惑扉《マドイド》

 蠢く文字の本流。書冊から飛び出し室内を縦横無尽に飛翔するその様は、むくろたかる蝿の如き不気味さと不快感を伴っていた。一方で。眼前噴き出すそれらの影が、忌諱すべき害虫共の類であればいっそどれだけ楽だろうかと。文彦は思わずにはいられなかった。


 あれらは総じて文字の群れ。書き出した人の魂の一欠片、心の断片を縁に顕現せし異形の生命。常世ならざる命の奔流。


 槭樹かえでと出会ってから文彦が目の当たりにした幾つかの超常。その源流たるはやはり異端の生命。けれど、それらはしかし結局のところ現象として以上の実感を彼に与えるだけのものではなかった。

 常ならば触れ得ぬ異形も。

 大凡出くわす事なき異端も。

 それらは皆一様に、現実とは分断された…どこか虚飾めいた代物ばかりであったから。


 ——だが。



 群がる黒色の濁流は疑うべくもなき超然の様相。で、あるにも関わらず。そこにはむせかえる程に濃密な、命の躍動が凝縮されていた。言語による解析はてんで困難な…されど見るものに有無を言わせぬ膨大な圧力。具現化された生命力の渦の中。それらが目指す先は、只中に置き去られた捕食の対象。贄たる生身、木綿まゆ


「——母さんっ!!」


 槭樹からの合図はない。息を殺して後を付けているその最中、弾ける様に放たれた言葉は間違いなく不用意だったろう。だが、既知の現象とはかけ離れた超然に、今まさに飲み込まれようとする母の身を慮るばかりに溢れ出した激情を、誰に咎める事など出来るだろう。

 言葉の勢いもそのまま。後先を顧みず、母の元へと駆け寄ろうとしたその足は、しかし。それ以上一歩も踏み出されることはなかった。


 ぴたり。


 文字の洪水。虚文の群れ。その躍動が瞬く間、止まる。音もなく、気配も絶たれ。まるで初めからそうであったかの様な顔をして、静寂に群がる異様。

 静と動。目眩を起こしかねない程の落差を伴って訪れた沈黙に、文彦の身が強張る。刹那、彼の脳裏を巡ったのは、隠渡かくしわたしに纏わる幾つかの言葉…その内最も憤りを禁じ得なかった一文。


 隠渡にとっての木綿とは、餌。


 隠渡が常世ならざる存在である以上、その真意や本能が常の者共とおしなべて等しいと証明する術はない。故に、文彦の胸中に過ぎった不安感に、明確な根拠などありはしない。それでも、文彦の怯えを咎めるのは酷く不粋だろ。


 ——がもし、野生の獣ならば。




 ぞるる、と。背筋を鉋で削り落とされる様な、鋭い痛みにも似た強烈な焦燥が文彦を襲った。

 

 数瞬前までこちらなぞには一瞥もくれなかった異形の顎。その鋒が明確に、自身へと向けられるのを文彦は感じ取っていた。

 隠渡が虚文の群れという姿である以上、形状としての眼球…もしくはそれに準ずる感覚器官の類は確認できない。文彦が体感したその感覚は、それこそ虫の知らせに近しいものだった。

 だが、彼には確信があった。

 自らの食事を妨げられたことに対する強烈な憤り…ひいては生命維持を阻害されるやもわからない侵入者に対しての恐怖を。払拭する、ただその為に。異形の群れが自らへと牙を剥こうとしているのだという、絶対の確信が。


「———」


 隠渡が、揺れる。

 群生の個。全体で一つ形を成す異形が、再び動き出さんと大きく揺れる。


 その、刹那。



「『山奥 新雪 フキの花』」



 凛と。鈴が打ち鳴らされたかの様に高らかな響きを伴って、言葉は強く室内を反響する。文彦の…そして恐らくは隠渡においてもまた等しく、意識が声の主たる槭樹へと注がれる。


「『深冬みふゆ 清流 春惑はるまどい

』」


呪詛とも、或いは祝詞ともとれる言葉。それらはまるで、現世の遥か隔たりの彼方から木霊する遠吠えか。彼岸の果てより手招く呼び声かの如き、異質な気配を纏ったまま屹然と轟く。


「『真宵の淵 常ならざる闇 届かざる行燈あんどんの先

立ち寄るならば持ち帰ってはならぬ

求めるならば無欲たらねばならぬ

帰路の分水が隔たらぬ方に

日の元に三度立ち戻る様に』」


 ぎしりと。室内の空間が、内包される空気ごと静やかに凍りついていく。異形の闊歩に依る形容ではない、



———


「大丈夫かい、文彦さん」


 動揺も、焦燥も。心の機微の一切を上塗りで埋め尽くす、耳に痛いほどの沈黙と静止。その只中にあって一人、悠然と。いっそ穏やかな気配すらを纏いながら、槭樹が言葉を紡ぐ。

「は、はい——」

 自らの不用意に謝罪する余裕さえ有りはせず。言葉に、半ば茫然自失の様相で空返事を返す程度が精々。とは言え、槭樹にしてもそんな文彦の言動を咎めるつもりは毛頭ないらしく。特段の動揺を見せるでもなく、ただ、眼前広がる光景を軽く見やり。一つ、小さく息を吐くばかりであった。その姿に、文彦は思わず疑念の声を挙げた。

「これは…一体…」


 動作が停止した、などと言う生半な風体ではない。隠渡、木綿。渦中の当事者たる一人と一群は、その周囲の時間ごと凍りついたかの如くまるで微動だにもしない。挙動の間隙、そのいとまの静寂とするには酷く異様なまでの沈黙。ただならぬその様子はしかし、槭樹にとって眉を顰めるだけの理由とはなり得ないらしかった。


「『惑扉マドイド』という〝現象〟が存在する」

「『惑扉』…?」

 言葉としても。また、今し方の文脈としても利害が難しい、聞き慣れぬ単語。おうむ返しでそれを口にする文彦の戸惑い顔に、槭樹は尚のんびりと頷く。

群文ぐんもんと同じく、生命を持たぬ異様の一つでね。ある特定の領域が外界より分断され孤立する現象なんだ。本来は自然発生する代物なんだけど、今回はそれを意図的に呼び起こしたのさ」

槭樹が言葉を続ける。

「民間伝承として言い伝えられる内で言うと東北圏などでよく知られるマヨヒガに近しい性質を有する存在でね。隔絶された領域内の時間の流れ、生命体の活動を一時的に凍結させる特性を有しているんだ。最も、富を与えるなんて話は、伝承の過渡で付け加えられた根も葉もない尾鰭ではあるだろうけれど」

 流れる様な彼女の言葉の大半は、文彦にとって理解することの難しい代物ばかりであった。それでも尚、ひとつ。理解できたのは…これが、時間稼ぎの為の手段であると言う事だった。


「さあ、ここからが本番だ」

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カカレモノ nanana @nanahaluta

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