第二話 女子医官、寵姫をうけおう②

 とつぜん話題を変えられて、礼侍妾は少ししらけた顔をする。そんな顔をされても、翠珠の目的はもともとそちらである。

「重い、のかしら? 人と比較するものでもないからよく分からないけど」

「腹痛は毎回ございます」

 秋児が代弁した。

「寝込むほどにひどいことは?」

「常ではございませんが……侍妾さま、いかがでしょうか?」

「痛いことは痛いけど、月のものなんて、そんなものだと思っているから」

 礼侍妾はさらりと答えた。個人差はあるが、月経のときに生じる多少の不快感は確かに正常範囲である。けれど痛みや苦痛の程度は主観的になってしまうから、正常と異常の区別がつけにくいのだ。

「月のものにかんしては、痛いことが必ずしもしかたがないわけではありません」

「そうなの? 毎月毎月、いやになってしまうわ。月のものが来るたびに、またごもれなかったのかとがっかりして胸まで苦しくなる。周りの方々も失望させてしまうもの」

 礼侍妾はくされた。光景が思い浮かぶ。礼侍妾本人はもとより、先刻面会をした孫嬪も、礼侍妾の懐妊に並々ならぬ期待をよせていた。その彼女達にとって月のものの訪れは希望を打ち砕く忌まわしいものでしかない。ましてつうけい(月経痛)が強いのなら、ただでさえ煩わしく思っているだろうに。

「胸が苦しくなるって、どのあたりですか?」

 心苦しいという意味のかと思ったが、念のためにいておく。胸のつかえは立派な病理的所見だし、左側の痛みは心臓の病の兆候ということもある。

 礼侍妾は自身の右胸をこぶしでぽんとたたいた。

「このあたりかな。つかえというか、しめつけられるような感じがするの。月のものがはじまると必ずね。でも半日か一日ぐらいで、じっとしていたら良くなるわ」

 最悪、心臓の病ということではなさそうだ。ごくまれに心臓が右にある者がいるらしいが、入宮前の健康診断を確認したかぎりそのような報告はなかった。

 胸の痛みは心と肺の病変から起こりやすいが、礼しようの様子から見るに軽いうつしようによるものではないかとも思う。気分がふさぎがちになり、焦燥感や胸のはんもん感、のどのつかえ感などが主症状となり、治療は気の巡りを改善する方向で行われる。

 東洋医学において人の身体を構成する基本要素を、気、血、水という。

 血は身体の各器官に栄養を与え、滋養させる働きを持つ。水は血以外のすべての体液を指し、その役目は全身を潤すことだ。

 この二つに比べると気は、やや観念的な要素で目には見えない。しかしこの巡りが悪くなるとさまざまな精神的不調を患者にもたらす。ちなみにこの三つの要素は相互に影響しあって働くものなので、それぞれの不調にもかかわりあう。

 ここまでの礼侍妾の訴えを聞くと、近頃はすっかりふさぎこんでいるという孫嬪の言葉は正しかったのかもしれない。

(ふさぎこむ理由は山のようにあるものね)

 慕っていた河嬪の失脚。他の侍妾によるいやがらせ。後者は孫嬪から聞いただけで真偽は定かではないが。

 他にも翠珠の行動範囲を羨ましがるあたりなど、活発な女性だったとうかがわせる言動が多い。それが入宮以降は自由に外に出ることもできないのだから、それなりにうつくつまっているだろう。

 もちろん最大の憂いは、懐妊への期待と失望だとは思う。月のものが来るたびにがっかりすると自ら口にしていた。

 医学的には十六歳という若年での妊娠は好ましくない。女性の身体は七年単位で変化が生じる。十四歳は月経がはじまり妊娠が可能となる年頃だが、まだ成熟していない。身体が安定するのは二十一歳、もっとも満ちるのは二十八歳とされている。その理論からいえば、十代での妊娠は身体への負担が大きい。

 しかし世の男というのは自分の年もわきまえずに女にのみ若さを求めるから、年老いた金持ちの男が財力に任せて、子や孫ほどの若い娘を身籠らせるという気色悪い現象が起こる。もっとも男のほうも年老いたのなら子を作る機能が衰えているから、懐妊させたというのはそれだけ力がみなぎっているというあかしなのかもしれないが。

 ともあれ、後宮ではそんなことも言っていられない。皇帝は子孫を増やすことが責務なのだから、ひんの数が多いのは必ずしも好色が理由なわけではないのだ。まして懐妊はもう少しあとがよいなどと口が裂けても言えない。とらえ方を間違えられてしまえば処分を受ける可能性もある危険な言葉だ。翠珠が礼侍妾にできることは、懐妊するにふさわしい健やかな状態に導くことだけである。

 あれこれと会話をしながら、翠珠は礼侍妾の様子をうかがった。顔色はよい。十六歳の乙女らしいたまのように美しい健康的な肌だ。

「舌を診せていただけますか?」

 翠珠の指示に礼侍妾は素直に従った。舌の色はやや紫がかっている。これは血の巡りが悪いけつの状態を示すもので、痛経を伴う者によくある所見だった。

「気と血、特に血の巡りが悪いのかもしれません。薬を処方しますので、服用してみましょうか」

「お薬?」

 礼侍妾は不安げな顔をする。

「ええ、特に血の巡りがよくなれば痛経は改善するでしょう。そうなれば懐妊も望みやすくなるでしょう」

「……でも薬なんて、おおよ」

 いまいち乗り気ではないということは、おそらく口ほどに痛経には悩んでいないのだろう。あれこれ不調を訴えるので医師のさがで具体的な対処法を提案すると、とたんにおくしてしまう者が一定数いる。本当に苦痛を感じているならそんなのんな反応はできない。慣れているといえば慣れている。

「薬に抵抗があるのなら、最初はお食事のほうを見直してみましょうか」

 この翠珠の提案にも、礼侍妾の反応はいまひとつだった。痛経にかんしてさほど深刻に感じていないのなら、面倒くさいとしか思わないかもしれない。健康よりも好きな物を好きなだけ食べたいと望む年頃だ。その年齢を考えても、懐妊はそこまで焦らなくてもとは思うが、うつの理由に不妊があるのなら、前向きに考えたほうが結果的にはよいはずだ。

「侍妾さま、李少士がこう言ってくれていますから、食事のほうを検討してみましょう」

 見兼ねた秋児が口を挟むと、ようやく礼侍妾はうなずいた。翠珠はほっとした。

「では明日にでも、食材と献立の表をお持ちしますね」

「よろしくお願いします」

 秋児が言った。礼侍妾は少し不服気な顔をしている。機嫌を損ねたかと危ぶんだが、これでそんな反応を示されたら医師としてなにも言えない。先が思いやられるとげんなりしながらいとまを告げる。

「待って、李少士」

 部屋を出ようと扉の前まで来たところで、礼侍妾に呼び止められた。

「はい?」

「色々とありがとう。これからもよろしくね」

 申し訳なさそうに言われて、翠珠は噴き出したくなった。

 ゆううつだった心が瞬く間に晴れて、翠珠は笑みを浮かべて言った。

「こちらこそ、心を込めてお仕えいたします」



「東区の山茶花さざんか?」

 首をひねる錠少士に、翠珠は説明を加える。

「大きく生垣を作っているらしくて、とても見事なものだと礼侍妾さまが教えてくださったのです」

 彼女が一人でそれを探しに行ったことはもちろん言えない。礼侍妾よりも秋児のほうが罰せられてしまう。

「どうかな? 私は東区担当だけど聞いたことがないわ」

「三年目のシージエがご存じないのなら、ただの噂かもしれませんね」

「山茶花の植え込みはあるから、その話が大きくなって伝わったのかもしれないわ」

「ですかねえ。でも山茶花の花壇や植え込みなら、西区にだってありますけどね」

「それは東区ではなく、奥北区の話だと思うわ」

 ちよの内暖簾のれんをかき分けて詰所に入ってきたのは紫霞だった。

「奥北区?」

 翠珠と錠少士は二人で声を揃える。

「奥北区って、皇太后宮とか劇場があるところですか?」

 東六殿と西六殿の奥には、また別の区域がある。皇太后をはじめ、先帝のきさきで子を持つ者、あるいは成人したが未婚の公主が住んでいる。劇場や図書室、庭園などの娯楽施設も充実している華やかな場所だと聞く。ちなみに今上の母親はすでに亡くなっているので、ごうしやな皇太后宮も現在はあるじ不在である。

「それは奥東区と奥西区よ。その奥というか、もともとは奥東区の一部だったということだけど、そこに離宮があるのよ」

「本当ですか? 知らなかった」

 錠少士が驚きの声をあげた。翠珠も驚いたが、それは離宮の存在ではなく、三年近く宮廷医局に勤めている錠少士でさえ知らぬ場所があったことにだった。

(ほんと、後宮って広いんだなあ)

 いまさらしみじみ思う。

 紫霞の説明によると、奥東区の一部が山茶花の生垣で囲まれており、奥北区と称されている。その中に宮殿があるのだという。かつては別の呼び名だったらしいが、いつしか山茶花殿と呼ばれるようになった。

「そんなところに、どなたかがお住まいなのですか?」

せいらん長公主さまよ」


~~~~~


増量試し読みは以上となります。

この続きは2024年2月22日発売予定の『華は天命に惑う 莉国後宮女医伝 二』(角川文庫刊)にてお楽しみください。



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『莉国後宮女医伝』シリーズ 小田菜摘/角川文庫 キャラクター文芸 @kadokawa_c_bun

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