書人《カキビト》



———


「あの…いいですか?」

 簡単な食事を済ませた後。少しばかりの寛ぎの時間。文彦が口を開く。

「ん、なんだい?」

槭樹かえでが答える。

「槭樹さんは自分の事を『書人かきびと』と言ってたけど、それは今回の…母さんみたいな人達を助ける様な人達なんですか?」

言葉に、槭樹が少し考える素振りを見せる。それからすぐに

「そうとも言えるし、そうで無いとも言えるってところかな」

やんわりと、文彦の言葉を否定した。その代わりに、と言うわけでも無いのだろうが。

「文彦さんはさ、カカレモノがこの世界にどの位居るかって想像がつくかな?」

別の質問を投げかけ返した。

 文彦が軽く想像を巡らせてみる。とは言え、今朝方まではその存在すら知らず…もっと言えば信じてすらいなかった存在の話だ。皆目見当も付かず、首を横に振る。

「答えは…これもやはり、わからない。ただ確実に言える事だけど、その総数は到底人の身では計り知れない。出自が人の手による伝承・伝聞・記録…果ては噂話ですらあったりする連中だからね。それはそうと言えば、まぁそうなんだけど」

 空想は言葉によって伝えられ、文章として紡がれる。史実の記録、怪異の伝承、絵空事の夢物語。カカレモノとは、それらが形を成した命の在り方であると槭樹は言った。

 この世界の裏側。もしくは隣り合わせの異界。日々を生きる日常の目と鼻の先に、凡そ及びも付かぬ超然たるモノどもが闊歩している。それは正に、混沌。そもそも人々が認識している常識それ自体を揺るがしかねない、奇異。なるほど、それは確かに。想像するだけでも——


「想像するだけでも、胸が躍らない?」

「——え」


 文彦の思考を支配せんと擦り寄ってきた、あらゆる恐怖。それらは未知…計り知る事の叶わない存在を目の当たりにした際の心の移ろいとしては、当然のものであった。けれども。同じ様に、彼女にとっても本来的に未知の物物である筈のカカレモノについて言及するその表情は、驚く程に光り輝くものであった。

「人として生きる。日常を暮らす。そうした生活の様々は勿論尊い。そうした生涯の価値を軽んじつるつもりは勿論無いさ。けれど、そうした人生を尊ぶ心と同じ熱量で、想像も及ばない絵空事の様なモノどもに対しての畏怖や畏敬、焦がれる様な憧憬しょうけいは間違いなく存在している。しかしながら多くの人々は、それらを現実に目の当たりにする事はまず無い」

「視える人とそうで無い人の話?」

槭樹が頷く。

「カカレモノの視える・視えないが何故分かたれるのか。視えるとして、一体なんの素養が起因しているのか。そこら辺ってのは正直、全く明らかになってない。諸説ありつつも確定的な何かは存在しないし、ただ視える人間が居るって事実だけが横たわっている訳だね。ただ何となくだけど、視える連中ってのには少なからずの共通点が存在するのさ」

「共通点…?」

 呟き、首を傾げる文彦に向けて。槭樹はととん、と。自身の顳顬こめかみを突いてみせる。

「好奇心さ。それも恐らく、概ね分不相応な程に肥大した、卑しいとすら言い表せるだけの極端な未知への飢え。カカレモノを映す瞳を持った連中ってのは、往々にしてそんな奴ばっかりなのさ。無論、私自身も含めてね」

 爛と煌めくその瞳に。文彦は突如、正体の分からない…恐怖に近い感情を抱いた。

「視えるモノなら視てしまう。視てしまったならば知りたくなる。この世のどこにもありはしない…けれど確かに存在する荒唐無稽の絵空事。そうしたモノどもを探し、求め、記し、伝える。そんな事ばかりに取り憑かれた連中…書人ってのはそうした人種なのさ」

 今度は、仄かな憤り。先程まで胸中に渦巻いていた恐怖はなりを潜め、取って代わり沸々と丹田たんでん辺りが熱くなりそうな程の、やり場の無い怒りが込み上げる。

 槭樹に悪意が無いことは、文彦も重々承知である。それでも、実の母を苛むその元凶を、まるで素敵な何かの様に語るその様は、彼からすれば度し難いものであったのだろう。

「…あんな、人に害なす連中が好奇の対象だなんて、そんなの間違ってる」

口にしてから、若干の後悔を感じる。言葉そのものに嘘はない。けれども、ここまで親身に対策を講じてくれていた人間にかけるものとしては、今の自身の発言は些か不適当であると自覚していたのだ。更に本音を言えば、自身の言葉で機嫌を損ねて治療を中断されてしまってはどうしようという、幼稚な打算も勿論。

 最も槭樹自身は、文彦の言葉に腹を立てる様子もなく。「まぁ確かに。言いたい事はわかるけどね」と、前置きをしてから。

「実害は確かに在る。けれど、あれらはあれらで、ただ自身の生を全うしているに過ぎない。私達が他の命を喰らいながら生きるのと何ら変わらない、喰われる対象がたまたま私達人間だったってだけの話なんだよ」

はっきりと。文彦の至極真っ当な怒りを、呆気なく否定した。当然、文彦に納得があるわけが無い。零れ落ちそうな怒りを懸命に飲み下すその姿に、しかし…恐らくはだからこそ、槭樹は真っ直ぐに言葉を続ける。

「産み落とされる物語に貴賎はない。そこから生まれ出た命達にも、同じく。ただ生きているそれらに罪を問うことは出来ないさ」

 人が、人の基準で生物なり事象なりに優劣…ないしは善悪を定める事は、至極当然。害なすものに善性を認めるというのは、言葉にする程容易ではない。無論、それらは主観に基づく。虫も獣も、計り知る事は困難だが、恐らく植物でさえも。他方への価値基準に、自身に対する有益性が内在する事は避けられない。で、あればこそ。槭樹の言葉にはやはり、そう安直に頷けはしない。彼女の言葉は、おおよそ人の視点ではない。それは最早、神仏に近い領域の俯瞰である。

「とは言えカカレモノってのは、まぁ一際ややこしい連中でね。こちらが彼等の領域を侵害せぬ限り、余程の事がない限り実害を及ぼさない獣連中とは違い、平穏な生活に突然降り立って害をなす場合が多いのさ。無論それらは無知故である事も事実だけど、事カカレモノについては、それらに対しての正しい知識を得る機会そのものがとんと少ない。そう言った、罪なき無知による被害というのは、放置すると碌な事にならない。だから時折こうやって、目に付いた事案には首を突っ込んでいるのさ」

 同時に、と。言葉は続く。

「必ずしも、常に人が被害者であるばかりでない事も確か。人の領分を逸脱した無法や無体なんかにも、カカレモノが纏わる話は多い。それらは当人だけでなく、カカレモノ達の領分すら容易に侵害する。そうした人の行いを嗜めるというのも…まぁ、私達の役目なんだろうね」


 先程まで、腹の底に渦巻いていた稚拙な怒りはすんと消え去っていた。代わりに何か、厳かな思想に出会した様な奇妙な畏敬が。己の矮小さに悲嘆する、なんて事はなかったが。それでも文彦は…一時とはいえ、自身が抱いた無知故の浅慮に僅かばかり居心地の悪さを覚えてしまう。そんな心の動きを察したのであろう、槭樹は話の締めとして、こんな事を口にした。


「決して誰かが悪いわけでもない。実害を被ったのなら、怨嗟の声を上げる事だって憚る必要はない。重要なのは、それらは総じて互いに言える話だってこと。私達だけの世界ではないし、彼らだけの世界でもない。互いに少しずつ、居場所を分け合って生きていければいい。互いに苦しまない、適切な配分でね」

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