屋へ入った。ふわりと涼しい夜風が顔を撫でた。窓が開いている。月光がやけに明るい。ハヤシは他の子供管理局員たちを部屋の前で待たせ、一人奥に進んだ。
ハヤシは窓のサッシにペンダントが結び付けられているのに気が付いた。透明なペンダントに入った月明りが月光を拡散させ、床に大きく広がらせていた。
部屋には誰もいなかった。
ハヤシは机の上に開いたまま置いてあるノートパソコンの前に立った。アキの作品はどれも未完成のままエンディングを書かないまま放置してある物ばかりだったが、一つだけ結末まで書かれている作品があった。ハヤシは管理局員たちを呼ぶ。
大人たちは黙ってその作品を読んだ。
読み終わってハヤシは、自分の胸のあたりで少し熱を持って揺れるものに気が付いた。ペンダントだった。ペンダントを取り出す。漆黒の色だったそれは、かすかにその漆黒が薄くなって光っていた。それを見た他の局員たちも自分のペンダントを取り出し、声を上げる。
失われた光はもう二度と戻らないと思っていた。しかし、胸を突き刺したこの作品が、漆黒のペンダントに光を戻した。アキの作品は世界の仕組みを変えたのだった。
ハヤシは自分の頬を伝うそれがなんなのかわからなかったが、顔を見合わせる他の局員も同じようだった。
子供しかいない世界には、どこまでも美しい月光が降り注いでいた。
ナニエル 岡倉桜紅 @okakura_miku
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