モブライフ
生まれてからすぐに、父親は母さんを捨てて逃げていったらしい……、望まぬ結婚、産むしか選択肢がなかった出産――そして僕は生まれた。
望まれてはいなかったけれど、それでも大切にはされていたのだ。母さんがどう思っていたのかは知らないけど、少なくとも僕は幸せだったのだし。
……あの笑顔の仮面を剥いでしまえば、僕をすぐにでも捨てたい衝動に襲われた、醜い形相をしていたかもしれない。
僕は知る由もなかったのだから、今更、「そうだった」のだと言われても「ふうん、そうだったんだね」、としか思わないけれど。
とにかく貧しかった。
働く母さんが稼げるお金も限られてくる。だから贅沢なんてできなかったし、できるだけ持っている物は長く使うように意識が向いていた。
使おうと思えば使えないものなんてないのだ……、ゴミにだって使いようがある。それを学べたのだから、極貧時代も必要だったのだろう。
そんな過酷な(?)経験を経て、今の僕ができているなら、あの生活も欠けてはならない過去なのだ――。
その後、母さんは仕事の仲間の知り合いと再婚した……、共通の友人を介して知り合い、恋仲になったというパターン。
で、新しく父親になった男は、社会的に力を持った男だった……。母さんがその力を狙って迫ったのかは分からないけれど、僕からしてみれば玉の輿だった。
ボロアパートで、五畳もない狭い部屋でのふたり暮らしから、いきなり高級タワーマンションへ引っ越した。見知らぬ町並みが見下ろせる高さに家があるということが、まるで旅行先のような気分にさせる……しかし家なのだ。
これから毎日、この部屋へ帰ってくることになる……。
価値観が一気にアップグレードされた。
この時に初めて。
贅沢とは憧れていたほど良いものではないということに気づいてしまったのだ。
「
新しい父親は僕に無関心ではないが、過干渉でもなかった。
ちょうどいい距離感だったのは助かった――困った時に相談をする、頼ることができる距離感というのは、便利だ。
使うか使わないかは別として、選択肢のひとつに入っているのは心に余裕ができる。余裕があれば、視野も広がるのだから。
「君は人間の底辺を見てきたはずだ。極貧だった、とも聞いているよ……そこから今、君は人間としての最高の環境、生活を送れている……上も下も経験した君は上だけを知る権力者とは違う視野を持っていることになる……、その価値観は大事にした方がいい」
「父さんは、下を知らないの?」
「俺は知らない。俺は俺より下の奴の気持ちなんて分からない」
母さんのことはどう思っているのだろう……、と聞いてみたくなったが、やめた。手駒のひとつ、だと思っているのだろう……。それでも、その中でも大切にしている人が、僕の母さんなのだ――だってただの手駒なら、リスクを負ってまで結婚なんてしないのだから。
機会を見て離婚するかもしれないけれど、そうなったらそうなったで構わない。
最高の環境を一瞬でもいい――知ることができたのだから。
得るものは得たと言ってもいいし。
「俺の威光を使っても構わないが、それに頼ればどうなるかは、君も分かっているはずだ。底辺にいた頃に見たことがあるんじゃないか? 上にいる人間がどうやって転がり落ちていったのか……、リスクヘッジの甘さや気の緩み、油断、過信――そういった穴を潰せば、敗北はないということを分かっていれば、君は俺の息子としては及第点に達することができるね――」
「父さんは、僕に期待しているの?」
「していないよ? 俺は俺以外に期待も失望もしない。なんだっていいんだよ」
期待されていないのであれば、やりやすい。
失望されないのは、緊張感がないが、僕が思い込んでしまえばいいだけだ――自分で罰を作り、ミスをすればその罰を執行する。
他人がなにもしてくれないなら自分ですればいいだけの話である。
「もしも……僕が父さんを食おうとしたら……どうするの?」
父さんの手が、僕の頭の上に乗った。
撫でるでもなく、威嚇のためにくしゃ、と掴むでもなく……ただ乗っただけだった。
「どうもしない。自衛はするが、徹底抗戦するわけでもないな……食えるものなら食ってみろ。君が勝てば自慢の息子だ。君が負ければ、俺は今の立場を守ることができる……俺に損はない」
負けて全てを失うことも視野に入れている。
それをマイナスとは捉えず、新たな道が開かれたとしている以上、この男はどう転んでも――どう転ばせたところで、自分が負けたとは思わないのだろう。
一番強い人間かもしれない。
負けを負けと認識しない男。
保身に走らない権力者、か――。
「録助君は…………油断をしない権力者だねえ」
――油断をするな。
いつどこで負けるか分からない……それは昔から、自分に言い聞かせていることだから。
小学四年生の時、クラスが崩壊しかけた。
学級閉鎖ではなく、文字通りの崩壊の方だ。
クラスメイト同士による、仲違い、暴力、悪口が横行していて…………さらに言えば、『原因不明』なのが、問題の大きさよりも不自然さを際立たせていた。
理由があるはずなのに分からない。
見えてこない。
誰かが隠し、操作している痕跡もない……まるで災害のような、『事件』とも言えない……だからやっぱり、あれは災害と言ってよかったのだ。
騒動が膨らめば膨らむほどに謎は深まるばかりだったが、しかし僕は、多くの情報が集まることで、調べやすくなったとも言えて……――そして気づくことができた。
クラスメイトたちはなにかに引っ張られるように、我を忘れ、怒りを見せ(僕も同じ状態になったことがある……記憶が飛んだように意識がなくなっているようだ。けれど意識が飛んでいる間も、僕の体は動いていて――)、近い人間を攻撃している。
制止した大人も巻き込んで。
クラスどころか学年ごと……このまま広がれば小学校自体が。
さらに言えば町が、国が、崩壊するかもしれない……そんな現実離れした予想もあった。
さすがにあり得ないか、と切り捨ててしまったけれど、その危険性は後々、充分にあったということが分かる。
騒動のピーク時から遡っていけば――忘れかけていたけれど、些細な小競り合いから始まったことが何度かあった。
その時に、中心にいたのではなく、小競り合いの発端だったのは、クラスメイトの女子だった――
学業よりも運動が得意な、ころころと表情を変える女の子だ。
ある時に気づいた……彼女が笑えばみんなが笑うし、彼女が悲しめばみんなも悲しむ。
彼女がだらければ、同じく――そして、神谷舞衣が怒れば、みんなも怒る。
怒りが連鎖し、やがて攻撃性が増していき、互いに罵り合う騒動に発展する……。全てが神谷のせいとも言えないが、彼女にあてられて、と言えば、他に原因なんて思いつかなかった――。
一度、カマをかけたことがある。
直接聞いたわけではないけれど、噂を流したり会話の中で集団を誘導したりして、騒動の一因は神谷舞衣にあるのではないか? と……。
最初の騒動から時間が経ったこともあり、神谷も自覚が芽生えたのだろうか……、クラスメイトからの指摘に過剰に反応した。
名指しで批判したわけではないのに、彼女自身が、責められていると感じてみんなを避けるようになったのだ……。
まさかその後、あの元気な彼女が不登校になるとは思わなかったけれど……。
「いや、原因を特定したようなものだったからね……、自然とみんなが神谷をいじめる空気になるのは当然の流れなのかな……」
いじめるにしても、主犯格がいないから、質が悪い。
空気で作り上げられた『あいつが悪い』の雰囲気は、個々の背中を押して、いじめと気づかせない嫌がらせを、神谷にするようになっていった。
互いに圧力があったのだ。
神谷を仲間外れにしろ、という圧。
お前のせいだ、という神谷が感じていた罪悪の圧。
結果、主犯不在の中、いじめのような空気感が蔓延したクラスは、以前のような騒動こそ起こらなかったけれど、ぎこちなさは拭えないままに、時間だけが経ち……。
結果的に、神谷舞衣だけがクラスから弾き出された。
誰も手を差し伸べなかった。
僕も。
まあ、僕が作った空気なのだから当然だけど。マッチポンプをするほど、僕は目立ちたいわけではない。僕は目立たずおとなしく、玉座に座らない位置からいつでも使える権力を懐にしまって、安全な学校生活を送れたらそれでいいのだから――。
「神谷さんの復帰を手伝ってほしいです……協力してくれる人はいますか?」
放課後のちょっとした時間に。
学級委員の提案に、手を挙げる生徒がひとり、ふたり……と増えていく。
僕も。だって、ここで挙げないのは、悪目立ちするからね。
僕の成績は中の上……決して、学年でトップ10に入るような良い成績ではない。
コンタクトレンズは怖くてできないと言いながらも、実はメガネの方が都合がいいからだ。丸メガネで童顔は、やはり生きていく上で得なのだ……。
なめられるかもしれないけど、それをデメリットだと思ったことはないから。
なによりも、弱者としてターゲットにされることはあっても、黒幕として名指しされることはないし、みな、候補の中からも僕を排除している。
こちらがアクションを起こさなくとも、そういう方針にしてくれるのは楽だ。根回しの必要がないのだから――。
その日も、僕はいつも通りに風景に溶け込んでいた、モブだったのだけど……。
「――お邪魔します」
と、明らかに年上に見える少年が教室に入ってきた。
近くにいた生徒がこそこそと話しているところに聞き耳を立てると……「あれ、神谷さんのお兄さんの……」「確か、六年生、だよね……」じゃあ、最上級生か。
ふたつ上……、小学生のふたつ上は、かなり大人に見える。
「急にごめん、おれは六年の
不登校になった生徒の兄が乗り込んでくれば、その目的はひとつしかないだろう……。
不穏に感じる入り方で、物色するようにクラスを見ている神谷のお兄さんは、僕たちと仲良くお喋りしたいわけではないはずだ。
かと言って、好戦的でもないだろうけど。
少なくとも、実際に見て確かめたいことがあるのだろう。
「――さて、主犯格は、誰だ?」
……神谷の不登校が、いじめが原因と睨み(それとも神谷が吐露したか?)、主犯格を把握しておこうと乗り込んできたのだ。
だが、あれがいじめと言うのかは曖昧だし、主犯格なんて存在しない。それぞれがそれぞれ、主犯格……だろうと思っている人物がいて、彼の質問に答えるように該当する人物へ、視線を向けたはずだ。
その結果、全員の視線が飛び回る。
多数決で言えば数人が絞れるかもしれないが、今の一瞬で把握できたわけもないだろう。神谷兄は、主犯格を見失っている……というか誰も知らないし、主犯格なんていないのだから無駄な犯人探しだ。
「――そっか、よく分かった」
と、諦めた――にしては、納得したような表情だった…………え、分かった?
主犯格が?
いや、僕にだって、他人から視線が向かっている。
まったく疑われないのも怪しいからね……、僕だって、有象無象の中のひとりだ。
神谷兄の足取りは真っ直ぐだった。僕の元へ、一直線に――――。
「お前だな?」
「え、僕、ですか……?」
「ああ。お前が主犯だろ?」
「違いますよ! 僕は、なにもしてま、」
「みんなの視線がそれぞれ、疑ってる人を指した。多数決で言えばお前じゃないだろうけど……みんなが疑ってる人物に視線が集まるだけで、主犯格に視線がいくわけじゃない。
だから多数の目はこの場合、あまり意味がないんだよな――」
神谷兄が淡々と答えた。
ふたつ上のお兄さんに失礼な言い方だが、こいつ、バカではないらしい。
「中でもお前だけだったんだ……視線がおれに向いたままだった」
「…………」
「疑ってる人間がいなかったのかもしれないけど、ひとりだけだったんだよな……主犯だと疑ってる人物に視線を向けなかった。
それって、自分が主犯、もしくは主犯格がいないと分かっているから――とかな」
彼の手が僕の服を掴んで――椅子から立ち上がらされた。
そして教室の後ろの壁に、勢い良く叩きつけられる。――女子の悲鳴が上がる。止めようと腰を上げた男子がいたけれど、ふたつ上は、やっぱり大きな壁だ。
「……やめ、て、ください……っ、僕は、ほんとになにも……っっ」
「舞衣のなにが気に入らないんだよ」
「違、な、ないですよ、僕は、だって主犯なんかじゃ――」
「――なにをしている!! 神谷っ…………、――やめておけ」
「あー、先生がきたか……すみません」
「…………お前な……まあ、気持ちは分かるが……妹が復帰した時、気まずい思いをするのは妹だ。兄が出しゃばって、妹のクラスをかき乱すんじゃない。……神谷妹については、教師に任せてほしい……、信用できないかもしれないが、こういう時こそ大人の出番だ」
「はい……じゃあ、お願いしますよ」
言って、神谷兄が僕の胸倉から手を離した。
「ああそうだ、メガネくん」
「はい……?」
「舞衣が復帰した時は、よろしく頼むよ。
上手くクラスの輪に混ぜてやってくれ……そういうの得意だろ?」
まるで見透かしたように言う。
なにも知らないくせに…………これはカマをかけているだけだ。
だからこう答えるだけだ……「はい、できるだけ、努力はしますけど……」
「うん、頼む」と、神谷兄はそう言い残して、教室から去っていった。
彼がいなくなったことで張り詰めた緊張感がぷつ、と切れて……全員から安堵の息が漏れた。
「
「あはは……目が合っちゃったせいかもね……」
「逸らせよなー」「逸らしたら、それはそれで目をつけられそうだけどね」なんて会話を男子としながら、僕はズボンのポケットに忍ばせていた護身用の――――あれ?
ない。
護身用に持っていたスタンガンが、なくなっていて……。
「…………」
「立花?」
「いや、なんでもないよ――」
もしかして、神谷兄……あいつ……。
僕のスタンガンを、抜き取った……?
抜き取ったことは、不可能ではない。
胸倉を掴むなり、壁に叩きつけるなりして意識を逸らしてしまえば、ポケットから抜き取ることはできるだろうけど……、どうして僕がそれを持っていると分かったんだ?
サイズは小さめだ。ポケットになにか入っているのが分かっても、ペンケースかもしれないし、それを抜き取ろうとは思わないはず……――もしかして、気づいてる?
僕がスタンガンを持ち歩き、自衛をしている人間性だってことに……。
「立花……? 顔、怖いぞ……?」
「ん? そうかな……なんでもないよ」
そう誤魔化しておいたけれど、僕のクラスでの立ち位置に、歪みができたのは、これがきっかけだったのかもしれない……。
以降、僕はモブではいられなくなった。
モブでいづらくなったのは確かだった。
権力を持ったことで人が変わった?
違うね……、見破られたことが、スイッチになったのだ。
一度ケチが付けば、僕はもう、完全なモブではいられない――だったら堂々と裏で動いてやろうじゃないかと思ったのが、この日だったことは、鮮明に覚えている――。
今でもまだ、決して色あせない記憶だ。
自覚がなかったけれど、僕はどうやら、負けず嫌いだったらしい。
この敗北は、なにかで補わないと、気が済まない。
「……手始めにガキの裏側でも牛耳るか……」
「え、なんか言ったか、立花」
「なんでもないよ。……なんの話してたっけ?」
「神谷を学校へ登校させる方法! 良い案あるか?」
「神谷の好物を家から学校までの道に置いて、道しるべを作れば?」
「そんな犬みたいなこと…………いや、意外とありか?」
ねえよ。
内心ではそうツッコミながら、現実での僕は微笑みを彼に返していたのだった。
…了
エルフの退屈【完全版】(短編集その17) 渡貫とゐち @josho
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