神罰と鯨音

 気象庁の観測衛星から提供された太平洋の画像データを端から端まで機械分析にかけ、それらしき影をピックアップしては手動で取捨選択し、鯨王の浮上スパンとおおよその位置を推定できたのは、ちょうど次の太平洋近海に出没すると考えられる朝まで、一日を切ったところだった。

「日中の画像を確認した限りだから、鯨王が夜間どれくらいのスパンで浮上するのか、移動するのかは予測値でしかない。回遊の進路によっては大きく逸れることもありうる。ただ、ここ最近では最も本州に接近した浮上になると考えられる。本作戦はこれより衛星画像のリアルタイム受信・解析へ移行し、夜明けとともに鯨王の出没に備える」

 吾田の指示とともに青森空港から羽田行きの旅客機が飛び立ったのは、夕方だった。




 陸上自衛隊木更津駐屯地。ボディチェックを終えて衛門を警備用のLAVに先導されながらくぐり、敷地内を走ること五分ほどで到着したエプロンには、甲高いエンジン音が鳴り響いていた。一般的なヘリコプターとは異なる双翼のティルトローター機。アイドリング状態のV22オスプレイが一機、その腹を開けて待機していた。東雲の空に赤と緑の航空灯火で彩られた輪が見える。

 運転席の吾田が「あれだ」と呟くのを聞いて、隣の北畝が後席から身を乗り出す。内閣府の公用車はその付近まで近づいて、ゆっくり停車した。間近で見ると、想像よりも大きな体躯にのけ反りそうになる。まるで怪物が口をぽっかり開けているようだ。

 隊員の誘導を受けて車のドアを開けると、外界を満たしていた音が隙間から入り込んできた。今まで一点から発せられるイメージだった音はもはや空気の壁のようで、どこまで行っても重力のようにまとわりついて、とても会話できそうにはなかった。乗ってきた車のキーを吾田が隊員に渡す中、別の隊員の、案内という名の叫び声を受けて機内へ乗り込むと、ようやくその重さから解放された。

 機内は、整然とした混沌とでも形容するべき様相だった。取り外し可能な簡易座席が両端と庫内奥側に設置され、剥き出しの配線が迷路のように天井を駆け巡っていた。中央には小型船舶とラジコンのような小型車両、そして円筒状の鉄の塊が鎮座していた。事前の資料にはなかったワイヤーや工具、機内の内装などを、北畝とともにしげしげと眺めていると、吾田が遅れてやってきた。彼の搭乗が完了すると、格納庫の扉がゆっくりと閉じていく。積み下ろし口が大きな窓となって採光している印象だったが、窓から差し込む光と数カ所に据え付けられた赤色灯は十分に明るく、備え付けの照明は黙したままだった。

 閉め切った庫内ではプロペラの音もずいぶん小さくなったが、同乗する二名の隊員がヘッドフォンを渡してくれた。機内は声が届くので、操縦席と繋いでいるものなのだろう。格納庫のなかは思ったより冷えて、風がないだけ外よりマシ程度にひんやりとしていた。買ったばかりのダウンジャケットは太平洋側には大げさかと思ったが、そんなことはなさそうだ。

 エンジン音が高くなったかと思うと、無線がブツッ、と一度短く鳴く。

《こちらペリカンリーダー、本機は間もなく離陸する。目標は東京湾より南西約二百キロ、仮名西島の観測。操縦は佐伯三等陸佐、副操縦士に宮一等陸尉にて行う。搭乗者は内閣府より三名。吾田清二さん、北畝遥さん、森崎千里さん。相違ないでしょうか?》

 はい、と答えようとして入れたマイクのタイミングが一緒だったのか、ピーンとくぐもった高音がヘッドフォン内で響く。よくある事なのか佐伯は気にすることなく、《同行の隊員は二名。こちらは蜷川二等陸曹と平津一等陸士です。観測の助力のほか、何かあれば彼らにお願いいたします》と淡々と続けた。

 鯨王の駆除には観測後スピーディに到着するための速脚と、巨大生物用の兵装を搭載できるだけの庫内容量が必要だった。しかし害獣駆除の大義名分がないため都知事による爆装許可が下りず、戦闘機や攻撃ヘリは調達できなかった。代わりに外洋の無人島調査という題目でV22オスプレイを内閣府経由で借り、ボーリング等調査における爆破解体用にプラスチック爆薬を持っていくという手段をとった。

 この話はすでに統合幕僚長と打ち合わせが済んでおり、都知事の頭を飛び越えて作戦が行われる手筈だ。万が一の際、自衛隊側は知らぬ存ぜぬで話を済ませる約束とはいえ、そのような作戦に乗ってくれたのは、ひとえに宮古野所長に海上幕僚長のツテがあったおかげだろう。初期は抜け穴的な作戦に納得しなかった彼も、「国民の生命が脅かされる状態にあって、我々に協力できることがあるのならば」と引き受けてくれたという。オスプレイを擁する第一ヘリコプター団のよしみで本機が作戦上に組み込まれ、大容量と速度の両立化を図ることができた。

《ペリカンリーダーより各員。フライト予定時刻マルゴーサンマルを経過。搭乗員は再度安全を確認せよ》

 機長の伝達後、機体が徐々に動き出す。がくんと揺れる浮遊感は飛行機のそれよりも大きく、不安定に感じた。しかし振動が直に伝わるからか、恐怖心はない。異変が乗客に伝わるというのは、この場合は良いことだ。

 機体の姿勢が安定した頃、少し離れた席に座る吾田が、持ってきた大型のバッグからファイルを取り出し、一組の書類を取り出した。

「このあと、護衛艦〈いせ〉にて一度給油を行う予定だ。その後、洋上の推測エリアを巡回しつつ鯨王の浮上を待つ。そこにあるのが資材だ。足元には気をつけてくれ」

「……床に転がってるこれは?」

 隣に座る北畝が、床に転がった円筒を指さした。

「成形炸薬弾。モンロー/ノイマン効果を用いた爆薬で、圧力を一定方向に調整できる爆薬だよ。表向きは誕生した諸島の観測・掘削だからね。建前でも貨物がいる。移動用のボートと、人が通れない狭い通路向きのドローン、均すための爆薬と、岩盤掘削用の成形炸薬。C4爆薬だけじゃ岩盤を貫通させるのは難しいから、言い訳が効くように用意しておいたんだ」

《HQ、こちらペリカンリーダー。本機はこれより太平洋を南下し、南西二百キロの仮名西島の観測を行う。間もなく通信域を外れる。〈いせ〉付近で通信を再開する。送れ》

《了解。送れ》

 窓から見えるプロモーターがゆっくりと傾斜していく。安定性の高い垂直離着陸モードから、高速の巡航飛行に移行するためだ。だだっ広い滑走路がだんだんと遠ざかっていく。機内の露出配線と普段の旅客機とは違う庫内の冷気が、非日常感を増していた。剥き出しの爆薬と見慣れない無限軌道付きのラジコンが、これから行われることの重大性をひしひしとアピールする。

「うまく、いくのでしょうか」北畝がぼそりと呟いた。彼女は床に並んだ道具たちを見つめながら、ダウンジャケットの袖先に手のひらをすっぽりと隠す。

「寒くはないか」的外れな回答は、彼女の内心を慮ってのことだった。

「もう決心はつきましたから。震えは収まりました」

 スキニーの黒い膝先を覆うようにして縮こまる背を、ポンポンと叩く。

「うまくいくよ、きっと」

 それは僕の願いでもあった。



 海上自衛隊護衛艦〈いせ〉艦上で給油を始める頃には、すっかり日は昇りきっていた。身体を動かしがてら快晴の機外へ出ると、穏やかに凪ぐ海上は風もそれほど吹いておらず、日光も相まって機内より暖かく感じられた。改めて機長と〈いせ〉艦長の白瀬一等海佐に挨拶する吾田から離れ、周縁部のロープから海を眺める。

 二、三度大きく息を吸って、吐く。乗員の奇異な視線を受け止めながらも何度かやっていると、隣の北畝も真似を始めた。冷気が喉につっかえたのかつまづいてぎこちない深呼吸に、思わず笑ってしまう。

「……はあ。機内に戻りましょう」

「悪かったって」

「森崎さんは時々、偽物かドッペルゲンガーかってくらい、からかってきますよね」

「ごめんって。――そういえば、偽物といえば、どうして北畝は出会ってすぐのころ、星を見に連れ出してくれたんだ?」

 星? 疑問符を浮かべた北畝が、ああとうなずく。

「あれは、ちょっとした罪悪感です。森崎さんに後ほど指摘されましたけど、優莉さんの代わりが目の前に現れたにしても、露悪的にしすぎたなと、反省したわけです。だから、すこし仲良くしようと思って。……ごめんなさい」

「いや、いいよ」

 当時は困惑したけれど、北畝の事情を知れば致し方ないように思える。北畝は、人にやさしくするには境遇が不遇で、人に冷たくするには優しすぎるのだ。

 給油を終えて艦上を離れると、複数の乗員が手を振ってくれた。北畝とともに窓の隙間からそれを見ていると、吾田が小さく咳払いをする。

「改めて、本作戦の概要を伝える。目標は、鯨王の駆除だ。これより推測される出現エリア上を巡回し、目視またはむつ研究所からの観測で対象の位置が判明したら、急行する。対象から五キロメートル地点に到達次第、ボートを投下。無人操舵で対象に近づけた後、別途用意した爆発物処理用ロボット――スウォードにて爆薬をおろして移動し、脳天付近で点火する」

「今更ですけど、推定全長二百メートルの怪物にも、プラスチック爆薬が効くものですか?」

「効きますよ。外皮硬度と爆薬量にもよりますが、クジラの体表は脂肪が主成分ですから。頭部に大きな損傷を与えると潜航にも影響が出るでしょうし、……生存は難しいでしょうね」

「……北畝、」

 気の利いた言葉が思いつかず、詰まった瞬間だった。ヘッドフォンにプツと甲高い音が入る。

《――――〈いせ〉より通信あり。南西約四百マイルに白い無人島の出没を確認したと、むつ研究所から連絡ありとのこと》

 水を打ったみたいに場が静まり返った。要領を得ない表情の隊員二名を除いて、緊張感が場を支配する。

「すぐに向かってください。それが目標で間違いありません」

《承知しました。急行します》

 吾田の指示にエンジン音がいっそう高くなり、機体が速度を上げているのが分かった。窓から見える群青の床は遠近感を狂わせるが、その上にかぶさった綿雲が機体の速さを教えてくれる。不気味なほど明るい室外に比して、室内は沈黙に包まれたままで、決して長くはないはずなのに、やけに呼吸の音が耳に響いた。

 鯨音は聞こえない。隣の少女の緊張だけが、逸るようなテンポで頭を揺らした。

《目標を目視にて確認》

 短いアナウンスに、吾田が立ちあがって操縦席の背後から覗き込みに向かった。その背を北畝と追って同様に見ると、真っ青な海の中にぽつんと、白い点があるのが見えた。米粒のようにしか見えない小ささだが、昼空に浮かぶ太陽のように、浮きだっていてやけに眩しい。

《すごいですね、まるで大きなクジラだ》

「そうですよ。あれは、巨大なクジラです」

 冗談のつもりだったのか、宮一尉が間の抜けた声を出した。

《まさか。〈いせ〉くらいはありますよ》

「〈いせ〉の全長は?」

《一九七メートルです》

「まさしくですね。アレは推定二百メートルですから」

 道化を見るような目が吾田へと注がれる。実際のところ、日常生活で二百メートルもの生物がいるとは思わないし、遭遇したところで現実だとは思うまい。

《間もなくボート投下地点、対象から五キロメートルに入ります。オートローテーションオン、VTOLに移行します。――高度一◯まで降下。海面の状態を見てボートを降ろします。補助員両名は指示に従い無人車両搭載の準備に移れ》

 機長は表情一つ変えず、徐々に高度を落としていく。いつの間にか垂直方向に建てられたモーターが回転数を落として、滞空しながら海へと近づいていく。機首を反転させて鯨王にケツを向けた状態になると、格納庫がゆっくりと開いていった。隙間から差し込む光に目をそばめると、徐々に空と海の溶け合った青が見えてくる。潮風と油の入り混じった機内の空気が、緊張した鼻腔へと飛び込んできた。

 一方の機内では、吾田の指示のもと、迅速な動きでボートにスウォードが据え付けられた。工具の扱いに熟練しているのが伝わってくる、精密かつ大胆な手捌きで、ものの一分でボートにロボットと爆薬が据え付けられた。

「投下準備完了。爆薬の安全装置は直前に外しますが、安全のため皆様はお下がりください!」腹が開いてプロペラ音が飛び込んでくる機内で、がなり声が飛んだ。

《高度二に到達。海水面に問題なし。投下せよ》

「了解、投下開始!」

 ガチャン。開いた格納庫扉を滑走路代わりにして、ボートが滑り落ちていく。船尾が宙に浮くのと同時に、小型のパラシュートが四つ展開する。浮遊させるためではなく、姿勢を安定させるための落下傘なのか、予想より大きな音と派手な水しぶきを上げて、ボートは着水した。数メートル程度であれば衝撃も大きくないのか、しばらくしてから、ボートは不調なくトトトと機関の音を響かせ始めた。

「エンジンオン、小型モーターで目標に近づきます。スウォード、無線通信よし。ボートはこちらで操作して対象に近づけますので、車両カメラのオンラインだけ確認をお願いいたします」

 蜷川二曹に手渡されたアタッシュケースみたいな厚さのパソコンを開くと、ボート上に搭載されたスウォードのカメラの映像が映し出された。ボートの舳先には海と溶け合いそうな空の真ん中に、わずかに認識できる極小の白点が映っていた。無線通信をしているためか映像は全体に不鮮明で、ピントの合っていない家庭用監視カメラみたいだった。ぐっ、と画面が揺れたかと思うと、海上でモーターの音が大きくなる。ずずずっと遺体袋を引きずるような鈍重さでボートが発進し、白い飛沫をあげながら鯨王に向かって進んでいく。

 最初の五分ほどはほとんど変わらなかった映像も、直に米粒のようだった鯨王の姿が見る間に大きくなっていった。

 冗談みたいな光景だった。海上に露出している背びれ側だけでも、一メートルほどあるのではないだろうか。水面に露出している体表は、四十度近い傾斜を伴っている。無限軌道を搭載しているといえど、よほど上手く操舵してスウォードを乗り上げさせなければ、そもそも脳天に到達することさえ厳しそうだ。どのように足がかりを作るのだろう。事前の操作練習では、問題なく坂を駆け上がれていたのだが――。

 ――しかし、それは杞憂に終わった。

 ボートが鯨王まで数十メートルを切ったころだった。

「無人ボート、間もなく対象付近に到達。エンジンオフ、減速開始――――あっ」

 蜷川二曹の間の抜けた声の理由は、すぐに分かった。スウォードの車載カメラでも同様の事象を捉えていたからだ。

 巨大な尾が、遥か天高く持ち上げられていた。

 陽光を遮るほどの影を落とす巨大な傘に、思わずカメラから海へと目を移す。まるで夢のようだった。紺碧の土壌に、白い巨塔が屹立しているのが見えた。

 二十メートルほどあるだろうか。バケツをひっくり返したように水をその背から垂れ流し、ゆっくりと鯨王の尾ひれが動きを止める。ジェットコースターがコースの頂点にたどり着いたときのような、静寂と絶望が強調された一拍。

「エンジン全開! 回避ッ――――!」

 バチンと振り下ろされた白い柱が、ボートを一撃で粉砕した。

 機雷が炸裂したかのような水柱と破片が十五メートルほど立ち昇り、燃料系統に引火したのだろう、綿雲のような火炎がその中で渦巻く。さらに遅れてやってきたのは、ボートに搭載していたプラスチック爆薬への引火だった。爆炎が、数秒遅れで破裂した。

「耳をふさいで、口を開けて!」怒号に押されるように隊員を真似ると、海上を這うように伝ってきた白い渦が通り過ぎ、ほんのかすかに風圧と、それから轟音とが機内へとなだれ込んだ。

「む、無人ボート。……通信途絶しました」

 平津一尉が茫然と事実を述べる。理解していない人間だけが発することのできる、抑揚とイントネーションを失った呼気だった。

 実際、僕たちも一言だって口にできなかった。聳え立った巨塔の神々しさと、憬れ。そして作戦の要が数瞬の間に消滅したという事実。

 どれもが非現実的で、受容しがたい光景だった。

「吾田さん、ボートが破壊されました。どうしますか」

 北畝の一言がなければ、その場の全員が鯨王を見つめ続けていたに違いない。爆発によりダメージを受けたのか、あるいは爆音を煩ったか、潜る気配こそ無さそうだが緩慢な動作で回遊を始めた鯨王は、雄々しく神秘さえ感じさせる巨体ゆえに、見る者の心をひきつけた。

 吾田はしばし驚愕の表情で凍っていた。しかし北畝が催促すると、「あれを揃えるのに、いくらしたと思ってるんだか」と作り笑いを見せた。

 そう、作り笑いだ。いつものように飄々とした態度でいても、実際のところ、余裕などかけらもないのだから。

 鯨王による迎撃は、完全に想定外だった。問題の要所はスウォードの搬入と爆薬の移動にあり、ボートそのものがたどり着けない可能性など、全く考慮されていなかった。いや、投下時での故障や、電源・燃料関係でのアクシデントには備えてあった。予備電源や配線を工夫した特注品なのだ。しかし、そのボートがまさか迎撃に遭うとは。

「鯨王がボートを敵と認識しているとはね……、いや、決してないとは断定できない可能性だった。オゼビクジラが船舶を外敵と認識している、そう判明した時点で、そこにたどり着いてもよかったはずなのに……」

「ヒゲクジラ類は顎の脂肪で音を感知できますから、それでボートのエンジン音を捉えたのかもしれません。海中を進む波は伝播が強くなりますし」

「それにしても、水中で音の正確な方向を探知するとはね……。年寄りの勘か、あるいは体長の巨大さに伴って音の進行方向を確認できるだけのスペースがあるのか……? いや、今は後回しか。とにかく――――」

 とにかく、作戦は失敗だった。

 ミサイルか自走砲でも引っ張ってきて遠距離爆撃するのが正攻法だが、害獣駆除の要請もない状態でそんな兵装を借り出すことはできない。仮に急いで引き返して用意できたところで鯨王の潜航には間に合わないし、次どこに浮上するかが分からない。傷を負った野生動物が予想通りの行動パターンで動いてくれるなんて、ありえない話だ。あと半刻も経たないうちに鯨王は潜り始め、僕たちは撤収することになる。吾田が今回のプランに予算をどれだけ費やしたのかは知らないが、この研究を傾かせるほどのコストが投じられているはずだ。

 今、ここで再挑戦するには、予備の爆薬だって、ほとんどない。そもそも、脳天にたどり着くまでの足を失った現状で、オスプレイからばらばらと爆薬を投げ込んだとして、致命傷を与えられるとも思えない。

 もし、もし確実にダメージを与える手段があるとすれば――――、

「――――人力での爆薬設置、しかなさそうですね」

 北畝が、至極冷静に務めた表情で、ぽつりと呟いた。

「脳天まで人力で登って、手動で爆破する。それしかありません」

 北畝の発言に、吾田が顔を上げた。

「私がやります。効率的に急所を破壊するためには、体構造をよく理解した人間がやるべきですから」

「ダメだ。……あまりにも危険すぎる」

 危険。不可能とは言わないその非難は、作戦に一考の余地があるとも取れる回答だった。

「せめて、やるなら僕が降りよう。クジラの脳天なら僕だって分かる」

「全体を俯瞰してくれる大人が必要なんです。撤収のタイミングも、自衛隊の方々への指揮も、吾田さんにしかできないことです。万が一があった時、私たちでは方針を決められません」

「万が一って、死ぬつもりかい」

「最悪を想定せずに行動するのは苦手なだけです」

「だが、しかし……」

 吾田の困惑と、優柔不断はもっともなものだった。彼にとって北畝は妹同然の存在で、そうでなくとも、自分より小さい一人の少女なのだ。何が起きるかわからない不安定で巨大な独楽の上に乗せられるほど、楽観的でいられるわけがない。

 二人の間で視線を動かしながら、僕は数日前の出来事を思い出していた。



「もし現場で鯨王と遭遇できたら、直接会えるように吾田さんを説得していただけませんか」

 そう北畝が声をかけてきたのは、鯨王駆除が正式に決定した午後のことだった。会議室で僕を呼び止めた彼女の、会うという言葉の意味が理解できず、その表情を見つめる。

「無人操作で作戦が成功すれば、私は何を言うつもりありません。でも、もし仮にプランが失敗するようなことがあれば――それをチャンスと呼ぶのは違うのでしょうが――、私は、鯨王と話がしたいんです」

 すぐにそれが、彼女自身による鯨王への降下だと気づいた。ヘリを使った空路での急襲というプランは決まっていて、それが失敗した場合のことを言っているのだろう。何らかの代替手段が見つかるにせよ、打つ手なく撤退することになったとしても、そのいずれかで北畝が鯨王に直接触れるタイミングを作ってほしいと。

「……仮に北畝の思惑通りプランが失敗したとする。僕が協力して、君が鯨王と会えるように話をつける。それでも、鯨王が君との対話を求めているとは、限らないんじゃないか」

 嫌味ではなく、素直な疑問だった。僕はいまだ、北畝ほど鯨王を信頼していない。所詮は生物だと思っているし、話が通じるとも思っていない。クジラが一人の人間を個体として認識しているかすら不明だし、仮に認識していたとして、歓迎してくれるとは限らない。

「それでも、私は鯨王に会いたいんです」

「象の群れと一緒の檻で眠ったことはある? シャチと同じ水槽で泳いだことは? 身近な例なら、地震が起きている中で、脚立の天板に立ったことは。君がやろうとしていることは、その全部を掛け合わせた行為だ。いや、もっと危ないかもしれない。座礁した船で沈没を待つのとはわけが違う。相手は規則性のない生き物だ」

「命を捨てるような行為だということは、よく理解しているつもりです」

 北畝は真剣な表情で、そう呟いた。命の危機に瀕した際の恐怖は、たぶん経験してみないと分からない。人は死ぬ。その忘れてはならない重要な事実は他者のそれによって学習できるが、その事実を自分の身に充て返るためには、特殊な経験値が必要だ。

「鯨王に会うのは、北畝自身のためか。それとも、世界のため?」

「……私の、ためです。我儘でごめんなさい。でも、私が進むために、必要なんです」

「そうか、――なら答えは決まってるよ」

 僕はゆっくりと頷いた。その判断が、決して容易なものではないと、彼女に伝わるよう念じながら。

 少女が世界のためだと言っていたら、断っていただろう。それはきっと本心ではないし、世界と少女の命を天秤にかければ、前者なんてすっ飛んでしまう。どこかの誰か、ヒーローとか主人公に任せればいいからだ。

 でも、彼女が――北畝遥が――進むために鯨王と会わねばならないというのなら、それを邪魔立てする理由は誰にもない。彼女にとってそれは文字どおり命がけのことで、生涯をかけてきた目標だろうから。

 それはきっと、僕にも想像できない、命への責任なのだ。



「現場判断で柔軟に動ける人材の方がいいと思います。そういう意味で、北畝は適任だ」

 横から口を出すと、吾田の目線がこちらに向いた。僕がこちら側につくとは思っていなかったのだろう。刺々しい敵意が鈍い音で脳内を走る。

「そんなありきたりな仕事観で動くような話じゃないんだ。万が一、鯨王が動き出したら、その上にいるのが誰だろうが小事だ。広い海で知人を喪う悲しみは、君が一番知っていると思っていたが」

「ええ。分かっていますよ。こと海に関してはですが。――――なので、僕も行きます。北畝を一人では行かせません」

 北畝が「え」と短く漏らしたのを、聞こえないふりをした。同行するとは事前に一切伝えていないし、伝える気もなかった。サプライズしようと思ったわけじゃない。鯨王と会う覚悟が揺るぎないものなら、僕がついてくるかは些事のはずだからだ。

 海の上で二人でいたって、何になるわけでもない。それでも孤独にさいなまれた少女を、一人放り出すことだけはしたくなかった。

「……私から頼むところでした。ぜひお願いします」しかし北畝からは、さらに予想外の承諾が返ってきた。売り言葉に買い言葉なんじゃないのかと北畝の意思を確認するようにその表情を覗くと、彼女は慎み深く頭を下げた。

「鯨王に会いに行くなら森崎さんと一緒に伺うと、ずっと決めていたんです。森崎さんの過去を思うと、とても提案できませんでしたが……。森崎さんからおっしゃっていただけるなら、ぜひお願いします」

「……ああ。任せて」

「――勝手に話を進めないでくれ。……北畝ちゃん、君はわかっていない。君を想ってくれてる人はちゃんといるんだ。自暴自棄になるんじゃない。君の叔母さんも、研究所のメンバーも。君を失いたくないのは、僕も同じなんだ。もしこの場にいたら、優莉だって、きっと――」

「知ってます。森崎さんも、好きでいてくれると言ってくれましたから」

「…………ほぅ」

 北畝の突然の放言に、吾田が感情を殺した感嘆をあげる。まったく誤解ではないが、その言葉選びはここではまずい。

「優莉さんが私を大事にしてくれていたことも、よく分かっています。吾田さんが、そんな私のことを妹のように気にかけてくれていることも。でも、もういいんです」

 北畝が顔を上げる。そっと胸に当てた手のひらで、彼女にとって大切なものを包み込むように丸める。

「もういいんですよ、吾田さん。私は、一人で歩けるようになりました。支えてあげると言ってくれる大切な人を、見つけることが出来ました。だから、私に縛られないでください。吾田さんは、吾田さんの幸せを見つけてほしいんです。優莉さんだって、――お姉ちゃんだって、きっとそう言うと思います」

 北畝は、わずかに泣きそうな表情をしていた。

 ずっと、これを伝えたかったのだろう。私のことはもう気にかけなくていいと、そう自惚れるほどの自信がずっとなかったばかりに、彼女は自責と愛情の受容に苛まれていた。

 それは、恋人を失わせたのは私だと、能天気に生きることが出来ない少女の告解だった。

「私は、前の向き方を、やっと覚えましたから」

「……北畝ちゃんは、わかってない。優莉は、あれでいて寂しがりなところがあるんだ。太陽だって、照らされてくれる惑星が周囲にいてくれなければ、寂しくなってしまうもので……、あいつは、まだちょっと忘れるには早いよ、って怒るに決まってる」

「えぇ、そうかも知れませんね。……優莉さんはたしかに、そう言いそうです」

 鯨王が回遊をピタリと止める。振り返った北畝は袖で頬を拭うと、海を見つめたまま、ゆっくりと微笑みを浮かべた。

「でも私、大切に想ってくれる人を見つけられたって、自慢してきたいんです。親離れは、一番の親孝行ですから」

「……どうしても行くんだね」

「はい」

 吾田が二、三度頷いてから「よし」と短く呟いた。

「分かった。クジラの女王の頼みだ。北畝ちゃんに一任する。森崎くんも、彼女を守ってあげてくれ。……君になら、任せられる」

「……頑張ります」

 任せてくださいとは、まだ言えなかった。僕は北畝の隣にいてあげられるように、頑張ることしかできないから。自分の悩みひとつ解決できない僕に、共依存せず良好な関係を築ける確約はできない。

「最善を尽くしますよ。安心してください」

 せめて彼女の命くらいは守れるようにと、僕はそう答えた。

「問題は、残った爆薬量ですね。的確に急所を狙ったとして、プラスチック爆薬を全部使っても、総量が足りるかどうか。せめて一撃、強いものでもあれば――」

 北畝が何かに思い至ったように口を止めた。その視線の先は、その場の三人が一致していた。予備爆薬の横に積まれた、細長い円筒。北畝が吾田へと視線を戻す。

「掘削作業発生と、業務報告書には記入をお願いします」



 成形炸薬の噴出による脳天爆破。これが作戦の中心に据えられた。数個の予備爆薬では、いかに効率よく使っても表皮を剥がすのがやっとだと算出されたため、炸薬を自立させる重石として用いるなど、補助的な使用に努めることとなった。ワイヤーと爆薬を結び、その中心に炸薬を屹立させて、垂直方向への噴出を試みる。元は岩盤貫通用の爆薬だ。いかに巨体といえど、皮膚で守れるような代物ではない。

 遠くに望む鯨王の尾びれは、ボートの燃料と搭載された爆薬によって激しく損傷していた。外皮硬度は通常の鯨類と大きく変わらないと推測できる。

「では、改めて作戦を確認するよ。目標は海面に露出している鯨王の脳天部だ。背びれ付近に接近し、森崎くんと北畝ちゃん、成形炸薬と予備爆薬、そしてワイヤーを下ろす。二人は資材を持って体表上を歩いて頭部に向かい、成形炸薬を縦に配置したら、予備爆薬とワイヤーで固定する。イメージとしては、テントを張る感じだね。二人の準備が終わり次第、再度僕たちが接近。君たちを収納して安全な距離まで離れた後、起爆する」

 ワイヤーで一つに束ねられた四本の成形炸薬に、蜷川二曹が簡素な取っ手をつけてくれる。

「本当は我々が降りるべきなのでしょうが……」平津一尉の呟きに、吾田が首を振る。「皆さんには航空係として来ていただいてますから。研究調査の本場まで取り上げられてしまうと、始末に悪いです。――それに、」と吾田が付け加えた。

「どのみち今回の作戦では、あなた方の命を危険に晒すかもしれません」

 蜷川二曹の息を吞む音が聞こえる。そう。鯨王に近づくとは、鯨音を間近で聞くリスクがあるということだ。先ほどの鯨王のうめき声はソングとして成立しておらず、僕たちに影響を及ぼさなかったようだった。しかし、鯨王が静止している今は、話が変わってくる。いつ彼が歌いだすとも限らず、それはミカンの汁をかけた風船に近づいていくに等しい無謀だった。

 もし一度でも鯨王が鳴けば、その瞬間、この場にいる全員が死亡する。

 返事は、コックピットから返ってきた。

「問題ありません。でかいクジラやら調査のはずが討伐になっただとか、状況は今ひとつ呑み込めていませんが、――――我々は、宣誓を述べた時から覚悟しています」

「……ありがとうございます」敬服と感謝のこもった挨拶を、吾田が交わした。

 そうして、第二プランが決行された。ティルトローターを垂直に立てながら、ヘリが徐々に鯨王の直上へと降下する。帯電したままドアノブに触れるような緊張感だった。ゆっくり、ゆっくりとヘリは高度を下げ、そしてあわやぶつかるかと思った瞬間、体表から十センチほどの空間を開けて停止した。数秒、様子見をしてみたが、全くブレることなく滞空している。さすがの技術だった。

「鯨王に動きはありません。事前の予想通り、耳孔は加齢によって完全に埋没していると思われます」

「……先に降りてみるよ」

 足を踏み出した途端に鯨王が動き出すのではないかと腰が抜けそうになったが、北畝の手前、退くわけにいかなかった。すっと飛び降りる。踏みしめた皮の感覚はとても生物とは思えないほど、しっかりとした土台だった。ぶ厚い低反発のマットレスに飛び込んだような、沈みこみ、それでいて埋もれることのない肉感。跳び箱で使うマットが近いだろうか。

 続いて降りてくる北畝の袖をとって、姿勢を補助する。彼女にとっても新鮮な経験なのか、「これが……」と小さく口にする。

「この距離で鯨音でも聞かされたら、一発だろうか」

「人間の鼓膜が破裂する音圧は百五十デシベル。生物最大の音を発するマッコウクジラの音圧は海中で百八十八デシベルにも及びますから、このサイズの生物が奏でる音圧となると、鯨音でなくともどのみち助かりませんね」

「本当に、救命胴衣は借りなくてよかった?」

「提出した掘削作業には必要のないものでしたし、動きが阻害されると、作業時間が長引いてかえって危険です。資材で破れる恐れもありますから」

 平津一尉が降ろしてくれた資材を受け取って、最後に成形炸薬を引き取る。砲弾四本分と思えば当然なのだけど、その重さは、家にこもってばかりで冬に順応しきれていない身体には堪えた。北畝は爆薬の取り扱いに不慣れなのか――これは当然か――、ワイヤーをぶら下げる右手とは反対の手で慎重に持ち上げた。衝撃程度では爆発しないと聞いても、怖いものは怖い。

「すぐに戻ってこれるように周辺で待機しておりますので、発破の際はご連絡ください!」

 そういった蜷川二曹に頷くと、機体は驚くべき速さで上昇していった。これで、爆薬を仕掛けきるまで僕たちはこの不安定な生物の上に二人きりになったわけだ。海で助けが来ない状況だというのに動悸がしないのは、横に北畝がいてくれるからだろうか。タップダンスでも踊ってやろうかと思うのは、さすがに武者震いだろうけど。

「森崎さん、見てくださいこれ」

 先を行く北畝が振り返って、足元を指さす。やけに落ち着いてるな、という感想は、少女の不安げに揺れる瞳で錯覚だと分かった。声を出して一人じゃないと確かめたいのだろうと、返事をしながら駆け寄る。鯨王の純白――とは到底言い難い黄ばんだ画用紙のような体表――に緑色の藻状の物体が湧き出ていた。それも北畝の足元だけでなく、よく見るとじわりじわりと周囲で発生している。

「乾燥して色が落ちて、……いや違うか?」

「はい、むしろ鯨王の体内から浸透圧で細胞の隙間を潜り抜けるように湧出しています。それも、かなり大きいですよ」

 一つ一つの微細な塊が、群れとなってヘドロのようにくっつきあっていた。中学校の時、落盤の恐れありと数年間放置していたプールの水を、改修工事のために抜いた時の光景が思い浮かぶ。その時、そこにはこんな感じの半液状の物体が残っていた気がする。

 自然発生した植物プランクトン? この浮き出てくるすべての粘液が? だとすれば、鯨王はその体内に無数の生物を飼っていることになる。細菌の比にならないほどのサイズの生物を、餌として摂取するのではなく、半ば自身が箱庭になるようにして。

「珪藻類と鯨の繁栄については相関があったのではないかとされています。食物網の広がりは、根底にある生産者の数に左右されますから」

「これは、そんなレベルの話ではない気もするけど」

「はい、実質的な共生関係に見えます。分類学上の植物プランクトンは海中だけでも五千種以上いるとも言われますから、鯨と共生関係にある種類がいたとしてもあり得ない話ではないのですが……。ただ、これはあまりにも数が多すぎます。両者が相利共生にあるとすれば、――鯨王がこれだけの巨体を保持できている理由に必ず行き着くはずです」

 北畝はすこしブーツのつま先に重心をかけて、鯨王の皮膚をつつく。すると、藻状の粘体がじわりと滲み出して、嵩を増した。

「例えば、このプランクトンを体表近くの細胞に収納して、水面が近くなると光合成をおこなうために太い血管を通して体表に現れさせるとか。造成したエネルギーは鯨王に還元され、彼の巨体を保持するためのエネルギーになる」

「植物プランクトンの光合成は有名な話だけど、プランクトン自体はもっと小さいんじゃないんだっけ。やけに大きいな」

「本来、植物プランクトンは体を大きくするようなことはありません。体表面は大きくするに越したことはないのですが、吸光度の高い海中で光合成をおこなうためには沈んではならず、浮き上がるには密度の高い身体は不向きだからです。このプランクトンが異様に大きく発達しているのは、そういった沈殿の可能性を考慮していないのでしょうか。光の通らない鯨の体内では疑似的に休眠しているとか……。光合成によって二酸化炭素を酸素に還元しながら、役目を終え次第休眠し、海洋表面に近づいたら休眠揶から覚醒し、再度活動を始める。このサイクルで活動することで、実質的な相利共生を築いている……」

 休眠サイクルを利用した半永久的な生産。偶然とはいえ、生物のなかで永久機関に近い仕組みが確立しているというわけだ。

「人間の腎臓にしたって、機械で再現すると部屋一つ分くらいのスペースをとりますから。臓器の性能の高さというのは、目を見張るものがあるんですよ――今から私たちは、解明できずにその神秘を殺すわけですけれど」

 北畝が立ち止まった。彼女の足先、二メートルほどの位置にフラフープほどの大穴が開いている。腰掛のように隆起した皮膚から左右均等に空いたその穴は、鯨王の噴気孔だ。観測ではほとんど呼吸をしない鯨王だが、この穴の真上に立ったまま直撃を食らえば、身体はバラバラになるかもしれない。降下地点を背びれに近づけたのも、それが理由だった。

「ここにしましょう。この直下に脳があるのもそうですが、万が一脳天に炸薬が到達しなかった場合でも、爆圧が噴気孔を突き破ります。噴気孔が塞がるか拡がるかすれば、呼吸は困難になりますから、副次的な効果が期待できます」

「……あぁ。わかった」

 北畝は、やけに確実性の高い方策を提案する。せめて苦しまないように、彼女なりの計らいなのだろうか。

 指示通りに爆薬を設置していく。成形炸薬にワイヤーをくくりつけ、ある程度自立するようになったら、重石となる爆薬を慎重に、等間隔に配置していく。保育園のころ、実家でクリスマスツリーにオーナメントをつけたのを思い出す。ツリーがよれてしまわないように、手に収まらないプラスチック球を慎重に配置した時の感覚。

「……帰ったら、クリスマスパーティでもしようか」

「どうしたんですか突然」ワイヤーで引きあっている先の北畝が呆れたような、驚いたような笑顔を浮かべる。

「いや、そろそろクリスマスだなと思ったから。それだけだよ。秘密でプレゼントを買って、研究所でパーティとかやってみたら楽しいんじゃないかって」

「あはは、いいですねそれ」

 植物プランクトンの粘膜に囲われた皮膚を手袋で払い、爆薬ともども十センチほどの杭で貫く。プラスチック爆弾と、鯨王の巨体だからこそできる荒業だ。成形炸薬が十六個の爆薬に引っ張られ、さながらマリオネットのように自立した。あとは炸薬の重さに負けて爆薬が剝がれないかどうかだが、見たところ数分程度なら持ちそうだ。腕時計に目をやると、鯨王の出没からすでに一時間が経過していた。そろそろ撤収しなければならない。

 ヘリを呼ぼうと空を仰ぐと、炸薬の向こうで北畝が茫然と立ち止まっているのが見えた。

 呼びかけようとして、彼女がここに降り立つと決めた理由を思い出す。無線のマイクを入れることすら躊躇われ、僕は彼女が小さく息を吸うのを見つめた。

「……本当、最悪でした」北畝が、墓前で故人に告白するように滔々と語り始める。親に別れの挨拶を告げる少女の邪魔をしたくはなく、僕はその姿を呆然と眺めた。

「あなたのせいで、私の両親は死にました。あなたのせいで、絶えることのない頭痛に悩まされ、友達ひとりできなかった。生まれた時から親のいなかった私は、ずっと不安で、愛し方も知らないから、周りの普通に生きてる人たちが、ただただ敵に見えた。あなたが姿を見せてくれないせいで、私は中途半端に充足してしまった。あなたがもっと早く姿を見せてくれていたら、研究の進捗は変わって、古染さんは死なずに済んだ。あなたにとっては存ぜぬことでしょうけど、彼女だけでなく、あなたの鳴き声を聞いた人間がたくさん死んだ。あなたは多分、歴史上人類を最も殺した天敵ですよ」

 細菌とかに並ぶんじゃないですかね、と北畝が苦笑するのが聞こえる。

「ずっと、ずっとその音が憎かった。

 頭痛の種で、世界の脅威で、そして、私を愛してくれる音。

 私にとって最も忌まわしい存在で、最も尊ぶべき、欠けてはならない音。

 あなたがいてくれたから、私はここまで生きてこれた。あなたが愛を教えてくれたから、私は人を愛することができた。

 一人だった私だからわかります。一人で生きていくのは、つらいです。誰も声を届けてくれず、自分の声も届かないまま、街灯のない夜道を歩くのは、怖くて、寂しい。あなたの百年以上にわたる苦しさは、きっと想像もできないくらい深いものでしょう。

 私は、幸いなことにほかの人と話が通じるようです。まだまだ下手だからうまくコミュニケーションもとれないけど、それでもお互いに話し合える。いろんな人と話す機会を与えられて、いろんな人に愛されて、やっと人を好きになれるようにもなりました。

 ありがとうございます。父であり、母であるあなた。

 ――私はもう一人でも生きていけるから、心配しないで」

 告白を終えた北畝が、鯨王の背をポンポンとたたいた。それは子供の背をたたくような、あるいは親の背を見送るような、愛情でつながれた接触だった。

 立ち上がった北畝が、「待ってくれて、ありがとうございます」と笑みを浮かべた。

「もう、いいのか」

「はい。未練がましく見送られると、送り出される方も気が楽になりませんから」

 そうか。そんなものだろうか。そんなものだった気もする。大学で一人暮らしをすると決めた時、両親はどんな顔をしただろうか。ほっとしていたか、苦労が増えるとうんざりしていたか、もう思い出せない。でも確かに、彼らは僕を快く送り出してくれた。

 無線でヘリを呼ぶ。尻尾側、離れた位置で滞空していた機体が、徐々に近づいてくる。

 あとは起爆して、それで終わりだ。

 僕たちの長いようで短い三か月も、ようやく終わりを迎える。

「もう、一人でも大丈夫、だな」

 つぶやいた言葉が、北畝に向けたものなのか、自分へ向けられたものなのか。分からなかった。

 僕はこれからどうなるだろうか。鯨王がいなくなったら、研究にとって僕は不要になる。北畝とも、もう会うことはなくなるかもしれない。少女はいま自立を迎えることができた。それを傍で支える誰かは、きっと必要なくなっていく。

 隣の少女に目を配る。近づいてくる機体に向けられていた視線がこちらに気づき、出会った頃では想像できないほど柔和な笑みへと変わる。

 僕も彼女も、それぞれの過去を乗り越えて、前へと歩いていくことになるのだろう。互いの意識を読み取り、聞くことのできる心地よさも、もうきっと経験することはない。

 まあ、彼女が大人になる一歩に携われたのであれば、彼女が親を見送るその瞬間に立ち会えたのなら、それでいいのか。ああ。それだけで、きっと――――、

 ――視線の先、鯨王の巨大な尾が立ち上がったのは、そんな合理化が頭をよぎった瞬間だった。後部から進入しようとしていたオスプレイが、まるで妨害するように立ち上がった巨壁を前に機体をのけ反らせ、後退する。次の瞬間、尾びれは水面へとたたきつけられ、鼓膜を揺さぶるような爆音とともに水柱が上がった。歩くエスカレーターと地震体験施設を混ぜたような巨大な振動が足元で地鳴りを響かせ、生物としての原始的な恐怖を呼び起こさせた。

 何度も、何度も。緩慢で、確実な衝撃が走った。

 臓器が飛び出るような拍動は、恐怖か、衝撃波か。

 ――――というか、これは。

「森崎さん、雷管を作動させましょう」

 鼓膜を突き破りそうな爆音の中で、隣の北畝が、スイッチを握りしめながらそうつぶやいた。

「……尾びれのたたきつけ、のようです。クジラが潜航を始める合図。私たちの回収を待っていたら間に合いません。今ここで、爆破します」

 言わんとすることはすぐに分かった。

「……そうか。どちらにせよ、海の底だもんな」

 爆薬を爆破すれば、僕たちの安全は保障されない。成形炸薬だかプラスチック爆弾だか知らないが、不安定な足場で幾何の距離もないまま使うには、リスクが大きいのは確かだ。かといって、このまま吾田さんたちを待ったところで、浦島太郎よろしく海の底だ。鯨王に取り付けた成形炸薬は、その重しとなった他の爆薬ともども、外れてしまうだろう。

 どのみち身の安全が予測できないとなれば、決断は早かった。

 尾びれのたたきつけに巻き込まれない寸前まで爆薬から距離をとり、包み込むように北畝を真正面から抱きしめた。人肌のトラウマなんて、この状況じゃ頭に浮かびすらしなかった。二人でダウン生地を着ていると、抱きしめづらいと初めて知った。暖をとるように、卵を温めるように、力強く、やわらかい抱擁を交わした。

 北畝の髪の匂いがふわりと香る。こんな潮臭い海でも、否、だからこそか、鼻腔は匂いに敏感になる。黒髪のなかから、確信を伴った視線が向けられる。

「いきます、森崎さん。離さないでくださいね」

「ああ、もちろん」呟いた返答は半分以上、震える北畝のためにあったと思う。

 バチリ。雷管を作動させた数瞬後、北畝が顔を伏せて、そのあと少し遅れて爆音と爆風、そして乳液色の混じった赤黒い肉片が背後から飛んできた。半固体状のなにかが耳元をかすめ、背を打ち、頭に降り注いだ。轟音と、熱と、痛み。すべての知覚が圧迫された。

 尾びれのたたきつけがやむ。北畝の頭を胸に抱え込みながら、僕は首だけで後ろを振り向く。こんな時にまで、あの時とは立場が逆になったな、なんて浅ましいことを思うのは、僕がまだ鯨王を許していないことの証左だったのだろう。樋口紗枝さんを、先輩の命を奪った宿敵が同じように鮮血を吹き出し、肉となっている姿を見て、少しすっとした。

 ずっと、これが見たかったのかもしれない。

 ……結局、いつまでたっても僕は変わらなかったのだ。世間を斜めから見ていて、不真面目でありながら不道徳を見過ごせず、恋慕を断ち切るためではなく、過去を基点に敵討ちがしたいだけ。

 目前の光景は紛れもなく、そんな浅はかな願望そのものだった。

 鯨王が、朽ちていく。

 体内の脂肪分がさながら穴をあけた風船のヘリウムのごとく吹き出し、そのたびごとに血は皮膚より噴き出て緑色の絨毯を濡らし、その有様はとても、したたり落ちる滴というようなものではなく、まさに黒い血のりの雹さながらに、どっと流れて降り注いでいた。

 神秘的で、艶やかで、醜い光景だった。

 巨大な生命の血肉がわき出て、海を濡らす。そこでようやく、僕は北畝が研究所で言っていたことに気づいた気がした。

「海は銀河、か」

 あの夜に見た星空がフラッシュバックする。すべて生き物は海に溶け合い、また生まれてくるのだ。それは、海洋も銀河も子宮も同じことで、万物に通ずる普遍の原理。

 鯨王の頭が海へと潜り込むのが見えた。かと思えば次の瞬間には、腰のあたりまで海水がつかり、そしてそれは頭上にまで及んだ。一時的に二百メートルの真空が生み出された海洋は、その空白を埋めるために周囲からほんの数滴かき集めて、僕たちの頭上へとぽとりと垂らした。そして、たったそれだけで、僕たちは十数メートルという深みまで引きずり込まれた。黒い海が僕たちを腹に収めようと、吞み込む。

 まさしく氷のような水温と、血管を押さえつける水圧とが、僕と北畝の抱擁を引きはがした。何とかその手を掴むが、乱れた海流で揉みくちゃになってするりと抜けていく。

 海の暗闇で、もう少女の姿は見えなかった。

 寒いという知覚は通り越すと痛みになるが、ここまでくるともはや何もなかった。すべての知覚が失われる。まるで金縛りにあったときのように、意識だけが明晰な暗黒が続く。

 ――――――――北畝。



 目の前に樋口さんが向かい合わせに座っていた。ナチュラルなメイクと、上瞼だけ塗られた薄紅色のアイシャドウ。本を読んでいた彼女の視線がこちらに気づいて、上目遣いにぱちりと合う。ふと桜の香りがして、ああこれは夢なんだなと思った。僕と彼女は、花弁が散る頃にだって会っていないのだから。

 彼女はいつも通りすべてを見透かした目で、僕の瞳よりももっと深いところを見ているようだった。

「起きたかい? 君は相変わらずよく眠る」

 想い出のなかと全く変わらない、呆れたような、からかうような声音で彼女がゆっくり瞬きした。ショートスリーパーの彼女に睡眠時間を指摘されることがあったなと思い出す。

「ここは、彼岸ですか」

 気になったことを端的に尋ねた。現状を脳がローディングして、一定の解釈と疑問を築き上げる。僕は一人の少女と共にクジラの背から海へと投げ出されたのだ。どうして服が湿ることすらなく、彼女と出会ってすらいない高校時代の教室の座席などに座っているのか。

 樋口さんは僕の疑念を見透かしたように眉根を下げた。

「再開を喜んではくれない年月が経ってしまったかい?」

「……いえ、いいえ。嬉しいですよ。あなたの手をこうしてもう一度握れる日を、僕がどれだけ願ったことか」

 樋口さんが差し出した左手を両手で包み込む。ああ、この手だ。僕を受け止めてくれて、僕が突き放したもの。僕は彼女の指先一つまで、鮮明に覚えている。

「それだけに、これが僕に都合のいい妄想だとしたら、僕が己を許すために見ているのだとしたら、それに甘んじることは酷く卑怯だと、そう思っただけです」

 鼻腔をくすぐる桜の香りが強くなる。明晰夢のように、目前の虚構を自覚するほど身体が重くなった。今すぐにでも先輩の身体を抱きしめて、夢なんかじゃないと信じたい。でも、それはきっと叶わない。

「君は相変わらず疑り深いなぁ。まあ、そうさ。この私は、君が作り出した幻像だよ。今際の際まで思ってくれて、嬉しい限りだ」

 樋口さんが表情を保ちながら、頬を赤く染める。ああそうだ、この人は、こういうかわいいところがあった。なんでもないような顔で、心を動かす人だった。そんなところまで再現できるなんて、僕は存外、彼女をしっかり見ていたのかもしれない。

 そう思うと、この瞬間が心地よかった。この人のために、自分がなにか一つ事を成せたという実感が、彼女と釣り合うための肯定感を満たしてくれる気がする。

「僕、鯨王を殺しました。あなたを奪った原因を、世界で大虐殺を起こした怪物を、ズタボロにしてやったんです。やり残したことなんて、もうありません」

「何者かになりたいとモラトリアムに没入していた君にしては大きなことをやり遂げたね。おめでとう。でも、その代償に死んでしまうのは、もったいなくないかい? 神話の英雄にでもなりたいなら、話は別だけどさ」

「……別に、いいじゃないですか。やることはやりました。その後には、興味ありません」

 冷やかすような呆れ顔に、語気が小さくなる。もっと素直に喜んでほしいと思ってしまった。それに、どうせ助かる見込みもないのだ。低温と水圧。救助も来ないこの状況で生きたいと願っても、掬い上げてくれるような釈迦はいない。

 だったら、ずっとこの教室で樋口さんと話していたい。これこそ、僕が望んでいたものに違いないのだから――。

「――違うよ。千里、君は諦めたいんだろう。私を最期に思い出すことで、一番楽しかった記憶を抱き枕代わりにして、これからの出来事に目を閉じて、眠りたいんだ」

 樋口さんがすっと瞳を向けた。幾度も見た、卑屈を叱る誠実な目。

「……相変わらず、厳しいことを言いますね」

「これを手痛いと感じるなら、君がそう望んでいるんだよ」

 窓から吹き込んだ桜の花弁に目を奪われると、いつの間にかテーブルにはティーカップが二つ並べられていた。中を満たす液体は紅茶などではなく、もっと濁っている。手にとって鼻を近づけると、甘いアルコールの香りがする。フランボワーズだ。

「私としては嬉しいけどね。だめだよ、目をつぶってはいけない。過酷だったら俯いたっていいんだ。ただ、アスファルトと足元しか見えなくたって、自分の歩む道は自分で選びなさい。目だけはきちんと開けておくように」

 樋口さんがカップに口をつけて、すっと立ち上がる。彼女は僕の手からカップをひったくて、教卓に置く。「ほら、いつまでも座ってないで」と彼女に促されるまま、水流にさらわれるクラゲみたいに、僕は出入り口へと足を進めた。

 廊下に出て振り返ると、樋口さんは扉の前で立ち止まり、ゆっくりと柔らかい笑みを浮かべた。

「さあ行きたまえ。大丈夫さ、もう君は失敗しているんだから」

 これがさよならだと、直感した。最初から最後だったというのに、夢が覚める前にその予感が訪れるような、心地の悪い快楽だった。

「……僕、あなたのことが好きでした。今ならちゃんと言えます。手を離してしまって、ごめんなさい。樋口さんのこと、一生忘れたりしません」

 そう喉から言葉が漏れて、これが伝えたかったのだと、やっとたどり着いた気がした。

 僕はずっと、謝りたかったのだ。樋口さんに。遺族に。そして、自分に。

 ごめんなさい。あなたの形見を残せなくて。あなたにさよならを言えなくて。僕みたいな人間に付き合わせて。仕方がないことだと、あなたもきっと楽しく思ってくれていただろうと、分かっているのに、ずっと贖罪と自責だけが胸の内側にびっしりと張り付いていた。

 やはり僕は最低な人間だ。彼女に許しを得るために甘美な夢を見て、背中を押してもらおうとしている。醜く、意地汚い。あまりにも自分本位で、最悪な心根。

 でも。

「それでも、前に進みます。進んでみせます。樋口さんといて得たもの、得られなかったもの、失ったもの、残ったもの。全部抱きしめて、いつかあなたに報告しに来ます」

 こういう時、樋口さんはどう言っただろうか。怒っただろうか、蔑んだだろうか、照れただろうか。

 答えはすぐに分かった。彼女は呆れたような笑みを浮かべて、口元を緩め、僕のすべてを見透かすように、じっと目を合わせた。

「……楽しみにしているよ。急いでないから、できるだけゆっくり来たまえ。君は君の欠けたものを、きちんと埋めてきなさい。君がまっすぐ生きられるようになったら、その時はうんと褒めてあげよう。――ああ、そうだね。今度こそ、離れないよう、ちゃんと手を握っておきたまえ」

 懐かしい音だった。

 懐かしい声だった。

 僕はそれを忘れないように、抱きかかえるように、彼女にもう一度、さよならを告げた。



 ジャーギングのような不意の衝撃が、ぱちりと目を開かせた。いや、開いてるのかははっきりと分からない。海水を透過した蒼が暗闇でわずかに混じっているようだけど、塩水と水流に曝された状態の眼球を、人体がそのまま開けっぱなしにするとは思えない。

 北畝の姿は周囲に見えなかった。この暗闇じゃ数ミリ先だって見えやしないんだから当然だ。それでいい。

 目を閉じる。音が聞こえた。鯨音のようだけど、鯨王のものじゃない。どこかで僕を呼んでいる。身を捻って水流に乗り、その声の呼ぶ方へと近づいていく。

 もう少し、もう少し。

 そして、知っている形の温もりが手に収まった。力を入れれば折れてしまいそうな、細く繊細な指先。決して離すことのないよう指を絡めて引き、その脇を抱える。防水のダウン生地は、水中だというのにやや湿ったように感じられた。腕の中の音と共鳴しながら、溶け合うように少女の体躯を抱きしめた。

 光の方へと泳ぐ。まだ海中は暗く、水面は遠い。どれくらいだろうか。距離は分からない。力を入れてもがくのに、腕はただ水を切るだけで、ちっとも身体は進まない。息が漏れる。動揺した鼻先から海水が入ってきて、呼吸が乱れる。肺に海水が入って、二度と呼吸ができないという恐怖が身体を苛む。

 もう少し、もう少しなんだ。持久走で最後の直線が見えてきた時のような、急激な疲労と倦怠感が全身を蝕んだ。酸素を失った身体が静かに停止していく。ゆっくりと視界が暗転する。

 世界から知覚が失われる。目も耳も、心臓の音一つ聞こえない。

 体から力が抜けていく。それでも、手だけは離さないように握り続けた。

 暗い海で、二人ぼっち。手に収まった温もりと、融合した意識だけ。

 それはどことなく、安心感があった。



 バラバラバラと、なにかを切り裂く音がした。

 真冬の深夜に雷でたたき起こされた時のような、心地よさと煩わしさが情緒を生み出している感覚がした。身体中が痺れるように痛い。感覚を失った皮膚が、肌に触れる空気すら暖かいと錯覚させた。

 ――空気。どうして、そんなものがここにあるのだろう。

 気づけば、誰かに抱えあげられていた。

 ソファで寝てしまって、父親が布団に運んでくれた夜のように、意識だけがぼんやりと事象を知覚する。水平線が見えた。二年前の冬とは違い、赤に染まっていない、どこまでも深く、晴れ渡った快晴。

 しばらくして、ランプと配線に覆われた鋼鉄の天井が目に入った。無機質で、彩度の薄い世界だ。ひっきりなしに顔を誰かに覗かれ、べたべたと容赦なく触れられる。

 でも、それもどうでもよかった。

 すぐ隣から心地よい音が聞こえた。少しずつその波長は弱くなっていくけど、それがまた子守唄みたいで落ち着くのだ。

 おやすみ、おやすみ。

 またね、また明日。

 僕たちは、そんなやり取りをした気がする。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る