エピローグ
雪解け混じりの湿ったアスファルトの匂いがかすかに香るカフェテラスで、手にした文庫のページをめくる。テーブルの上に置かれたチョコレートケーキのアーモンドを狙っているのか、柵の上で雀が二羽さえずっていた。コーヒーに伸ばした手を止めてアーモンドをつまみ、口へと放る。雀たちが勢いよく飛び立つ。木曜日の午前十時、よく晴れた日で差し込む陽が温かい。僕はまた一枚、ページをめくる。
卓上のスマートフォンの通知ランプが緑色に点滅したことに気づいたのは、約束の時間になったかなと文庫本に栞を挟みこんだ時だった。実際には時刻は約束より五分ほど経過していて、通知に記された内容もそれを表していた。
「強風のため遅延か。新潟らしい」
いつもとは逆だった。相手の方が先に待ち合わせ場所にいることが多いのに。
春一番は太平洋側でとっくに過ぎたらしいけれど、新潟の春はいつも肌寒く、風が強い。再び本に戻ろうとした視線に、見慣れたブーツとタイトスカートが目に入る。
「お待たせしました、森崎さん」
「大学合格おめでとう、北畝」
顔を上げると、白い丸襟のブラウスに桜色のカーディガンを羽織った北畝が立っていた。大学入試ぶりに見た彼女は、三つ編みを垂らした頭をぺこりと下げると、対面の座席へと腰掛ける。注文を受付けに来た店員にホットカフェラテとバターワッフルを頼んで、彼女はわずかにふわついた髪を手櫛で梳く。駅からここまで小走りで駆けてきたのだろう。
「遅延で済んでよかったです。電車が止まったら、森崎さんが延々とひとりで黄昏るところでした」
「いや、その時はバスなりで来てほしいかな……。――入学書類は無事に届いた?」
「ええ、ばっちりです。もし足りなかったら、職員としてちゃんと教えてください」
「そうしてあげたいところだけど、あいにく就労は四月一日からだよ。学生がどの書類を提出するかすら、僕は知らない」
「そこは四年前を思い出していただいて……」
無茶言うな、と笑みが漏れる。
今日の待ち合わせは、祝勝会だった。僕は大学職員として、北畝は大学生として、ともに進路が確定した、そのお祝い。今やなじみとなった水族館に行って、美術館の特別展示を眺め、そして夜には――お互いに提出しなければいけない山のような書類を突き合わせる。明日の朝には必要な書類を役所に届け出たり受け取ったりする予定で、身分証明証やら転居届やら、とにかく入用だ。
運ばれてきたカフェラテに口をつけた北畝が、「ふう」と一息ついた。
「吾田さんは元気かい? 最近は顔出せてないか」
「この前こっちに顔見せに来ましたよ。合格発表前のナイーブな時期に、楽しそうにしてました。いまだに深沢さんの恋心に気づいてないところといい、変に振り切れちゃいましたね」
「あの人、もともとあんなに明るい性格だったんだな」
「いい意味で社交性がないんですよね。仕事に一途すぎて。せっかくの休暇に二人きりで旅行に誘われたら、さすがに何か気づいてもいいと思うんですけど……。恋愛相談に乗ってるこっちの身にもなってほしいです。全部バラしたくなる瞬間が時折訪れます……」
北畝と深沢は定期的に遊んでいるらしい。一緒の空間にいるなんて無理でしょうと言っていた昨年の調査が懐かしい。
「そういえば、古染さんの家はどうするって?」
「私があそこから大学に通うわけにもいきませんし、優莉さんのご家族のご意向もあって、今度取り壊しの予定です。残しておきたかったんですけど、吾田さんももう帰る予定はないとおっしゃってましたから。実質的な更迭左遷ですし、家を二つ持つ余裕はさすがにないのかもしれませんね」
「そうか。もう、一年か」
鯨王の駆除に成功したのか、最後まで分からなかった。自衛隊機と資材を借り、生命の神秘たる巨大クジラと植物プランクトンを無断で闇に葬ったむつ研究所は、内閣府を含めた国内外のあらゆる研究機関から非難を受け、計画を凍結させられた。鯨音を主軸においた助成金は打ち切られ、今はJAMSTECの直下で観測サポートという形をとっている。
ただ、確かなことは一つだけ。あれから鯨音は聞こえず、僕たちもまた、他人の感情が聞こえなくなったということだ。たまたま一緒に沈み込んだボートの残骸に打ち上げられ、僕たちは救助された。鯨音を奏でる主が息絶えたのかもしれないし、吸い込んだ海水によって脳に深刻なダメージが与えられたのかもしれない。いずれにせよ、僕たちは頭痛から解放され、――――北畝は、他人とのコミュニケーションがうまく取れなくなった。
昨春の北畝は、とても初対面の人間と話せる状態ではなかった。いつもおどおどしていて、自分の言動の後、すぐに相手の反応をうかがった。彼女にとって目が光を失ったようなものだったのだろう。突如として体感覚で持っていた情報を奪われれば、誰だって平常ではいられなくなるものだ。
北畝と目が合う。きょとんとした表情が、すぐに柔らかくなる。
「どうかされましたか。なにか懐かしむ顔をされてますよ」
「いや、悪いことばかりではなかったなと思ってさ」
北畝の対人関係は、しかしその後、劇的に改善した。今まで他人の感情を読み取り、柔軟に、あるいは頑なに生きてきたのだろう。盲目になった今の彼女は、何をするにも手探りで、明瞭な表情を見せるようになった。自己開示と信頼がトレードであることを理解し始めたようだった。
少女は前よりずっと明るく、確信に満ちた表情をするようになった。
「そろそろ行こうか。平日だし、そう混んではいないと思うけど」
「年の瀬の大清掃できれいになったアクリル板、三か月経ってやっと見れますよ……」
会計を終えて店を出ようとすると、カフェテリアの一角に据えられたテレビが速報を流し始めた。そちらに向いた北畝と僕の視線が、一様にぴたりと止まった。
太平洋のどこかの島で、巨大なクジラの死体が打ち上げられた。デスストランディングではなく、朽ちて、ボロボロになった灰色の身体。それは間違いなく、僕たちが一年前の冬に別れを告げた、あの白鯨だった。
ニュースは続ける。オゼビクジラの群れが、漂着した彼の遺体を弔うように、ザトウクジラのソングを奏でていたと。その天高く突き上げられた頭部が、一つ、また一つと映像の中で沈んでいく。
「はあ。心配して損しました」
横で立ち止まった北畝がそう呟くまで、僕はほかの客と一緒に、切り替わったテレビのニュース画面を茫然と見つめていた。隣の少女に視線を向けると、すこし赤くなったまなじりをくっと曲げて、はにかんだ。
「見送ってくれる友達、いたんじゃないですか」
彼女はそういうと、ぱっと僕の手を取って、ぶんぶんと振り出す。子供らしく、ご機嫌を全身で示すようにして跳ねる。勢いあまってこけそうになる彼女の腕を引いて抱えながら、僕たちは駐車場まで歩くことにした。梅の花が風にさらわれる中を、少女の手のぬくもりだけを感じながら進む。
ポケットでスマートフォンが鳴る。僕のコートもそうだし、北畝のスカートだってそうだ。発信者と内容が分かっているからこそ、今の僕たちには無粋だった。
「こういう時に掛けてくるこまめさは、深沢さんに発揮してあげればいいんですけど」
「大概仕事熱心な人だから……」
「そういえば森崎さん、叔母が決心ついたって言っていたので、今度の日曜どうですか。通過儀礼でしかありませんけど、やはりそこは通っておくべきでしょうから」
「急だな。……おいしい店でも探しておくよ」
「はい。楽しみにしてますから」
少女がぎゅうっと手を握る。その左手の温かさに、懐かしい気分になる。僕が強く握り返すと、北畝は一度照れたように表情を崩して、それからまたぶんぶんと腕を振った。
春の香りがする。白雲を抜けた淡い色の日光が、街灯のようにアスファルトを照らしていく。
桜のつぼみはまだ小さい。それでも、今年は大きな花が咲きそうだ。
鯨音 @itsuki2ki
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