嘘と崇拝

黑野羊

嘘と崇拝

 僕は彼に嘘をついた。それだけがずっと引っかかっている。



 ようやくとれた休憩時間。バックヤードの簡素なパイプ椅子でおにぎりを食べていると、先輩が入ってきた。

「あ、お疲れさまです」

「お疲れー。深山みやまくん、今休憩?」

「はい、なんか問い合わせ多くって」

 僕は本屋で働いている。本好きな両親のもとに生まれ、小さい頃からたくさんの本を読んできた。図書館司書に憧れたこともあるけれど、書店員もなんだかんだ楽しくて、大学時代にバイトで入った全国チェーンの本屋にそのまま就職して、今も働いている。

「今月のおすすめコーナーって、担当は深山くん?」

「あっはい。……なんか、変でした?」

「いやいや、全然! ジャンルも幅広いし、いいチョイスだなぁって思ってさ」

「ありがとうございます!」

 思ってもいなかったお褒めの言葉に、僕の顔はほころんだ。

 おすすめの本を選んでいると、僕は高校生の頃に起きた、少しほろ苦い出来事を思い出す。



 高校は家から近い男子校に通っていて、僕はそこで三年間、図書委員をやっていた。

 図書委員の仕事は、図書室の本の整理整頓や貸出カードの整理、そして毎月校舎内の各掲示板に貼り出す『図書だより』を作るというのが主な内容だ。図書だよりには毎回、新刊とおすすめの本を紹介するコーナーがあって、そこに載せた本は図書室の出入り口付近にも面陳されている。

 僕は高校二年の時、おすすめコーナーに載せる本の選別を任されていた。他の委員にも好評で、僕はそれなりに自信を持って選んでいた。……ある時までは。

「図書だよりのおすすめコーナーってさ、話題の本とか全然出てこないよな」

「SNSでバズってたヤツとかなら読むのになぁ」

 教室棟の各階にある掲示板の前で、生徒たちがそんな会話をしているのをうっかり聞いてしまったのだ。

 もちろん僕だって、毎月の売上ランキングとか、書店員の選ぶ本屋大賞とかを毎回チェックして、ほとんどの本を購入して読んでいる。ただ、学校の図書室は街の本屋じゃないから、すぐにそういう本が入ってくるわけじゃない。話題になっているからとお願いして購入してもらっても、しばらくしたらもうみんな忘れていて、見向きもしないんだ。

 ──そんな図書委員の苦労なんて、知らないんだろうな。

 僕のおすすめした本なんか、誰も見ていない。

 そう思って、しばらく落ち込んだ。

 だけどある時、貸出カードの整理をしていたら、一人だけ必ずおすすめの本を全部借りてくれている生徒がいることに気付いた。

 一年の時に同じクラスだった、相模さがみ和都かずとだ。

 そんなに背の高い方じゃない僕より小さくて、華奢で、女の子みたいに綺麗な顔立ちをした同級生。頭がよくて運動もできる人気者で『狛杜こまもり高校の姫』なんて呼ばれていた。

 ただの本オタクの冴えない僕とは天と地、月とスッポン。

 そんな彼が、僕の選んだ本を、全部読んでいる。全部だ。なんと光栄なことだろう。

 本もたいして読んでいないような生徒の、何気ない言葉でささくれていた僕の心は、たった一人の貸出履歴という事実によって救われた。

 それだけで充分だった。

 充分、だったはずなのに、神様は僕にささやかなご褒美をくれたんだ。

 ある日の放課後。図書だよりの貼り替えのために、二年生の教室がある三階へ向かうと、掲示板の前に相模がいた。熱心に貼り出された掲示物を見上げていたので、僕は少し躊躇ためらいがちに声をかけた。

「あ、あの……」

「ああ、深山」

 久しぶりに声を聞いた。少しだけ高音で、細くて、柔らかい声。去年同じクラスではあったけど、正直あまり接点はなかったはずだ。それなのに名前を覚えていてくれたのは、ちょっとだけ意外で嬉しかった。

「ごめん、図書だよりの貼り替えしたいんだけど、いい?」

「あ、今月のまだだったんだ」

「うん、コピー機が順番待ちでさ。今ちょうど貼り替えて回ってるとこ」

「よかった。内容変わってないなーって思ってたんだ」

 僕はそう言う彼の目の前で、古い方を剥がし、新しい図書だよりに貼り替える。黒目がちの大きな目でじぃっと見つめられて、押しピンを刺し直す手が少し震えた。貼り替えが終わると、相模は少し楽しそうな顔で熱心に読み始める。

「相模は図書だより、結構マジメに読んでくれてるんだね」

「うん、おすすめコーナーで紹介されてる本が結構好みなこと多いから、借りたいの決まんない時は参考にしててさ」

「え、本当?」

「ホントホント。SNSとか見ないから流行はやってる本とか分かんないし、だからこういうのスゲー助かる」

「……そ、そっか」

 屈託なく笑う彼は、本当に、本当に僕の選んだ本を、自ら進んで手に取っていたことが判明したのだ。心臓がバクバクとうるさい。顔が赤くなっていないだろうか。

「今は、先月のおすすめに載ってた『皓月千里の夜』読んでるとこ」

「あっ、ど、どう、だった?」

「ちょうど半分くらいまできたんだけど、めちゃくちゃ面白い。中国神話がベースなのかなあれ。あんまり中華系ファンタジーって読んだことなかったんだけど、ああいう感じなら読みやすくていいね。あの著者の他の本も読んでみたくなっちゃった」

 ああ、本当に読んでいる。僕以外にあの本を読んでいる人がいる、という事実がとてつもなく嬉しかった。

「よかった。僕もあの本、好きでさ」

「本当? あ、もしかして、おすすめの本選んでるの、深山だったりする?」

「あっ。う、うん……」

「そうだったんだ! じゃあ今度読むのなくなったら、おすすめの本、聞きにいっていい?」

「もちろん!」

 他の掲示板へ貼り替えに行かなきゃだから、とその時はそこで別れた。

 ただただ純粋に嬉しくて、出来れば叫びながら廊下を走り出したいくらいで。僕の顔はだらしないくらいにニヤけていたに違いない。

 純粋に本が好きで、学校の人気者である相模が、僕の選出した本を気に入ってくれた、認めてくれていたんだ。どこの誰かも知らない偉い人の評価より、これは何倍も、何十倍も価値がある。

 それから本当に、相模は時々、違うクラスの僕におすすめの本を聞きにきた。共通して借りた本の感想を語り合うこともあった。相模は三組で、僕は六組と結構離れていたんだけど、それでも相模は本当に聞きにきた。

 どこかの誰かみたいに、一時の流行りで読みたいものが変わるようなヤツじゃない。社交辞令なんか言わないんだ。よく見た目のいい人間は性格悪いとか聞くけど、相模は違う。本当に、普通に、いいヤツなんだ。

 いつの間にか僕は、本を選ぶ時に彼が喜びそうかどうかを考えるようになっていた。もちろん、純粋に面白いものを選んでる。実際に読んで、よかったと思うものだ。でも、気付くと『相模が喜びそうだな』って考えてしまっている。

 どうせ、図書だよりの片隅に書かれたおすすめコーナーなんて、まともに見ているのは相模くらいだ。彼のために選んだって、きっと誰も気付きやしない。

 ああ、これは恋だろうか? いやいや、きっと友情だ。もしかしたら、憧れなのかもしれない。

 美しい芸術品に恋をしたような感覚。きっとそれが近い。

 ある日の放課後。

 図書だよりの印刷のために印刷室へ向かうと、出入り口の廊下に相模がいた。保健委員の彼は、養護教諭の仁科にしな先生の手伝いで、印刷が終わるのを待っているらしい。

 自動的に順番待ちとなった僕は、疑問に思っていたことを聞いてみた。

「そういえば、なんで相模は図書委員じゃないの?」

「え、ああ。今年は倒れてる間に保健委員に決まってて」

「そういや始業式の日も、倒れてたっけ」

 相模は持病があるらしく、一年生の頃から全校集会なんかでよく倒れていた。四月の始業式も途中で倒れていて、ガタイのいい仁科先生がお姫様抱っこで運んでいたっけ。

「うん。まぁでも、あんまり図書室行けないから、図書委員はもともと無理なんだけどね」

「なんで? あ、もしかして図書室、入りづらい雰囲気ある?」

「いや、そういうんじゃなくて。……おれ、女の人苦手でさ。司書さんに何かされたわけじゃ、ないんだけど」

「そう、だったんだ……」

 あまりに意外な理由で、僕は少し戸惑った。

 確かに相模は本をよく借りてくれてはいるけれど、図書室で見かけることはほとんどなかった。貸し借りの手続きはどうしているのかと思ったのだが、どうやら彼と中学から一緒だという春日かすが祐介ゆうすけが代理で持って来たり、付き添ってもらって対応しているようだった。

 身体が弱いこと以外完璧に見える彼にも、苦手なものがある。それだけで僕はうっかり、妙な親近感を持ってしまった。

 きっと、春日は彼の苦手なものを知っていて、それを補っているんだ。

 ──僕も、彼を支えられる立場になれないだろうか。

 気付くとそんなことを考えるようになっていた。だって、好きなものも、苦手なものも知っているんだ。

 僕が、その隣にいたっていいじゃないか。

 そんな気持ちがだんだんと募って、大きく膨らんできて、耐えきれなくなってきた頃。

 文化祭が終わって、中間テストや実力テストも終わった秋の終わり。図書だよりの貼り替え作業に回っていると、少し遠くで、相模が仁科先生と歩いているのが見えた。

 保健委員は委員の中でも仕事が多い。放課後も定期的にポスターの貼り替えや水回りの衛生チェックをしているので、よく二人で学校内を見回っているのは見かけていた。

 委員の活動だ。仕方なくやっている保健委員の仕事だ。塾や部活をしていないという理由で、相模がよく仕事を任されているというのは聞いていた。だから、僕が声をかければ、彼も気が紛れるんじゃないかって。

 でもそれは、完全な思い込みだったと知った。

 残念なことに、僕のかけている眼鏡はとてもよく見える。

 相模が、隣を歩く仁科先生を見上げる時の表情を見て、声をかけることが出来なかった。

 どこか嬉しそうで、楽しげで、見たことのない表情だった。

 あれは、特別な人を見つめる時の顔だ。

 よく一緒にいる春日と話している時でさえ、そんな顔はしていない。

 ──ああ、そうか。

 恥ずかしかった。彼のことを全て知った気になっていた自分が恥ずかしかった。彼にも特別な人がいるんだ。当たり前のことじゃないか。

 たかが好きなものと苦手なものを知ったくらいで、どうして自分が隣に立てると思ったんだ。それに彼は、僕のことを知りたいなんて、ひと言だって言っていない。

 本の好みが似てる程度だ。それ以上でも、以下でもない。

 それなのに、次の図書だよりのおすすめコーナーでは、相模の好みとは真逆の本を紹介していた。

 なんて狭量なんだろう。浅ましい。

 でもこれは、身勝手でささやかなる報復だ。赦されたい。

 そう思っていた。

 ある朝の、一限目が始まる前の休み時間。

「深山ぁ」

 二年三組の観察簿を持った相模が廊下から声をかけてきた。保健委員は毎朝、健康観察簿を保健室に持っていく仕事がある。たぶん、その途中だろう。

「おはよう、相模。……なに?」

「今月の図書だよりの、おすすめの本のことなんだけどさ」

「う、うん……」

 なんとなく顔を合わせづらくて、普段より少し離れて返事をした。相模はなんとなく困ったような顔で言う。

「あれ、深山が選んだ本なの?」

「……どうして?」

「読んでみたんだけど、なーんか違う感じしてさぁ」

「あ、それは、」

 心臓がバクバクと鳴っている。黒くて丸い、吸い込まれそうに大きな目が、僕をじぃっと見つめていた。

 嫌われたく、なかった。

 嫌がらせをしておいて、傲慢ごうまんな話だ。

 でも、嫌われたくなかった。

「……い、一年生に、今回は選んでもらったんだ。そろそろ引き継ぎとか、考えなきゃだから」

 視線を逸らすように出た、とっさの嘘だった。

「あーなんだ、やっぱりかぁ。なんか深山の選出っぽくないなーって思ったんだよねぇ」

「やっぱ、好みじゃなかった?」

「うん、ちょっとイマイチだった。また今度、深山のおすすめ教えて!」

 相模はどこかホッとしたような顔をして、保健室行かなきゃだから、と笑って去っていった。

 僕はそれを、うまく笑って見送れたのか分からない。

 ──最低だ。

 僕は彼の信頼を裏切っておいて、さらに嘘までついたんだ。



 休憩を終えた僕は担当である新書のコーナーに戻ると、ずらり並んだ本棚の歯抜けになっている本を確認し、下にある引き出しを開けて本を補充していく。

 結局、僕と相模はたまに本の話をする程度の関係のまま変わらず、それから特に何かドラマチックな逆転劇があるわけもなく、僕は隣の県の大学に進学した。大学卒業後は大学から近いという理由でバイトをしていたこの書店にそのまま就職して、現在にいたる。

 ──相模は、何をしてるんだろうなぁ。

 確か、高校のあった市内の大学に進学する、というのを本人から聞いたが、その後のことは何も知らない。

 好きなことで嘘をついても、良いことはないのだと、痛いほど思い知った苦い思い出。

「あの、すみませーん」

「は、はい!」

 昔に浸りすぎていて、お客さんの声が耳に入っていなかった。慌てて声のした方に身体を向けて、そちらを見る。

「この本の、違う巻ってどこにありますか?」

 そう言った人物に見覚えがあった。黒い髪、華奢な肩、色白の肌に黒い大きな目をした、人。

「さ、相模?」

「……あれ、もしかして深山?」

 高校の時より身長が少し伸びたくらいで、それ以外はあの頃とあまり変わらない。

「あ、やっぱ深山だ! 久しぶり。背ぇ伸びたなぁ」

 笑いながら、相模が嬉しそうに、懐かしそうにこちらを見上げる。

 隣県のはずなのに、こんな偶然があるのだろうか。

「そ、そう、だな。……ビックリした」

「本屋で働いてたんだ。深山らしいね」

 高校の頃とほとんど変わらない顔で、楽しそうに笑う彼の左手薬指には、銀色の細い指輪が光っていた。

 落ち着け、大丈夫。

 僕は『友達』の顔が出来ているはずだ。

「相模は、なんでこっちに?」

「ああ、近くに親戚の家があって泊まりにきてて。でも、持ってきた本読み終わっちゃってさぁ」

「……そっか」

 相模は高校の時から、電子書籍より紙の本を好んでいたっけ。暇つぶしの本を本屋へ買いに来るあたり、きっと今もそうなのだろう。

「そうだ、深山のおすすめの本てある? また、教えてよ」

「ああ、いっぱいあるよ」

 今度はちゃんと、本当におすすめの本を教えるから。

 僕は笑って答えた。

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