顕現《ケンゲン》
常よりも微かに冷たい風の吹く、薄っすらと冷えた夜だった。しんと静まり返った村の様相は日々と変わらず、鳴る音といえば時折揺れる木々のざわめきと、小さく響く虫の声程度。
うつらうつらと。微睡と緊張の狭間で明滅する意識。その中でふと、大きな孤独感に苛まれる。世界ごと買い上げた様な誰の影も見えない深い夜の底で一人きり、闇が明けるのを待ち侘びる。そんな夜を、もう何度過ごしてきただろうか。文彦が身震いする。
母が目覚めなくなってから。そんな、気の遠くなる様な夜は、幾度も彼を苛んだ。その度彼は自身が酷く脆弱で小心であることを自覚した。最愛の母が遠のき、自分だけが見知らぬ世界に投げ出されたかの様な、際限の無い孤独。その感覚があながち的外れでは無いと分かって尚、それは一人の寂しさを埋める役にはまるで立たない。孤独は孤独のまま厳然と彼の前に横たわり、真綿が首元に食い込むが如き心細さは延々と晴れない。
風がまた一陣、冷たく吹き荒ぶ。家鳴りの響く闇の中。布団にくるまりながら、文彦が怯える。
数刻前から、母の監視には
家鳴りはまるで、獣の呻き。ともすれば、巨大な腑に閉じ込められたかの様な錯覚にすら陥る。いっそ何も感じず、考えず眠れてしまえばどれだけ楽だろうか。
だが、そうはいかない。生きている以上思考は絶え間なく、それらは概ね抱き抱える不安や焦燥に向けられる。苦悩し、苦悶する。それらを繰り返すばかりが、彼の夜の大半であった。
その静寂が、突如。忙しなく破られる。
極力物音を立てぬ様…けれど明確に急いだ様子で、肩を叩かれる。慌てて布団を払い除けた文彦の眼前には槭樹の姿が。その表情は真剣そのもので、文彦は思わず息を呑む。
「物音を立てない様に。外へ出たら後を追おう」
囁く言葉に、文彦が頷く。その横にしゃがみ、槭樹が外套をすっぽりと頭から被って身を隠す。文彦もそれに倣い、改めて布団の中へと体を潜り込ませる。
暫くすると。すう、と。寝室と居間を隔てる引き戸が、極めて静かに開け放たれる音。ぎしりぎしりと、僅かながらの軋みを伴う足音が続き、その内それは玄関に到達する。もう一度戸が開いた気配を確認した後、槭樹が外套を着直す。
「いこう」
槭樹の合図で、二人は
さながら夢遊病者の如く。或いは糸の切れた凧の様に、定まらず、おぼつかない足取りで歩を進めるその姿は…見間違いではない、確かに微かな淡い光を放っていた。
淡い翡翠の光。それらは彼女の周囲を取り囲むというより、明らかに彼女そのものから発せられているように見えた。一見して幻想的にすら思えるその姿にしかし、文彦が抱いたのは、おおよそ見当もつかぬほど鋭利な恐怖であった。
星の瞬き。蛍の光。陽光、斜陽。その如何なるとも異なる、霞のような光。一瞥してそうと分かるほど、それは常世のものとは思えぬ異質さを放っていた。そして、その光を目の当たりにして同時に理解する。あれこそが。槭樹がカカレモノ共の領域と呼称した、異界に属するものらの光。
相も変わらぬ、よたよたとした足取りはしかし、真っ直ぐ離れへと向かっていった。声を殺してその後を追う。
やがて、離れの戸の前まで辿り着いた木綿は、刹那の躊躇いもなく、それに手を掛ける。元より破損していた引戸は、隔たりとしての役割をあっさりと手放し、招かれざる来訪者へとその間口を開け放つ。その折、夜の闇には大きすぎる、軋む音を響かせて。
室内に入った途端。木綿はすとんと、それこそまさに糸が切れた様に座り込む。その木綿の手元に向けて。
ずるり。
一冊の書が一人でに、這いずり寄った。
開け放たれた離れの戸は、自宅のそれと同様に、ぶっきらぼうに開け放たれたままだった。故に、その異様な光景を、後方にて息を顰める二人もまた目撃していた。
まるで生き物の様だ。鈍足で巨大な虫が蠢く様に、這いずる書冊のその姿に、文彦は咄嗟にそんな感想を抱いた。抱いて、次の瞬間には自らその思考を改める。
生き物の様、ではない。あれはまさしく、生物なのだ。在り方こそ異なる、住まう領域も違う…だが、けれどそれだけの、確かに命を有する存在。
ずるずると這い寄る書冊は、そのまま木綿の手の中に収まる。びくんと一度体を揺らしたかと思うと、木綿がその書冊の頁をぱらりと開く。その様子は傍目には、読書に耽っている風にしか見えぬものであった。
——何事も起きない、と。刹那、文彦が気を緩めた、その時。
書冊から。無数の文字共が一斉に溢れ出した。
カカレモノ nanana @nanahaluta
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