落日を掬い上げて

 保育園の頃、一度だけ帰り道で母親に置き去りにされたことをよく覚えている。暗闇に包まれた堤防は役所が後回しにした雑草が伸びっぱなしで、背丈ほどまで成長していた。小賢しく聡い子供だった僕は帰り道を把握していたので、置いていったからこうなったんだぞと思い知らせてやろうとその雑草をかき分けて進んだ。

 冬に片足を突っ込んだ頃だったと思う。乾燥した敏感肌が鋭利な葉によってすぱすばと切れ、ひっつき虫がセーターの表面にたくさん付いていた。

 三分ほど歩いた頃、降ろされた地点に一台の車が戻ってきて、停車した。僕の名前が何度か呼ばれ、やがてそれは叫びになった。

 僕はなんだか楽しくなってきて、草むらの中を突き進み続けて、ついに抜けてトンネルにたどり着いた。まるで遠足のようでやっほーと言ってみたのを覚えている。他の園児と一緒だと恥ずかしかったことも、そこでは自由だった。

 トンネルを歩いていると後ろからライトが追ってきて、中腹で止まった。すぐに僕は背後から抱き上げられて、母親の怒号を聞くことになった。いま思えばトンネルの中で停車するなどとんでもない行為だが、僕はその時、自分勝手だなという気持ちと、自分は存外大事にされているのかもしれないという二つの気持ちが同時に芽生えたのを感じた。

 両親とは、年に一度顔を合わせるかくらいの関係性になったし、ほとんど連絡も取らなくなったが、僕の根底に親は子を心配するものだという常識が根づいたのは、多分これがあったからだと思う。

 北畝にはきっと、それがない。叔母が心配してくれたとしても、それは保育園で先生が声をかけてくれるようなものだ。安心とか愛情を認識するには、ひどく不足していたことだろう。

 北畝が音信不通になってから吾田は何度か古染宅に出向いたらしいが、北畝は一向に出てこなかったという。鍵を持っていても押し入らないのが、実に吾田らしい。

 その優しさと配慮のすれ違いも、少女にはひどく痛むのだろう。




 古染と書かれた表札の前に車を止め、打掛錠をわざとらしく大きな音を立てて外した。吾田が迎えに来てダメだったのなら、たぶん他の大人でもダメだ。だけど、僕は、僕だけは彼女とつながりがあった。北畝が古染優莉という人物を信頼する理由ともなった症例は、間違いなく他の誰よりもその繋がりを保持してくれる蝶番でもあった。

 チャイムを鳴らした。もう今ではあまり聞くことのない甲高い音が短く鼓膜を揺らした。十秒ほど待ったが、誰も出てこない。もう一度、今度はゆっくり力強く押し、「森崎です」と声を出してみた。しかし、返事はなかった。扉を挟んだ玄関の向こうに誰かが立っている気もすれば、応接間のカーテンの隙間から誰かに見られている気もする。そして、そのどれもが勘違いである気もした。

 しかし居留守を使うにしても、モニターのない木造住宅では、音を立てずに訪問者の正体を確認するのは不可能だ。中から木板の軋む音一つ聴こえないことが気がかりだった。なにか応えられない状態なのではないか。あるいは、そんな状態はとっくに経過しているかもしれない。一度芽生えた不安の種は水を得た魚のように僕の血管を流れて身体に根を張った。

「北畝、いないのか」扉をノックした。返事もなければ、人の気配もなかった。彼女の不在を証明する手段を、僕は有していない。吾田の配慮は最悪な結果にたどり着いたんじゃないだろうかと、他責的な後悔が生まれる。

 扉を背にして玄関を去った。車に戻ろうと打掛錠を外して門を開けた。小走りに階段を駆け下りた。

 ――裏手側の階段に足をかけた北畝と、目が合ったのは、その瞬間だった。自宅用だろうか、ブルーライトカットでオレンジ色がかったヴェリントン型の眼鏡、研究所で見たオーバーサイズ気味のジャージ姿。髪は適当に結っているが、見間違えるはずもない。北畝遥だった。

「北畝……」その両手の買い物袋に視線が向かうのと、彼女が逃げ出すように通路へと走り込んだのはほぼ同時だった。

「――――いや、待っ……くそ!」

 驚く暇もなく、逃げる獲物を追うという野性に従って彼女の後を追った。車の向こう側、階段奥の裏玄関では、鍵をポケットから取り出して慌てる北畝が見えた。

「北畝!」

 驚愕の表情と同時にドアが開いて、その中へと北畝は飛び込んだ。お前、と口から漏れるまま通路のコンクリート床を蹴り、ドアから見えていた買い物袋の端をつかんだ。間髪入れずにドアの隙間に靴を挟み込む。見てくれは完全に押し入り強盗だ。脚、腰、肩と徐々に身体を差し込んでいくと、北畝がドアノブからぱっと手を引く。

「北、畝……、なんで、はぁ、逃げるんだ……」

 追い詰めたいわけではないと、わざとらしく肩で息をして、問いかけた。ただ、北畝はその向こうで顔を隠して返事をしないまま、後ずさりして台所を出ていこうとする。

「北せ――――」

「逃げないので!」少女が叫んだ。

「逃げないので、その、ちょっとだけここにいてください」

 脱兎のごとく逃亡を図っておいて、今さら……。口に出るのを抑えて、少女の意図を窺った。研究所に来ないばかりか連絡まで途絶していたのだ。逃亡か隠居かはともかく、その意思はかなり強固なはずだ。構ってほしくて他人を心配させるほど、目の前の少女は弱くない。それに、メキシコカルテルの地下通路か忍者屋敷でもない限り、この建物内で逃げきるのも難しい。選択肢が脳内でパッパッと明滅した。

「ちなみに、そのちょっとで何するつもりなんだ」

「……起き抜けのままなので、着替えさせてください」

「……ごめん」

 それもそうだった。北畝も年頃の女の子なのだし、船のときとは違い、部屋着や人と会うつもりじゃない状態で見知った人間と会うのは本意でないだろう。そこは連絡を絶った理由とも関係ないだろうし、少なくとも、ここで僕が我を通すようなことではない。台所の戸を閉めて洗面所へと向かった北畝の足音を聞きながら、僕もシンクで手を洗った。

 五分ほどしても北畝は戻ってこなかったが、洗面所ではせわしなく動いている物音がしていた。今日だけは本当に人と会うつもりがなかったのだろう。そういう日に限って予定や知人が訪れる、というのは、僕が訪問者であることを鑑みると厚かましすぎるか。待っている間に彼女が置いていった買い物袋の中身を常温・冷蔵・冷凍で大まかに分けて冷蔵庫に入れた。庫内には思ったよりしっかりとした調理の痕跡があって、不健康に過ごしていたわけではないようだと安堵した。

 前回入ることのなかった台所は、居間同様に整頓されていた。中央の四人掛けのテーブル上には調味料やキッチン用品が並べられ、端のキッチンワゴンにはレトルト食品が整列していた。奥の巨大な食器棚はその見かけに反して中身は少なく、いつの時代のものか分からない豪華な食器を除けば、ほとんど空と言ってよかった。食器棚やタイルの汚れを見るに、古染という人が暮らしていたにしても彼女が建てたわけではないことは明らかだった。

 暖房がつけられたままの和室に移動して待っていると、とたとたという足音の後、台所のガラス戸が開く音がした。戸棚から陶器を取り出す音と、ガラス戸が締められる音がしたのち、北畝が和室に顔を現した。洗顔と髪を梳き、先ほどのジャージ姿とはうって変わってトレーナーとスキニーという闊達とした格好だった。

「すいません……お待たせしました」

「いや、こっちこそいきなり来て、というか追いかけて、ごめん……」

「いえ、連絡をしなかった私が悪いですから……」

 それは、そうかな。口にするのも違うような気がして、気まずい沈黙が流れた。何事かを言うために彼女を追いかけたはずだったのに、いざ追いついてみると何を話していいか分からなくなった。

 叱る、というのは違うだろう。慰めるというのも可笑しな話だ。僕には彼女の行動の是非を問いただす権利などない。

 だから、素直に訪ねることにした。

「なんで、研究に来なくなったんだ?」

 答えは何でもよかった。僕たちは鯨音によって結ばれた感覚の共有で繋がっているから、彼女が嘘をつけばわかるけれど、それだって受け入れようと思った。

「すいません、どうでもよくなったので、隠れていました」

 北畝は申し訳なさと投げやりの混じった口調で、持ってきたコップに緑茶を注ぐ。

「どうでも、よくなった? 鯨王やオゼビについて、興味がなくなったってことか?」

「いえ、いいえ。鯨についての興味は尽きません。私はずっと、本当にずっと、鯨音の主を追いかけて生きてきたんです。私がどうでもよくなったのは、大融解の方です。どうでもいいんですよ」

「――鯨王が、君に姿を見せてくれないからか?」

 品定めするような上目遣いが僕をとらえる。言い当てられたことの驚き、取り繕うかという迷いの混じった視線だった。

「……はい、私にとっては鯨音の主こそが興味の対象であり、大融解そのものには大して興味がありません。多くの人間が死ぬとか、そんなことは本当にどうでもいいんです」

「以前、北畝は僕に、鯨音から何を感じるかと聞いたよな。君が鯨王から得ているものは、何なんだ?」

「鯨音には感情がある、という話をしましたよね。鯨音によって受け取るもの、想起される感情は、人によって違うんです。どのような原理で、何をきっかけにその感情が決まるのかはわかりませんが、おそらく鯨音を聞いた人間が最も気にかけているものを、再現する。……私の場合、鯨王と命名された彼から与えられているのは、安心感です。安心、と言えば抽象的かもしれませんが、きっとそれは、母性愛と呼ばれるものなのだと思います。私は親を知りませんが、こういうものなんだなと感覚的に理解できる。生まれた時からずっと欠けている基礎根幹。それを鯨音が、与えてくれるんです」

 鯨音によって僕が得ているなつかしさ。そうだ、あの既視感は。

 樋口さんと過ごした時間と同じなのだ。ずっと抱え込んでいた、心安らぐ懐古感情。それが北畝の場合、愛情だというのか。

「叔母の愛情に、なにか不足があるわけではありません。でも、私にはそれが本物なのかわからない。愛されているというこの感覚が、普通の人と同じものだと到底言い切るだけの自信がないんです。部屋に閉じ込められたままのメアリーには、色を確かめる手段すら用意されていない」

 北畝は湯呑にお茶を注ぎ、こちらにずずっと進めた。僕は彼女が手放したそれを受け取ると、一口つける。

 北畝の抱く葛藤には、内心めどがついていた。外洋調査の際に彼女が垣間見せた異様な執着と眼差しは欠落特有のものだったし、吾田も彼女の煩悩を把握しているようだった。しかしそれは、他人がおいそれと手出しできるようなものではなかった。

「生き物は、生まれて死ぬ。羊水の中で、あるいは海洋の中で。星だって同じです。生命が溢出して、跋扈するなかで循環している。赤子が子宮で母親の声を聞くように、私にはこの世界で、鯨音しかなかった。でも鯨音は本来、聞くことさえ許されない音で、私に愛を与えてくれる何者かは、世界の敵で。考え始めたらどうしようもなくなって、一人になろうと思いました」

「鯨音は、心地いいか?」

「痛みますけど、快いですよ。私には与えられなかったものがじんわりと身に染みていく。麻薬みたいなものです。私にとっては、それだけが唯一の救いだったんですから。その正体が何であろうと、縋るほかないんです」

 その正体が、愛情なのか、精巧に造られた贋作なのか、それが分からないから、少女は立ち止まっているのだ。燦然と輝くイデアすら、その瞳に捉えることが出来ない。

「愛されたいって、思うか」

 疑問ではなく、確認のつもりだった。

「あなたにはわかりませんよ!」

 北畝が声を荒げるのは、それが初めてだった。憎悪ではなく、花火が爆発したような、無作為で方向性のない怒り。自身の突発的な感情の励起に思い至ったのか、敵を見るようだった彼女の目線が、すぐに己の手元へと注がれる。苦々しい笑顔が自身でも気づいていないだろう内に形成され、その面相もぽろぽろと崩れていく。

「……わかるはずがないんです。ちゃんと親がいて、恋人もできてしまうあなたには。自分が愛されていると、ここに居ていいという確証もないまま、当たり前みたいに愛情を受けて育った人たちに揉まれ生きていくことが、どれだけ辛いか。……ずっと、苦しいんです。街灯のない夜道を歩いているみたいに、心細い」

 エアコンの室内機がぶつ、っと途切れる。北畝の内心を思うと、いくら暖房をつけた部屋にいようとも、ずっと心寒いだろうなと感じた。自己の中にある確信。それがないままでは、自分の鼓動さえ機械仕掛けのように思える。

「森崎さんと私は、根本的なところで断絶しているんです。あなたは、愛情とは何かを知ってる」

「吾田さんや叔母さんから受け取っているものは、やっぱり違うって感じるのか」

「わからないんですよ。それが分かれば、もっと簡単なのに。正解を知らないから、愛されてるのかなって感じても、見せかけだけじゃないか、故人の形見だからだろうかって、余計な思考が邪魔をするんです。……無償で注がれる愛なんて私にはないんだって、思っちゃいますよ。私のことを損益抜きで好きになってくれる人間に、私は出会えなかった」

 北畝の言う通り、僕は、愛情とは何たるかを、理解している。とても偉そうに聞こえるけれど、経験しているのは間違いないのだ。でも、それが北畝にはない。それがどれほど不安か。

 わかるよ。そんな言葉が慰めにもならないのは分かっていた。

 愛情のかたちをしているものが、誰かから与えられるのではなく、常に携帯しておければいいのになと思う。自分がここにいていいと思える理由を自分以外の誰かに任せっきりにしてしまうのは、不安で仕方ないから。

 時折不通になってしまうような粗悪品なら、歪に完結しているのだとしても、閉鎖的な自己愛のほうがマシだ。

「自分の実の親を殺した仇敵からしか、私は愛情を知ることができない。その正体も分からずに、ずっと方向感覚を狂わせた張本人に憧れなくちゃダメなんです。他人は、他人です。私は、見つけてほしいだけ、この安穏として、ぐちゃぐちゃにかき混ぜたような痛みの正体を、教えてほしいだけなのに……!」

 愛されたいという欲求と、人を嫌わねば生きていけないほどに慣れ親しんだ孤独。罪悪感を覚えながらも他人を拒絶し、一人で夜道を歩く少女。振り返った時、その道程に虚空が広がっている。気が狂ってしまいそうな絶望のはずだ。

 きっと、道端に転がっている幸せに気づくだけの、些細な変化があればいい。彼女を想ってくれる人はたくさんいて、それを受け止めるだけの準備が、少女にできていないだけなのだ。

「いつか、北畝を好きになってくれる人が現れるさ」

 心から、そう思う。

「今だっているけれど、北畝自身がそれを認められないだけだ。その正体に気づくことができれば、きっと」

 ただ一つの特別だって、感じられるはずだ。

「それなら、森崎さんが……、あなたが、そうであれ、ば――――、っ」

 ぐっと噛み殺すように漏れ出た息を呑む北畝に、その黒髪を軽く撫でる。事前の準備無く漏出した告白に、聞こえなかったふりをした。

 ぐわんぐわんと少女の感情で揺さぶられる脳内は、それでも落ち着きを保っていた。ここで感情的に彼女を抱きしめれば、頭の中身すら共有できるかもしれない。僕にとっても北畝の存在は特別なものになりつつあって、それは彼女が抱くそれと大きく異なってはいないと思う。

 でも、だからこそ今の僕には、彼女を受け止めてあげる資格がない。人は寄り添って生きていくのであって、お互いを担保にして自己を委ねてはならないのだ。

 北畝の肩をつかんで離し、その頬をわしゃわしゃとなでる。

「君を愛してあげられないのは、君だよ、北畝。誰も自分を愛してくれないと感じるなら、せめて君だけは、君を好きでいてやってくれ」

「私、自己愛は強いですよ……。自分しか、ずっと自分の側にはいなかったから」

「じゃあそこに僕も混ぜてくれ。僕は、僕だけは君を好きでいてやるからさ」

 そのことばが天涯孤独の少女にどれだけ響いてしまうのか、よく分かっているつもりだった。その罪の重さも。だけど今だけはこの選択は間違っていないと思いたい。だだっ広い部屋で強調される孤独から彼女を連れ出すには、きっと僕の手が必要なのだ。

 掴んだ少女の手を離さないでいる。彼女が留めてくれたその約束を、僕も守りたいと思う。

「……森崎さんだけは、私の手を離さないでくださいね」

 北畝が涙混じりの声で、懇願するように笑った。

 赤く腫れた少女の目元に肯いてから、僕は視線を落とした。




 一晩おいて翌朝、空港にはいつも通りの北畝の姿があった。彼女はどこか一区切りついたように確信に満ちた表情をしていた。初めて会った時の隔絶した自信ではなく、他己を区別したうえで全体の協和を好むような肯定感。

「おはようございます、森崎さん」

「おはよう、北畝」

「チケットはもう発券してあります。でも、よかったんですか。経費じゃなくて」

「いいんだ、偶には。自分がどれだけ補助されて生きているか、知るいい機会になる」

「それは自らのお金を使わずとも実感できるのではないかと思いますが……」

 研究所を訪れるとき、吾田には連絡しないでおいた。指示されて彼女を連れ出したと北畝に思われるのは少し癪だったし、いきなり連れて行った方が彼の実際の反応が見られる。航空券を経費で落とすと半自動的に吾田のもとに利用通知がいくから、今回は自費で払うことにした。北畝がそれで何かを得られるかもしれないのなら、全く痛くない出費だ。

 事実、この読みは当たって、フロントで遭遇した吾田は完全に面食らっていた。北畝は吾田に「話があります」と告げ、吾田もスタッフとの会話を打ち切って、彼女についていった。

 フロントのソファに腰かけて北畝を待っていると、階段を降りてきた宮古野所長と遭遇した。随分久しぶりの対面だったが、その剛毅な表情は全く変わっていないように見えた。

「あれ、森崎くん一人かい。さっきクジラの女王と吾田くんが話している姿を見たけれど、置いていかれた?」

「多分、大事な話をしていますよ。きっと」

 内容は分からない。でも、北畝が自ら吾田と話がしたいといったのだ。僕に相談することなく彼女がそうしたのなら、彼女にとってそうするべきはずの事なのだろう。

 宮古野所長が隣のソファに腰掛ける。奇妙な沈黙が流れて、僕は手持ち無沙汰に壁にかけられた絵画へ目を向けた。

「思えば、一人の女性スタッフの死から、この研究所には奇妙な空気が渦巻いていた。諦観というのかな、無理だと思いながら頑張る姿勢だけを演じるかのような、そんな空気だ。私も、他のスタッフも誰ひとりとして演技だなんて考えていなかったはずだがね」

 視線を僕同様壁に向けたまま、彼はそう呟いた。

「古染優莉さんというのは、そんなに魅力的な女性だったんですか」

 宮古野所長はびたと驚いた顔をしたが、「そうか、女王はちゃんと話しているんだね」と遠い目をした。

「あぁ、実に魅力的な人間だった。大義を背負ったところで結局私たちも人間だからね。孤独ではいられないし、陽光を欲しもする。彼女はまさしくこの研究所の希望そのものだったんだよ」

「北畝に、その素養はありますか」

「北畝ちゃんが光になると、君は嬉しいのかい?」

「……どうでしょうか」

 言葉にできるほどの意思が見つからず、声が詰まって曖昧な返事になった。ただ、そうなれば少女の孤独もすこし埋まるような気がした。

 宮古野所長が去ってから十五分ほどして、北畝が現れた。彼女は何事もなかったかのようにすとんと隣に座ると、おもむろに肩掛けしていたリュックサックから本を取り出した。その意識だけがこちらに向けられていると気づいて、言葉を切り出すのはやめて、僕も携帯を眺めることにした。ほどなくして、「吾田さんと話をしました」と隣の少女がつぶやく。

「私にとって古染さんがどう見えていたか、吾田さんが私をどう見ているのか、一通り話して、話してもらいました。……吾田さんは、それでも私を大事に想っていると仰っていました。それが事実なのか、やはり私には確かめるすべはなく、結局は二年前と変わりません」

 それは違う、と動きかけた口先が、寸でのところで止まる。本をめくる北畝の指先が、滑るように紙面を撫でた。

「――――でも、吾田さんが私を大事に想おうとしてくれているのは伝わりました。今は、それだけでいいんです。それもきっと、愛情の一つであるはずですから」

「……そうだな。うん、きっとそうさ」

「お待たせしました。行きましょう、森崎さん。久しぶりのミーティングです」

 すっと立ち上がった北畝を追って、会議室へと向かう。鋼線でも通したようにしゃんと凛々しく伸びた背筋には、もう弱さはなかった。彼女なりの愛情との接し方を、やっと見つけたのだろう。どこがきっかけかは分からないが、それはとてもいい傾向だ。

 会議室に入ると、にぎやかな正面スクリーンの左奥、一面におろされたホワイトスクリーンに日本海の地図が照らし出されていた。その下の吾田が、パイプ椅子に着席するように指さす。

「まずは、報告から始めよう。北畝ちゃんは休み中も送ってたメールは読んでくれていたかい?」連絡すらしなかった北畝を、それでもサボりではなく休みと呼ぶのは、彼なりの配慮なのだろう。人間休みたくなる時があるものだと、そう言外に伝えるようだった。

「はい、つつがなく。フェリーで集音した結果、鯨音が観測された。やはり、あの場所には鯨王がいたんですね」

「ああ、五十二ヘルツの特徴的なソング。間違いなく、大融解を引き起こしたソングそのものだった。――――ただ、一つの事実を除いて、ね」

「一つの事実?」聞き返す北畝に、吾田がうなりながら手元のA4用紙を取り上げる。逆光でよく見えないが、その表紙には『鯨王の動向』と題されているのが分かった。

「たった今、太平洋側の情報収集にあたっていた日鯨研から連絡があった。僕たちが日本海で調査しているまさにその時、遠洋漁業を行っていた複数の漁師が巨大なクジラを見たと証言していたらしい。付近を航行していた民間船舶も巨大な白い物体の浮上を確認しており、数日前には二隻の別企業に船籍を置くタンカーも同様の報告を上げている」

「え」茫然とした疑問が口から漏れた。隣の北畝は、少しうなった後、視線を宙に飛ばした。

「間違いない、あの日あの海に、鯨王はいなかったはずなんだ」

「でも、かなり近かったように感じましたよ」

「そうなんだろうね。君たちの感覚を疑う気はない。だから、もし考えるとすれば、五十二ヘルツのクジラが二頭いるか、あるいは」

「オゼビという種は、もともと鯨音をソングとして奏でていた……?」

 吾田は肯きながらも、疑問の残る表情をしていた。それもそうだ。フィリピン沖で観測されたデータでは、オゼビのソングはザトウクジラと同じ特徴を持っていた。いくら方言や流行歌があるとはいえ、同種内で基調から大きく外れることはないというのは北畝の言だ。無論、フィリピン沖の観測データが誤っており、近海を泳いでいたザトウクジラのソングを観測してしまったというならあり得るが。

「いえ、やっぱり違います。もし、オゼビがみんな鯨音を奏でるなら、大融解の有無はともかく、私達が聴き逃すはずがありません」

「でも、そうなら鯨王発見時のソナーがそもそも間違っていたということになる。近くにオゼビもいて、たまたまそっちの声を拾ってしまったと?」

 隣で北畝が「あ」と声を漏らした。 

「逆、ですよ。近くに鯨王が、いたんです。やっぱり黙祷だったんです。あるいは賛美歌かもしれませんが」

「逆……?」

 要領を得ない発言に、聞き返してしまう。

「はい、つまりはオゼビが集まり鯨音を発した場所で大融解が発生するのではなく、大融解が発生した場所にオゼビが集まり鯨音を奏でる、と」

「ああ、だけど結局、オゼビが鯨音を奏でるというのは、フィリピン沖の音源データで否定されて――――」

「はい、フィリピン沖ではそうでした。そして、これから観測されるデータもその〈常識〉を覆していくと思います。前提から間違えていたんですよ。オゼビはソングを持つ種類ではなく、ソングを持たないクジラなんです。正確には、彼ら特有のソングを持たない、と言うべきでしょうか」

 僕の頭の中でカチャリ、と音を立てて符合があった。

「――――まさか、カナリヤ?」

 僕の発言の意図するところを察したのか、北畝が「ええ」と口にした。

「歌学習。オゼビは鯨王を真似て、鯨音を奏でています」

 まさか、と口にしようとして止まる。まったくあり得ない話ではない。

「遊びなのか、そうしないと会話が成り立たないのか、とにかく鯨は他個体の声真似をします。声真似をするには、まず相手の声が聞こえることが大前提というのは、言うまでもないでしょう」

 そう、だからこそ、可聴域が二十ヘルツ程度までとされているクジラは、五十二ヘルツもの高音を発する同属の声を、聞き取ることが出来ない。

「ただ、鯨の可聴域は暫定値に過ぎず、正確には観測できていません。特にオゼビに関しては、研究結果もまだ少ない。オゼビの可聴域が広く、聞き取れたソングを学習しているのだとすれば、すべて辻褄は合います」

「いや待ってくれ、仮にオゼビが鯨音を奏でるられるのだとして、どうしてフェリーの乗客は無事だったんだい?」

「日本海調査の際にオゼビの群れと遭遇しましたよね。一般的にブリーチングは遊びなり求愛なりのアピールだとされているので、ただのヒヤリハットで納得してしまいました。ただ、もし仮に轟音と巨体で海をかき分けるフェリーを外敵として認識しているとしたら、あれは攻撃だったのかもしれません。メスを奪い合うときに行うような、のしかかりです。――そして、巨大な船を敵と認識しているのであれば、ポッド内ではミナミセミクジラのように小声で会話している可能性もあります。それなら、私と森崎さんが聞き取れて、入り組んだ船内の乗客が無事だったことに説明がつきます」

 北畝の熱弁の後、しばし沈黙が訪れた。すべてが仮定だったから、ではない。それは鯨音の存在に未観測の感情を含めた時点で、問題とはなっていない。その仮定から導き出される、僕たちにとっての行動がどこへ行き着くか、その気配を察していたからだ。

 吾田は自分がその事実をどう伝えるか迷ったのだろう。焦点の合わない視線をスクリーンに向けてから、小さく息をついた。

「北畝ちゃんの意見が確かなら、……鯨王は駆除しなければならない。歌学習のお手本が海を泳ぎ続ける限りは、どこかでオゼビが歌を真似るリスクが伴う」

 可能な限り無機質なトーンで、吾田が呟く。心配だったのだろう。北畝にとって鯨王がどんな存在なのか、直接聞かずとも、あらかたの予想はついているはずだった。

 しかし。

「はい」はっきりと、北畝はそれを肯定した。

「五十二ヘルツの鯨王――大融解を引き起こすソングを奏でられるのは、幸い鯨王という一個体のみです。鯨王さえいなくなれば、オゼビは自然とザトウクジラなどのソングを学習していくでしょう」

 至極真っ当な、それでも彼女が行き着かないと思っていた返答だった。

「……すぐに沿岸の警備を強化しよう。初動となる収音が重要だ。オゼビの群れが現れたら、どうにか散らすしかない」

 吾田は、その決意に口出ししないようだった。




 数日後、日本政府による正式な鯨王の駆除権限が、むつ研究所に与えられた。しかし政府主導ではなく、あくまで僕たちにできる範囲で、とのことだった。以前の僕と同様、観測できない鯨音の存在を仮定して大規模な動員をかけるのは、お役人の首を縦には振らせなかったようだ。たかだかクジラごときに人類が脅かされているものか、というのも否定できない反論だった。

 とにもかくにも、活動許可と、ある程度の権限が与えられたむつ研究所は、第一に鯨音の集音と、駆除後の方針について議論した。

 鯨王やオゼビの群れを探知するため、各国が独自で敷設しているソノブイのデータをまとめ始めた。さらに、各国研究機関と協議して、使用中のソノブイに取付式のスピーカーを無償で提供し、ザトウクジラのソングを流すようにも提案した。これは鯨王を駆除した後、オゼビのソングを無害なものへと変えるためだ。

 数日後、集まってきたデータにはかなりの穴があった。吾田に尋ねると、「どの国も自分の海洋の音を公開できるわけじゃないからね。実効性の薄い研究のために国防の要を公開するなんて、普通はありえない」と笑った。

 吾田はかなり苦労しているようだった。大融解を起こさまいと従事している無数の団体がいる中では、解決策が見えようとも、支援される費用はほとんど増えなかった。一方で算出された経費は馬鹿にならず、方方に頭を下げ、費用の確保と研究の協力要請に東奔西走する吾田は、一日のほとんどを仕事に費やしているようだった。

「北畝は、鯨王を駆除することに納得したのか?」

 クリスマスが近づく二十日、僕は会議室で一人読書をする彼女にそう尋ねた。流れは鯨王の駆除に傾いている。まだ準備段階のようには感じるが、鯨王が姿を現せばなんらかの形で駆除作戦が実行されるだろう。

 彼女は視線を文庫本から外すことなく、静かに呟いた。

「テチス海に生息していた原鯨が海に戻ったというのは、たまたまそうであったという結果でしかありません。海の方が餌場として豊かだとか、海に戻った種だけが生き残ったとか、理由はいくつも挙げられますが、言ってしまえば、そうなったからそうなったのだとしかありません。ですが、そこに遺伝子に刻まれた羊水への帰巣本能、寂しさがあったら美しいと思いませんか」

 帰巣本能。今ひとつ飲み込めなかった僕の反応は想定内だったのか、彼女は困惑を浮かべることなく、「海は銀河、と以前お伝えしたかと思うんですけど」と呟いた。

「海は銀河であり、子宮なんですよ。そこでは生命が誕生し、愛情が際限なく与えられる。みんな、愛されるためにそこへ帰りたがる」

「……要領を、得ないな」

「私は鯨王から愛情を得ました。でも、彼は誰からも愛されることはない。広く、昏い海をただ孤独に彷徨っているんです。自分の生まれ落ちた場所でずっと、独りぼっちのまま。私は他人の感情を聞く目を持ちました。言葉だって通じるし、下手ですけど交流もできる。でも、彼にはそれがない。聞くことも、話すこともなく、ただただ青く黒い海を、いるかも分からない同族を探しながら漂うだけ。その孤独から開放してあげたいと、最近はそう思うようになりました」

 それは北畝なりの共感だったのだろう。彼女は愛情の欠落が何を及ぼすのか、よく知っているから。

「もしこれで鯨王が雌雄で二頭いて、お互いだけのコミュニケーションツールでやり取りをしているんだとしたら、妬いちゃうと同時に笑っちゃいますけどね」北畝がくすくすとため息交じりに笑った。

「森崎さんこそ、どうですか。駐車場で話していた状況が段々と眼前に表出してきましたけど。頭痛を与え、人類を滅ぼしかねない彼への憎悪は、まだ燃えていますか?」

「まあ、ないといえば嘘になるよ」

 北畝が鯨王をどれほど慕っていようと、僕にとっては樋口さんを奪った張本人だ。世界の危機でもあるし、頭痛だって煩わしい。

「そこは、無理に北畝と合わせるつもりはないよ。僕にとっては敵で、北畝にとっては親のようなもの。それでいいんだと思う。頭痛が疎ましいと僕が叫ぶ横で、北畝がありがとうと叫んだっていいと思うんだ。君はずっと、彼に見守られてきたんだから」

 北畝がなにかに反応したように、その瞳を大きくする。それは迷子の飼い猫がふらりと戻ってきたような、そんな光だった。

「そう、そうですね。ありがとうございます」

 彼女の柔和な笑みの意が読み取れず、その線のような眉を見つめる。しかし結果は変わらず、部屋を出ようと扉を押したときだった。

「森崎さん、お一つだけ、お話したいことがあります」

 北畝は小さく、しかしハッキリとした声音で僕を引き止めた。

 彼女の瞳の奥に覗く決意と不安のゆらぎに、僕は扉を閉じて少女と向き合った。

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