隠渡《カクシワタシ》・二
戸を開けた
「どうだった?」
どもりながら発せられる言葉。声ははっきりと震えていた。
「大丈夫。仔細問題ないよ」
槭樹がにんまりと笑う。細かな説明は一先ず傍に置いてでも、目の前の少年を安心させる事を優先したのだろう。破顔という言葉がしっくり来る、花が咲いた様な笑みであった。
余程張り詰めていたのだろう。強張った肩から力が抜けると同時に、文彦がぺたりと床に座り込む。その背中をぽんぽんと軽く叩きながら、槭樹が変わらず微笑む。
「これから実際の治療法を説明するね。…加えて言うと、その時文彦さん、あなたにも手伝ってもらいたいことがあるから、それも含めて少し話そう」
きょとん、と。今更自分に出来ることが何某か有るなどとは、まるで想像もしていなかった文彦は、促されて立ち上がってからもしばらく、不思議そうな顔をしていた。
———
「
胡座をかいたまま、鞄から取り出された一冊の書冊。それは先程、離れにて発見された、隠渡が宿るとされているものであった。その頁を開き、
「『渡』の方は割と単純で、隠渡に感情を食い尽くされた人間があちら側の住人となり、その他大勢の人らから認識されなくなる事に起因する。連なって、周りの人間からは忽然と姿を消した様に…さながら『隠』された風に映るわけだね。ただ、『隠』にはもう一つ、別の意味合いがある」
ちぐはぐで出鱈目。皆目意味を為さぬその文字をつうっと指でなぞる。蠢く様な奇異はなく、ただ黙するばかりのその文字群が、常ならぬ怪異で有ると誰が思うだろうか。
「隠渡が対象の感情、その全てを喰らい尽くした時。隠渡もまた、さっぱりとその姿を消すんだ」
ぱたん、と。槭樹が書冊を閉じる。
「実際のところ。恐らく隠渡による被害というのは、記録が残されている限りよりも、もっとずっと多い。捕食が完了した時点で、その痕跡が皆目見当たらなくなってしまうんだからね。神隠しや天狗攫い…伝聞や伝承として残されている人が忽然と姿を消すといった話の中には、隠渡が絡んでいる事案も相当数あると思う」
人が、消える。
遥か昔からそうした類の話に事欠くことはない。ある日突然に、前触れもなく、痕跡を残さず、在った筈の人間が消え失せる。それらの伝聞・伝承はそこかしこに存在している。
「けれど、わからない。その人が消え失せた後、当の隠渡もまたその近隣からはすっかり姿を消してしまうから。…実の所、
「…どうするの?」
ここまでの話を聞いても、どうやって奪われた感情を取り返すのか…その方法が、皆目見当もつかない。文彦は急くように尋ねる。浅薄とも浅慮とも言えるせっつき方に、しかし彼自身の胸中を鑑みれば致し方がないことであろうと、槭樹が先を続ける。—その方法は、いっそ拍子抜けする程簡単な内容だった。
「当人が隠渡に触れる。奪われた感情を取り戻す手段は、実はこれだけなんだ」
「触れる…だけ…?」
「書冊に閉じ籠っている状態の隠渡は一切外界と通じない。仮に触れたとて、それは紙上の文字をなぞるだけの行為に過ぎない。書冊ごと燃やてしまうみたいな物理的なモノを除けば、こちら側から干渉する術はない。実際の捕食についても同じく。ただ、そんな隠渡が書冊を抜け外界へと現出する頃合が、一つだけ存在する」
文彦が、ごくりと喉を鳴らす。
「それは、本当に最後…対象の感情を喰らい尽くし、その姿を掻き消すその刹那。その一時だけ、奴らは境界を跨ぎ私達の住まうこの現世に姿を現す」
言いながら。掌を開いて、閉じて。その手を軽く、自身の正面へと突き出す。
「その刹那に。対象本人が隠渡に触れる事。それが、奪われた感情を取り戻す唯一の方法だとされている」
「……触れるだけ、なの?」
拍子抜けするほど単純なその方法に、文彦が口をあんぐりと開ける。その様子に少しばかり屈託ない笑みを浮かべながら、槭樹はこくりと頷いた。
「先にも少し触れた通り、あれらは本来極めて微小でか弱い存在だからね。外部からの干渉に争うほどの力はそもそも持ち合わせていないのさ。ただ問題がないこともなくて…多くの場合、その場面において対象の人間はほぼ意識がない状態なんだ。酷い酩酊状態と例えてもいいかもね。そこで文彦さん、貴方の出番なんだ」
文彦が首を傾げる。その姿に、一言一言、一音一音。一際丁寧に、槭樹が言う。
「その場面が訪れた時。文彦さんには、木綿さんに強く呼びかけて欲しいんだ。名を呼ぶだけだって構わないからね」
これもまた、酷く簡単な話であった。けれど、より一層丁寧に紡がれたその言葉に、伝えようとしている事が如何に重要なのかは、これも同じように酷く簡単に伝わった。
「現世とカカレモノの領域の狭間に属している今の木綿さんにとって、一人息子の貴方は彼女を『此方側』へと繋ぎ止める、最も大きな楔なんだ。彼女がこれ以上彼岸に揺蕩わぬ様、貴方が彼女を引き留めるんだ。これは、貴方にしか出来ない…貴方だから出来ることだ」
言葉の響きは強く、確信の色を伴って響いた。その音は不思議と、文彦の心を鼓舞した。
仄かな緊張と。事ここに至って尚、自身にも出来ることがあるのだと言う、ある種の不謹慎な高揚。それらはしかし、打ちひしがれるばかりであった先程までの姿に比べれば随分と生気に富んだ様相であった。
文彦が頷く。その様を確認してから、槭樹があらためて口を開く。
「木綿さんの状態からの推測だけど、恐らくあと数回の後にはその時が来る。今は一先ず……食事にしたらどうだい?」
ぐぐぅ、と。時も場所も構わない、大層大きな腹の虫に、文彦は全く、バツが悪そうにする他なかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます