第二話 女子医官、寵姫をうけおう①
「李少士。そなたの話は呂貴妃さまから聞いています」
ゆったりとした声音は、優し気な彼女の
紫苑殿の主、孫嬪は三十五歳。けぶるような
全体的に角がなく、柔和な印象の押し出しのよい婦人である。しかし、その視線はなんとなく落ちつきなくさまよっているようにも見える。
(ひょっとして、私が精査されているのかしら?)
将来有望な侍妾の担当医官なのだから、疑わしき点は徹底して洗いださねばという気持ちは分かるのだが、呂貴妃から話を聞いているのならもう少し警戒を解いてくれてもよさそうな気はする。
(呂貴妃さまが私のことをなんと言ったのかは知らないけど……)
関係を考えれば、悪くは言われていないと思うのだが、経験の浅さから不安を抱かれることはしかたがない。
幸いにして、家族やら学校での成績やらの問いに当たり障りなく答えているうちに、孫嬪の表情は次第に和らいでいった。そうやってある程度、信頼してもらえたからこその、この発言だったのかもしれない。
「すでに承知のことと思いますが、礼侍妾はこの紫苑殿の最後の希望なのです。私が寵を受けられぬ身であるいまとなっては、あの娘にはなんとしても子を産んでもらわねばなりません」
唐突に告げられた重い言葉に度肝を抜かれる。とはいっても寵愛の衰えた妃嬪が、地位は低いが寵愛の深い侍妾を
気を引き締めて孫嬪を見ると、彼女の
「御寵愛の深い御方だと聞いております」
「そうです。それゆえ近頃は、他の侍妾からの嫌がらせもひどくなっています。加えて河嬪の件もありましたので、近頃はすっかりふさぎこんでしまっているのです」
河嬪の出家が、後宮に与えた衝撃は大きかった。
寵姫が妊娠を拒み、自身で避妊をしていた。しかも表向きの理由が流産による精神的打撃というのだから、懐妊を切に願う女達からすればどう反応してよいのか分からない案件だ。それでも大半の妃嬪達が、彼女の処分にかんして皇帝に恩情を求めたというから同情はあったのだろう。
「河嬪は優しい人柄だったゆえに、礼侍妾は姉のように慕っていたのです。彼女が後宮を出たときはひどく落ちこんでおりました。そのせいなのか近頃は月のものも不安定になり、ひどく苦しむこともあるようなのです」
「礼侍妾さまは、お若い方でしたね」
「十六歳です」
「少しでも健やかに過ごせますよう、心をこめてお仕えいたします」
われながら
「頼りにしていますよ。ではさっそく侍妾の部屋に」
女官の一人が「こちらへ」と先導する。青灰色の
孫嬪の実家は呂貴妃の実家に負けず劣らずの権門だと聞いているが、子供の有無でいまの地位に差がついている。このうえ栄嬪が子を産んで妃に昇格でもしたら、十歳以上若い高慢な相手に対する孫嬪の心中は想像に難くない。
前庁を抜けて、いったん
初冬の花壇には、
むかって右手の
「新しい医官が、
「ああ、どうぞ」
案内されて、翠珠は中に入る。孫嬪の女官とはここで別れた。
奥の部屋ではうら若い婦人が長椅子に腰を下ろしていた。礼侍妾で間違いないので、翠珠はその場で
「礼侍妾さまに、ご挨拶を申し上げます」
「どうぞ楽にして
礼侍妾のほうも気づいたらしく、黒
先日、通りすがりに見かけた女官ではないか。呂貴妃の芍薬殿から戻る途中、塀にもたれていた彼女だ。ずいぶん洗練された娘だと思っていたら、まさか侍妾だとは。
(え、なんであんな
翠珠が彼女を女官だと思ったのは、お仕着せを着ていたからだ。しかも一人でいた。およそ侍妾のふるまいではない。などともろもろの疑問は浮かんだが、そこはぐっと
「いやだ、まさかあなたが担当になるとは思わなかったわ」
予想に反して、礼侍妾は露骨にうろたえだす。若い女官は不審気に主人と翠珠の顔を見比べたが、すぐになにか思いついたような顔をする。
「ひょっとして、散歩に行かれたときに?」
「そう、目があったから覚えていたの」
困り果てたように礼侍妾は言うが、だったら知らぬふりをしろと思った。内廷に慣れぬ翠珠でさえ、それぐらいのことは思いついたのに。
二人はなにかぼにょぼにょと言いあったあと、あらためて女官が言った。
「侍妾さまが独りで散歩をなされていたことは、どうぞご内密に願えませんか。特に孫嬪さまには絶対に──」
懇願するような物言いに、翠珠は余裕を取り戻した。
「それは
「散歩くらいは一人で気楽に回りたいと仰せで」
「ですが……」
「言いたいことは分かるわ。でも
礼侍妾は訴えた。女官に失態をなすりつけないところなど真っ当な性格なのだろう。これまでの対象が厳格な呂貴妃と横暴な栄嬪なだけに、市井ではしごく一般的な行動であるにもかかわらず感動さえ覚えてしまう。
「この御召し物で外を歩いたら、すぐにばれてしまいますし……」
「東区の
「山茶花ならこちらの院子にも咲いているではありませんか」
「あんなものじゃないらしいのよ」
翠珠の指摘に、礼侍妾は女友達に対するように反論した。翠珠自身もだんだん寵姫よりも友人と話しているような気持ちになってきた。
「塀のように長い生垣になっているらしいの。高さも小さな殿なら覆い隠してしまうほどに育っているらしいわ」
目をきらきらさせて語るさまなど、十一、二歳の少女のようだ。
「東区にそのような立派な山茶花があったとは、存じませんでした」
「でも、結局は見つからなかったのよね」
しょんぼりと礼侍妾は言った。生垣になっているらしい、という物言いからしてそうだろうとは思った。それでなくとも不慣れな東区なので、これ以上動き回ると迷ってしまうと泣く泣く断念し、翠珠と会ったときは
「それほど見事なものでしたら、私も観てみたいものです」
「見つけたら、ぜひ私にも場所を教えてちょうだい。そうしたら今度はちゃんと秋児を連れて観にゆくから」
礼侍妾は期待に目を輝かせるが、翠珠は探しに行くとは一言も言っていない。見事な山茶花への好奇心はあるが、この場は社交辞令的に話をあわせただけである。もちろんそんな反論をしては、その社交辞令の意味がなくなる。
「そうですね。うまく見つけることができましたら、侍妾さまに報告いたしますね」
「ありがとう、楽しみにしているわ」
隣にいる秋児は女主人の無邪気さに苦笑いをしている。彼女の年齢は翠珠と同じか、少し上くらいかもしれない。美しい女主人を敬いつつ、妹に対するような親しみもにじませている。確かに可愛い女性だとは翠珠も思った。後宮の婦人達はよく言えば洗練、悪く言えば世慣れしている。その中では場違いとも思える無邪気さと初々しさだった。皇帝が彼女を気に入るのも無理はない。
しかし孫嬪の話ではだいぶんふさぎこんでいると聞いていたが、そんなふうにも見えない。顔色もそこまで悪いとは思わないから、もしかしたら孫嬪相手に緊張していて、それが誤解されたのではないだろうか。
これはしっかり四診を行わねばと気を引き締める翠珠の前で、礼侍妾はまるで女友達に対するように朗らかに話をつづける。
「女子医官は、内廷でも外廷でも好きなように回れるのでしょう。
「承知いたしました。ところで礼侍妾さま」
「なあに?」
「孫嬪さまから月のものが重いようだとお聞きしたのですが、いかがでしょうか?」
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