第4話 晴れは無敵の人を照らす

昨日今日明日の境界線が、意味をなすことはないようだ。

いつものように昼の1時に起きた彼は、何よりもまず伸びた前髪に煩わしさを感じる。

床に転がっているハサミを手に取った。

吉住は、前髪を切る、という個人的行為をする1歩は踏み出せたが、それより他の行為をしてみるという1歩は踏み出せないままだった。


今日も架空の女を見ては、SNS三昧な1日。カップラーメンの殻の匂いと、彼の放置された抜け毛の匂いが混ざってしまっていても、彼にとっては全く問題ではないのだった。


そんな中、ある一枚の写真が彼の目に入った。

それは、1つの投稿に付随していて、AI技術を駆使して現在の彼(ショタサンL)の容姿が予想されて描かれたものだった。


その投稿には


「これがショタサンLこと性犯罪者の現在の容姿と思われます。自分の子供を悲惨な目に合わせないように気をつけましょう!」


と書いてあった。いまだに彼は無実であると知られていない。今後も知られることはないのだろう。


彼は前髪を切ったばかりなので、よく見えるようになった彼の顔を1枚写真に収めてみる。そして先程の画像を見て、比較した。


...結構似ている


仮に、彼にネガティブなバイアスが働いていないとしても、彼がそう感じないわけがないほど似ていた。彼はまた静かに、現実世界に溶け込むことができないという現実に打ちのめされる。汚いベッドの上に乗っかったまま。


そしてもう1つ彼には現実的な問題が迫っていた。


それは、金がなくなりそうだということだ。

3年前に引き下ろしたお金は、いつの間にか、長い引きこもり生活の中で、どこかに消えてしまっていた。


彼は否が応でも社会に出る必要性に迫られているのだ。


周りから指をさされ、笑われて生きていくのか。


はたまた子供のいる親から睨まれながら、無実の罪を糾弾されながら生きていくのか。


彼は自分が再び社会に出ている様子を想像し、だんだんと息が苦しくなるのを感じた。


嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ...


布団に潜り、頭を掻きむしる。 その光景はあまり形容することはできないが、多少の醜さを孕んでいる。




しばらくそうしていると、彼の心の何かが緩んだ音がした。




もう、いいのかな。


彼は、彼の体のどこに生への執着が宿っていたのかはわからなかったが、それが薄れていくような、そんな気がした。


ここら辺が潮時なんだろうな。



ベランダに出るため、掃き出し窓を開ける。

無実なのにシャバを久しぶりに感じるのも珍しい。



今の季節はわからない。今日の日付は...確か9月の15日だっけか。ちらっとだけ画面に日付が見えた。じゃあ...秋?まあ、今の俺にはわからない。


そんなことを考えながらベランダに出た。


地味な色の素材で作られたそのベランダは、ひそかに死ぬ俺の最後の舞台にぴったりであっるのかもしれない。


彼はそんな嫌な冗談のようなことを思いながら、寂しげに笑う。まあ冗談ではないのだが。


自分の首くらいの高さにある手すりを両手でつかんだ。


下を向いたら怖くて自殺を躊躇ってしまうから駄目だということを、彼はどこかで見て知っていた。


そして、強く手に力を入れたものの、その割に足は軽く浮かせた。


自分が落ちる地面は見なかったものの、彼は周りの風景を思わず見渡してしまった。誰もいない。誰も止めない。そんなことを確認した。


よし、いける。



片足を引っ掛けた。目線は遠くに向けたまま。

そこにないはずの草原が見えた気がした。


あそこに、行くんだ。


自らのパトスを無理矢理納得させようとする。


もう一方の片足も引っかけた。

後は、前に体重をかけながら両手を放すだけで良くなった。


彼の目線が先程よりもやや斜め上になったことは、ほとんど意味をなさなかった。

なぜなら、3年前、インターホンで怒鳴り散らして追い返した両親のことを目の前に思い浮かべていたからである。

最後は意図的に理想的な走馬灯を作りあげたのだ。


今はもう、彼を止める者は何も無い。


さようなら...さようなら。


自分に言い聞かせた言葉は反響する。


目を閉じる。それでも手すりに乗り上がれた。



吉住純平は汗だらけの両手を離した。




大きなものが落ちるありきたりのような、しかしそれにしてはどこか生々しいような、そんな鈍い音が鳴り響いた。


それは、これまでの誰かの弱い生涯を象徴するかのような音だった。







吉住は外側ではなく、内側に落ちた。なぜなら、前に体重をかけなかったからである。それは、死にたくないという本心を持った彼が意識的に後ろに体重をかけたのか、本当に死にたかったが、無意識的にしなかったのかは、誰も知ることができない。



ベランダの床に倒れ込んだ彼が浴びたのは、誹謗中傷でもなく、ブルーライトでもなく、もう少しで沈みそうな夕日であった。


どこか懐かしい肌寒さの中、これまたどこか懐かしい暖かさを感じた。


しばらく寝転んだままでいると、誰かに打ち明けたいような恐ろしさが込み上げて来て、泣き続けてしまった。


結局、誰も自分の死を止めてくれないことが寂しかった、ただそれだけのことだったのだ。


両腕を重ね、目に当てる。



長く永久に訪れる思慕が、彼に再び立ち上がることを邪魔していた。



俺が死んだ後、この世界はどうなるんだろう。

遺体は腐敗する前に発見されるのかな。

そもそも俺の死は報道されるのだろうか。

両親はどうにも思わない、不幸を産んだとせいぜい思うだけだろう。

俺を性犯罪者扱いして誹謗中傷していた何十万人もの人間は皆公平に裁かれてくれるのだろうか。

無実の俺をクビにした上司は今頃出世コースにでも乗ってるんだろう。

あの時とりあってくれなかった警察は今日もやっつけ仕事で日本の治安を守るなんてことをほざいているのか。


そんなことを考えているうちに、愚か者の自分は、自分以上の愚か者に足を引っ張られて、自分だけ沼の中に居ることに気づいた。


「死にきれねえよ。」


思わずそう呟いた。


レースは脱線して失格判定が既に出ている。しかし、先回りしてでも奴らを邪魔することだけならできるかもしれない。


最後に一泡、吹かせてやりたいな。「理不尽だ」なんて、そんなこと言わせる間もなく。



吉住純平は、拳を片方、空に向かって掲げながら中指を立て、忘れていた笑い方を思い出した。


怨念は壮絶な過去を感じさせないほど、爽やかに彼を内から照らすのであった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ネットのおもちゃになった俺が再び人生を謳歌するまで 祇土自明 @arouseee

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ