隠渡《カクシワタシ》


 つい、と。槭樹が、手にした書冊を突き出す。先程見た、蠢く文字群の記憶も未だ鮮明な最中。明言こそされずとも、取り巻く怪異の元凶たり得ると暗示された書冊を向けられて、当惑するばかりの文彦に向けて「今読むだけならさわりないよ」と、今一説得力に欠ける言葉と共に。

 渋々それを受け取る。手触りに違和感はあらず。それは取り立てて奇妙さなどは感じられない、古ぼけた唯の書冊であるように思えた。おず、と文彦が目線を上げれば。槭樹は無言で…しかし確かに、その頁を捲ることを促してくる。躊躇いは当然の感情ながら…それでもわずかな信頼と、大きな期待の双方に背中を押され、意を決して文彦が本を開く。


「…なんだこれ」

 気づけば呟いていた。

 それは一見、何の変哲もない文字の列挙。言葉を表す無数の文字群。だが、よくよく見れば、それらは酷く奇妙な配列であった。

 一つ一つの文字は、やはり何の変哲もない。だが、それらが並んだ一節の文章は、全く意味をなしてはいなかった。描かれていたのは、出鱈目でたらめなばかりの虚文きょぶんだった。


隠渡カクシワタシというカカレモノがある」


 空疎くうそな書から目を離し、文彦が槭樹を見やる。その槭樹はと言えば、棚からまた何冊かの本を手に取り、ぱらぱらと中身を確認していた。

群文ぐんもんと同じく、紙上しじょうに記された文字群の姿をしているのだけど、群文とは違い、それらは現象ではなく生命体だ。計り知る事は出来ないが、おそらく何らかの意思すら有する、ね」

 そのうちの一冊。頁を捲る手を止め、じぃっとそこに記された文章を凝視する。

「隠渡は、生き物の感情を食糧とする。ただそこにあるだけなら外部へ何ら影響を及ぼさない微小な存在なのだけど、一度人目に触れると、その読み手の感情を無制限に喰らい尽くし始める。その食事の様を側から見た時、周囲からは熱心に読書に耽るように見えるんだ」

 暫く落としていた視線をあげ。今し方まで読み耽っていた書冊を脇に避ける。そんな動作を、彼女は暫く繰り返していた。

「感情を喰われた人間は生気を失い、正気を失う。そうなると『人間』としての自己を保持するのが困難になっていく」

「ヒトではなくなる、って事…?」

 文彦の問いに、槭樹は静かに頷く。

「だから『ワタシ』なんだ。隠渡に感情を食い尽くされた人間は、元とは別の存在…カカレモノと同じ領域の存在となる。そこまで行くと、カカレモノが見えない人からはその姿を捉えることすら出来なくなる」

「——だから、『カクシ』」

 当人にすら観測されないまま、当人の感情…或いは心と言い換えても差し支えないだろう…その一切を喰らい尽くす、怪異。その実存を疑う根拠ならばいくらでも見当たった。だが、文彦には奇妙な確信があった。聞かされた話の全てが、紛れもない真実であるという、確たる実感。手の内に収まる、書冊の形をした。それが発する異様な気配が、彼に猜疑の念を抱く事を許さなかった。


「恐らく基となったのは山地乳やまちちばくといった、人間の生気や夢を喰らうと伝えられる実在・非実在のモノ共なのだろうね。それらが長い年月を経て解釈を広げ、感情を喰らうという性質に変わったのだと思う」

 流れるように続けられる説明を、完璧に理解する事は文彦には困難であった。そして実際、それらを正しく理解する為に動員出来るだけの思考的な余裕もありはしなかった。

「隠された…カカレモノの側に行ってしまった人は、どうなるの?」


 槭樹が一時、口を閉ざす。けれどそれも束の間。

「カカレモノ共と同じ領域の存在となった時点で、はもう人ではない。よしんば当人が人であった頃の形を保って、尚且つその姿を視認できる者があったとして…しかしそれでも、それはもう人であった頃とは全く別の存在だよ。…現状、既に木綿まゆさんの肉体にはその兆候が現れている」

 文彦の脳裏に、母の姿が過ぎる。

 眠っている、とは状態の表現として相応しいものがそれしか思いつかなかっただけ。生きたまま意識はなく、ただ朽ちるように生気を失っていくその過程を、単に睡眠と呼称するのは、確かに違和感を伴った。

「外見に釣り合わぬ重さ。数日間床にありながら、代謝による汚れの一つも見受けられぬ様子。あれらは全て変質の過程故だったんだ。彼女は既に、半ばこの世の理から足を踏み外しかけているのさ」

とは言え、と言葉は続く。

「状況から見るに、未だ幾分かの余裕があるのも間違いない。正しく対処すれば、木綿さんをへ連れ戻すのは、そう難儀な話じゃないさ」

「そ、そうなの?」

 余りにも呆気ない言葉に、文彦は内心拍子抜けする。超常に対しての些か簡素な言葉を受けて、丸っ切り肩透かしを食らった面持ちであった。

「幸と言えば幸いな事に、隠渡は個体数が多くてね。不明が常のカカレモノ共の中では、かなり生態が解明されてる方なんだ。当然、その対処・対策の術も同じ様にね。ただ、その為には協力が必要なんだ」

 文彦の顔が曇る。未だ目覚めず…起きたところで書冊に向かうばかりの人間に、一体何の協力を得ようと言うのか。

 とは言え。彼の不安もわかりきっていた事らしく。槭樹はさらに続けて


「木綿さんと少し、直接話す事にしよう」


より一層、奇妙な事を口にするのであった。

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