前夜《ゼンヤ》
「恐らく、次の『食事』が最後だと思う」
香を焚き、目覚めぬ人との対話を行う。半ば以上に呪いじみた儀式が済んだ、その日の夜から。槭樹と
最も懸念されるのは、周囲の視線が切れた頃合いに食事が始まり、気付いた時にはさっぱり姿が消え失せている、という顛末。そうなってしまえば、最早木綿を『こちら側』へと連れ戻す手立ては無い。そうした不測の事態を回避する為、二人は夜な夜な監視を続けていた。
「決着がつくまでは滞留するけど、その間離れに出入しても構わないかな?」
監視の日々が始まる前。槭樹が提示したその条件を拒む理由は、文彦にはなかった。そもそもあの離れは木綿以外使う事はなかったし、盗み出して益を生み出すだけの何かがあるとも到底思えなかった故、文彦はこれを快諾した。以降槭樹は隙を見つけては離れに残された書冊を漁り、調べる様になった。
その内、新たに判明した幾つかがあった。
「
「それはー…多いの?」
「この村に、都中の人間が集まってるくらい多いよ」
うへぁ、と。文彦が引き攣った顔をしながら、納得する。確かにそれは、多いどころの話では無い。足の踏み場もなさそうな村の姿を想像して辟易とする。考えただけでも人酔いしそうな光景を、頭を振って掻き消しながら、文彦が口を開く。
「それは確かにすごいですね…それだけの数が一つ所に集まった事は過去にもあったんですか?」
言葉に。槭樹は首を横に振り、明確な否定を示した。
「隠渡についての記録は数多残っているけど、一対象にこれだけの数が群がっているなんて話は聞いたこともない。ともすれば変種かな」
「変種?」
言葉の示す…どこか不穏当な響きに、文彦が表情を曇らせる。
「カカレモノって連中は基本的に安定しない生き物なんだ。ある特定の性質を持っているはずの奴らが、ある日突然それを失ったり、あるいは全く別種の特性を獲得したりってのはよくある話なんだ。
槭樹の表情もまた、常の朗らかさとは僅かに違う色味をみせていた。すなわち、若干の困惑。とはいえ。考えても分からないことに頭を悩ませ続ける事こそ無駄と判断したらしく、その件について槭樹がそれ以上顔を曇らせる事はなかった。その代わり、というわけでも無いのだろうが。一先ず確定的な事項として、彼女は冒頭の言葉を口にしたのだった。
「昏睡段階に入った被食者は、夜半に限り隠渡に吸い寄せられる形で被食活動を行う。そしてその回数は、被食初期とは逆に段々と少なくなっていく。記録によれば昏睡期間が連続して二十日続くことはないらしい。今回の昏睡は既にそれに近い日数に及んでいるからね。ここら辺は、初診の見込みが外れた感じだけどね」
覚悟を決めろ、と。面と向かって言われたわけでは無いし、恐らく槭樹自身にそうした意図も無かったと思われる。それでも、迫る刻限にまるで気負いする事なく、と居直れる程に文彦の肝は据わってもいなかった。
槭樹の言葉を反芻する。
楔。母をこの世界に繋ぎ止めるだけの役を、果たして自分が担えるのか。一抹の不安が脳裏を過ぎる。考えるだけ詮無きこととは自覚しつつも、それでも、思わずにはいられなかった。
「…父さんが、いれば」
槭樹の視線が、僅かに細くなる。文彦の顔色を伺ったわけでも無いだろう。曇る表情を注視しつつ、その内心に探りを入れている様子だった。
「…どんな方だったんだい?お父様は」
「…覚えてないんだ、全然」
文彦の父が亡くなったのは、彼がまだ物心も付かぬ頃の話だ。その話の顛末を、終ぞ木綿は文彦に話聞かす事はなかった。文彦もまた、彼は彼で、物がわかる年頃になった以降その理由を、不要な心配事を自身に押し付けまいとする母の配慮であると結論づけ、積極的に父について尋ねる様なこともしなかった。ただ、村の住人から伝え聞いた話だと、母と父は村でも評判のおしどり夫婦であったらしい。
文彦と木綿の関係は、極めて良好だった。それでもやはり、不安は消えない。
「母さんは父さんが居なくなってから、随分と寂し思いをしていたはずなんだ。僕じゃなくて、父さんがいれば——」
「その辺にしておきなね」
ぴしゃりと。槭樹が言葉を遮る。文彦の表情が強張る。彼女の言葉には、出会ってから一度も聞いたことのなかった、嗜める様な厳しさが伴っていた。
「不躾な質問をしてしまってごめんね。でも、自分の価値をそんな風に言い表すのは良くない」
謝罪と共に続けられた言葉には既に、先程の厳しさの名残は見受けられなかった。ただやはり、槭樹の様子は今までとは少し異なって見えた。
「亡くなった人というのは二度と戻らないが故、極端に尊く、かけがえの無い様に思えるものだ。だけど…あえて言い切るけれど、決してそんな事はない。亡くなった誰かとの記憶や思い出が、今生きている誰かよりも得難いなんて事は、決して無い。文彦さんにはその事を、決して忘れないでほしいな」
不思議な懇願だった。けれど不思議と、その言葉は決して忘れてはならないものだと心の芯から思わされる強い響きを持っていた。真っ直ぐ槭樹を見つめながら、文彦が頷いた。槭樹はその姿に、柔らかく笑みを返すのであった。
そして。
槭樹が来訪してから十三度目の夜。
その時が、訪れる。
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