渡香《ワタリコウ》



 すうっ、と。開かれた両の眼には、未だ目蕩みの色が濃く。飛び込んできた景色を視認しながらも、それらを処理するだけの思考はあらず。暫しうつろな眼差しをゆらゆらと遊ばせるばかりであった。


「ん、いい塩梅だね」


 聞き慣れぬその声に。相変わらず、半ば霞が掛かった意識のまま、ゆるりと顔を動かす。その視線の先に、見慣れぬ姿を見た。


「私の声が聞こえますか?」

「…ぁ、い」

 横たえられた身を起こしながら。見知らぬ女性の言葉に答える。その際、酷く声の出し難い事に気がついて、わずかに困惑する。まるで体が、喉が。声の出し方を丸っ切り忘れてしまったかの様な違和感であった。

 自身の変調に戸惑うその姿に、今一度声が。穏やかで和やかな…けれど明朗快活とした声色と語調の言葉が向けられる。


「はじめまして、木綿まゆさん。自分は槭樹かえでといいます。文彦さんの依頼を受けて、あなたの身に起こっている怪異について調べさせていただいている者です」

「……文彦、に」

 その名を耳にした、その刹那。もやが晴れたかの如く、唐突に明瞭然とした脳裏に浮かんだのは——


「——っと、文彦…文彦は?」

 じい、と。狼狽する様子を暫し観察するが如く視線を向けたのち。再び槭樹が笑みを浮かべる。

「安心してください。彼なら今、隣の部屋にいます。此処ここには、私と木綿さんの二人きりですよ」

言葉が信用にたるものなのか、判別するだけの思考力は未だ戻っていない。それでも、穏やかなその声色に嘘の気配が混じらない為か。木綿の顔に安堵の色が浮かぶ。そうしてようやく、幾らかの落ち着きを取り戻した木綿は、床から半身を起こして辺りを見回す。

「ここは…」

 見慣れた筈の寝間の光景には、しかし違和感があった。微かに見える家財の配置などから、そこが自宅である事に疑いようはない。ただ、室内は辺り一面霞がかかり、まるで火煙ひけぶりに包まれている様であった。戸惑う木綿に、槭樹が声を掛ける。

「御自身でも恐らく気づかれていると思いますが…今、あなたの肉体は少しばかり特殊な状態にあります。ただ揺り起こすだけでは会話が難しかったので、ちょっと乱暴をしました」

 槭樹が、燻る煙の中、自らの腕を軽く泳がせてみせる。

「特殊な香でしてね。充満させる事で、その内部にある人間の意識をカカレモノの住まう領域へと入り込ませる効果があります。勿論、一時的ですがね」

「カカレモノ…?」

木綿が、訝しむ。

「我々とは異なる形の生命。有限から産み落とされる、異端。…今あなたを蝕んでいる元凶共の総称ですよ。とはいえ、今のあなたに言葉での説明はそう必要でもないでしょう。自身に起きている事が、常ならぬ超然であると、既にあなたは実感している筈だ」


 言葉は。まさしくその通りであった。

 前後の記憶の不明瞭。全身に渡る奇妙な倦怠感。そして、今し方まで見ていた…現実とは遠く離れた、夢。それら全てが常世離れしており、槭樹の言葉を裏付けるに足る体験であった。



「気分が良かったでしょう?」

 ぞくり、と。木綿の体を悪寒が走る。

 槭樹は一冊の書冊を手にしていた。それをひらりひらりと揺らしてみせる。

「あなたが読んでいた書冊の中に、意味を成さない出鱈目な文章ばかりのものがあった筈です。それこそがあなたの感情を喰らい、目覚めを遠のけた張本人…名を、隠渡カクシワタシと言います」

「隠…渡…」

 心当たりがあったのだろう。狼狽もそこそこに、木綿が口を開く。

「感情を喰らう、とは…」

「ほぼ、言葉の通りです。隠渡は、自身を目視した人間の感情を餌とします」

 槭樹はおもむろに、自身の胸を指先でととんと叩いてみせる。


「生気と言い換えても良い筈のその餌を、感情と定義するのは、隠渡の干渉を受けた人間が、それらの機微を失う事に起因します。そして…これは過去の症例からの推察ですが、隠渡が喰らう感情には一定の優先順位が存在します」

「優先順位…?」

「…隠渡は、負の感情を優先的に喰らいます」

 木綿の目が、微かに見開かれる。その様子を見据える槭樹の双眸が、小さく揺れる。

「負の感情の大半を喰らい尽くされた者は、昼も夜も無く眠り続ける様になります。ただ、この眠りは常の睡眠とは異なり…人の世とカカレモノの領域を無意識に漂っている様な状態です。この時、当人は長い夢を見ていると言われます」

そこで。槭樹が口をつぐみ、一拍置いて。

「——不安とは無縁の、幸福な夢を」


 ぱっ、と。穏やかな微笑みを浮かべ、槭樹が更に続ける。

「とは言え、安心してください。隠渡に奪われた木綿さんの感情は、未だ霧散する事なくあの離れに残っています。正しい手順を踏めば、すぐに元の生活に戻れますよ」

「そう、なんですか…」

槭樹が力強く頷く。

「近い内、木綿さんの精神がもう一度覚醒する場面が訪れます。手順自体は簡単なものなので、その際に改めてご説明させて頂きます。ですので一つだけ、心に留めておいてください。その場面が訪れたら…姿

「現実に…戻る…」

「感情を喰らうだけあって、隠渡は人の心に敏感です。一度奪われた感情を手元に戻す第一歩として、それを強く強く望むと言うのが肝要なんですよ」

「そう、なんですか…」

 少々矢継ぎ早にも思える、槭樹の言葉を。ゆっくりと咀嚼する様に暫しの沈黙を挟んで。

「わかりました…やってみます」

木綿が、小さく頷いた。その姿を確認した槭樹も、同じ様に。

「間も無く香が切れます。ですが木綿さんが次に意識を取り戻した時、それらは今私と言葉を交わしたこの時点からの連続として認識される筈です。いいですか、くれぐれも忘れないでください。現実の自身の姿と、文彦さんの事を」

 言葉の通り。部屋に充満していた煙は、段々と薄まっていた。伴って、木綿の意識もまた、徐々に遠のきつつあった。


「そう…あれは、夢だったのね」

 その最中。言葉にするつもりもなかったであろう、小さな思いが。木綿の口から、ぽろりと零れ落ちた。

「…どんな夢だったんですか?」

 問い掛けも最早遠く。うつらうつらと、殆ど独り言の様な調子で言葉を紡ぐ。

「懐かしくて、暖かくて…とても幸せな、素敵な夢だったわ」



「最後に一つだけ。木綿さん、その夢に、姿

 もし。彼女の視界が未だ鮮明であり。その場の光景を正しく見据えていたならば、多少なりの狼狽がそこにはあったかもしれない。


「——あぁ、そういえば。文彦は…あの子はどこかしら……」


霧が晴れきる、その刹那。沈鬱を極める表情で、自身を見つめる槭樹の姿に。



「——そう、ですか」



 香は切れ。ただ横たわるばかりの木綿に、最早届かないと知りながら。まるで血を吐く様に苦しげに、槭樹は一言、そう絞り出した。

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